川のように見えるが、これは牛ヶ首用水。加賀藩三代藩主前田利常の命により、新田開発を目的に掘削された用水です。
この用水が堀のように守る百塚山に富山藩初代藩主前田利次は、富山城の新城を建てる計画をしていました。実際には計画は頓挫し、後世に悲願だったこの地に富山藩藩主墓所が造られました。
真国寺は墓所守としてこの地に建てられました。
寺領には不釣り合いな鳥居から伸びる参詣道。元大名は明治維新により強制的に神道に改宗させられたので、墓は土饅頭の仏式であるのに、神式の鳥居が付きます。
現在の墓所には藩主以外の墓も多く立てられていますが、地図の上と右の大きな空間が藩主墓所となります。
上の空間には、初代、4代、5代、8代、9代、10代、11代、12代の8人、右の空間には2代、3代、6代、7代の4人の墓があります。11代までが旧式の土饅頭となっています。
参詣道の両側には灯籠が並び、
そのひとつを見ると「延宝四年」の文字が・・・他の灯籠も似たような時期のものが多かったです。
山門を入って正面は、初代利次公の墓となります。こちらは山門からの参詣道もそこそこの長さがあり、一基の面積も広いものです。
対して、右側の墓所。
山門正面は五代利典公の墓ですが、右側に二代正甫公の墓です。こちらは参詣道も短く、墓石近くの木々も墓参を邪魔するように大きくなっています。
元はもっと参詣道が長く、広い空間だったのかもしれません。一般への墓所の解放とともに、設置面積を広げるために削られたのかもしれません。
最近は大名墓所が観光地として整備されている場所も多くなったが、ここはまだまだ知られざる観光地となっているようです。