掛川城と言えば、山内一豊の築城した龍頭山の近世城郭を思い浮かべる方が多いと思いますが、最初の掛川城はここ子角山に築城されました。
築城したのは今川家の重臣であった朝比奈泰煕です。城といっても中世城郭ですから天守があったわけではありません。
本郭の跡は現在龍華院となっています。
龍華院は徳川家光の御霊屋です。
坂を上ると結構な広さのある郭です。
外見もそうですが、内装もきらびやかな建造物です。
郭のまわりを土塁がめぐっています。
現在は東側と西側を中心に残っています。
掛川古城の見どころは何と言っても本郭と二の郭の間を遮断する、この大堀切でしょう!
5メートルはあろうかという大変に深い堀切です。
本郭の先の階段を上ると、
そこは公園として整備されています。
すぐ南側に学校があるからでしょうか。この学校の校庭や
北側の町並みをのぞむと、この場所が高所であることがよくわかりますね。
カテゴリー: 攻城記
掛川城 静岡県の城館
今日も暑い日となりました。朝から汗だくです。折角の城日和なので一番乗りを目指してお出かけです。
大手町駐車場に車を停め、大手門から散策スタートです。
まだ朝早いので店なども閉まっていますが、掃除のおばちゃんたちが観光客をお迎えしてくれます。
大手門の中に復元されたのは番屋です。
大手門近くの大手橋から逆川沿いに見る掛川城です。
観光案内処の「こだわりっぱ」から見る掛川城です。いかにも土産屋らしいでしょ
昼の掛川城です。復元された四足門と天守ですが、復元されたのは平成6年なので外観も古くなってきていますが、それ以上に太鼓櫓前や天守前の木が大きくなりすぎです。
四足門横に復元された三日月堀。
そして、四足門
二の丸内の十露盤堀。全国に先駆けて本格的復元整備された城らしいですね。
まだ開館前だったのですが、一人女性の方がいらっしゃいましたよ。
本丸広場はお花畑となっています。
市指定文化財の太鼓櫓です。
入場券は一番乗りでしたが、シャッターチャンスを狙っていると、係りの人が門を掃除し始めたので、終わるまで待っていたら抜かれてしまいました。
それでは入城です!!
門の横に、伝説が残る霧吹井戸があります。
天守へ入る前に天守のまわりを散策です。西側にもうひとつの門があり、その先は掃除道具がおいてありましたが・・・(ここは現実的)
天守の下壁には石垣からよじ登る人を止めるための剣先が並んでいます。これは剣壁とでも言うのでしょうか?
石垣の横列は一直線とはいえず、これは中世の積み方ですね。
中はさすがに木造復元ですね。青森ヒバを使った木組みは最近木造復元が増えてきたとはいえ、やはり新鮮です。
最上階からの眺めも最高です。
石落としや狭間も復元されています。ここは近代的安全措置がされていて若干興冷めします。
観光客もボチボチ来るようになりましたので、天守を出て二の丸へ向かいます。
天守と二の丸の間にある帯曲輪です。当時はもう少し広い部分があったようですが、明治に下の十露盤堀を埋めるために崩されたそうです。
二の丸茶室の庭から見る天守です。ちょっと風流でしょ
二の丸美術館の前にあるのは勝手台所の井戸跡です。
二の丸御殿の東側に残る「黒土塁」。二の丸御殿を隠す目的で作られたからそう言われるそうな。
二の丸御殿から天守を見上げながら政務を行っていたのでしょうか。
二の丸御殿は重要文化財です。二の丸御殿として残るのは、二条城と掛川城の2城のみです。
そんな重要な建造物であるのは間違いないのですが、管理は二条城ほどは厳重ではありませんね。ゆっくり、たっぷりと楽しみたい身としてはありがたいです。管理は民間へ委託されているようですが、受付で係りの方をしばし談笑していました。
市立図書館前のはす池
その横にひっそりと井戸跡が残っています。
掛川城公園の北側に位置する竹の丸、掛川城の曲輪のひとつですが、明治に城下の葛布問屋の松本家に払い下げられ、現在はその住宅を市文化財として指定し見学することができます。
掛川城の夜景 静岡県の城館
今日は2つの山城を制覇して疲れましたが、予定通り掛川に到着したこともあり、散策にでかけました。
明日はゆっくりしていられない可能性もあるので、城下の門を見てきました。
ここは円満寺の山門ですが、元掛川城の「蕗の門」です。
屋根には「亀」ですね。
掛川の町はそれほど大きくはないですね。陽も沈んでしまいましたが、まだ薄暗い状態です。
今日は月曜日でもともと休館日ですので、人はいません。と思ったら、自分と同じく写真を撮っている女性がいましたよ。歴女かな?
しばらく天守を眺めていましたが、空腹になったので夕食へ、
しかし、城下も休館日にあわせて休みが多く、ようやく見つけた大衆食堂で一休みです。
出てくると、すっかり真っ暗になっていました。大手門の向こう側に天守が浮かんで見えますね。
最初どうしようか迷っていましたが、夜景を見に来て良かったです。
丸子城 静岡県の城館
丸子城へは登り口が2経路ありますが、駿河匠宿から登ることにしました。
登る前に昼食です。丸子は宿場の頃から「とろろ汁」が名物で、匠宿でも食べれますが、少し奥のほうの食堂でとろろそばを食べました。おいしかったですよ。
と、目標となる丸子城はあの山頂です。
麓には鳥瞰図があり、これを見ると楽しみが膨らみます。
麓には「丸子城まで15分」という看板があります。さあスタートです。
しばらく登ると、丸子稲荷神社奥宮に到着します。ここが丸子城の大手門です。
ここまで15分・・・
地図は城の入口ですね。確かに丸子城には着いたけど、ここからが本番です。
山城は土塁や空堀など写真ではうまく写らないことが多いのですが、丸子城は規模が大きくわかりやすいので、ただ写真をご覧いただきます。
どうですか?すごくないですか?
結果的にあまりに楽しくて登ったり、下ったりしながら、写真を撮りまくってしまいました。あっという間に2時間が経ちました。
といっても、夏の山城はクモの巣と薮蚊との戦いですね。
久能山城 静岡県の城館
昨日は寝不足でしんどかったので、今日は十分な睡眠をとってややゆっくりとホテルを出てきました。
9時過ぎに久能山城の麓に到着。いちご園の駐車場に500円で車を停めてスタートです。
見上げる遥か上に一の門がのぞいています。高いなー
というより今朝も朝から30度を越える猛暑日。汗が噴出すだろうから給水は必須です!
入口の案内板には「頂上まで1159段」の文字が・・・・
これ見たら大部分の人は諦めるだろうな。
最後の案内は、本堂内の蘇鉄にかかる「神廟まで40段」。つまり一の門までは1000段はない・・・だろうと思う。
でも、大部分の人は諦めるだろうな。
しかし、山城の醍醐味は麓からの登頂だーーーー
と、心の中で思いながら遥かに続くジグザグの階段を一段一段上っていきます。
ようやく一の門まで上ってきました。両脇に石垣を積んだ本格的な埋門ですね。数少ない城の遺構です。
一の門をくぐるとまだ石段が続きます。右側の石垣の上の平地には
旧宝物殿がありますが、
ここからの眺めがすばらしいです。高所恐怖症の自分にはちょっと高い。
しかし、信玄はこの駿河湾を眺めて狂喜したことでしょうね。
この郭には勘助井戸と名づけられた井戸跡が残っています。
つい数年前まで建物を中心に修復を行っていましたが、今は石垣をまだ修復中でした。これは計画のうちなのか、駿河地震によるものなのかわかりませんが、
職人が石に穴を開ける作業をしていました。
社務所前には「史跡久能山」の石碑が立っています。
そこから下を眺めると、一段下に井戸跡が残っています。
それでは、有料の境内へ入ります。まだ10時前で人はまばらです。
重要文化財の楼門です。豪華絢爛ですね。それに大きい。
楼門をくぐると「元和三年」の銘が残る手水鉢で手を清めます。
唐門もすばらしいですね。修復間もないこともあり、色鮮やかな状態を見る事ができました。
と、東照宮ばかりとなっていますが、城跡の痕跡探しも怠ってはいませんよ。
五重塔跡から裏をのぞくと、一般通行禁止となっている山頂の愛宕社へ上る道があり、階段の奥、左へ折れる場所に石垣が見えます。積み方から見ると近代のものではないようですね。
さて、東照宮の拝殿は煌びやかですね。自分はまだ日光東照宮へ行ったことはないですが、もっと観光資源として宣伝したらいいと思いますよ。
今日も中国からの観光客がたくさんいましたが、色使いが中国風だと思いませんか?
本殿の板戸の絵画もすばらしいですね。
家康公の神廟です。個人の墓としては最大級の大きさです。さすがです。
右奥にひっそりと家康公の愛馬の墓がありますが、案内板があるわけではないので、観光客のほとんどはこれを見ずに帰っていました。
神廟の一段下の山裾に石段らしき?ものが3段あるのを見つけました。これは何でしょうか?
自分が拝殿に入る頃には少しずつロープウェイで到着した観光客が増えてきましたが、帰り道ではどこを撮っても人が入らないことはありませんでした。行くなら平日でも10時前が狙い目ですね。
持舟城・浅間山砦 静岡県の城館
JR用宗駅を下りると、ホームから見える裏山が持舟城です。
JR用宗駅は南口しかないため、北側にある持舟城へはぐるりと回っていかないといけません。
駅前の看板を見ると、海に非常に近いことがわかります。
現在城山の東側に小坂川が流れていますが、江戸時代の古絵図では東側まで海が入り込み、北側は沼地が広がっていたそうです。
麓の浅間神社
その裏に城跡までの農道が整備されています。
少し上ると眼下に突き出た山の先端部が見えます。そこが浅間山砦となります。
さらに上ると、本曲輪への入口があります。
しばらく上ると、広く開けた平坦地へ出ます。
ここが本曲輪となります。昭和まではここに城山神社があったそうですが、今はありません。
曲輪のほぼ中央に「持舟城址」の石碑が立てられています。
本曲輪にある案内板には持舟城の縄張りと城下の関連施設が書かれています。
本曲輪と二の曲輪の間には深い堀切が切られています。
その堀切の奥に、小さな祠と深い井戸跡が残っています。
二の曲輪に上ってみましたが、一面のみかん畑となっており、私有地のようでしたので入るのをやめました。
下りてきて、城下の大雲寺まで来ました。ここに搦手がありました。寺前の駐車場も広い敷地が広がっていますが、ここは「館跡」と伝わっています。
その西側へ進んだこの辺りが「船溜り、蔵屋敷」と伝わる場所です。江戸時代は現在のJRの線路まで海岸線が迫っていたのかもしれません。
持舟城が今川軍の水軍の拠点と言われる所以ですね。
賤機山城(しずはたやまじょう) 静岡県の城館
暑くなる昼前の時間帯ですが、ひとつ山登りをします。
駿府城を後にして近くの浅間神社参道にやってきました。
浅間神社は久能山東照宮に劣らず、煌びやかな装飾です。
本堂の後ろにそびえる山が賤機山です。
境内の階段を上って賤機山公園をまずは目指します。
寝不足の状態では辛かったですが、階段をゆっくりと上っていきました。
賤機山公園からは市内がよく見渡せます。
賤機山城はこの奥が主郭ですが、今川氏がまだ統治していた頃、駿府城内にあった今川館の詰めの城として築かれました。
駿府城(今川館)がよく見えます。
賤機山公園の観音様の
その脇から散策路があります。
ここはウォーキングコースとなっており、多くの方とすれ違いました。
途中、大きな堀切を横切りました。
さらに進むと、賤機山城の主郭に出ました。
この主郭は土塁に囲まれています。
ここ以外の郭跡はわかりにくいですね。
まわりは木々で囲まれているため、見晴らしがきくのは北側の南アルプス方向だけですが、侵入先は甲斐ですから、ちょうど見張り台の役割にもなりますね。
駿府城 静岡県の城館
熱帯夜が続く中でも、冷房をしないで寝ていたらすっかり寝不足になりましたが、結果朝早く起きたので、そのまま駿府城を見学することにしました。
静岡駅から歩いていくと、まずは外堀に出ました。さすがに家康の隠居城だけあって大きな水堀です。
県庁方向に外掘沿いに歩いていくと、石垣の工事現場に出くわしました。
昨年の8月11日の地震で崩壊した場所ですが、大手御門口となります。
迂回して中堀に移動すると、ここにもう1箇所積み直している場所がありました。
建造物の残っていない駿府城に復元された東御門と巽櫓です。朝早く来て人通りも少なく、思いっきり写真を撮ることができました。
水堀に映る巽櫓がまたイイですね!
城内は公園となっていますが、過去の発掘調査の成果がそのまま整備されているところが何箇所があるようです。
1つは内堀の一部。
そして二の丸水路と、
先ほどの内堀に続く一部です。
駿府城はまだ復元計画の途中のようですが、天守については史料的裏付けがないということで中止されたそうです。せめて天守台は復元して欲しいですね。
本丸跡には家康像と、お手植えのミカン(右奥)がありました。
家康像は東向きなので、写真を撮るのは朝がいいですね。
掘(外掘、中掘、内堀)と石垣を中心に、復元建造物を見学すると3時間ほどかかります。
田中城 静岡県の城館
月曜日休館ということで、急遽土曜日に訪問を変更して、田中城へやってきました。
「大手」交差点から入るとすぐに田中城跡の石碑が立っています。
下屋敷横の駐車場に車を停め、散策開始です。真夏の土曜日の昼下がり、観光客もまばらです。
田中城は全国で唯一の円形掘で囲まれた城です。現在も北半分の道路にその面影を残しています。
早速、下屋敷跡へ向かいます。ここでは本丸櫓と仲間屋敷・馬屋の実物を移築してあります。本丸櫓は明治になって民間に払い下げられて民家として利用されていたということです。
入口でボランティアの方が下屋敷や建てられている建造物の説明と、散策コースのみどころを説明してくれます。おすすめは本丸と二の掘、三の掘、三の掘土塁をめぐる30分コースとのことでしたが、1時間半のフルコースを選択して散策開始です。
御成街道の途中にある「馬上の清水」です。殿様が馬の上で水を飲んだ場所だそうです。
そして、その御成街道から本丸へ至る入口にあたる「平島木戸」です。
2本道を内側に入った交差点が、「平島一の門跡」であり、交差点部分に三日月掘がありました。
その向こう側に三の掘と土塁が残っています。前の道が右側にカーブしていることがわかると思います。
「三の掘と土塁跡」です。家と同じ高さもあろうかという高い土塁ですが、残っているところは少ないです。
三の掘沿いに歩いてくると、もう1箇所「三の掘と土塁跡」が残っています。
そこから外周部へ歩いていくと、「松原木戸」と外堀がありますが、ちょうど松の木?を伐採しているところでしたので、足早に通り過ぎました。
ここは田中城の水源として利用されていた「姥ヶ池」です。今でも水を湛えています。
もう一度内部へ入ります。西益津中学校の裏に「三の掘」の水堀と土塁が残っています。暑さで少し腐臭がしていましたが・・・ここだけ破壊されずに残されたのですね。
とその三の掘の道路向かいには「武家屋敷石垣跡」が残り、風情を感じさせてくれます。
「二の掘」も水堀で一部が残っています。
西益津小学校が田中城の「本丸跡」となります。
休日でも門が開いていましたので、中にお邪魔させていただきました。
本丸跡の石碑が立つ前庭には田中城の縄張りが再現されていました。城内に立つ小学校らしい素敵な配慮ですね。
小学校校庭に隣接して「三日月掘」が半分だけ残っていますが、残念ながら水堀ではありませんでした。
六間川に架かる橋のところに「新宿木戸」があり、現在道路として四方のうち三方の木戸を見る事ができます。
新宿木戸から少し歩いて、旭伝院があり、ここの山門が田中城内の屋敷門だったと伝えられています。
最後に「東木戸」を探して狭い路地を迷ってきました。総時間2時間の暑い散策でした。
末次城 石川県の城館
能登町行延にある末次城です。今まで何度か前を通ったことがあり、ずっと気になっていましたが、今日は時間があったので寄ってみました。
道路から入ってすぐに案内板が設置されています。
これによると、末次城は珠洲郡の入口を守備するため築かれた山城で、上杉謙信の能登侵攻のとき、末次氏を中心に対抗したが落城したと書かれています。
その末次氏の末裔の末次家はまだこの山城の麓にあります。これってすごいことですよね!
そのおかげもあり、この山城の遺構は当時そのままに保存されているようです。
それでは、奥に見える看板の裏から中に入ります。
最初の20メートルほどは階段らしきものが見えていましたが・・・・
そこから道は全く不明になりました。夏はダメですね。整備されたのはもう二十年も前になるでしょうから、今は誰も近づかない史跡になってしまっているのかもしれません。春先にもう一度チャレンジです。
松波城 平成22年度庭園跡発掘調査現場説明会
新聞報道され、今日は時間も空いていましたので松波城まで行ってきました。
金沢から140キロ、3時間・・・・。遠いですね。
松波城の庭園跡は三の郭にあり、昭和54、55年に最初の発掘調査が行われましたが、平成18年度より詳細な発掘調査を行ってきました。
今年度は調査の最終年度にあたり、整備まで遺構の保存のため埋め戻されるそうです。
説明が始まってすぐ、沢ガニが出てきてビックリしました。かなりの大きさですが、横穴を掘って住んでいるようです。川からは随分遠いのですが、どこから来たのでしょうね?
礎石建物のトレンチが遊歩道の下に掘られていました。この部分は昭和の発掘調査では手付かずだった部分で、破却の土層がそのまま出てきたため、新聞報道にもありました、礎石建物と枯山水遺構が16世紀に間違いないと確定できたそうです。
礎石自体も赤く変色し、焼けた炭跡が残っています。土層にも焼き炭が混ざっています。この層から枯山水と同じ庭小石が発見されました。
枯山水の前には池遺構が出ています。
しかし、枯山水と同時期のものかどうか確定できなかったようです。水のない庭の手前に水の池?というもの不自然ではありますね。
この池、水が溜まっていたのですが、ここ数日は雨は降っておらず、不思議に思っていましたが、この池の底からは水がジワジワと染み出して来ているそうです。湧き水が出るんですよ。
庭園奥の斜面には泥岩貼付遺構が残っています。
枯山水遺構は19個の景石と3123個の小石により形成されています。小石は昭和の発掘調査で採取されたものがあるので、当時は4000個以上の小石があったようです。
どうです。水が流れているように見えますね。これが16世紀の奥能登に存在したなんて驚きです。
水の流れをあらわすために、小石は寝かせず立てて配置されています。破却され埋められる前はもっときれいだったことでしょう。
この貴重な枯山水遺構ですが、もうしばらくして埋め戻されます。今日は遠かったけど貴重なものが見れました。
松波城 石川県の城館
能登半島の先端、旧内浦町にある松波城です。
旧松波駅側から行くと山の上に看板が見えます。この右側からも公園に入ることはできますが、
ぐるりと麓を反対にまわると、公園へのもうひとつの入口があります。それではここから登ります。
上ってすぐのところに一本目の石碑があります。
平坦地を2つ上がると、町並みを見下ろすことができる平坦地にでます。「音川亭址」という石碑がありますが、出丸跡になると思われます。
町並みの向こうに大きな屋根の寺院が見えます。
この寺院は松岡寺です。松岡寺は本願寺八世蓮如の子により、小松市波佐谷に勢力を持っていた浄土真宗系の寺院です。
この郭と隣りの郭の間には深い堀切が見て取れます。
隣りの郭跡には2本目の記念碑が立てられています。
この郭と三の郭の間には橋が架けられています。
この深い堀切には数年前まで「のと鉄道」が走っており、すぐ近くに旧松波駅があります。
橋を渡ると、大手門址があり、三の郭があります。松波城の防衛ラインは基本的に東側のこの大手門からとなります。
三の郭には枯山水跡が残ります。
三の郭の上に二の郭があります。
二の郭と本丸の間の通路は狭くなっています。といっても車が通れるほどの広さはあります。
本丸跡には石碑が立てられています。
本丸の二の郭側には土塁の一部が残っています。
本丸側の入口に案内板がありますが、すでに古く、書かれている郷土資料館などはなくなっています。というより、他の建物も現在は使用されてはいないようです。
松波城は松波川を防衛施設のひとつとして利用しています。松岡寺の下から見た松波川ですが、右奥に見える山が松波城となります。
旧松波駅は現在、松波城址情報館となっています。
不定休ということでしたが、今日はお休みでした。
なんとか光る窓を遮りながら中をのぞくと、松波城の模型があるようです。
篠山城 兵庫県の城館
丹波篠山城に来ました。
夏休みですが、それほど人出は多くないですね。
掘は綺麗に整備されていますが、石垣は夏草が繁茂している場所もありました。
鉄門址に木製の冠木門があり、その奥に復元された大書院が建っています。
まずは外回りから始めます。大書院の前にひとつ井戸跡が残っています。
そして、二の丸庭園跡の中にもうひとつ井戸跡が残っています。
二の丸庭園の奥に埋門跡が残っています。埋門なので門に向って下がっています。
大書院は2000年に復元されて、以前来たのは7年ほど前でしたか?まだ白木の映える頃だったと記憶していますが、風雨に晒されて古びてきました。
二の丸庭園から本丸へ入ると、青山神社が鎮座しています。
本丸の東南隅に天守台が残っています。天下普請で築造された篠山城の天守台は大きく立派です。実際に天守が作られたことはないですが、よい物見台になりますね。
天守台から東方向には播磨富士と呼ばれる八上城が見えます。
八上城は波多野氏の居城で、明智光秀の母を人質にした命乞いが叶わず、逆上した波多野家臣により母が殺されてしまったという悲しい逸話の残る地です。一度登ってみたい。
大書院は有料ですが、中では篠山城が築かれた経緯のビデオ放映や、復元された大書院の中を見学することができます。
上段の間で襖絵などが復元されています。
上段の間を側面から守る武者隠しの間はこんなに狭いのですよ。
篠山市のマンホールは篠山城の石垣を描いています。
今日は外堀や馬出を見て回ることができませんでしたので、次回はゆっくりと城下をまわってみたいです。
三木城 兵庫県の城館
雲龍寺の駐車場に車を停め(ここに停めるのがいいと道の駅観光案内で教えてもらいました)、雲龍寺の前を三木城本丸へ向います。
雲龍寺です。今でも広い寺域が残っています。
本丸へ向う途中、防火貯水池のある一段低い敷地がありました。
当時のものかどうかわかりませんが、下の郭とかなりの落差があったことがわかります。
本丸跡の一部は稲荷神社となっています。
三木合戦と
三木城の絵馬が奉納されていました。
神社裏は広い空き地となっていましたが、
その隅に別所長治公の石像が立てられています。
その横の一段高い丘は、従来天守台跡と伝わっていましたが、発掘調査で櫓跡程度であることがわかっています。
その一番高い平坦地に長治公の辞世の句が書かれた石碑が立てられています。
そこから見渡す景色は面前の川です。本丸跡から川に向って急峻な崖地となっています。
このことからも三木城が台地の先端に築かれた城であることが実感できますね。
稲荷神社前には三木市埋蔵文化財センター?があり、休日でも三木城を中心とした遺物の展示をしています。三木合戦に関係する砦跡の遺物や、地形模型などもあり、無料ですが見ごたえはあります。
最後に雲龍寺に戻って、駐車場近くにある別所長治公首塚を見ました。手前の石積みは三木城の外堀に使用されていた石を集めて作られたそうです。
明石城 兵庫県の城館
JR明石駅前の明石公園内に明石城跡があります。
こちらは薬研掘です。かなり幅広の掘です。
東ノ丸横の石垣沿いを降りていくと、石垣の高さが意外と高いことが実感できます。
石垣沿いに進み、二ノ丸と本丸の間の階段を上ります。
二ノ丸から明石駅方面の眺めはこんな感じです。
本丸に入ると、巽櫓があります。
こちらは中に入ることができ、中の本格的な木組を見ることができます。
窓からは反対の四隅に建つ坤櫓を見ることができます。
坤櫓のほうは今は中に入ることができません。
稲荷曲輪から降りて、坤櫓を見上げるとベストビューですね。
芝生広場から眺める2つの櫓のアングルもベストビューです。
公園内にあるマンホールにも明石城が描かれていますよ。
御着城 兵庫県の城館
姫路市にある御着城公園にやってきました。
公園前には「御着城址」の石碑が立てられています。
ここ御着城は黒田官兵衛の仕えた小寺氏の居城でした。
公園内には城郭風の姫路市東出張所が建てられていて、
その前の公園内には黒田官兵衛の顕彰碑が立てられています。
そんなに広い公園ではないなー、と思っていたら入口の案内板に
隣りの小学校の校庭から土塁と堀跡が発掘されていることが記載されていました。
この校庭と公園とすぐ横を走る国道2号線の向こう側を含めて、かなり広い城域であったようですね。
第27回全国城郭研究者セミナー in 姫路
今年も全国城郭研究者セミナーの季節がやってきました。今年の開催地は姫路市です。
会場は姫路城前の「イーグレひめじ」です。
開始前に姫路城を歩き回っていたので、少し遅れて到着しましたが、真夏日の気温のなか歩いたので着いた頃には汗が止まらない状態でした。
1日目の今日は7本の調査・研究報告がありました。
新しい研究成果や持論を聞いてとても興奮しました。
7本目の報告では、神奈川県の権現山城について、従来の定説や遺跡推定地に拘らず、実際には場所が違っているという報告があり、とても興味深いものでした。
イーグレひめじの4階は、姫路城天守を正面に見ることができる最高のビュースポットになっていますよ。
姫路城中濠 兵庫県の城館
JR姫路駅を出ると通りの向こうに姫路城が・・・
学生時代以来となるでしょうか?いやいやもう一度来たような
姫路城に向かって歩いていくと、途中で石垣を見つけました。これは何かと思っていたら、中堀沿いの門跡でした。
ここは「中ノ門跡」です。水堀は道路になっていますが、石垣は道路建設に影響のなかったものは残されたようです。
ということで、まだ歩いたことのない中濠沿いの門跡めぐりを始めることになりました。
西に向かっていくと、間もなく門跡が見えてきました。
枡形を構成する石垣もある程度残っているようですが、道路建設のため少し削られているようであるのが残念です。
ここは「鵰門跡」(くまたかもんあと)です。
さらに西に向かって歩いていくと、「埋門跡」があります。
ここはとにかくハトが多い・・・・って城めぐりには関係ないですね。
二の門(当地ではどういうのかわからないけど)の前の一の門との間の枡形を確認できます。この枡形の回りの石垣はかなり低いところまで取り払われているものの、姫路城の門跡の形式は多彩ですね。
この埋門跡が西南隅となります。北へ向かいましょう。
次は「車門跡」です。
この門も枡形の部分がよく残っています。
左側の門の入口が右側を流れる船場川と直接接していて、船で出入りできたようです。
一の門(当地でそういうか分からないけど)は船場川に架かる橋から出入りしたようです。現在も同じ場所に橋が架けられています。
南側の水堀は今は短くなって空掘となっていますが、
北側の掘は今も満々と水を湛えています。
水堀と川の間の散策路を歩いていくと、姫路城が見えてきました。
大通り沿いの歩道に石碑が立てられています。
この通りを行くと大手門となります。
北側の歩道に渡ると、北側の掘と川はまた雰囲気が変わりますね。
掘から川に流れ込む場所で鴨たちが一生懸命に何かを突いていました。魚でもいるのかな?
ここは「市ノ橋門跡」ですが、残る石垣は道路に対して斜めです。
というのも、門の北側と南側で掘の幅が違っていたからでしょうか。
実際の門の方角はこんな感じですね。
この市ノ橋門に隣接して、
広大な好古園がありますが、まだ入ったことがありません。
好古園を過ぎると、内堀が見えてきました。
西の丸の渡櫓の修復用足場も見えますね。
と、ここで姫路城内に入るところですが、それは別に話すとして、もうひとつ門跡を紹介します。
ここは「総社門跡」です。
枡形の中を道路が通っているので、囲まれた門であるという痕跡は残念ながら全くないですね。
道路の向かいの市民会館の入口脇に石垣が残っていますが、草に覆われて気付きにくくなっています。
門の形からここに石垣があるのはおかしいので、位置をずらして保存されたものかもしれません。
姫路城 兵庫県の城館
世界遺産でもある国宝姫路城です。
桜門橋を渡ると、大手門です。
大手門は大きな高麗門です。
正面に家紋が5個付けられています。これは誰の家紋でしょうか?
大手門をくぐって三の丸広場にでると、正面に大天守を拝むことができます。
大きなクレーンが何本も建ち、足場の鉄骨が大天守の半分くらいまで組みあがりました。
工事計画を見ると、今年度中は天守の中に入れないようですね。
有料ゾーンへ入ります。入ってすぐに「菱の門」があります。
菱の門をくぐり左手に進むと、「中村大佐顕彰碑」がありました。
中村重遠大佐は、城の恩人です。陸軍が城郭を駐屯地とするために建造物を破壊しようとするのを陳情で辞めさせた人です。姫路城や名古屋城がこうして守られました。名古屋城は残念ながら戦争で焼失しましたが・・・
そこから西の丸へ入り渡櫓へ向かうとこちらも足場が組まれていました。
工事中でも中に入れますよ。
とはいえ、中は足場に近づかないように通路は制限されていました。
長い渡り廊下を歩いていくと、最後に化粧櫓に来ます。ここは将軍家から嫁いだ千姫が生活した場所と伝えられています。部屋には人形が置かれ、観光客にもわかりやすい工夫がされていました。
外から見た化粧櫓です。
さあ天守へ向かいましょう!まずは「はの門」へ向かいます。
「はの門」をくぐると、二の丸、この「にの門」越しに見る西小天守は絵になりますね。
そして「にの門」への階段です。
そして「ほの門」へ
「ほの門」を通って振り返ると、「水一門」があります。
隅櫓と乾小天守に挟まれた「水二門」です。
くぐると本丸(備前丸)への最後の門、「水三門」です。
大天守の南面と東面は徐々に鉄骨が組まれていますが、小天守側はまだ天守を見ることができます。
備前丸へ出ると、半分は工事中で通り抜けることができません。
ということで、引き返します。
「はの門」のあと、「ろの門」を抜けます。
そして「いの門」を抜ければ「菱の門」に戻ってきます。
有料ゾーンを出てくると、出口に「天守の庭」があります。ここは大天守の礎石配置を再現しています。
三の丸広場の隅に「大天守大柱展示場」があり、
昭和の大修理で交換された西大柱が展示されています。
竹田城 兵庫県の城館
山上の石垣がすばらしい播磨竹田城です。
駐車場から一番遠い入口から入ります。
2度目ですが、ここは石垣がすばらしいですね。
北千畳から大手門と城下を見下ろしてみました。高いなあー
三の丸から二の丸と本丸方面を撮ってみました。夏は草深いですね。
三の丸を通って、弐の門を通りすぎたところで一度引き返しました。
もう一度の登城は南千畳からです。
正門の向こう側に見えるのが天守台です。
今度は花屋敷から駐車場へ向かいました。
さて、なぜ2度も登城したのか?というのは一緒に上っていた母が迷子になったからです。(自分が迷子か?)急な崖も多いのでとても心配しましたが、舗装道路から上ってきて、なぜ花屋敷から下りるのかと思いましたが、今回は草深かったので疲れたこともあり諦めて、次回は春先に来ましょうかね。