今日は日曜日なので、木材加工場はお休みです。残念・・・・
昼休みが終わって公開が再開した素屋根内部を見学します。
数ヶ月のうちに進むのは早い。特に木組みはあっという間です。近くであればもっと見に来たいのですが。
おー進みましたね。でも、日曜日工事はしていません。
玄関の木組みはほとんどできたようですね。
全体的には細い部材が多いです。
木組みの各部分の説明が書かれていました。こういうのはわかりやすいですね。
中之口部屋側からみると、足場が二階で組まれています。
土を練っているので、よく観察していると、足場の向こう=壁に土を塗っているようです。もう少し見やすくしてほしいなあ。
こういう複雑な木組みが木造建築の見どころですね。
ずっと眺めていると、木材に書かれた墨書きが目に付きました。「ち」とか「り」とか見えますね。いろは歌による位置の覚書ですね。
それじゃ連結部分に同じ文字が見えるのでは?
と思って探していたら・・・・「ほノ二」が3ヵ所見える場所がありましたよ!見学通路から確認できたのはここだけです。ちょっとした宝探しのようで楽しかったです。
月: 2010年11月
秋の名古屋城散策と天守台刻印 愛知県の城館
紅葉真っ盛りの名古屋城に来ました。この時期に来るのは初めてですね。
今回は時間がありますので、久しぶりに二之丸庭園から巡ります。
南蛮たたきです。
埋御門をじっくりと見るのも久しぶりです。
二之丸庭園の場所によっては、とてもきれいに紅葉しています。絶好の撮影場所ですね。
手水鉢に浮かぶ紅葉の葉が風情ですね。
二之丸庭園入口も紅葉が入るといつもと違います。
内堀には鹿たちが・・・・おー復活していますよ。元気でね!!
では、まだまだ時間がありますので天守台の刻印を探します。家紋など記号の刻印は沢山ありますが、文字の刻印もあるんですよ。こちらは有名な不明門近くの天守台北東隅の「加藤肥後守 内小代下総」(拡大あり)の刻印です。
問題はこちら天守台南西隅の刻印です。肉眼では全くどこにあるかわかりません。
デジカメを最大望遠(X18)で石ひとつひとつをじっくり探すこと10分・・・
ようやく見つけました!「○肥後守内 ○○○○○」、よく読み取れません。
(資料が見当たらないので後日更新します)
人気者のはち丸には撮影待ちの列がついていましたよ。
あーそれと、名古屋城売店で「名古屋城本丸御殿基金WAON」が売られていたので買いました。もちろん使いません。カードを記念に買ったようなものですよ。首里城にもあるみたいだけど、あちらはずっと行けないなー。
長島城 三重県の城館
桑名から名古屋へ行く途中、念願の長島城を見に行きました。長島は長島一向一揆の地、木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中(中学で習いましたよね、でも地元でないと実地を見ないとイメージ沸かないんですよ)地帯を拠点に織田信長と激戦を交えました。とはいえ、今知られる長島城は近世江戸時代に整備された城(陣屋?)です。
本丸跡は長島中部小学校となっています。校門から右に校舎、正面から左に運動場が広がっています。正面に大きな松の木が見えますか?この松は後ほど
校門から隣の長島中学校へ歩いていくと、小学校の歩道脇に「長島城跡」の案内板が立っています。絵図がプリントされていますが、かなり薄くなっていますね。
長島中学校の校門は陣屋風です。
戻って小学校の校舎前まで来ました。
大きな老木が伊勢湾台風にも耐えて残っています。ここが本丸の南西隅となるそうです。長島城時代から残っている数少ない生き証人です。
小中学校前を流れる川に架かる「大手橋」の名が、ここが大手であったことを偲ばせてくれます。
橋を渡ると、道標が残っています。
それでは、下町方面を散策します。
長島城跡の川の対岸には寺が多数点在しています。ここは「正敬寺」、真宗大谷派です。
少し歩いて「花林院」は曹洞宗?かな
散策の目的は、この「蓮生寺」です。真宗高田派となります。
山門は長島城の「大手門」であったと伝えられています。
小さな高覧門形式ですが、大手門ということは先ほどの大手橋を渡ったところにあったんでしょうね。大手門というにはやはり小さくないですか?
瓦には増山氏の家紋である「雁金」を見ることができます。午前中だと内側から見るのがいいですね。正面は逆光で見にくい・・・
長島城の建造物唯一の遺構です。そんなに距離は離れていないので見逃さないように。
桑名城 三重県の城館
「その手は桑名の焼き蛤」という洒落で有名な桑名。
東海道は名古屋の熱田の湊からここ桑名の湊まで舟でした。
その距離から「七里の渡し」と呼ばれていますが、
「七里の渡し」の鳥居の前で、桑名城沿いに進みます。
この湊を見渡すところに、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が復元されています。現代で言う灯台の役割でした。見張り台の役割もありましたけど。
徳川譜代の城として、「立ち葵」の家紋瓦に水の神として龍が乗っています。
蟠龍櫓はライトアップのされています。それを見たくて、前日夕方見に行った写真がこれです。
漆黒の闇に浮かぶ櫓。湊側から見ると、海に姿が写ってきれいです。風がない日はもっときれいでしょうね。
七里の渡しの鳥居もライトアップされています。
さて、この蟠龍櫓の近くから散策します。
桑名城と城下町の間、北大手橋の架かる堀には多くの舟が泊まっていましたが、その上がり部分は石造りで立派です。ここは藩政期そのままでしょうか?改修されているのでしょうか?揃わない石積みからは古いようにも見えますが。
蟠龍櫓のある曲輪は三の丸です。早朝からご年配がゲートボールを楽しんでいました。
三の丸は一部駐車場として無料開放されていますが、9時から開場される(ちょっと遅い)ので、自分は少し離れた場所に停めました。
駐車場横には藩政期城主だった本多忠勝の銅像が立っています。あの兜カッコいいですね。
今の桑名城跡は幕末の譜代藩としての面影が残っているのでしょうが、桑名松平家よりも本多家のほうが地元の方には誇りなのでしょうか?
本丸・二の丸は九華公園となっています。
水堀が残る憩いの場ですね。公園の案内図でも城の形がよくわかります。
管理事務所近くの扇橋口に、
桑名城絵図を描いた案内板が立っています。
管理事務所口には石が積まれていますが、この石は石垣の石の残りでしょうか?けっこう大振りですよ。
野外ステージのある曲輪は「奥平屋敷」と呼ばれているようですが、
この曲輪のまわりは藩政期そのままの石垣が残っています。堀沿いに残る石積みは見逃さないでくださいね。
それにしても、堀が広いからか、ここは鳥たちの楽園ですね。二之丸橋のあたりが最も集まっていましたが、欄干に並んでとまる姿はどこか落ち着きます。
堀に架かる橋の真ん中に東屋があり、その奥のグラウンドが朝日丸跡となります。
本丸に入ります。辰巳櫓跡は小山として残っています。
大砲のレプリカがある櫓台からの眺めはいいですね。
もうひとつ櫓跡が残っています。こちらは神戸櫓跡です。
本丸跡の一角に「桑名城跡」の石碑が立っています。
本丸の半分ほどは現在神社になっています。
鎮国守国神社。主祭神は藩祖松平越中守定信公です。ということは桑名藩の始まりは、松平家ということになっているのか?ここに本多家が入る余地はないようです。
本殿の脇の紅葉は真っ盛りでしたが、この奥に天守台が残っています。実は一度見逃して帰ろうとして引き帰しました。
天守台はひっそりと神社境内の残っており、
見ると、大きい石がかなり使用されています。立派な天守台です。
鎮国守国神社の隣は、九華招魂社。御祭神は戊辰戦争から太平洋戦争までの桑名出身戦没者のようです。
その隣は鎮国稲荷神社となっています。かなり広いので、全部まわると2時間以上かかります。
大築城時代と甲賀
「甲賀市史 第7巻 甲賀の城」の発刊を記念したシンポジウムに参加するため甲賀市に来ました。会場は甲賀市甲南情報交流センター忍の里プララです。
少し早く到着したので、旧甲南町の観光場所を散策です。
まずは甲賀流忍者屋敷です。ここは甲賀忍者の筆頭望月家で、中には忍者の屋敷ならではの仕掛け(カラクリ)がたくさんありました。観光客がひっきりなしに来ていましたよ。
ここはめずらしい六角堂です。
そして文化財指定されている新宮神社の表門です。この奥に本堂がありましたが、参道が舗装されてはいますが残っているのがいいです。
さて、会場のプララです。
たくさんの人が来ていましたが、始まってから来る人が多すぎますよ。
シンポジウムは二部構成で、前半が報告会、後半が座談会です。
七尾城跡 国史跡の範囲4倍に
文化審議会は19日、国史跡に指定されている七尾城跡周辺の20万2495平方メートルを、国史跡に追加指定するように答申した。早ければ来年2月にも答申通りに指定される見通しで、国史跡の七尾城跡の面積はおよそ4倍となる。
追加指定される場所には、安寧寺や番所、長屋敷跡など七尾城を構成した建物跡が含まれている。
他に城館関係では、「岐阜城跡」と「松坂城跡」が新規答申されている。(北国新聞2010年11月20日付け記事より)
加越城郭群 国史跡へ調査
金沢市は8日までに、市北東部の松根城跡、切山城跡を含む一帯について、国史跡指定に向けた調査に着手した。石川、富山県境に近い二つの城跡は、文化庁も羽柴(豊臣)秀吉の天下統一に至る過程を示す貴重な歴史遺産であると高い評価を与えている。市は来年度以降に本格的な調査を進め、「加越国境城郭群」として一体的な価値付けを目指す。
松根城、切山城とも小原越を城の中に取り込んで築城している点が特徴。いずれも本丸などの建物は現存していないが、土塁や堀などの遺構は良好な状態で残っている。(北国新聞2010年11月9日付記事より)
江戸城 御三卿屋敷跡 一橋家・清水家・田安家
前日に東京江戸博物館で「徳川御三卿展」を見たこともあり、時間もないところですが見ないと帰れません。
まずは、一ツ橋に残る一橋門石垣です。
内側から見ると・・・
歩道を作るために素っ気無いコンクリートで押さえられています。
奥の柵の中には工事のときに残した石でしょうか?たくさんの石垣用の石が無造作に置かれています。
中には刻印が刻まれた石もあり勿体無いことです。もう少し活かす手はないでしょうか。
橋を渡って、石垣が残る辺り一帯が一橋家の屋敷跡です。御三卿の中で唯一、内堀の外に屋敷がありました。
NHK大河「龍馬伝」で登場することもあり、もっと注目されても良い史跡ですが、あまり人は立ち止まらないですね。
さて、内堀沿いに散策を続けます。まずは平川門
往時は竹で編まれていたという竹橋門を通り、
一橋門から10分ほどで清水門に到着します。
正面に高麗門、右に渡櫓門、左には内堀があり、防御に強い形式です。重要文化財となっています。
高麗門を内側から
渡櫓門は鉄張りの重厚な構えですね。
清水家屋敷と田安家屋敷のあった北の丸は、現在「北の丸公園」となっていて、現在は大部分が園地となっています。
田安門近くには武道館が建っています。
田安門が見えてきました。
田安門の渡櫓門の内側には珍しく部屋があったようですね。番所でしょうか。
こちらの入口も鉄張りで重厚ですね。
高麗門は両側に石垣が積まれ、清水門とは異なっています。ちなみに、田安門も重要文化財です。
田安門の高麗門の脇の塀は広く廻っていますので、雰囲気が清水門とは明らかに違いますね。通路脇の木々も邪魔だ!と思っていましたが、ここは桜の名所だったようです。
田安門の標柱がどこにあるのかと探したら、こんな遠くにありました。清水門とは違い、見通しが利かないので場所変えてほしいものです。
御三卿の名残りを感じる部分はところどころに残っていますが、ほとんどの方は素通りですから、そんな重要な史跡だとは思ってもみないのでしょうね。
江戸城散策 日本橋から一ツ橋
仕事前に散策です。今日も昨日と同じく、祥伝社新書の「江戸城を歩く」を参考に歩きます。コース4の「日本橋川」を途中まで攻略します!
歩いていると常盤橋公園に着きました。予定していたのとは逆方向に歩いたようですが、今更戻れないのでそのまま進みます。
橋は当時のものではないようですが、枡形に向かって川を渡り、公園内には枡形の両側の石垣が残っています。枡形になるために囲むもう一方が壊されていますが、都心にこれだけのものが残ったのは川がカーブしていて、道を作るのに邪魔にならなかったからでしょう。
現在の常盤橋は少し東側に架かっています。そこから日本橋に向かいます。
日本橋はこの「梅ぼ志飴」に描かれているように、浮世絵として多く描かれています。ちなみに「梅ぼ志飴」はべっこう飴です。
さて、見学を・・・・・と思ったら、なんと工事中でした。
北詰めの道路基準道標は見学できます。
橋梁はブルーシートで大きく包まれています。
普段は道路の真ん中にあって見学できないこの道路元標も見学できる!
と思ったら、外されていました。ここが日本の道路の基準点ですよ。
もう一方の北詰めには魚市場発祥の地の石碑が立っています。鮮魚や塩干魚を荷揚げした魚河岸がこの辺りにあったそうですが、築地市場の前身はこの地にあったということですね。
川沿いに西に戻り、一石橋にきました。
この橋の歴史は古いようです。
橋柱は現在1本だけ残っています。その横の金網に囲まれたところに
迷子しらせ石標が立っています。
壊されないように厳重に囲まれていますね。
そこから1つ南に行った交差点あたりに呉服橋門があったようなのですが、
今は交差点名として残るのみです。
説明板もないのか、と歩いていると少し離れた日本ビル前に見つけましたよ。
さらに西へ歩くと、新大手町ビルの脇にひっそりと道三橋の案内板が立っています。この通路が道三堀だったのかな?
交差点を北に進み、外堀まで戻ったところが鎌倉橋です。南岸に大部分が蔦におおわれた石垣が残っています。
そこから川沿いに西へ進むと、物揚場跡の案内板があります。
そこは神田橋です。建築資材の陸揚げ場所だったところですが、対岸に神田橋門があったようです。
西の北詰めには神田橋の案内板が立っています。
橋のたもとにある首都高への入口の向こう側に石垣が残っているようですが、首都高で隠れ、蔦で隠れ、よく見えませんね。
もうひとつ西側の錦橋から西側の南岸は石垣が続いて残っていますね。
次の橋は一ツ橋です。
交差点も一ツ橋です。想像の通り、徳川一橋家の屋敷前にあった門跡であるのですが、長くなったので後半は別記事に書くことにします。
江戸城散策 両国から浅草
江戸東京博物館を後にして、少し江戸の名残りを散策しましょう。今日の散策路の参考は前回と同じ、祥伝社新書の「江戸城を歩く」です。コース7の「両国橋から御茶ノ水」を半分くらい攻略します!
とその前に・・・
両国の観光地図にありました赤穂浪士の討ち入りのあった「吉良邸跡」を見に行きます。
屋敷跡のほんの一部を公園としているのですが、ちゃんと表札も掛かっていますよ。
中に入ると、稲荷神社と
赤穂浪士の供養碑
首洗い井戸などが記念として復元されており、
小さい空間ですが、観光スポットとして充実しています。
さて、出発地点の両国橋です。両国というのは、橋の架かる隅田川が武蔵国と下総国の境界線だったことによるそうです。
右奥に見えるのが、隅田川に流れ込む神田川の第一橋、柳橋です。
両国橋から見る隅田川です。大きな川です・・・と、ここからスカイツリーが見えますよ。
神田川の第一橋、柳橋です。ドイツ式の永代橋となっていて、現代のものは昭和4年に復興されたものですが、東京では少ない近代遺産のようです。
柳橋付近の神田川には船遊び用の船宿がたくさん連なっていました。絵になりますね。
浅草橋南詰めの交番のあたりが郡代屋敷跡です。
農民を管轄した関東郡代の役宅跡らしい。
交番の向こうのビルのそばに何か石が見えたので、行ってみると、
そこには石垣の石がありました。隅田川も江戸城防衛のため、柳原土手という防備用の石垣があった場所があるそうです。それにしても、誰も見ないところにひっそりとありますね。
浅草橋を渡ると、
北詰めの浅草橋公園が浅草見附跡です。
浅草橋は浅草寺への参道ですね。ここには、というより対岸の郡代屋敷のほうだけど、枡形門があったのですが、今は見る影もなく、この石碑のみが当時を偲ばせます。
さあ、帰ろうと・・・・両国広小路の碑を見るのを忘れたよ。
金沢城玉泉院丸跡 現場説明会へ
前日に新聞報道で急に現場説明会のお知らせがあったので、予定を変更して金沢城にやってきました。
今日もたくさんの人たちですが、皆さん顔見知りばかりのようですね。
3班に分かれて説明を聞きます。今年度の調査は絵図にある泉水へ流れ込む滝の調査でした。
元々の泉水の位置が比較的深かったことも幸いして、陸軍による埋め戻しの後に鉄筋の県体育館が建てられたことによる遺構の大規模破壊は免れたようです。
穴の中に見える何本もの石柱が県体育館の基礎です。いかにも無造作に折られているんですね。
滝の推定場所からは二段の石敷きがでてきました。残念ながら最下段の3段目は敷地ギリギリに建てられた県体育館によって取り去られているようでした。
麓の泉水脇にあたる巨石は、池に沿って気持ち曲線のように並んでいます。
滝の最上箇所では、通路を支えるために陸軍が積んだ近代石積みが見つかりましたが、かなり広く積んでいます。この奥も調査するんでしょうか?
当日参加できなかった皆さんに、説明会の一部を公開します。