遠江の楔として「この城を制する者が遠江を制する」と云われた高天神城へ行ってきました。
最初、搦手口を通り過ぎ、大手口へ向かったはずが、どこで間違えたのか?結局搦手口より入りました。結果的に少し日影のある搦手口に車を停められたので良かったですが・・・
さて、ここからは総ルート3時間歩き通した探訪の記録です。
なんせ国史跡として郭も多い城ですので、写真点数も半端ない数となりました。
搦手口から入ると、すぐに「史跡 高天神城跡」の石碑が立っています。少し先の松の木のあたりが搦手門跡となります。
階段を上っていくと途中に三日月井戸があります。山城では井戸は生命線です。この井戸は壁から伏流水がしみ出ているようです。
搦手と大手の合流地点まで来て、まずは本丸方向から攻めることにしました。
本丸の一段下の的場曲輪です。
本丸には土塁が周囲に回っていたようですが、現在も北側、西側を中心に所々残っています。
本丸からの景色はあまり開けていなかったので、御前曲輪に移動しました。
ここからは東側の景色がよく見えます。
整備当時はここから三の丸へ下りる道があったようですが(三の丸側に看板が無造作に倒されていました)、現在は整備された階段ルートを遠回りしていきます。
御前曲輪の北側の土塁上に元天神社が建っています。案内板上は「元宮」となっている場所です。
三の丸に下りてきました。
ここは御前曲輪より数メートル下がりますが、眺望は開けています。
さらに下って大手門をめざします。途中、着到櫓跡がありました。
さらに下りて大手口駐車場まで行きましたが、こちらの入口は石碑がなく、旗が立てられていました。
大手口と搦手口を比べると、大手道は狭く山城の雰囲気を感じることができますが、搦手道は広く歩きやすかったですね。
戻ってまた上ります。着到櫓跡の数メートル下あたりが追手門(大手門)となります。
合流地点まで戻ってきて、井戸曲輪へ向かう前に南西方向へ下る道が
先にはトイレがありますが、
その先に広い曲輪がひとつありました。
戻って階段を上ると、そこが鐘曲輪です。
井戸曲輪は名のごとく城内最大の井戸があります。
高天神社へ上る前に、二の丸を見てきます。途中通路から搦手方向(北)がよく見えます。
二の丸です。
二の丸の一段下に袖曲輪が附属します。
袖曲輪下には本間八郎・丸尾修理の供養塔が立っています。
二の丸の袖曲輪と堂尾曲輪の間は大きな堀切となっています。
堂尾曲輪は北方向に突き出た尾根を利用した長い曲輪です。
その堂尾曲輪に沿って西側に長い横堀が掘られています。
ここから井戸曲輪まで戻って高天神社の階段を上ります。
途中の曲輪が西の丸です。社務所が建てられています。
高天神社と元天神社のどちらがこの山の高所なのでしょうか?
本堂の裏や側面には削られていますが、土塁が残されています。
ここからの眺望もよいですね。左手前の屋根は社務所ですよ。
本堂の裏には馬場平へ至る道が続いています。その間は深い切割となっています。
馬場平は高天神城最西の曲輪です。馬場とは言われていますが、この場所に馬で乗りつけるのは難しいでしょうね。
現在は眺望台として整備されています。それにしても暑い日でした。
馬場平ですべての曲輪をまわりましたので、引き返してもよかったのですが、甚五郎の抜け道なる細道がまだ先に続いています。地図上は麓に出るようですし・・・
この判断が間違いでした。入る時点では登城から2時間を過ぎるほどでしたが、さらに1時間を消費することになろうとは・・・・
昼ならともかく、雨の日や夜は到底歩けそうもない細道をクモの巣を払いながら進みました。
20分ほど進むと分かれ道となり、下り道となりました。ここまでは比較的平坦でしたが、下りが落ち葉で滑るところもあり、杖なしでは進めない状況でした。
ここ数年誰も歩いていないのでは??そんな疑問もよぎりながら
進むしかない道を歩いていると、ようやく林の谷池にでました。
ひと安心かと思いきや、道があるのはわかるものの、膝丈以上の草むらを進むことに・・・・
どこか攻城というよりも、敗走の気分になりながら、ようやく茶畑と整備された道路に到着!
堂尾曲輪の突き出た尾根が遠くに見えます。
本来はこの碑のもっと近くに出るはずだったのですが、池からの道を間違えたようです。
草むらに埋れているのは、岡部・板倉の碑です。
最後は散々でしたが、無事に帰れたので苦労した分、後で良い思い出になるのです。
帰り道、行くときは分からなかったのですが、横須賀七人衆のひとり「渥美源五郎屋敷跡」の案内柱を見つけました。
さて、問題の大手口ですが、こちらです。でも上るときのおすすめは搦手口です。