加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会

広坂休憩館で加賀藩・歴史文化護持協力会の第二回総会が開催されました。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会
前回は2008年1月でしたが、発足を大々的にアピールするため、看板など外注制作費が予想以上にかかったらしく、今回は質素に行われました。今回も前田家ご当主の利裕氏を迎える予定でしたが、風邪の為、残念ながら急遽欠席となりました。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会
21年度の会員特典は「不破家文書」です。不破家関係文書375点の目録と一部翻刻が掲載されています。翻刻のボランティアの皆さんには利裕氏の花押入り感謝状が手渡されました。花押を入れた賞状は利裕氏も初めてだったそうです。
次年度は旧町名の記載された金沢古地図、または加賀藩の治めた加越能のうち、古文書研究の比較的進んでいない富山呉西地区の藩政期文書について研究を進めたいということでした。古地図については藩政期のものでも100点以上残っているそうですが、地区により差別用語が書かれており、発行に当たっては非常に難しい課題を含んでいるそうです。いろいろな意見を持った人がいるけど、自分はそのまま復元してほしいですね。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会
講演会では、初めに今回の不破家文書をご提供いただいた不和一氏により、不破家の由緒について話がありました。
稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の美濃三人集は有名ですが、不破光治はこの3人とともに西美濃四人衆と言われたそうです。織田信長に従った後は、前田利家、佐々成政とともに柴田勝家与力として府中三人衆となりましたが、その事蹟については今まで不明な点が多かったですね。
今日の話を聞いたところによると、不破家は合戦の第一線で働くというよりは、他家との交渉事を円滑に進める役割を与えられていたようです。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会
最後に、今回不破家文書の翻刻を監修された屋敷道明氏により、「不破家文書に因んで」というテーマで、今回発行された「不破家文書」の翻刻について解説がありました。
今年春に地元新聞で記事になった「府中三人衆連署扶持宛行状」ですが、火打村の赤座殿に対し、56石の扶持を与えるという文書で、たった56石に3人で連署しています。連署の順は、不破光治、前田利家、佐々成政です。当時3人は勝家与力として、それぞれ、龍門寺城、府中城、小丸城に在城していましたが、10万石を3等分していたという通説どおりであれば、たった56石に3人で連署しないであろう、ということで、裏返せば独立した権限を持っていなかったと考えられるということです。残念なのは、3人連署の書状が確認できるもので2通しかなく、もっと見つかれば確証が持てるということでした。
会では今年も会員募集を続けているということです。入会のお問い合わせは、TEL 076-263-2323(加賀藩・歴史文化護持協力会)まで。
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金沢城いもり堀 着々と

金沢城いもり堀
辰巳櫓台から見た鯉喉櫓です。
金沢城いもり堀
柵と植樹はほぼ終わり、歩道の整備中です。
金沢城いもり堀
鯉喉櫓前の堀ののり面もきれいになりました。
金沢城いもり堀
来年にはここに水が入ります。
金沢城いもり堀
このいもり堀を望む展望台の機能も果たす、旧石川県庁の北ブロックですが、ガラス張りの新しい姿が少しずつ見えてきました。

金沢城河北門 仮屋の壁が外されたら

金沢城河北門
先月末の最終見学会を終え、今週から工事用仮屋の解体が始まりました。先週末はまだ紅葉真っ盛りでしたが、ここ数日の大雨でほとんど散ってしまいました。
金沢城河北門
二の門の仮屋の壁は外され、鉄骨の間から見えるようになりました。
金沢城河北門
一の門は上だけ外されているのは先週と同じです。ニラミ櫓台がまだ仮屋のままであり、中が見えません。
金沢城河北門
前から見てその大きさがようやく実感できるようになりました。石川門よりひとまわり大きいと聞いていましたが、こうして見るとやはり大きいですね。
金沢城石川門
と、石川門を見ると、こちらの工事用仮屋も外され、修復工事で塗り替えられた漆喰の白壁がまぶしいですね。
金沢城河北門
二の門以外はまだまだ仮屋のままです。
金沢城河北門
鉄骨になって景色も随分変わりました。
金沢城河北門
丑寅櫓台から見た三の丸です。来春にはこの景色もがらりと変わりますね。