下城戸の石垣と上城戸の土塁の間は、朝倉氏とその家臣が居住した空間で、「城戸の内」と呼ばれていますが、シンポジウムでそろそろ城戸の外にも注目を!という話があったので早速散策をしてきました。
下城戸の外、刑場として使用されたと言われている「武者野」と呼ばれる地です。
傍らには見つかった石像が祀られていました。
この辺りに足羽川の湊があったとも言われています。
上城戸の外、御所と安養寺跡です。
安養寺は大きな寺院だったらしく、
足利義昭が将軍になる前に朝倉氏に匿われていたときに、安養寺に隣接して御所を構えたと言われています。石垣がわずかに残っています。
隣接する御所跡。
広大な遺構には何もありませんが
隣接する西側の山裾に入口らしきものが・・・
現在も林業の方が使用されるようで道が続いていますが、三段ほど落差のある砦跡のようです。
上城戸の西側の山裾にある盛源寺。現在の本堂裏の墓地は使用されているようでしたが、
本堂までの石段脇には見つかった石像が並べられ、
本堂の建つ平地には一際大きな石像が並んでいます。
一段高い本堂は街道の見張り台としてもちょうど良い高台に建てられています。
最後に城戸の内を散策。
夕方の城戸の内は人気も少なかったですが、ここは南陽寺跡庭園の下にある瓜割清水と呼ばれる湧き水です。暑い中でしたが、水はとても冷たかったですよ。
特別名勝 南陽寺庭園
特別名勝 湯殿跡庭園
特別名勝 朝倉館跡庭園
一乗谷にはもう一つ特別名勝の諏訪館跡庭園があり、全部で4つの特別名勝があります。城戸の外も見どころ一杯の一乗谷朝倉氏遺跡でした。
月: 2011年7月
一乗谷城下町 西山光照寺跡 福井県の城館
シンポジウムに参加するため一乗谷朝倉氏遺跡資料館へやって来ました。昼休みに発掘調査の真っ最中だと紹介された西山光照寺跡へ。
資料館から徒歩5分ほどのところの山裾に西山光照寺はありました。北の庄と呼ばれた現在の福井市や府中と呼ばれた武生市(越前市)から攻めて来たとすると、最初に見える障壁がこの西山光照寺となるそうです。寺院群が砦として利用されていたのでしょうね。
すでに整備された東側に隣接する西側を今年度は木々をすべて伐採して発掘調査しています。
発掘前にも地表から一部が現れていた「南無阿弥陀仏」と掘られた巨石もまるまる掘り起こされていました。
トレンチが何本も掘られていて、地山を確認しているようです。
先程の巨石が石垣のちょうど角に当たるようです。西側の巨石群ほどではないにしても、北側の石積みも大きな石が多いです。破壊されて地上1、2段ほどしか残っていませんが、往時はとても立派な石垣が続く壮観な風景だったのでしょうね。
寺院跡の入口に枡形になる?のかな、凹んだ石積みがありました。
発掘調査で見つかった石像が並んでいます。
石柱は線路からは見えるけど、見学者には見えない場所に・・・?なぜ
さて、西側はどう整備されるのか、楽しみです。
金沢城 橋爪門発掘状況を見る
曇よりとした雲行きの中、金沢城に向いました。晴れの予報日に夏休みをとったはずが、夏の天気は変わりやすい。
平日だから発掘調査しているかどうか、昼からの大雨予報のため不安もありましたが、やっていました。
休日に訪れたときはブルーシートに覆われていて、どういう状況かわかりませんから、どこまで進んでいるか確認しましょう。
まだ見つかった石積みの内側を掘っているようです。地道に進んでいるのかな?
角度を変えて他の作業を見学します。
石積み近くで何か記録している人がいます。
しばらく見ていると石積みを測量しているようでした。
更に角度を変えて見学します。
南側を掘った部分で何か進んでいるか見てみます。この部分はブルーシートの下は見たことがありませんでした。
溝が発見されたのか、トレンチを入れているのか、ちょうど土塁の土台あたりになるのでしょうか。
本丸から眺めてみます。
先程の溝部分。地層を示す白い糸が張られています。溝ではなく、トレンチを入れて断面を確認しているようです。
金沢城 石川門続塀の工事状況を見る
ずっとブルーシートに覆われている石川門続塀の修築現場。
ちょうど昼休みとあってか、上にめくり上げられて中が少し見えます。
出窓の横、塀のあるはずの部分は何もなく、塀は一度すべて解体されたようです。ここまで本格的に解体して修築しているのですね。
金沢城 玉泉院丸整備状況を見る
北陸新幹線の金沢開通に向けて整備を急ぐ玉泉院丸跡にも行って来ました。
県の担当者が石垣を調査しています。
曲輪のあちこちで穴を掘る音が聞こえます。
これは何を調査しているのか?
県の担当者は、図面を見ながら石垣に何か印をつけています。何か調査しているのか?
穴を掘っている方は下りてきてこの看板を見てわかりました。地盤調査をしているのですね。まだしばらく続くようです。
玉泉院丸の調査は昨年度の奥の壁面で行われていました。昨年度は滝があると推定された場所を、今年度はその西側を深く掘っているようです。
望遠で見てみると、奥に石らしきものが見えます。記録しながら掘り進められているようです。
戻ってきて玉泉院丸の石垣、下からいくつかの石にテープが貼られています。
とても気になったので県の担当者に何の調査か尋ねてみました。
定期的に石垣のはらみ(石垣の裏が水を含んで前に盛り上がってきた部分)を調査しているそうです。テープが重要なのではなく、テープの右下に貼った黒いマークで測るのだとか。なるほど!
今日行ったときにちょうど紅葉橋の奥の元堀跡のほうでも作業していました。
ここより奥は一度発掘調査していますが、手前には廃材や木材が積まれていました。
今日はそれらをすべて移動させて、これから掘っていくような感じでした。
後瀬山城 福井県の城館
北陸道敦賀ICから舞鶴自動車道小浜西ICに向かう国道27号線、最後に通る後瀬山トンネルの上に後瀬山城はあります。今週末から小浜ICが開通しましたので、もう通る機会は減るでしょうが。
今まで登り口がよくわからなかったのですが、東側の麓の愛宕神社鳥居から登ります。
入口の案内板を見ると、本郭に愛宕神社本殿があるようです。
1段上がると、末社が2社あり、
その脇を登っていくようです。
新しい案内板が立てられていますが、下のポストにパンフレットはありませんでした。残念・・・
ずっと上のようですから、また次の機会にしましょう。
小浜城 福井県の城館
今年のNHK大河の影響で観光客が増えるとみた小浜市は、小浜城の臨時駐車場を準備しました。そこから徒歩3分、観光客は他に誰もいませんでしたけど。
歩いて行くと畑の向こうに立派な石垣が見えてきます。
石垣に隣接して建つ民家。異様な光景でもありますが、少しうらやましい。
小浜城本丸の石垣は南側以外の三面が残されています。その南西隅石垣、階段が封鎖されていませんでしたので、登ってみます。
民家と先に見える湾、小浜城が海に面した海城たる所以ですね。
本丸は小濱神社の境内となっています。
境内に案内板が立てられていますが、地元では初の嫁いだ京極氏より、江戸時代に入封してきた酒井氏のほうが大事にされているようです。
本殿横に橋として利用された大石と城内の井戸が残されています。
北西隅に残る天守台
天守台にも上ることができます。天守台から東を臨めば、小天守台と先に湾が見えます。
西を臨むと、民家の先に湾が見えます。
本殿裏の北側から駐車場に戻ります。小浜城は石垣を間近に見ることができるのがいいですね。
帰り道、若狭歴史民俗資料館で見たこの地の風習、色で塗られた地蔵を祀った祠を発見しました。
敦賀城 福井県の城館
晴天の中、大谷吉継の敦賀城の遺構を探訪。大谷吉継で有名な敦賀城です。
敦賀西小学校の正門横に立つ敦賀城の案内碑です。平成9年に新たに立てられました。
3面の微妙な傾きの中、自分の映り込みを避けながら撮影するのは大変です。小学校の場所は絵図から三重の天守があった場所あたりだと推定されています。
そこから北に移動し、真願寺にやってきました。
寺の北を流れる闇加川。敦賀城の北限となる堀跡と言われています。
真願寺の境内に入ります。
境内の片隅に乾門と伝えられる礎石が野外展示されています。
最後に西に移動し、来迎寺まで行きました。駐車場と反対側が正門となりますが、寺門として移築されているのが、敦賀城の注文と伝わる門です。
部材を見ると、瓦や屋根裏など修築により新しくなっているものも見受けられますが、この戸の部分は古いようです。
敦賀城の遺構としては、南限と考えられる八幡神社の境内に表門の礎石が展示されているようです。
金ヶ崎城 福井県の城館
敦賀湾に面する山に構築された金ヶ崎城。朝倉氏と浅井氏に挟まれ、織田信長が這々の体で撤退した金ヶ崎の退き口で有名となりましたが、南北朝時代、新田義貞が陣を張った古くから北陸道の要所となった城です。
しばらく続く石段を登って行くと、城の入口は金崎宮の境内地となっています。
石段脇に新しく立てられた看板を見つけました。城跡というより公園の設備の説明板ですね。
横には城跡の解説板が新しく立てられています。
境内まで上がると、以前から立っている古い城跡の案内板が今も立っています。
境内にはNHK大河ドラマ「功名が辻」のときに製作された金ヶ崎城と天筒山城の模型が今も展示されています。
遊歩道の入口に立つ石碑。
遊歩道の入口でもこれだけの高さ。
敦賀市街を眺めると、左手に天筒山を望むことができます。
手取川合戦古戦場
能美市の呉竹文庫駐車場にやってきました。
存在は知っていてもどこにあるのか探していますが、ここの駐車場にありましたよ。
「上杉 織田手取川の戦 遠望の地
上杉に逢ふては 織田も名取川
はねる謙信 逃ぐるとぶ長」
後世の有名な狂言を書いた石碑が立っています。
隣には合戦の経緯を書いてあります。
駐車場から程ないところを手取川が流れています。
北陸鉄道の鉄橋の先は河口になります。
ここ数日の好天で瓦は水が多くありませんが、合戦のときは大雨で増水していました。増水した下流域を渡るのは至難の業でしたでしょうね。
呉竹文庫は北前船で財を成したここ本吉(美川)の熊川氏の蔵書を展示した元図書館だそうです。今は蔵書の和本の展示をしています。呉竹文庫と石川ルーツ交流館の入場券で300円です。
石川ルーツ交流館から国道8号線に向かう途中の田の横に、何か立っているということでちょいと見物。
長享2年(1488)、富樫政親の命により越前口の援路を開くため高尾城より南下した松坂八郎が高尾城に引返すため、今湊より川を渡ったところ、長屋の一揆の追撃を受け此の地において全滅した。その後間もなく高尾城は落ちたが、その頃より当地周辺に火玉ががあらわれるようになり、「ちょうやの火」と呼ばれるようになったそうです。
玉泉院丸跡下 外堀園地の緑地整備
金沢城の玉泉院丸庭園の復元整備に合わせて進められていた入口の広場(外堀園地)の整備が完了しました。
と言っても報道されるまで知らなかったけど。
これまで工事やイベント主催者の臨時駐車場として使用されていた未舗装だった部分に石張り舗装がされ、石垣下に芝が張られました。
以前あった舗装道路部分を含めての再工事。効率悪なー
大木に遮られていた石垣も、手前の木が伐採され見通しがよくなりました。報道によれば33本も伐採したとのこと。
芝内のこの溝は雨溝でしょうか。これほど大きなものの意味はなんでしょう。
この石張り舗装部分ではイベントを行うことも想定されているようですが、それにしてはちょっと手狭か。
さて、玉泉院丸は整備はストップしているようです。草が生い茂ってきましたね。
新しくいもり坂方向から玉泉院丸に入る階段が整備されていました。今は使用できませんけど。