北ノ庄城の天守があったと推定されている柴田神社境内に、天守が建ちました!
NHK大河ドラマ「江」で観光地として一年脚光を浴びましたが、遅ればせながら天守が復興されました。FRP(繊維強化プラスチック)製ですが・・・
柴田勝家公も喜んでいることでしょう。
絵図の残っていない天守は小早川隆景宛書状に「九重」とありますが、当時五層を越える天守はなかったため、復元も五層です。
復元は数年前の復元予想図どおりのようです。
この天守模型は永久のものはなく二年限定となっていますので、勝家公と天守をともに撮る人はお早めに!!
月: 2011年10月
福井城跡展 福井県の城館
福井市文化財保護センターで「発掘が語るまちなかの歴史」というテーマで「福井城跡展」が開催されていました。
場所は足羽川を渡って、足羽山の麓、旧福井城下ではない場所になりますが、県外者にはちょっとわかりにくい。
福井市内でも開発のたびに発掘調査が行われ、数多くの福井城の遺構が発見されていますが、常時展示されているものは少なく、目に触れることがない遺物も多いのですが、
今回はそれらを一堂に集めて紹介しています。
城内だった場所、城下町だった場所、門跡、武家屋敷など状況は様々だったので、遺物もいろいろとあり、とても興味深い展示でした。
三国湊城 福井県の城館
中世に勢力を誇った三国湊白山千手寺は、南北朝期には城郭として利用され、太平記にも登場する。
平城だから当時は塀と堀に囲まれていたのだろう。この場所は海岸からわずかに上がっているが、とても高台とまでは言えない場所である。
解説板も設置されているが、非常にわかりにくい場所にある。
近くには特徴的な山門の妙海寺がある。
現在城地はその妙海寺の西墓地として利用されている。
千手寺城とも呼ばれた地には、現在石像の千手観音像が立っている。
丸岡藩砲台(丸岡藩台場) 福井県の城館
三国東尋坊近くの越前松原と呼ばれる景勝地に丸岡藩砲台があります。砲台というのは近世末に外国船の侵攻に備えて海岸を中心に造られた「台場」と言われている施設です。
整備から長い時間が経つのでしょう。史跡内に立てられた石碑は海風に煽られて傾いています。
入口には駐車場も完備されていますが、雨降る日曜日の朝にここを訪れる者はいません。
松原というだけあって松が多いようですが、砲台は海岸沿いの低い平地に作られていました。
東尋坊に近いこともあるのでしょう。岩がむき出しの崖地も所々にあり、
台場の材となる石材には事欠かないようです。ふと、海を眺めると・・・
最も遠くの石の上に、今も海を見守るように一匹の鵜が止まっています。
大砲は撤去されていますが、その台の保存状態は良いようです。台場一帯がこれほど良好に残り、当時を想像できる場所も少ないのではないでしょうか。
海側から見るとこういう感じですが、すべて石積みではなく、大砲を置いた場所の両側が石垣で、後は土塁となっています。
内側から海を狙うとこんな感じです。先程の鵜を狙い撃ちするとこうなります。内側のほうが石垣が重厚に積まれています。
よく見ると、積まれた石には「嘉永」の文字が刻まれたものもありますよ。ぜひ現地で確かめてください。
吉崎御坊 福井県の城館
芦原にある吉崎御坊に行ってきました。
ここは本願寺八世蓮如が北陸布教の足がかりとして拠点を置いた場所です。
本堂のあった場所は「吉崎御山」と呼ばれ、史跡として保存されています。
高台に築かれた御坊からの眺めはよく、海が近く、物資輸送にも適した土地だったことがわかります。
本光坊了顕の墓。文明六年(1474)の吉崎御坊炎上のとき殉教した方だそうです。
祐念坊霊空の墓。北大手口参道を守護した吉崎惣道場、吉崎御坊願慶寺の開祖の墓。
蓮如お手植えの松の木ですが、今は根本がわずかに残るのみです。
蓮如上人銅像。高村光雲の作だそうです。
御本堂跡。南に面し柱間五間の大きさだったそうだが、三度の火災で焼失した。
御腰掛石。御坊があった頃からあったもので、蓮如も腰掛けだろうと「吉崎山絵図」に書かれているそうです。
見玉尼公墓。蓮如の第四子(次女)でこの地で亡くなりました。
今日は時間がなく山上のみの見学だったので、次回は麓も散策してみたい。
金沢野田山 加賀前田家墓所
近くながらなかなか行けなかった野田山の加賀前田家墓所に行ってきました。
これは下から登っていったときの入口。車の場合は直接上のほうの駐車場へ行けます。
この入口横には松夫人の実家である篠原家の墓所がありました。
観光客の見学場所のメインはやはり初代利家と松の墓でしょう。
隣り合って造られています。松の横には長男利長(二代)、利長の上には主家である織田家から利長に嫁いだ永姫、その横に利長の兄利久、日本古来の長幼の序や主従関係を墓の位置で表しています。
利長公の墓。大きな土饅頭の前に墓碑。参詣道入口に鳥居が立つのは明治になって神道に改宗させられたから。大名では日本最大級の墳墓です。
松の墳墓。他の墳墓を見ると、利家と松の墳墓の周りにも堀があったと思われます。
まだまだ紹介できますが今日はこの辺で・・・
急ぎ足ですべての墓をまわっても二時間半かかりました。藩主や生母以外にも子や乳母の墓があったりします。前田家以外にも隣接して加賀八家の横山家や村井家の墓所もあります。他の重臣たちの墓所もあることでしょう。
観光用駐車場からの眺め。木々を伐採してくれると金沢市内が望めるのになー。利家公もこの場所から見守ってくれるのに。
富山藩藩主墓所 長岡御廟
川のように見えるが、これは牛ヶ首用水。加賀藩三代藩主前田利常の命により、新田開発を目的に掘削された用水です。
この用水が堀のように守る百塚山に富山藩初代藩主前田利次は、富山城の新城を建てる計画をしていました。実際には計画は頓挫し、後世に悲願だったこの地に富山藩藩主墓所が造られました。
真国寺は墓所守としてこの地に建てられました。
寺領には不釣り合いな鳥居から伸びる参詣道。元大名は明治維新により強制的に神道に改宗させられたので、墓は土饅頭の仏式であるのに、神式の鳥居が付きます。
現在の墓所には藩主以外の墓も多く立てられていますが、地図の上と右の大きな空間が藩主墓所となります。
上の空間には、初代、4代、5代、8代、9代、10代、11代、12代の8人、右の空間には2代、3代、6代、7代の4人の墓があります。11代までが旧式の土饅頭となっています。
参詣道の両側には灯籠が並び、
そのひとつを見ると「延宝四年」の文字が・・・他の灯籠も似たような時期のものが多かったです。
山門を入って正面は、初代利次公の墓となります。こちらは山門からの参詣道もそこそこの長さがあり、一基の面積も広いものです。
対して、右側の墓所。
山門正面は五代利典公の墓ですが、右側に二代正甫公の墓です。こちらは参詣道も短く、墓石近くの木々も墓参を邪魔するように大きくなっています。
元はもっと参詣道が長く、広い空間だったのかもしれません。一般への墓所の解放とともに、設置面積を広げるために削られたのかもしれません。
最近は大名墓所が観光地として整備されている場所も多くなったが、ここはまだまだ知られざる観光地となっているようです。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第3回総会
本日金沢歌劇座で第3回総会がありました。
前田名誉会長は都合が悪くなり欠席でしたが、会長の横山氏、副会長の村井氏、本多氏、前田氏の加賀八家の四家のご当主は出席されていました。
午前は総会(正会員のみ)後の講演会に出席しました。新規入会受付もありで、一般の聴衆も可能だったのですが、それらを合わせても40人程度で参加が少ないかなと思いましたが、講演会の内容はとても参考になりました。
今年度の更新特典として、横山氏所蔵の「宝暦九年金沢城下絵図」と「加賀藩江戸上屋敷御殿平面図」の二点が復刻されて頒布されました。とても大きいけど、それでも文字は読むのがやっとです。
講演会の内容もそれらにちなみ、金沢城調査研究所の木越副所長が「宝暦九年の金沢大火について」、石野氏が「江戸の本郷邸と加賀藩主」というテーマで話がありました。聴衆がすでに歴史的知識があるという前提であるので、内容もざっくばらんながら少し突っ込んだ話があって興味深く聞きました。
加賀藩の江戸上屋敷にも御鈴廊下があったこと知っていますか?ドラマで見るようなあんな派手なものかどうかはわかりませんけど。
それで、午後は護持協力会協賛で、北國総合研究所の「北國総研自主研究公開座談会」に参加してきました。こちらは定員200名ということで会場も手狭でしたが、城郭石垣の第一人者である金沢城調査研究所所長の北垣聡一郎氏と、造園研究の第一人者である京都造形芸術大学の中村利則氏、そして近江坂本から穴太衆の最後の棟梁栗田純司氏の3人により、「解けてきた金沢城の謎 よみがえる玉泉院丸から」というテーマで玉泉院丸の価値について、座談会形式で進められました。
司会は総研の小倉主幹でしたが、小倉氏いわく二度とない奇跡の組合せということで、確かに他では聞けない内容でしたね。小倉氏はケーブル放映の自主番組内で、色紙短冊積み石垣の脇の石垣上に空中茶室があったという持論を展開していたのですが、北垣氏と中村氏に1分せずに一蹴されたことをとても殘念がっていましたね。
さて、座談会のなかで穴太の伝統的な石積みは、
・「強」を重んじる積み方
・横目地は通しても縦目地は通すな
・高さの3分の1の裏込めを入れる
という規則があるそうですが、玉泉院丸の色紙短冊積み石垣はその法則を見事なまでに踏襲していないので、石積み集団が積んだのかどうかも疑問だという話がありました。
そういう意味でも玉泉院丸の石垣は、石「積み」ではなく、庭園の石「組み」に該当し、城内・城外問わず、国内にここだけの稀有な遺構になるそうです。庭園だと考えると、滝に見立てた縦長の石組み、一段低い脇石、段々に積まれた(重畳的)奥行きを表現した石垣群と、防御にはとても適さないと思われる石垣の謎が説明できると、中村氏から説明がありました。
北垣氏からは将来的には、整備方法により名勝指定も狙える価値があるということで、石垣修復や泉水整備とともに、対岸にあった御座所附近の復元整備も課題だというまとめで座談会は終了しました。
そこまでの価値だとは想像もしていなかったので、今後がとても楽しみになってきました。金沢城が兼六園以上の観光地になる日もそう遠くないかも・・・?