すっかり足場に覆われた金沢城の石川門です。
水の手門から下りた平坦地や石垣は草刈も終わり、状況がよく見えます。この崩れた?石垣は直さないのでしょうか。
水の手門は高麗門の屋根が外され、本当に枠のみになっていました。まだ木槌で叩いていたけどさらに解体されてしまうのでしょうか。
月: 2010年10月
福井城 福井県の城館
福井城の建造物復元第二弾として2年前に復元された「御廊下橋」です。その奥の石垣は天守台となります。
橋を櫓を乗せるという形式は府内城など全国でも数城でしか見ることができない貴重なものです。
御廊下橋から本丸に入るところの門は「山里口御門」です。埋門とも言われた門は石垣の間に隠れたように建つ門であり、今も石垣に木材を固定した穴が残っています。
天守の石垣はそのまま残っています。というより本丸の石垣の大部分と内堀一周が水堀として残っているのが福井城の見どころですね。
天守台そばには「福井」の語源となった「福の居」が残っています。
天守台には天守の礎石が並んでいますが、その巨大さからは譜代に恥じない巨大な天守が建っていたことが想像できます。
本丸の福井県庁前には徳川家康の二男結城秀康の石像が作られましたが、どこか日本っぽくない?
と思っていたら作ったのはやはり中国の方でした。どう見ても甲冑は鉄板だよな。
福井城建造物の復元第一弾は福井市郷土歴史博物館の「舎人門」です。三の丸の加賀方面の出入口に立つ門でした。赤瓦が特徴的ですが、夜はライトアップされて水堀に映る姿がいい景色ですね。
福井城の復元をすすめる会では、御廊下橋に続いて、本丸巽櫓の復元を目指しているそうです。本丸は四隅の櫓台がすべて残っているので、櫓が復元されれば水堀に映る美しい姿が見どころですね。
秋季特別展「福井城と城下町のすがた」
福井市立郷土歴史博物館に行ってきました。
現在開催されている秋季特別展は「福井城と城下町のすがた」というテーマで、福井城の絵図や遺物、城下町の絵画などが展示されています。
福井市や富山市には市立の歴史博物館があって、城を中心とする城下町の展示を年に1度はしているのでうらやましい限りです。金沢市には博物館は数多くあるけれど、歴史中心の博物館がなく、金沢城や城下町に関する史料はまとまっていない・・・・それは玉川の近世史料館になるのかな?
今日来たのは講演会があったからです。吉田純一福井工業大学教授による「福井城とその城下」、遺構や遺物の話、国京克己若越建築文化研究所代表による「瑞源寺と福井城」、福井城本丸御殿の遺構である瑞源寺の話。福井城には知られている以上に実は遺構や遺物が残っていることを知りました。
講演会を聞いた後に展示を見ると、ポイントが絞れてよくわかりましたよ。
北ノ庄城 福井県の城館
福井市の北ノ庄城址公園です。2、3年前に整備されました。
ここは柴田勝家公を祀る柴田神社の境内です。ここが北ノ庄城の本丸跡と説明されることが多いですが、全く確証はありません。というのも、北ノ庄城を破壊した上に福井城が築城されたためと、同時代の絵図が全く残っていないためです。
柴田神社本殿の隣には三姉妹神社が建っています。そのため柴田神社は恋愛の神でもあります。
三姉妹の母である「お市の方」の銅像が三姉妹神社を見守るように立っています。以前は違う向きでしたが、この向きは偶然でしょうか?
柴田勝家像は幹線道路に向かって立っています。こちらも以前は違う向きでした。知る限り3回向きが変わっていますね。
隣接して城址資料館が建てられました。ボランティアのガイドによる説明付きです。「柴田勝家公は尾張の生まれですよー」、って知ってるよ。
二階から城址公園を見渡せますが、境内地でもあるのでそんなに広い範囲ではありません。ここから見える石垣なども多くは整備用だったり、福井城のものだったりします。
北ノ庄城の石垣はこちらと、
こちらの2箇所の根石が1列分残っているのみです。市内では福井城の遺構の下に北ノ庄城の遺構が何箇所か見つかっているようですが、全貌がいつか解明されることを願っています。
越前大野城 福井県の城館
築城430年祭の行われている越前大野城です。
亀山の頂上に模擬天守が建てられていて、町のシンボルです。
以前訪れたのはもう8年ほど前になるでしょうか?そのときはこのあたりに駐車場があった記憶がありますが、山麓の二の丸跡には現在「学びの里 めいりん」が建てられ、
道路沿いに内堀が復元されています。
南登り口には城門が建てられていますが、藩政期にここに道はなく、観光用の門です。
藩政期の山頂への道は唯一この「百間坂」のみです。
百間坂を登ってくると、三の郭に出ますが、ここから本丸への入口は石垣が積まれています。
三の曲輪の先端には「麻木櫓」が建てられ、城内唯一の二重櫓でした。
現在は麻木櫓の建っていた斜面はコンクリで固められていますが、藩政期は土のままだったようです。
本丸北東面です。
東面は石垣が積まれていますが、隅で切れ、南面は土塁となっています。
三の郭から本郭へ入る石垣上に「越前大野城」の石碑が立てられています。
本丸御殿の建てられた石垣上には模擬天守として資料館が建てられています。
二の郭には大野城下町の基礎をつくった金森長近の銅像が立っています。
資料館に入る前に本郭のまわりをぐるりと一周しました。こちらは南側の「武具蔵跡」です。
そして「お福池」です。
本郭への入口は2箇所。殿様が登るのはこちら「駕籠道」です。
本郭の北西方向に広がるのは「塩硝蔵跡」です。
模擬天守から西、福井方向にはこの亀山に城を移す前の戌山城が見えます。
東側には二の丸、三の丸、城下が広がります。
資料館の東の平坦部には
亀山の最頂点、三角点があります。
殿様以外の武者はこの急な「武者走り」を登りました。
急、かつ折れがあり、視界が一瞬遮られます。
本丸の南側は「地獄谷」という非常な急斜面となっています。
街中に残る「石燈籠地蔵尊」です。金森長近が城下町を建設するにあたり、ここを起点として京都を模した碁盤の目の町割りを行いました。
大野城の唯一の建造物の遺構である「鳩門」です。亀山の北西にある光明寺の寺門として改修されて残っています。前面は火頭窓。
背面は障子戸となっていますが、二の丸の正門として威厳ある大きさの門です。
越前大野城築城430年祭 越前大野城フォーラム
越前大野城築城430年祭の開催されている大野市へやって来ました。
記念特別展として大野市歴史博物館では「越前大野城 -金森領国から土井大野藩へ-」が開催されています。
金森の作った大野城や城下町、関連する遺物が展示されています。金森氏が大野で行った業績がよくわかる展示でした。
大野市は金森氏の行った城下町整備がそのまま残っています。藩政期の建物はさすがに少ないですが、この土地独自の建て方の家はまだまだ数箇所で見る事ができます。
軒を深く、端に板を下げる形となるようです。
二の丸跡に建てられた学びの里「めいりん」では、越前大野城フォーラム 「長近の時代と城」が開催されました。
基調講演 越前大野城から見た日本の城 千田嘉博奈良大学教授
事例発表1 金森氏と高山城 田中彰氏
事例発表2 金森長近の上有知城下町つくり 古田賢司氏
事例発表3 発掘された北庄城 河村健司氏
受付では430年祭のマスコットキャラの「うぐピー」と「うめピー」がお出迎えです。
会場には大野城の発掘調査で出てきた遺物が展示されていました。
会場は250名のところ150名の参加で、少し空きが目立ちましたがやはり地元のご年配が多いように感じました。折角の歴史を学ぶ機会であるのに、もっと若い世代にも参加してほしかったですね。町づくりや観光資源の参考になるいい話だったのですが・・・
朝倉義景公墓を墓参
大野市にある朝倉義景公募を参ってきました。
朝倉義景は5代続いた一乗谷城下町を、織田信長に敗れたことにより追われ、一族の朝倉景鏡に誘われて大野郡に逃れましたが、逃れたところで景鏡の反逆に合い六坊賢松寺で切腹しました。
義景の五輪塔は家来や家族に守られるように墓所の中央に立っています。
右横には殉死した高橋景倍と鳥居景近の墓が立てられています。
墓所は右に休息所が整備され、その間に用水を流して堀状になっています。用水はこの西側と南側を流れていますが、もともと東側もあったのかどうか、もしあったとすれば、死して尚、堀に囲まれた強固な守りの中で安らかに眠っていることになりますね。