石川県は、金沢市湯涌温泉の「旧江戸村」に保管されている金沢城玉泉院丸跡の海鼠塀の調査に乗り出す。移築の経緯や保管状況などを調べ、玉泉院丸の整備に合わせた塀の活用を検討する。
旧江戸村に保管されているのは、玉泉院丸外周の石垣上にあったとされる土塀の一部。高さ2.9メートル、長さ13.37メートルで、金沢市などの記録によると、1969(昭和44)年7月に玉泉院丸跡から現在の場所に解体、移築されたという。(北國新聞2011年12月21日付け記事より)
月: 2011年12月
兼六園の噴水もっと古い 国内最古1861年
金沢城二の丸にあった噴水が安政5年(1858)年の絵画に描かれていることを、石川考古学研究会員の坂野さんが17日までに確認した。これまで考えられてきた噴水設置時期の文久元年(1861)より、少くとも3年さがのぼる。二の丸の噴水と言われ、同じく1861年設置とされてきたが、より古い時期に造られた可能性が大きくなった。
噴水が描かれてきたのは金沢市立玉川図書館が所属する「紙本著色金沢城二ノ丸御殿景観図」。著者は加賀藩お抱え絵師の佐々木泉景で、安政5年7月の作と明記してある。藩主の居間から日本海に沈む夕日を望む雄大な構図で、茶室近くの池に噴水が見られた。(北國新聞2011年12月18日付け記事より)
高岡城跡 「貫土橋」の遺構か
高岡市の高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査で、細かい石を敷き詰めた栗石層が「貫土橋」(かんどばし)周辺で見つかった。市教委は16日、報道陣向けに現地説明会を開き、江戸時代初期の文献や絵図でしか残っていない貫土橋の存在を裏付ける遺構となる可能性を指摘した。梅苑周辺からは複数の土塁も発掘され、城跡の基本構造が徐々に浮かび上がってきた。
市教委によると、調査区間内に10~20センチのこぶし大の石が約20メートル、最大約2メートルの幅で敷き詰められ、栗石層を形成していた。通常、石垣の基礎部分を沈下させないように固め、安定性を高めるために設置される。(北國新聞2011年12月17日付け記事より)
遺構が見つかった朝陽橋付近
小口城 愛知県の城館
大口町にある小口城です。
現在は本丸の一部だった櫓台跡を中心に公園として整備されています。
小口城は尾張領内の岩倉と犬山の中間点にあり、街道上の重要な拠点でした。
平成11年にこの館風の展示館と望楼ができたようです。展示館ではここ小口の歴史を学ぶことができます。
展示館の前には発掘で見つかった井戸跡と
鍛冶場の炉跡の位置がわかるようになっています。
公園は近くの小学生の遊び場になっているようで、たくさんの子供たちが遊んでいましたが、見上げるほどの望楼に上ることもできます。目が回るほどにグルグルと上がっていくと、さすがに転落防止に金網が張ってありますが、四方一望できます。
昔は見渡す限り田畑が広がったのどかな場所だったのでしょうが、今は住宅地が広がります。
公園横に広い空地がありますが、そこには昔小学校があったそうです。その敷地ももとは小口城の本丸です。
岩倉と犬山の中間にあるということで、この望楼からは犬山城も
小牧城も見えますよ。
晩秋の犬山城へ 愛知県の城館
今日は午前中は天気良かったですが、徐々に雲が広がってきて、最後の太陽です。長良川に映る太陽が眩しく、湖岸の山上にそびえる天守が良いですね。
天守までの道脇はすっかり紅葉しています。今年は秋が遅れましたから、まだまだいけますね。
紅葉と石垣の組み合わせはいいですね。
本丸内は紅葉には少し遅いようでしたが、それでも観光客がそこそこいましたよ。さすがに国宝です。
天守最上階に上ると、四方景色が広がります。これは南方面の名古屋方面。
先程とは反対に、小牧山上の小牧歴史館が見えます。
西方面の奥に金華山が見えます。
最大望遠で山上の資料館が見えました。肉眼ではまったく見えませんでしたが。
上から望む長良川もいいですよ。
城下のみやげ店でマスコットキャラのわん丸君のぬいぐるみを買いました。春に小さいほうも購入したので、今日は大きいのを買いました。大きいのは手の肉球もあるんですよ。お店の方はどんどん売れるけど入荷が少ないんですよ、って嘆いていました。売れるっていうのはわかりますよ。かわいいですからね。
自販機にもわん丸君が描かれて、大活躍ですね。
青塚砦 愛知県の城館
犬山市の青塚古墳史跡公園に来ました。
古墳が整備され、ここまで全形が残っているのは貴重ですね。上に登れないのは殘念だけど。
ここは秀吉VS家康で争った小牧長久手合戦のとき、秀吉軍の森長可が陣を張った場所です。
しかし、看板にも古墳の説明だけで砦跡であることは一言も書かれていません。
ここから小牧城の歴史博物館が見えます。開発された現在でも見えるということは、当時は丸見えだったことでしょう。戦場の臨場感が味わえます!
小牧城 愛知県の城館
小牧城のあった小牧山にやって来ました。昔はまわりも田畑が広がり、小牧山全体がきれいに見えたのでしょうけど、今は、会瀬川沿いのこのスポットからやっと見える軽度ですね。
小牧山の頂上にある小牧歴史館を目指します。
資料館はちょうど本丸にあたる場所に建っているのですが、近年その周囲の発掘調査で巨石を使用した石垣の一部が次々と発見されました。
こちらにも
信長が小牧山に在城したのは数年なので、これまでは本格的に整備されないうちに岐阜城へ移ったと考えられていた定説を覆すことになりました。
資料館からの遠望は、今日の天候にも恵まれてとても良いです。こちらは北方面。
小牧長久手合戦のとき、徳川家康はこの小牧山に陣取り、北側に布陣した羽柴秀吉軍と向かい合いました。
肉眼では見えなかったけど、デジカメを最大望遠にしてみたら、なんとか犬山城が見えました。
史跡として保存されている小牧山の麓には、おそらく小牧合戦時代の土塁が残り、山裾との間に広い郭を形成していることが今でも確認できます。
それにしても大きな高い土塁です。どこの城跡でも数万人が野営する場所などないと思うところが多いですが、ここはなるほどと思えます。
通路を造るために、土塁を切断した部分をそのまま展示施設として見せています。
井戸跡も残っています。
郭との間の空堀も復元されています。山城の面影が残る場所ですね。
切山城跡 火縄銃の鉛玉発見
金沢市北東部の切山城跡で行われた市の発掘調査で3日までに、火縄銃の鉛玉1個が出土した。16世紀後半の製造とみられ、同時期の土器片も見つかった。市埋蔵文化財センターによると、築造年代の特定につながる初めての出土品で、同遺跡を含む一帯の城郭群の国史跡指定を目指す動きに弾みがつきそうだ。
鉛玉は直径約1.1センチで医王山方面を望む物見やぐら跡周辺から出土した。同センターによると、16世紀後半から国内で広く使われた火縄銃の鉛玉と特徴が同じだという。このほか、1~2センチ四方の土器片3点が出土した。(北國新聞2011年12月4日付け記事より)
鉛玉が見つかった物見櫓周辺