何年かぶりに福井県勝山にある村岡山に登ってきました。
前に一度訪れたとき、どこから上ったのか記憶になかったので、とりあえず山を登るような道を進むことにして、村岡神社の本堂の脇の道を進むことにしましたが、けもの道はあるものの、夏場であるので草が非常に大きく育っていました。
前は石仏のある道を進んだ覚えはあったのですが、そこまで長い道のりがあったかもしれない・・・
と思いながら、草道を進むこと20分
ようやく見覚えのある石仏の道に到達しました。
今来た道はこんな感じで前回とは違う回り道を進んでしまったようです。
頂上への道には菩薩像の石仏が非常に多く立てられています。
最初は一向一揆戦乱の舞台となった山城を鎮魂するために、子孫たちにより立てられたものかと思っていました。下りた後わかったことですが、この菩薩像は四国八十八霊場めぐりを映した霊場を再現したものです。
途中の道は急で足場も悪く、雨で濡れた日は滑ってとても危険です。
登りはじめて40分ほどでようやく頂上に到達しました。
一段高い本郭の入り口には掘にかかる土橋を当時のまま見る事ができます。
本郭には南側に物見台、北側に土塁など土の高まりをはっきりと確認できます。
本郭から眼下を見下ろすと、福井県恐竜博物館が見えます。
本郭の北側から東側、南側とぐるりと掘がめぐっています。
本郭の北側には、手前に郭1、奥に郭2の2つの平地を確認できます。
郭1から郭3への入り口両側には土塁が残り、
郭3に入って、郭4へ至る入り口は虎口がきれいに残っています。
郭4と郭1の間の土塁、その土塁の郭4側に掘が掘られています。
その郭4から北側の斜面を見下ろすと・・・・
畝状たて堀が残っています。ちょうど草刈が終わったところだったのか、4つの畝がはっきりと確認できました。
畝の間に入るとこんな感じですが、攻める側は畝の間を進むことになり、隣の畝へ移動することや、連絡を取ることを困難にします。
一向一揆が立てこもった村岡山に、敵対していた平泉寺の僧兵が攻めて、反撃されて撃退されたのもこの畝状たて堀が活躍したのかもしれませんね。
この出来事のあと、村岡山は勝山と呼ばれ、今の勝山市の元となりました。
本郭の東側に二の郭があり、南側に一段高い物見台が残っています。
二の郭の南側に大きく段を下げながら、4つの郭(郭5~郭8)とそれぞれの間に、堀切が残っています。
こちらはあまりに草深いので郭6より先は進むのを断念しました。
帰りは霊場の道を戻ってきました。途中草も生えない歩きやすい道が一部あります。
神社に戻ってくると、間違いにようやく気付きました。
神社の泉の道(中央の道)を行きは進んだのですが、こちらは遠回り、近道は石段の先(右側の道)ということです。旧ですが、こちらが近道です。
神社の入り口には「村岡城址」の看板が・・・ そう言えば、前はここから登ったんだった。
鳥居の脇には看板も立てられています。村岡小学校の裏という記憶しかなかったのですが、登るときは村岡神社をめざしましょう!