加納城から徒歩5分ほどのところに、済美女子高校があります。
その場所が斉藤道三に美濃守護職から追われた土岐氏の居城であった川手城跡となります。
校内のほぼ中央、小さな公園のようになっている一角に石碑と案内板が立てられています。
石碑は「史蹟川手城跡」となっていますが、案内板は「革手城」となっていて、統一感ないですね。
校庭はかなり広いですが、川手城の発掘調査は今まで行なわれていないようです。すでに廃城となっていた川手城は、加納城築城のときの部材として土砂までとられたようで、徹底的に破壊されたようですが、掘れば何か出てきそうなものですが・・・
石碑の場所が北隅になると推定されているようです。
日: 2009年8月22日
加納城 岐阜県の城館
岐阜城の後、近くの加納城を見に行きました。
一方通行が多く、駐車場を探すうちに大手門跡に着きました。
大手門跡は旧中山道沿いに建ち、この道路をまっすぐ進んだところに本丸跡が残っています。
ついでに旧中山道に立っている道標を見てきました。加納城城下町の中山道には他に2箇所道標があります。
駐車場をやっと見つけました。本丸跡の南側入口です。
本丸跡は周囲の石垣が多く残っていますが、草で覆われているものが多いです。こちらは東南隅の石垣です。
こちらは東側の二の丸から入る升形の南面ですが、草の枯れる冬が撮影の好機ですね。
本丸はかなりの広さで、周囲を土塁が巡っています。夕方は近所の方の犬の散歩コースとなっているですね。
本丸に南から入ったところに案内板が立てられています。
こちらは西南隅の石垣です。
本丸西面の中央部あたりは、土塁の高さに比べ石垣が低く作られていますが、この土塁の上あたりにも櫓がひとつありました。
こちらは西北隅の石垣です。この隅は天守台と言われていますが、他の三隅に比べ石垣の高さが低いですね。
こちらは東北隅の石垣です。
二の丸跡の大部分はJR東海の管理地で更地となっています。
二の丸東北隅に岐阜地方気象台が建っています。気象台の西南隅にそれらしい石垣がありますが、これは新造のものです。
ぐるりと回って、加納小学校に隣接する北面に向かうと、そこには二の丸で唯一石垣が残っています。
少し突出した部分には御三階櫓が建っていたので、ここは巨石が使われて立派ですね。
しかし、よく見ると崩落防止のため、石垣の間はセメントで埋められており、遺構が完全とは言えず残念です。
振り返ると、加納小学校の校庭があります。ここは内堀を挟んで三の丸があったところです。
二の丸、三の丸の東側には荒田川が流れ、天然の外堀となっていますが、上流を望むと、金華山と岐阜城が見えます。思いの外、遺構の残っている加納城跡でした。
丸山砦 岐阜県の城館
岐阜城の馬の背登山道と瞑想の小道(水手道)が分岐するところに、伊奈波神社跡があります。
ここが丸山砦跡です。金華山頂上の岐阜城を守備するために、尾根筋に築かれた砦のひとつです。
遺跡の一番の奥の平坦部には石堂があります。木々が囲み、見晴らしを確認できないのは残念です。
附近は神社建設や後世の改変が著しく、砦跡の痕跡はこの郭の大きさのみですね。
天下布武のはじまり 岐阜城 岐阜県の城館
岐阜城を訪れたのは9年ぶりです。前回は雲ひとつない晴天で作り物のような写真になった日でしたが、午前中の曇天が嘘のように午後からは同じく雲ひとつない晴天となりました。
岐阜公園側から4本ある登山道のうち、行きは百曲り登山道を登ることにしました。
しばらく登ると、ここに郭があったことを思わせる石積みの隅部分がありました。
登山道の途中には道をそれないように何箇所にも看板が掲示されています。
というのも、所々岩だらけの場所が登山道となっていて、道がわかりにくいのです。先週は一乗谷山城を登りましたが、他の山城はけもの道のように道が続き、道がわかりにくいということはないのですが、金華山の道のわかりにくさは別物ですね。
しかし、さすがに岐阜城、登る途中に何人もの人とすれ違いました。
40分ほどでロープウェーの山頂駅に到着しました。
山頂駅からは別方向に七曲り登山道(大手道)が続いています。次回はこの道から登ることにしましょう。
山頂駅のすぐ近くに天下第一の門が立っています。冠木門のこの門は実際あったものではなく、記念として新造されたものです。
少し進むと上格子門跡がありますが、ここは実際に戦闘も行われました。
さらに進むと、馬場跡。
そして、二の丸門があります。手前の階段脇に残るのは旧石垣遺構ですが、
塀下の石垣、冠木門は新造のものです。
二の丸には塀が復元されていますが、その塀越しに復元天守を見ることができます。晴天では奥が白飛びして写真がうまく撮れません。
階段の途中からは岐阜城資料館を左に見て、岐阜市内が臨めます。
階段を上り、気象台の建物の横を下りていくと、軍用井戸が残っています。
模擬天守を写すにはここが一番のベストポイントですね。
石垣には金華山で取れる自然石が積まれています。
模擬天守の最上階から眺める景色は絶景です。遠くが霧がかっているのは残念です。
長良川にかかる橋の向こう側には斉藤道三が隠居していた鷺山城が見えます。
それでは、帰りは馬の背登山道を行くことにします。
ここを帰り道に選んだのは間違いでした。写真の場所が最難関の10メートル以上続く岩場ですが、行きの百曲り登山道以上の難所が多く、下りるのに40分。下りは上りより時間がかからないのが常識ですが、岐阜城はあなどれません。そういえば、入口看板に「老人・幼児には無理です」って書かれてあったな・・・
さて、岐阜城の遺構は近くにもうひとつ残っています。自家用車で岐阜公園に来たときは公園駐車場に停めることも多いと思いますが、
この駐車場の隣接する金華山トンネルから延びる土盛りが、城下町を囲むように作られた惣構の土居の跡です。残存部分はわずか数十メートルですが、貴重な遺構です。
まだまだ見逃した遺構がありますが、それは次回ですね。
日本100名城スタンプラリー 岐阜城
3年目を迎えた日本100名城スタンプラリーです。34個目となるスタンプは岐阜城です。
岐阜市歴史博物館からみたアングルはこんな感じです。
岐阜城のスタンプは南方角からみた模擬天守でしょうか?
馬の背登山道の終点近くの一番のビューポイントからみたアングルが一番近いアングルですね。
スタンプは模擬天守ではなく、資料館の受付にあります。
今回スタンプを押そうとしたところ、若い女性が先にスタンプを押していました。初めて他に押している人に遭遇しました。一人旅のようでしたが、若い女性にも歴史ブームがかなり浸透しているようですね。でも、山城に来るのにサンダルはない!?ですね。岐阜城は整備されているのでほとんど問題はないですが。
織田信長居館跡 岐阜県の城館
岐阜城のある金華山の麓、岐阜公園内に織田信長居館跡があります。
1984年、岐阜市制100年の記念事業として、居館復元を目指し発掘調査が始まりました。
第一次調査部分の入口には冠木門が復元されていますが、礎石が出土したわけではなく、位置もはっきりしていないようです。
門をくぐり階段をのぼると、巨石が並ぶ通路が目の前に広がります。
整備されてから時がたっているので少し草も繁茂して荒れた感じもありますが、すばらしい遺跡です。
直角に曲がる通路を通って、階段を上ったところに石碑が立っています。
雨が降ったあとだと坂が少し滑りやすいので気をつけないといけません。
ここまでは曇り空の午前中の写真を掲載しましたが、以下は晴天の夕方の写真となります。
晴れすぎていると木の影がくっきり出てしまいますので、うす曇のほうが写真としては分りやすいですね。
さて、ロープウェーの麓駅の西側入口の脇に第3次調査で発見された戦国時代の井戸が復元されています。
今は蓋が掛けられているので中はのぞくことができないのが残念です。
現在第4次調査が行われている信長居館跡ですが、あと数年後にはさらに奥まで整備されることと思いますので楽しみですね。最奥の上段には展望台でも作って城下方向の木々を払って見晴らしを体験できればいいと思いますがいかがでしょうか?
岐阜公園の発掘調査から 岐阜市歴史博物館
岐阜城の麓、岐阜公園の入口近くに岐阜市歴史博物館があります。
現在2階展示室内では「岐阜公園の発掘調査から」(7月17日~9月13日)が開催中です。
居館跡の現地公開が今日の目的ですが、この展示があったことがもう一つの動機です。現在、居館跡では第4次調査が進んでいますが、展示では第3次調査までの遺物が展示されていました。
博物館を出てくると、曇り空がパッとなくなって、念願の晴天です。上空には雲ひとつありません。
9年ぶりの岐阜城で、前回はロープウェーで上りましたが、今回は登山道を登ります。暑くなってきましたが頑張ります。
織田信長公居館跡発掘調査 現地公開に行ってきたよ
この夏休み期間は盆であった先週を除き、土曜日の午前に普段は公開されていない発掘調査の現場を公開しています。
晴れた金沢を出発して、北陸道から名神に入る頃には雨模様で、まわりの山々には雲海ができるような天候です。
岐阜城に到着すると、雨はあがっているものの曇り空です。天気予報を信じて昼からに期待しましょう。
今日は出発が遅れた分、まずは発掘現場に急ぎます。
発掘現場はC地区の平坦地から山側の奥まったB地区です。
作業用の階段を上って一段に上がります。
中央に見える石段はここが登山道として整備されたときももので、その登山道建設のために遺構もかなり破壊を受けているようなのが残念です。
現地は2段ありましたが、下段では平坦地を囲むように石垣が出土していました。その石垣の一部はかなり焼けた跡があります。
この辺りの石は黄色いのが特徴ですが、発掘された石垣の石には表面が赤く変色しているものがいくつもありました。この厚さに焦げ跡が残るには相当な火災がないとここまでは焼けないようです。
上段に上がると、すぐ礎石と排水溝の跡が出土していました。この排水溝は平坦地を横切っているそうで、礎石のある下段側は2メートル足らず。どのような建物だったのか気になりますね。
現在、この最上段に3階建て以上の建物が建っていたと推定されています。今は木々で城下を見渡すことはできませんが、当時はかなり見通せたことが予想されます。
写真左側に石垣が見えますが、
ここは石垣の下に川原石が敷き詰められており、さらに石垣裏にも川原石が敷き詰められています。
実際に掘り下げていないので裏込石なのかどうかはわからないようですが、階段のように見えなくもないので、石垣脇を通ってさらに上へ向かう通路だったのではないか?とも考えられているようですが、決定打はなく、すべては謎です。
奥の傾斜地からは焼土も見つかっており、何か建物があったようです。さらに奥に石積みが見えますが、それも登山道整備のときに作られたものです。
上段奥からも石垣の列が出土しています。
上段の平坦地は下段よりも幾分広いです。
岐阜公園の楽しみは他にもあります。公園内には発掘調査の成果を展示するスペースが設けられていました。
中では、岐阜城と城下町の復元イラストや、
居館跡の構造を示すペーパークラフトが飾られていたりします。
もちろん、これまでも発掘調査の成果を解説するパネルや遺物の展示もありますので、お見逃しなく!!