築城430年祭の行われている越前大野城です。
亀山の頂上に模擬天守が建てられていて、町のシンボルです。
以前訪れたのはもう8年ほど前になるでしょうか?そのときはこのあたりに駐車場があった記憶がありますが、山麓の二の丸跡には現在「学びの里 めいりん」が建てられ、
道路沿いに内堀が復元されています。
南登り口には城門が建てられていますが、藩政期にここに道はなく、観光用の門です。
藩政期の山頂への道は唯一この「百間坂」のみです。
百間坂を登ってくると、三の郭に出ますが、ここから本丸への入口は石垣が積まれています。
三の曲輪の先端には「麻木櫓」が建てられ、城内唯一の二重櫓でした。
現在は麻木櫓の建っていた斜面はコンクリで固められていますが、藩政期は土のままだったようです。
本丸北東面です。
東面は石垣が積まれていますが、隅で切れ、南面は土塁となっています。
三の郭から本郭へ入る石垣上に「越前大野城」の石碑が立てられています。
本丸御殿の建てられた石垣上には模擬天守として資料館が建てられています。
二の郭には大野城下町の基礎をつくった金森長近の銅像が立っています。
資料館に入る前に本郭のまわりをぐるりと一周しました。こちらは南側の「武具蔵跡」です。
そして「お福池」です。
本郭への入口は2箇所。殿様が登るのはこちら「駕籠道」です。
本郭の北西方向に広がるのは「塩硝蔵跡」です。
模擬天守から西、福井方向にはこの亀山に城を移す前の戌山城が見えます。
東側には二の丸、三の丸、城下が広がります。
資料館の東の平坦部には
亀山の最頂点、三角点があります。
殿様以外の武者はこの急な「武者走り」を登りました。
急、かつ折れがあり、視界が一瞬遮られます。
本丸の南側は「地獄谷」という非常な急斜面となっています。
街中に残る「石燈籠地蔵尊」です。金森長近が城下町を建設するにあたり、ここを起点として京都を模した碁盤の目の町割りを行いました。
大野城の唯一の建造物の遺構である「鳩門」です。亀山の北西にある光明寺の寺門として改修されて残っています。前面は火頭窓。
背面は障子戸となっていますが、二の丸の正門として威厳ある大きさの門です。
日: 2010年10月2日
越前大野城築城430年祭 越前大野城フォーラム
越前大野城築城430年祭の開催されている大野市へやって来ました。
記念特別展として大野市歴史博物館では「越前大野城 -金森領国から土井大野藩へ-」が開催されています。
金森の作った大野城や城下町、関連する遺物が展示されています。金森氏が大野で行った業績がよくわかる展示でした。
大野市は金森氏の行った城下町整備がそのまま残っています。藩政期の建物はさすがに少ないですが、この土地独自の建て方の家はまだまだ数箇所で見る事ができます。
軒を深く、端に板を下げる形となるようです。
二の丸跡に建てられた学びの里「めいりん」では、越前大野城フォーラム 「長近の時代と城」が開催されました。
基調講演 越前大野城から見た日本の城 千田嘉博奈良大学教授
事例発表1 金森氏と高山城 田中彰氏
事例発表2 金森長近の上有知城下町つくり 古田賢司氏
事例発表3 発掘された北庄城 河村健司氏
受付では430年祭のマスコットキャラの「うぐピー」と「うめピー」がお出迎えです。
会場には大野城の発掘調査で出てきた遺物が展示されていました。
会場は250名のところ150名の参加で、少し空きが目立ちましたがやはり地元のご年配が多いように感じました。折角の歴史を学ぶ機会であるのに、もっと若い世代にも参加してほしかったですね。町づくりや観光資源の参考になるいい話だったのですが・・・
朝倉義景公墓を墓参
大野市にある朝倉義景公募を参ってきました。
朝倉義景は5代続いた一乗谷城下町を、織田信長に敗れたことにより追われ、一族の朝倉景鏡に誘われて大野郡に逃れましたが、逃れたところで景鏡の反逆に合い六坊賢松寺で切腹しました。
義景の五輪塔は家来や家族に守られるように墓所の中央に立っています。
右横には殉死した高橋景倍と鳥居景近の墓が立てられています。
墓所は右に休息所が整備され、その間に用水を流して堀状になっています。用水はこの西側と南側を流れていますが、もともと東側もあったのかどうか、もしあったとすれば、死して尚、堀に囲まれた強固な守りの中で安らかに眠っていることになりますね。