今回静岡まで足を伸ばした理由に、国民文化祭にあわせてここ二俣城に天守が復元されると知ったからです。
初日の今日は一日限りの夜のイベントが開催されます。
天竜川も夕暮れに沈んでいきます。
城跡となっている山上へは東側の公園入口から上るのが通常ですが、隣りの鳥羽山城を見に行った帰りでもあり、地元の人と一緒に西側入口より登ります。
そのおかげで山上にのぞく復元天守と月の風景を見る事ができました。
山上に到着すると目の前に復元天守が現れました。
回り込みます。一夜城として発表されていたイメージ図どおりではないですが、9日間という公開限定期間で撤収されてしまうのは勿体無い出来ですね。
後で聞いたところによると、建築に2、3週間もかかったそうで、解体された後はいつかまた公開されるまで保管されるそうです。
本丸入口に立つ木像は、ここで自害した家康の嫡男信康の像です。
今日は地元の方中心に100人以上の人が集まっていました。ドライアイスの煙幕とともにイベントが始まりました。
天守二階の窓が開き、法螺貝が演奏されます。窓開くんだー、という驚きの演出です。
初めに、犀ヶ崖資料館で見た遠州大念仏が演じられました。漆黒に浮かぶ復元天守の前で演じられる大念仏はなんとも言えない厳かなものでした。
続けて、地元生田流の琴の演奏がありました。金沢城でも同様のイベントを何度も見ましたが、城に和の演奏はやはり合いますね。
最後に日本舞踊が披露されました。晴れてて良かったですが、夜は寒かったですね。明日は昼のイベントです。
日: 2009年10月31日
曳馬城 静岡県の城館
浜松東照宮への参道ですが、坂になっていて徐々に上っている土地であることがわかります。
浜松東照宮は浜松城古絵図には「古城」として表記されています。
鳥居の横に「曳馬城跡」の碑があります。
境内には思いの他広い空間があります。
境内の一番奥に少し盛り上がった土塁か?何かと思えるものがありましたが、明確に遺構と思われるものは何もありません。
横から境内を見るとかなりの高さがありますので、ここに城が築かれた理由もわかりますね。
国民文化祭しずおか2009 絵図でみる浜松城
国民文化祭しずおか2009を見るために静岡までやってきたので、関連イベントを見ていきますよ。
まずはクリエート浜松で開催中の「絵図でみる浜松城」です。
会館の一室に絵図や浜松城の発掘調査成果などの写真が展示されていました。
貴重な大絵図も堪能できるこの展覧会、期間限定ながら無料です。
そして、道向いの浜松まちづくりセンターに移動します。そちらでは「徳川・武田争奪の城」として、北遠・湖北の30の城について絵図や縄張り図、写真が展示されていました。それらの城跡が紹介された「浜松の城跡見どころマップ」もゲットできました。こちらも無料でした。
いざ浜松城へ! 静岡県の城館
浜松城に来ました。良い天候に誘われてか、たくさんの観光客が訪れています。
公園無料駐車場側から本丸に至る通路脇には古い石垣が残っています。
いざ浜松城天守の中に入ります。
通常展示に加えて、国民文化祭にあわせて「センゴク」原画展をしていました。迫力ある戦国の男たちで絵でした。マンガ本欲しくなってしまいましたよ。
最上階からの展望は浜松の市街を見渡せます。駐車場となっている一帯は旧二の丸となりますが、奥の木が茂っているあたりが浜松城築城前の曳馬城跡となります。
入ってきたのと逆側の本丸入口の石垣も、通路両側にそびえ良い風景です。
本丸には井戸がひとつ残っていますが、天守の地下にもひとつ残っています。他にも井戸はあったようですが、見当たりませんでした。
本丸一段下の郭に家康像が立っています。向きが東向きだったら、後ろに天守が見えるのですが。
三方原犀ヶ崖古戦場
今日はいい天気になって良かった!浜松に到着するまでに豊田で1時間の大渋滞にはまってしまいました。
浜松市に到着して初めに寄ったのは犀ヶ崖古戦場です。まずは犀ヶ崖資料館を見てきました。
中には遠州大念仏の資料が展示されていますが、三方原合戦唯一の史跡として当時の模型があります。決戦場の広さを実感できますよ。
犀ヶ崖がその名のとおり深い崖地です。三方原合戦で夜営していた武田軍を徳川軍が急襲して、この崖に次々と落ちて亡くなったという場所だそうです。
石碑もあります。
のぞくとかなり深いです。斜面には竹も群生しており、当時はこれで竹槍なども作ったのでしょうかね?
資料館の裏には合戦でこの地で討死した本多忠真の顕彰碑もあり、その後ろには徳川家康お手植と伝わる楠木もあります。
この碑の右後方には「旗立ての松」という看板があるのですが、附近に松らしき木がない!?
不思議に思って資料館の管理人に聞いてみると、数年前に松くい虫にやられて枯れてしまったとか!それは残念なことです。看板の謎、解決です。
鉈尾山城 岐阜県の城館
北陸東海自動車道の途中に「古城山パーキングエリア」がある。
パーキングエリアに附近の地図があるが、古城山は別名、鉈尾山(はたおやま)と言われるらしい。パーキングからどの方角に山がそうであったのかよく分からなかった。
天文8年に佐藤将監清信が山上に築城し、3代目方政の時代に岐阜城の織田秀信に従って関ヶ原の合戦に出陣して生死不明となり、廃城となった。