前回は埋め立てられて道路となった南部中濠から西部中濠をめぐりましたので、今回は東部中濠をめぐりました。
範囲は内京口門から野里門までです。
東部中濠も南の一部は埋め立てられ、この内京口門の手前部分から残っています。
広い堀と内側の土塁がセットで残っています。堀は流れが止まっているためか濁っています。
土塁に案内板が立っていますが、絵図は消えかかっていました。
堀沿いに北に向います。堀が鍵状に折れる正面に内京口門があります。
門両側の石垣は残っています。この東中濠の内側には現在学校や病院が並び、この内京口門の中にも賢明女子学院高校があって、中から見学することができません。
しかし、案内板のイラストを見ると両側の石積みは元々のものではなく、門は内枡形でこの両側は塀だったようです。
門の東側、濠は道路で寸断されていますが、細い水路で南側とつながっているようです。
門の西側、北側に濠は折れています。
北側へ濠は続きます。
暑い中、日陰になった濠沿いの通路を歩きます。
しばらく歩くと橋にぶつかりました。
ここが久長門です。
ここも内枡形門ですが、この南側の石垣、北側の石垣ともに、外部分の石垣の上部は取り去られています。
北側の石垣も道路幅を広げるため、奥の石垣は南側を削られていると考えられ、その平面は当時のものではないかもしれません。
久長門を後にして、さらに北へ歩きます。ここから歩道は住宅地に隣接して、裏道という感じです。
徐々に西側にカーブしてきました。
この辺りまで来ると濠の水も澄んできて、泳ぐ鯉もくっきり見えるようになりました。小さな小魚もいるようでしたが、ここは魚釣り禁止地区です。
大きな道路が見えてきました。
ここが野里門の外側のようです。濠は左手に折れて、後ろ(西)側に流れます。
枡形の真ん中を道路を通り、向かい側に石垣が見えます。
この野里門も内枡形門です。イラストの右側が北側です。
案内板の後ろに残る石垣は枡形の内側の西側部分の石垣の一部です。
北側を流れる濠は幅が少し狭まっているようです。歩いている間は観光客はまったく見ませんでした。中濠も姫路城の魅力のひとつですよ!
日: 2011年8月7日
「天空の白鷺」を見学してきた!
大天守が修理中の姫路城にやって来ました。一年前の囲みを作っていたときは全く大天守を見ることができず、観光客も激減していましたが、今もその影響は続いているようです。
天空の白鷺ということで囲みには大きな絵が描かれ、エレベータで間近で工事状況を見学することができます。今日は日曜日なので工事は休みでした。
お城まつりも開催中でしたが、本丸広場は暑さのせいか人気もまばら・・・
正面に天空の白鷺が見えます。今だけの姿です(と言ってもまだ数年続きますが)
大天守の天空の白鷺の左が小天守、その手前が今回初公開のリの一渡櫓です。
工事は鹿島・神崎・立JVにより、あと三年半という予定みたいですね。
入城ゲートの脇に建つ工事用現場事務所。
壁画の説明がありました。47メートル四方とは大きな絵です。
観光案内所だった場所は、姫路城の模型が置かれていました。
こちらの大天守にも囲みがかかっていますが、実際よりちょっと大きい。どこを通って天守に入るのか、番をしていたボランティアの方に聞くと、この囲みは大きすぎて通路がないんですよ、って後でその意味がよくわかりました。
混在している場合は待たされるとあって、ネットから予約していきました。お城まつり最終日でもあったので、どうかなー?と思っていたら意外なほどに空いていました。予約してきた人が珍しい!?みたいな感じが・・・まあいいか。それでも遠方から来る人はやはり予約したほうがいいですよ。
入城料が通常600円のところ400円、天空の白鷺が200円で、結局通常料金になった。
今回築城以来の初公開となった「リの一渡櫓」が公開されています。と言ってもここは入城料の範囲以内、普通の人は未公開の渡櫓ですよー、って言われてもあまりピンとは来ないだろうけど。
中には実物の鬼瓦や甲冑が展示されていました。
瓦も歴代の藩主が変わった分だけいろいろな家紋が残っています。
外には、江戸、明治、昭和の各時代の鯱が展示されていました。こういうものは前の時代のものを参考に、なるべく同じように作るものだと思っていましたが、よく見ると、牙や耳、えらなど全く作り方が違いますね。高い場所にあって、これほど近くで見る機会は少ないですからじっくり見てきました。
こんなことではなかなか大天守には入れないので急ぎます。
途中通路も工事中の今だけの風景。
入口に案内の女性が一人立っていましたが、今日は入場制限するほどでもなく、順路の説明をするのみ。暑い中少しかわいそうな感じがしました。
すでに入場者が10万人を超えたようで、しかし今日の人出を見ると最初だけ??
1階でエレベータを上るまでの間ビデオを見れるようになっています。ここで流れているのは姫路城の歴史です。今日は人が少なく、見終わるまでもなくエレベータへ。
エレベータの定員は10名余。一気に8階まで登りますが、乗口と反対側が透明になっていて、上る間工事の状況を垣間見れます。なかなか面白い趣向です。運良く今日は上りも下りも1番目に乗ったので、もちろん奥のいい位置で見ていました。
8階見学スペースに到着しました。
いい景色です。窓に手すりが少し映り込みますが、姫路城天守窓から見るよりも広い視角を取れるようです。
今日は晴れていますから遠くまで見えますが、これはライトアップも良さそうです。夜は入れないですから見れないのは残念ですね。
窓からの景色とは反対方角が最上階の大屋根の工事風景を見ることができます。
現在はすべての瓦が取り外されています。
次はここに瓦を葺き直す作業を見たいものです。
見学場所にビデオが流れていました。今日は人も少なかったので、ビデオもゆっくりすべて見ました。あ行が進めば内容も変わりそうですね。
姫路城大天守の鯱を比べる
姫路城の大天守は修理中
初公開の「リの一渡櫓」では、
修理で下ろされた鯱を含め、歴代の鯱が展示されています。
遠きにあっていつもは見づらい鯱が間近に見れるよい機会なので、各時代の鯱を見比べてみましょう。
昭和時代の現役の鯱。
先代の明治時代の鯱。
江戸時代の鯱。
それぞれの違いを遡りながら比較します。
頭、牙と耳が大きい昭和時代の鯱
黒目のない明治時代の鯱。
見た目はかわいい?マヌケ顔?の江戸時代の鯱。鯱って守り神だからもっと怖い顔をしているのでは?
昭和時代の足ヒレ。簡略化され、体の鱗も小さい。
明治時代の足ヒレは彫りが深く、鱗にも穴が空いている。鱗模様はこれが一番クッキリしていて良い。
江戸時代の足ヒレは小さい、鱗は大きめ。
最後に尾ビレ。昭和時代の尾ビレは両側に大きく広がっている。
明治時代の尾ビレは彫りが深い。中央に真っ直ぐの模様がこの時代の特徴です。
江戸時代の尾ビレは幅が一番狭い。
ちょっと変わった記事を書いてみました。どうですか?
敏満寺城 滋賀県の城館
名神多賀SA上り線(名古屋から京都方面)に隣接して、敏満寺城跡があります。
多賀SAのある青龍山一山が敏満寺であったので、サービスエリアとなっている場所もその一部です。
敏満寺は、青龍山を御神体として12~15世紀頃に繁栄した寺院で、当時は比叡山を凌ぐとも言われています。そのため、その勢力は戦国時代にあって無視されることなく、浅井長政や織田信長に幾度も攻められて焼失し、再建されることはありませんでした。
サービスエリアから故宮神社に至る遊歩道沿いの発掘では、坊跡や井戸跡、鍛冶場跡、火葬墓跡が見つかり、
一部土塁と思われる遺構もあります。
10分ほど歩いて、故宮神社に到着しました。
広い境内のようです。
境内に旧敏満寺の古井戸と焼石塚が残っています。
西側から入る大鳥居まで来ました。
大鳥居を入ると急な階段が続いています。要害ですな。
境内の一部に残る石垣は敏満寺のものか、神社のものか判断しづらいですが、立派な寺院だったのでしょう。
社務所の庭園は名勝に指定されているそうですが・・・
なんかどことなく荒れ果てている雰囲気があります。
観音堂の横に
石仏が並んでいます。
拝殿と
その後ろの本堂となります。
拝殿前にあった神社パンフレットをいただいてきました。
境内から見渡す景色はよい眺めです。こちらは安土方面。
そして、彦根方面となります。右端が多賀SA下り線となります。