前日に東京江戸博物館で「徳川御三卿展」を見たこともあり、時間もないところですが見ないと帰れません。
まずは、一ツ橋に残る一橋門石垣です。
内側から見ると・・・
歩道を作るために素っ気無いコンクリートで押さえられています。
奥の柵の中には工事のときに残した石でしょうか?たくさんの石垣用の石が無造作に置かれています。
中には刻印が刻まれた石もあり勿体無いことです。もう少し活かす手はないでしょうか。
橋を渡って、石垣が残る辺り一帯が一橋家の屋敷跡です。御三卿の中で唯一、内堀の外に屋敷がありました。
NHK大河「龍馬伝」で登場することもあり、もっと注目されても良い史跡ですが、あまり人は立ち止まらないですね。
さて、内堀沿いに散策を続けます。まずは平川門
往時は竹で編まれていたという竹橋門を通り、
一橋門から10分ほどで清水門に到着します。
正面に高麗門、右に渡櫓門、左には内堀があり、防御に強い形式です。重要文化財となっています。
高麗門を内側から
渡櫓門は鉄張りの重厚な構えですね。
清水家屋敷と田安家屋敷のあった北の丸は、現在「北の丸公園」となっていて、現在は大部分が園地となっています。
田安門近くには武道館が建っています。
田安門が見えてきました。
田安門の渡櫓門の内側には珍しく部屋があったようですね。番所でしょうか。
こちらの入口も鉄張りで重厚ですね。
高麗門は両側に石垣が積まれ、清水門とは異なっています。ちなみに、田安門も重要文化財です。
田安門の高麗門の脇の塀は広く廻っていますので、雰囲気が清水門とは明らかに違いますね。通路脇の木々も邪魔だ!と思っていましたが、ここは桜の名所だったようです。
田安門の標柱がどこにあるのかと探したら、こんな遠くにありました。清水門とは違い、見通しが利かないので場所変えてほしいものです。
御三卿の名残りを感じる部分はところどころに残っていますが、ほとんどの方は素通りですから、そんな重要な史跡だとは思ってもみないのでしょうね。
日: 2010年11月8日
江戸城散策 日本橋から一ツ橋
仕事前に散策です。今日も昨日と同じく、祥伝社新書の「江戸城を歩く」を参考に歩きます。コース4の「日本橋川」を途中まで攻略します!
歩いていると常盤橋公園に着きました。予定していたのとは逆方向に歩いたようですが、今更戻れないのでそのまま進みます。
橋は当時のものではないようですが、枡形に向かって川を渡り、公園内には枡形の両側の石垣が残っています。枡形になるために囲むもう一方が壊されていますが、都心にこれだけのものが残ったのは川がカーブしていて、道を作るのに邪魔にならなかったからでしょう。
現在の常盤橋は少し東側に架かっています。そこから日本橋に向かいます。
日本橋はこの「梅ぼ志飴」に描かれているように、浮世絵として多く描かれています。ちなみに「梅ぼ志飴」はべっこう飴です。
さて、見学を・・・・・と思ったら、なんと工事中でした。
北詰めの道路基準道標は見学できます。
橋梁はブルーシートで大きく包まれています。
普段は道路の真ん中にあって見学できないこの道路元標も見学できる!
と思ったら、外されていました。ここが日本の道路の基準点ですよ。
もう一方の北詰めには魚市場発祥の地の石碑が立っています。鮮魚や塩干魚を荷揚げした魚河岸がこの辺りにあったそうですが、築地市場の前身はこの地にあったということですね。
川沿いに西に戻り、一石橋にきました。
この橋の歴史は古いようです。
橋柱は現在1本だけ残っています。その横の金網に囲まれたところに
迷子しらせ石標が立っています。
壊されないように厳重に囲まれていますね。
そこから1つ南に行った交差点あたりに呉服橋門があったようなのですが、
今は交差点名として残るのみです。
説明板もないのか、と歩いていると少し離れた日本ビル前に見つけましたよ。
さらに西へ歩くと、新大手町ビルの脇にひっそりと道三橋の案内板が立っています。この通路が道三堀だったのかな?
交差点を北に進み、外堀まで戻ったところが鎌倉橋です。南岸に大部分が蔦におおわれた石垣が残っています。
そこから川沿いに西へ進むと、物揚場跡の案内板があります。
そこは神田橋です。建築資材の陸揚げ場所だったところですが、対岸に神田橋門があったようです。
西の北詰めには神田橋の案内板が立っています。
橋のたもとにある首都高への入口の向こう側に石垣が残っているようですが、首都高で隠れ、蔦で隠れ、よく見えませんね。
もうひとつ西側の錦橋から西側の南岸は石垣が続いて残っていますね。
次の橋は一ツ橋です。
交差点も一ツ橋です。想像の通り、徳川一橋家の屋敷前にあった門跡であるのですが、長くなったので後半は別記事に書くことにします。