石川県金沢城調査研究所は30日までに、1667年の金沢が描かれた最古の絵図「寛文七年金沢図」の解読を終えた。加賀藩士1757人の名前が記載され、上級武士だけでなく、身分の低い「掃除坊主」「壁塗り」などの名前も記されていることが判明した。5代藩主・前田綱紀が藩直属の奉公人の所在地を把握するために作成したとみられ、城下町の姿を紐解く貴重な成果となりそうだ。
寛文七年金沢図は、延宝年間(1673~81)に描かれた「延宝金沢図」とともに「城下町の様子をうかがえる全国でも第一級の史料」だが、縦560センチ、横501センチの大型絵図であることなどから、詳細な分析が進んでいなかった。(北國新聞2009年12月31日付記事より)
月: 2009年12月
西内惣構 藩政期の姿来年3月に
金沢城を取り囲んだ内外二重の惣構のうち、金沢市主計町の西内惣構が来年3月、ほぼ藩政期の規模で現代によみがえる。惣構は広い堀と高い土居で外敵の侵入を防ぐもので、堀は用水などに姿を変えて現在も存在しているが、堀幅は狭められ、土居も崩されており、当時の威容が分かりにくくなっている。復元範囲は延長12メートルにとどまるが、市は城下町金沢の歴史に触れる空間として市民らに親しまれることを期待している。
復元されるのは同市主計町の緑水苑内の西内惣構で、藩政期の絵図や埋蔵文化財調査の結果に従って、堀の幅を約11メートル、深さを2.1~2.6メートルとする。土居は高さ約2.8メートルで、土居の上部に見学所を設ける。(北國新聞2009年12月28日付記事より)
いもり堀がつながったよ
今日は辰巳櫓からみた鯉喉櫓台から始まります。櫓台上部には保護用のブルーシートが被せられました。これより冬に入りますので、完成まではこの状態が続きそうですね。
さて、鯉喉櫓の石垣工事のため分断されていた、いもり堀の堀底が完全につながりました。
今は櫓台前の歩道整備の真っ最中です。
広坂交差点から見ると、あんなに高い櫓台がこれだけしか見えていない・・・
なんだか残念です。
二の門の囲いが外れている
今日は講演会参加のために市内にやってきました。金沢城に来てみると、二の門の仮屋根が外れている。ニラミ櫓はまだ動きありません。
二の門がきれいに見えるようになりましたが、真新しかった銅板は心なしかくすんでいるように見えます。これから一冬越しますので、鉛瓦や四隅の鉄板も風雨に晒されてどうなるでしょうか?
大きなクレーン車で囲いの鉄骨が外されたようですね。
先日修復工事の囲いが外された石川門の二の門です。
よく見ると、太鼓塀部分も囲いが外されているではないですか!
新しくなった支えの柱が塀と並行になって、金沢城では橋爪門に続く塀で見ることができますが、これだけ間隔が狭いところはないですから、石川門の辺りも雰囲気が変わりますね。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会
広坂休憩館で加賀藩・歴史文化護持協力会の第二回総会が開催されました。
前回は2008年1月でしたが、発足を大々的にアピールするため、看板など外注制作費が予想以上にかかったらしく、今回は質素に行われました。今回も前田家ご当主の利裕氏を迎える予定でしたが、風邪の為、残念ながら急遽欠席となりました。
21年度の会員特典は「不破家文書」です。不破家関係文書375点の目録と一部翻刻が掲載されています。翻刻のボランティアの皆さんには利裕氏の花押入り感謝状が手渡されました。花押を入れた賞状は利裕氏も初めてだったそうです。
次年度は旧町名の記載された金沢古地図、または加賀藩の治めた加越能のうち、古文書研究の比較的進んでいない富山呉西地区の藩政期文書について研究を進めたいということでした。古地図については藩政期のものでも100点以上残っているそうですが、地区により差別用語が書かれており、発行に当たっては非常に難しい課題を含んでいるそうです。いろいろな意見を持った人がいるけど、自分はそのまま復元してほしいですね。
講演会では、初めに今回の不破家文書をご提供いただいた不和一氏により、不破家の由緒について話がありました。
稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の美濃三人集は有名ですが、不破光治はこの3人とともに西美濃四人衆と言われたそうです。織田信長に従った後は、前田利家、佐々成政とともに柴田勝家与力として府中三人衆となりましたが、その事蹟については今まで不明な点が多かったですね。
今日の話を聞いたところによると、不破家は合戦の第一線で働くというよりは、他家との交渉事を円滑に進める役割を与えられていたようです。
最後に、今回不破家文書の翻刻を監修された屋敷道明氏により、「不破家文書に因んで」というテーマで、今回発行された「不破家文書」の翻刻について解説がありました。
今年春に地元新聞で記事になった「府中三人衆連署扶持宛行状」ですが、火打村の赤座殿に対し、56石の扶持を与えるという文書で、たった56石に3人で連署しています。連署の順は、不破光治、前田利家、佐々成政です。当時3人は勝家与力として、それぞれ、龍門寺城、府中城、小丸城に在城していましたが、10万石を3等分していたという通説どおりであれば、たった56石に3人で連署しないであろう、ということで、裏返せば独立した権限を持っていなかったと考えられるということです。残念なのは、3人連署の書状が確認できるもので2通しかなく、もっと見つかれば確証が持てるということでした。
会では今年も会員募集を続けているということです。入会のお問い合わせは、TEL 076-263-2323(加賀藩・歴史文化護持協力会)まで。
以前の記事はこちらから
金沢城いもり堀 着々と
辰巳櫓台から見た鯉喉櫓です。
柵と植樹はほぼ終わり、歩道の整備中です。
鯉喉櫓前の堀ののり面もきれいになりました。
来年にはここに水が入ります。
このいもり堀を望む展望台の機能も果たす、旧石川県庁の北ブロックですが、ガラス張りの新しい姿が少しずつ見えてきました。
金沢城河北門 仮屋の壁が外されたら
先月末の最終見学会を終え、今週から工事用仮屋の解体が始まりました。先週末はまだ紅葉真っ盛りでしたが、ここ数日の大雨でほとんど散ってしまいました。
二の門の仮屋の壁は外され、鉄骨の間から見えるようになりました。
一の門は上だけ外されているのは先週と同じです。ニラミ櫓台がまだ仮屋のままであり、中が見えません。
前から見てその大きさがようやく実感できるようになりました。石川門よりひとまわり大きいと聞いていましたが、こうして見るとやはり大きいですね。
と、石川門を見ると、こちらの工事用仮屋も外され、修復工事で塗り替えられた漆喰の白壁がまぶしいですね。
二の門以外はまだまだ仮屋のままです。
鉄骨になって景色も随分変わりました。
丑寅櫓台から見た三の丸です。来春にはこの景色もがらりと変わりますね。