橋爪門二の門復元に向け、発掘調査が進む金沢城です。
二の門が復元されると、戌亥櫓台からみえる建造物がまた増えますね。
櫓の高さは、すでに復元されている橋爪門続櫓の1層目の屋根より大棟が少し高くなります。
絵にすると右端がこんな感じで連結します。この二の門は金沢城三御門のなかでは政庁であった二の丸御殿に最も近く、格式は一番上だったのですが、他の河北門や石川門と違い柱でのみ櫓を支える構造になっています。つまり、土台に石垣がありません。
そのため、復元には柱の礎石または根固めが出てくることが重要になります。
昔の絵図ではその幅は続櫓の石垣の幅の1.2倍ほどでしょうか。
少し脱線しますが、今は二の門と一の門との間の枡形を形成する土塁と塀を復元する予定になっていますが、橋爪門の特徴は何と言っても、二の門の後ろに存在するもうひとつの枡形です。他の城でもほとんどお目にかかれない鉄壁の防御施設を、続けてぜひ復元してほしいものです。
さて前から見ると、ほぼ今発掘調査を進めている範囲ですね。
そうすると、昨年復元された河北門二の門の半分くらいの大きさになるのでしょうか。
月: 2011年3月
金沢城玉泉院丸暫定整備進む
2週間ぶりに玉泉院丸に行ってみました。
玉泉院丸の背景になる石垣群のまわり、特に上にあった木が伐採されて
かなりすっきりした感じになりました。
象徴的な色紙短冊石垣のあたりも伐採され、日差しに直接映えるようになりました。
暫定の池の輪郭はできてきたようですが、暫定整備では実際の池の輪郭などは再現されないようですね。
津幡城 石川県の城館
津幡町の四ツ角交差点です。
正面に見えるのが津幡小学校、津幡城のあった大西山です。
今は交差点となっていますが、元はT字路となっており、後ろ方向が「金沢」、左手に進むと「能登」、右手に進むと「越中」という加越能の三叉路となっていた場所です。
小学校へ向かってゆるやかに上り坂となっています。
入って左手の小高い小山の上に忠魂碑が立てられており、
上り口に案内板があります。上杉謙信の上洛、前田利家の末森合戦など戦国の節目に登場する城です。
忠魂碑の脇に「津幡城址」の石碑が立てられています。
この津幡小学校が建てられるときに山は大きく削られて平坦部を広げたため、往時の郭の様子は現況からはわかりませんが、校舎の高さほどもあったという話もあります。
この津幡小学校は老朽化のため、別の場所に新校舎がすでに完成しており、今年度取り壊される予定となっています。
小山から眺めるだけでもかなり向こうまで見渡せます。建物が低く、田園風景の広がっていたであろう戦国の世では重要な拠点であったことは容易に想像できます。
三刀屋城 島根県の城館
出張の帰りに、尼子氏の出雲十旗のひとつである三刀屋城を見てきました。ここを訪れるのは7年ぶりでしょうか?
城の脇を流れる三刀屋川です。川の向こう側に見える山が三刀屋城です。現在公園となっています。
橋を渡りすぐに城跡への道が続いています。自動車1台がやっと通れる幅の山道ですが、しばらく上ると
駐車場になっている馬場跡にでます。ここに停めて散策します。
駐車場には公園内の案内板があります。
馬場の隣に馬舎跡があります。
一角には石垣が残っています。
馬舎跡はかなり広い郭となっています。
上って行き馬舎跡の1段上の郭がもう1つの駐車場となっています。見晴らしの良い郭です。
さらに上っていくと、本郭のまわりの石垣が見えてくる。
面によっては良く残っています。
自然石をそのまま使用する野面積みですね。
本丸に入ると右手に物見櫓台が残っているのが目立ちます。
近くにここの城主であった三刀屋氏の子孫の方による顕彰碑が立てられています。
物見というだけあって、ここからの眺めは最高です。
川向うを通っていたであろう街道の先を見渡すことができます。
物見櫓の見どころは景色だけではなく、この櫓台付近に放置された石垣の石です。まさに破却の跡ですね。
大きな石も多いです。
では本郭跡を見ていきます。
見どころは本郭と二の郭の間に残る一文字土塁ですね。石垣も残り、往時は壮観なものであったことが想像できます。
脇に二の丸から続く道があります。
道沿いに放置された石には、石を割った矢穴の跡がくっきりと残っています。城内には数少ないですが矢穴の石を見ることができました。
二の丸から本丸へは土塁にぶつかり、直線では入れないです。
現在の公園は、道が本丸に入り二の丸へ至るのですが、本来は二の丸から本丸に入ったはずであり、このあたりは公園整備で破壊されてしまっているのかもしれません。
しかし、郭や土塁がよく残る良い城跡ですね。
松江城の夜景 島根県の城館
大手前駐車場は17時に閉まるので駅前のホテルに行き、晴れていたので歩いてライトアップを見に行きました。
橋と宍道湖岸のホテルをまずは撮りましたが、ちょっとライトが少ない。
駐車場から出るときに櫓にライトが当たっていたので期待してやってきましたが、期待通りのきれいなライトアップです。
市役所方向から3つの櫓と奥に天守がライトアップされていますが、雨もあがり風もなかったこともあり、水堀に映る石垣と櫓がきれいです。
暗いので足元に気をつけながら城内に入ります。櫓を見上げて撮ってみました。
本丸の脇から石垣越しの天守です。手前下が天守ですが、ここはライトアップされていなくて、また外灯も届かなかったのでつぶれてしまいました。天守が浮いてみえますね。
本丸にも入りたかったですが、さすがに解放されていませんでした。できればもう少しそばで撮りたかった。寒い中写真撮っている人もライトアップ見ている人もいませんでしたが、松江に行ったら見に行くことをおすすめします。
一夜明けて、松江駅前で川が見える部屋だったので外を見ると朝霧がかかっていました。内湖があると平野でもこれほどの霧が立つのですね。びっくりです。
写真は7時半の状況、7時頃は橋の手前まで霧が立ち込めていました。
8時にようやく向こう岸の建物が見えてきました。これだけの霧が立つと、敵が移動していても目の前に来るまで全く気がつかないですね。
松江城 島根県の城館
山陰の名城、松江城にやってきました。震災の影響でしょうか?連休にもかかわらず、お客さんは少なかったですね。
大手口木戸門跡の石垣上に石碑が立っています。こんなところに立っていると見逃す人も多いだろうに。
木戸門を入ると広い馬溜跡が広がり、右手に折れて大手門となります。
この3月19日から松江では開府400年記念博覧会が始まりましたが、全体的に自粛ムードでイベントが多数中止となっていました。
二の丸上の段には松江神社が鎮座しています。祭神は松江藩松平家初代の松平直正公です。のちに、東照宮を合祀、つまり徳川家康公。さらに松江開府の堀尾吉春公と、松平治郷(不昧)公を配祀されたようです。結果的に4人を祀っているということになりますね。
ちょうど始まったイベントで、開府記念博覧会のキャラクタ「あっぱれくん」を見れました。
二の丸上の段には、トイレがありますが、ここに番所があったということで番所風になっています。
その前に井戸があります。その奥が大広間です。
二の丸上の段には、南櫓
中櫓
太鼓櫓の3櫓が2001年に復元されています。
南櫓横の南口門です。三の丸とつながっていた門です。
上の段から本丸につづく二の門です。礎石が残っています。
本丸一の門です。この先は有料です。
本丸に入ると先に天守が見えます。
天守に入る前にまわりを回ります。東南隅の武具櫓跡です。
そこからは二の丸上の段や
二の丸下の段を見渡すことができます。
武具櫓石垣の下、三の門からみた天守です。ちょっと木が邪魔。
入口近くから見上げると、前の付櫓がアクセントになって迫力あります。
付櫓の入口は鉄張の扉になっています。
内部の柱は特徴的な寄木柱となっています。肥え松の一本の柱の外側に板を揃えて鉄輪で締めています。鉄釘や鉄輪は朽ちる可能性もあるので、木組みで建てることの多い城郭建築ではめずらしいのではないでしょうか。
最上階からの眺めは最高です。宍道湖方向ですが、天候がよければもっと良かったのに。
東方向には、19日に開館したばかりの松江歴史館が見えます。
北西方向には北の門に隣接する乾櫓のあとが見えます。今は手前の木が枯れているのでとてもよく見えますね。
西方角から見ると全く違った雰囲気になりますね。
二の丸下の段、米蔵跡であったところです。
北の門から出たところ、馬洗池です。
脇虎口ノ門です。
そこを出ると橋の前に松江歴史館が広がっています。
北惣門に架かる橋、この広い内堀は松江城の特徴でもあり、観光資源でもあります。
橋のたもとに堀の出入りをする通路が残っています。
県庁のある三の丸は北側のみ堀が残っています。
三の丸から見る松江城は、手前に内堀、二の丸の石垣、南櫓、中櫓、太鼓櫓、奥に天守と見事です。風のない日は水堀に石垣や櫓が映ってこれまたきれいです。
おみあげに「松江大亀伝説」というのを買いました。何か由来があるのかなと思い調べてみると、
松江市外中原町にある月照寺には松江藩松平家の墓所があるが、6代藩主宗衍の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀がいる。大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれ、下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという。(ウェキペディアより)
暴れたのに退治されたところまで書いてないけど、最後にはどうなったのかな?まあそういう由来のある菓子です。
日本100名城スタンプラリー 松江城
44城目は松江城です。
スタンプの図柄は、写真にもよくある天守を南西方向から撮ったアングルです。
ちょっとズレているような・・・
今年まで「松江開府400年祭」が開催中です。イベントの一部は震災で取りやめとなったようです。
松江市では松江城を国宝にする運動をしています。
新宮谷の史跡 新宮党館跡、尼子氏奥津城、山中鹿介幸盛屋敷跡 島根県の城館
月山富田城を見たあと、歩いて新宮谷を見て回りました。
入口に地図があります。館跡が墓が点在しています。小山が多くある深い谷筋です。
新宮谷は尼子経久の次男国久の一族が住んだところであり、新宮党と呼ばれました。
この山が「尼子氏奥津城」と呼ばれていますが、
「城」とついてはいますが、「き」と呼び、新宮党一族の墓所と伝えられています。
新宮党は尼子氏の先兵として領土拡大に多大な貢献をしましたが、甥の晴久により攻め滅ぼされました。
新宮谷の左の谷筋を進むと、一段高い平地が見えてきます。
今は太夫神社境内となっています。
平成20年に島根県指定史跡となりました。
太夫神社は新宮党一族を祀っています。
神社横には国久やその子らの墓と伝わる墓石があります。
ここには確かに戦があったのでしょうが、今はのどかな風景ですね。
右の谷筋には山中鹿介生誕地と伝わる「山中鹿介幸盛屋敷跡」があります。今は高台にある墓地の奥になります。
石碑が立っています。
「山中鹿介幸盛屋敷趾」と書かれています。
敷地の奥に井戸らしい窪地を発見しました。
石碑裏には敷石らしき石もあり、奥は一段高くなっています。このあたりも猪に掘り起こされて荒れていました。
日本100名城スタンプラリー 月山富田城
随分と間が空いてしまいましたが43城目は月山富田城です。
スタンプは花ノ壇に復元された屋敷のバックに本丸の存在する山をとらえた構図です。
いい構図ですが、柵が数本朽ちて倒れていたのが残念です。
花ノ壇の一段上の郭である山中御殿です。右奥が花ノ壇、右手に大手道が続きます。
麓の道の駅にある安来市立歴史資料館の裏に、立体模型があります。風雨に晒されているので文字盤がいくつかなくなっています。
その歴史博物館にスタンプがあります。認定証もありますよ。
月山富田城 島根県の城館
仕事で島根に出張するついでに1日前乗りして来たものの雨模様です。とはいえ、折角来たので久しぶりに広瀬にやってきました。広瀬に来るときはいつも天候がよくないように思いますが、楽しみにしてきました。
飯梨川を天然の堀として、奥に高くそびえるのが日本五大山城のひとつ、富田城の本丸です。
麓の道の駅に安来市立歴史資料館があります。平成の合併でここ広瀬町は安来市となりました。先に見学してから登ろうかと思いましたが、着いたのは9時前、開館は9時半ということで先に登ることにしました。
駐車場からすぐのところに「尼子興久の墓」があります。今日は雨模様なので露出が厳しいです。
一番下の郭は「千畳平」です。
郭内には尼子神社があります。
千畳平の1つ上の郭は、「太鼓壇」となります。奥の小山の上に
「尼子氏之碑」が立てられています。
さらに太鼓壇には有名な山中鹿介像が立っています。
その見つめる先は三笠山です。三笠山の上にかかる三日月を排して、「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と祈ったといわれています。
太鼓壇の上の郭は「奥書院」となります。
さらにすすむと「花ノ壇」に出ます。
奥のほうに復元された屋敷跡の写真ばかりが出ていますが、手前に広い郭です。
花の壇と山中御殿平の間にあるこの郭はなんていう?郭でしょうか。
御殿平の入口には多聞櫓が建っていました。
多聞櫓から御殿平をみると、奥に本丸の山が見えます。まだ随分奥ですね。
御殿平の菅谷口に井戸跡(雑用井戸)が残っています。
菅谷口は石垣に囲まれ、直角に曲がっています。ここは攻めるのが難しいですね。
菅谷口は新宮谷方面にあり、入口に広瀬藩松平氏の菩提寺である城安寺があります。
城のような構えの石垣は近世のものでしょうが、谷の迫った尾根には防御用の郭があったことでしょう。
御殿平に戻りましょう。御殿平の中央には山中御殿がありました。堀に囲まれた跡が復元されています。
千畳平と厳倉寺の谷筋を通るのが大手道で、御殿平に入ります。
御殿平の大手道沿いに大井戸があります。
案内板があっても道が埋もれてどこか探しましたが、竹藪の中でしたね。見つけるのが大変でした。
この軍用大井戸は今でもかなりの深さを持っていますね。落ちたら簡単には登ってこれそうにありません。見学者も少ないし、大変です!
大井戸の近くに池があります。この辺りには大量の湧水があるようです。
御殿平に戻り、菅谷口と反対側の塩谷口にやってきました。
このあたりの郭や土塁は特に掘り返された跡がありました。資料館の方にお聞きすると、猪が根のあたりにいるミミズを食べるために掘り返しているんだとか!麓の資料館付近にも現れることがあるそうで、今日は会わなくて良かった。
「塩谷」という自分と同じ名前を持つ地域から入ります。谷筋も短いため、入口を特に堅固に作ったようですね。
本丸へ登る七曲りから見渡す御殿平は壮観です。
本丸までは20分、さあ登りましょう!
石畳の跡が見えます。
しばらく登ると、山吹井戸があります。ここは浅いです。
七曲りをひたすら登ると、三の丸に出ます。高い石垣ですが、段が多いところが技術が未発達ですね。未発達なだけなのか、鬼門除けをしているのか、角をとっている部分も見えます。
階段を上って二の丸へ進みます。
雨が強くなってきて、霧が深くなってきました。奥に本丸も見えてきました。先を急ぎます。
二の丸から麓を見渡すと、やはり霧が深いですね。晴れていれば遠くまで見えるところなのですが・・・
二の丸と本丸の間には深い堀切が掘られています。
本丸は奥に勝日高守神社が建てられています。また天気の良いときに登りたいですね。
下りてきて対岸の三日月公園に尼子経久像が立てられています。奥に富田城が見えます。
経久の指し示す先は、鹿介と同じ三笠山です。陶隆房との戦いにいざ出陣!っていうところでしょうか。
安来市立歴史資料館で受付の方といろいろと先の話などをさせていただきました。ご厚意ですでに配布終了しているという「山陰の城館跡」という小冊子をいただきました。縄張り図などもあり、ちょっと持ち歩くにはいい本ですね。再配布してほしいところですが、予算がないかな?
「多賀17城発見報告」勉強会
多賀町立博物館で開催された「多賀17城発見報告」勉強会に参加してきました。
会場となったあけぼのパーク多賀には町立博物館のほかに、図書館と埋蔵文化財センターが入っています。
多賀町は日本で最も完全に近い「アケボノゾウ」の化石が出土したところで、見つかった1993年当時は大さわぎしたようですが、自分はまだ高校生になったばかりで全く知りませんでした。
昼休みに博物館に入ってみましたが、歴史は多賀大社が中心で、展示も少なく研究が進んでいない様子でした。
勉強会は多賀観光ボランティアの田畑氏の主催で、滋賀民俗学会理事の長谷川氏の講演という形式でしたが、地元の方が意外に少なく、地元の方の関心は多賀大社にあるようですね。
20名弱の参加者はこれでも主催者の想定以上であったようですが、せっかくのふるさと学習の機会ですので、やはり地元の方の関心がもっと欲しいです。
レジュメは手作りで2冊分。既知でない城跡らしきものが一つの町内に17も発見された経緯や発見の方法など、とても楽しくためになるひとときでした。
国道306号からあけぼのパークに向かう「北多賀」交差点から見える山並みですが、ここだけで、赤丸の各山頂部に城跡があるんですよ。スゴイ!
10時からの開始前に、近くの多賀大社に参拝しました。
全国に末社も数多くのもつ社にしては境内は思いのほかコンパクトです。
多賀大社と言えば、しゃもじ?なのかな。
参拝者は少なかったですが、初孫の安産祝?と思しき家族連れがいて微笑ましい光景でした。
境内には秀吉ゆかりの庭と書院があるということで見学してきました。庭は座視鑑賞式で、池には水が引かれていました。今の季節は木が枯れていてイマイチか?
しかし、書院の襖は金箔画ですばらしかったです。見学者は自分ひとりだったのでゆっくりと鑑賞しました。
金沢城 玉泉院丸暫定整備
しばらく来ていなかった間に、暫定整備が始まっていました。
今年は大雪だったので最近まで足が遠のいていたのは事実ですが、すっかり城内の雪はなくなりました。
玉泉院丸にあった見学路は閉鎖されてしまいました。
中央の池があった付近を一段低く掘り下げるようです。
横から見ると大型クレーンがよくわかります。
いもり坂口では何かを測定中?何を測っているのか?
金沢城橋爪門 ひさしの焼け跡を確認
今日は晴天の中、先日の新聞報道にあった橋爪門の遺構を確認に来ました。
日曜日なので作業はお休みです。
見つかったのは、橋爪門続櫓から石垣に接していた「添柱」と1階ひさしの焼け跡が発見されました。
どの場所か探していましたが・・・・
他の人が見たら何を探しているのか不審な人物この上ないですね。
このように筋がついています。
雪の白山麓攻城記
平野部の雪は溶けたし、先週の小谷山の件もあったので、セミナー参加のついでに城めぐりをしようと思っていましたが、今年の大雪をなめてました・・・反省
第一の目的は旧鶴来町の舟岡山城。今年整備を予定しているので、その前に現状をもう一度撮影したかったのですが・・・
目の前に開ける散策路・・・
のはずが
雪の固まりです。こんなに残っているとは、まだまだ春は遠いです。
いつもとは違った方角から鳥越城を撮影。右側の頂上付近に本丸があります。
しかし、入口はこんなにも雪が
生活道路ではありませんので、ここも春は遠いです。
麓の殿様屋敷。現在は畑になっているのですが、ここにも大雪の跡が。
屋敷の高台と考えられる神社境内は、鳥居も半分埋まりさらにすごいことに。
そして、二曲城の入口は見えるものの、
入口の橋には70センチほどの雪。前に進めない。
ということでここは大人しくセミナーまで常設展を久しぶりにじっくりと観賞しました。
今年の歴史館セミナーのテーマは「二曲城を考える」でした。2004年から6カ年で調査が続けられ、いよいよ来年度から4年程度で環境整備されます。
内堀館 長野県の城館
雪がまだ残っているので平地の館跡を訪れました。
ここは中野市上今井にある内堀館跡です。
土塁に残る大木がこの館跡の時代を感じさせてくれます。
江戸時代後期には飯山藩の本陣として使用されたという館内には、
今は個人宅となっていますが、ちょっとお邪魔をして、大きな古いお家を撮影させていただきました。
門の正面に戻って、門までは緩やかに傾斜があります。土塁に囲まれた館は周囲より一段高くなっています。
正門わきの土塁の石積みは大ぶりの石を使用していますが、近世のものか近代のものか?
正門の一方から屋敷裏まで水堀がめぐっています。
今は雪の重みで倒れた竹で覆われて、堀の深さが伝わらないですね。
土塁と堀の位置関係は案内板に紹介されています。
場所が大通りから中に入りわかりにくいですが、目印は佐藤病院です。
小谷城 滋賀県の城館
虎御前山見学会の後、小谷城へやってきました。
まずは麓、清水谷にある小谷城戦国歴史資料館へ。外はNHK大河効果もあってか賑やかになっているが、展示内容は以前と変わらないなー。まあ、ここでパンフレットと一緒に小谷城の縄張図(いつの間にかカラー版になった)がもらえるので、それを持って登城します。
入口は資料館横の追手道から入ります。まだ道が少しぬかるんでいる。
しばらく登って、自動車用道路と歩行者用道の分岐まで来ました。午前中にひと山登ってきた疲れもまだとれていないので、道路道を選択します。
比較的緩やかですが、長い道路道を歩いて行くと、途中鳥居のある巨石を発見!
写真で見ると縮尺がよくわからないと思いますが、4メートルほどの大きな岩です。
途中、まだ雪が被る伊吹山が見えました。
江のイベント旗が観光客を迎えています。
ようやく道路の終着です。
ここから京極丸まで25分と書かれていますが、ゆっくり見るとそれ以上にかかります。
まずは看板近くの「金吾丸」へ。ここは朝倉金吾教景が陣を張った場所ということで、その名がつけられています。
本丸へ向かいます。まずは「番所」です。
地元誌「みーな」に掲載された鳥瞰復元図が配置されていました。わかりやすくていいですね。
次の御茶屋へ行く途中、先ほど登った虎御前山が見えます。こうして見ると、手前の柴田勝家陣、木下秀吉陣、佐久間信盛陣と織田信長本陣ぐらいしかこちらから見えそうにないですね。
「御茶屋」に着きました。
ここにも復元図が置かれています。この絵を見ると、この郭の奥に庭園があったようです。
行ってみると、確かに景石らしき石が多数ありますね。
ひとつ上の「馬屋」です。郭内の木が伐採されたため、周囲の土塁もはっきりわかるようになりました。
その横、「馬洗池」です。石垣が残っている大きな池です。
さらにひとつ上の郭、「桜馬場」にきました。木々の葉が落ちて全くないので見通しもよく、広い郭だとよくわかります。
その先端部からの眺めはいいですね。山本山城の奥に琵琶湖と、そこに浮かぶ竹生島が見えます。少しかすんでいるかな。
それにしても、この風景見たことないですか?
しばらくすると、ボランティアガイドに連れられた一団がやってきました。説明を聞いていると、ここがNHK大河のロケ地。
そうです。ここが何度も出てくる市が長政と琵琶湖を眺めた場所なんですよ!
立っていた位置に石が置いてあります。
こちらは「市」
そして「長政」。マジックで書きなぐった感じですが、これもまた記念です。今限りの見学スポット、ガイドさんが来なかったら見逃していましたよ。ラッキーでした。
さて、先を進みます。桜馬場から本丸に至る「黒金門」です。この辺りは特に大きな石が使用されています。
門を入ると「大広間」が広がります。
次の復元図を見つけました。
「本丸」のまわりの石垣が数段残っています。本丸に上ったところで時間切れとなったので、今日はここで引き返します。
とその前に、赤尾屋敷を見に行きます。途中狭い通路や日陰のためか雪がまだ残る道を進みます。
重臣の「赤尾屋敷」にやってきました。
復元図をみると、ここは下にあと2段の郭があるようです。
一番上の郭には浅井長政が最後に自刃した供養塔が立っています。
下りてきて麓の江博覧会会場に来ました。
今日は時間もないので、博覧会は後日にして、みやげものを物色しました。
ぬいぐるみなども買うことはあるのですが、今回はあまりかわいくないのでやめました。そして、買ったのが・・・
水・・・なぜか現代風の三姉妹。時代の流れでもちろん「萌え」イラストですね。「江の雫」と命名された近江の水かと思いきや、高知室戸沖の海洋深層水です。
もうひとつが、三姉妹のマスコット。この二頭身キャラは旗にもかかれていたキャンペーンマスコットなんですが、初だけ白頭巾をかぶった出家後の姿で、特徴的だと言っても、ひとり年寄りなのはかわいそうなのでは・・・
先に資料館で新刊と新ビデオを購入しました。ともに企画は小谷城址保勝会です。ビデオは1枚1000円と少し高いと思いましたが、保存活動に寄付すると思えばささいな金額です。内容もそこそこ本格的で良かったですよ。
虎御前山城 滋賀県の城館
虎御前山城見学会に参加してきました。集合場所は虎姫自遊館です。9時に集合するのに6時に出発してきました。
初めて来た館内には虎御前山城に関する展示がされています。
こちらは関係する武将を紹介しています。
こちらは絵図。
そして立体模型です。これはわかりやすい。ずっと虎御前山は小谷山に向かって平行にある山だと思っていましたが、どちらかというと垂直ですね。
解説は丸山竜平先生と長谷川博美さんです。さあ出発です!
虎御前山と小谷山の間を流れる川です。左手に虎御前山、正面に小谷山が見えます。
入口に立てられた看板。虎御前山はハイキングコースになっています。
登り始めてすぐに「多賀貞能陣跡」があります。ちょうど藤棚あたりでしょうか。
自動車道と並行してこの矢合神社への参道が続いています。
道路をはずれて最初に訪れる陣跡は「蜂屋頼隆陣跡」です。
ここからは丹羽陣(キャンプ場)、滝川陣(鉄塔)が遠くに見えます。
「丹羽長秀陣跡」はキャンプ場となっており、看板などもないですが、盛り上がっている場所であることは一目瞭然です。開発されて跡はわかりません。
キャンプ場までは自動車で来ることができます。ここからは徒歩、ハイキングコースです。
鉄塔の横に「滝川一益陣跡」があります。虎御前山は古くから古墳が多く作られた信仰の山で、滝川陣も古墳を利用しています。
さらに進むと「堀秀政陣跡」が見えてきます。
織田信長陣跡が見えてきましたよ。
やはり信長の本陣だけあって、土塁こそ崩れわからないものの、郭のまわりに帯郭が何重にも巡っています。
虎口にあったと思われる門の正面には、横山城が見えます。ここからも虎御前山城と横山城が連携しあっていた様子が想像できます。
郭近くの草や木が刈り込まれたとはいえ、まだ木が多く、小谷城方向が見えないのは残念でした。信長の気分になりたかったのに・・・
しかし、合間から小谷山最高所の大嶽城がかろうじて見えましたよ。
大きく下って先の陣跡に進みます。
「木下秀吉陣跡」です。この郭のまわりにも虎口や帯郭、かざし堀などがあり、見どころ満載です。
木々の隙間からなんとか小谷山が見える。
最前線は「柴田勝家陣跡」です。ここまで来るとまた小谷山は見えなくなってしまいました。
勝家陣も古墳を利用したものですが、古墳は破壊しないように利用されたようです。昔の人もたたりを恐れた?
さて、立体模型にはもうひとり「佐久間信盛陣跡」というのがあったのですが、今は行けるのか?帰ってきてから気がつきました。
思っていたより高くない山城であったので、ハイキングはちょうどいいですね。また行ってみたいと思います。