雪がまだ残っているので平地の館跡を訪れました。
ここは中野市上今井にある内堀館跡です。
土塁に残る大木がこの館跡の時代を感じさせてくれます。
江戸時代後期には飯山藩の本陣として使用されたという館内には、
今は個人宅となっていますが、ちょっとお邪魔をして、大きな古いお家を撮影させていただきました。
門の正面に戻って、門までは緩やかに傾斜があります。土塁に囲まれた館は周囲より一段高くなっています。
正門わきの土塁の石積みは大ぶりの石を使用していますが、近世のものか近代のものか?
正門の一方から屋敷裏まで水堀がめぐっています。
今は雪の重みで倒れた竹で覆われて、堀の深さが伝わらないですね。
土塁と堀の位置関係は案内板に紹介されています。
場所が大通りから中に入りわかりにくいですが、目印は佐藤病院です。
カテゴリー: 攻城記
小谷城 滋賀県の城館
虎御前山見学会の後、小谷城へやってきました。
まずは麓、清水谷にある小谷城戦国歴史資料館へ。外はNHK大河効果もあってか賑やかになっているが、展示内容は以前と変わらないなー。まあ、ここでパンフレットと一緒に小谷城の縄張図(いつの間にかカラー版になった)がもらえるので、それを持って登城します。
入口は資料館横の追手道から入ります。まだ道が少しぬかるんでいる。
しばらく登って、自動車用道路と歩行者用道の分岐まで来ました。午前中にひと山登ってきた疲れもまだとれていないので、道路道を選択します。
比較的緩やかですが、長い道路道を歩いて行くと、途中鳥居のある巨石を発見!
写真で見ると縮尺がよくわからないと思いますが、4メートルほどの大きな岩です。
途中、まだ雪が被る伊吹山が見えました。
江のイベント旗が観光客を迎えています。
ようやく道路の終着です。
ここから京極丸まで25分と書かれていますが、ゆっくり見るとそれ以上にかかります。
まずは看板近くの「金吾丸」へ。ここは朝倉金吾教景が陣を張った場所ということで、その名がつけられています。
本丸へ向かいます。まずは「番所」です。
地元誌「みーな」に掲載された鳥瞰復元図が配置されていました。わかりやすくていいですね。
次の御茶屋へ行く途中、先ほど登った虎御前山が見えます。こうして見ると、手前の柴田勝家陣、木下秀吉陣、佐久間信盛陣と織田信長本陣ぐらいしかこちらから見えそうにないですね。
「御茶屋」に着きました。
ここにも復元図が置かれています。この絵を見ると、この郭の奥に庭園があったようです。
行ってみると、確かに景石らしき石が多数ありますね。
ひとつ上の「馬屋」です。郭内の木が伐採されたため、周囲の土塁もはっきりわかるようになりました。
その横、「馬洗池」です。石垣が残っている大きな池です。
さらにひとつ上の郭、「桜馬場」にきました。木々の葉が落ちて全くないので見通しもよく、広い郭だとよくわかります。
その先端部からの眺めはいいですね。山本山城の奥に琵琶湖と、そこに浮かぶ竹生島が見えます。少しかすんでいるかな。
それにしても、この風景見たことないですか?
しばらくすると、ボランティアガイドに連れられた一団がやってきました。説明を聞いていると、ここがNHK大河のロケ地。
そうです。ここが何度も出てくる市が長政と琵琶湖を眺めた場所なんですよ!
立っていた位置に石が置いてあります。
こちらは「市」
そして「長政」。マジックで書きなぐった感じですが、これもまた記念です。今限りの見学スポット、ガイドさんが来なかったら見逃していましたよ。ラッキーでした。
さて、先を進みます。桜馬場から本丸に至る「黒金門」です。この辺りは特に大きな石が使用されています。
門を入ると「大広間」が広がります。
次の復元図を見つけました。
「本丸」のまわりの石垣が数段残っています。本丸に上ったところで時間切れとなったので、今日はここで引き返します。
とその前に、赤尾屋敷を見に行きます。途中狭い通路や日陰のためか雪がまだ残る道を進みます。
重臣の「赤尾屋敷」にやってきました。
復元図をみると、ここは下にあと2段の郭があるようです。
一番上の郭には浅井長政が最後に自刃した供養塔が立っています。
下りてきて麓の江博覧会会場に来ました。
今日は時間もないので、博覧会は後日にして、みやげものを物色しました。
ぬいぐるみなども買うことはあるのですが、今回はあまりかわいくないのでやめました。そして、買ったのが・・・
水・・・なぜか現代風の三姉妹。時代の流れでもちろん「萌え」イラストですね。「江の雫」と命名された近江の水かと思いきや、高知室戸沖の海洋深層水です。
もうひとつが、三姉妹のマスコット。この二頭身キャラは旗にもかかれていたキャンペーンマスコットなんですが、初だけ白頭巾をかぶった出家後の姿で、特徴的だと言っても、ひとり年寄りなのはかわいそうなのでは・・・
先に資料館で新刊と新ビデオを購入しました。ともに企画は小谷城址保勝会です。ビデオは1枚1000円と少し高いと思いましたが、保存活動に寄付すると思えばささいな金額です。内容もそこそこ本格的で良かったですよ。
虎御前山城 滋賀県の城館
虎御前山城見学会に参加してきました。集合場所は虎姫自遊館です。9時に集合するのに6時に出発してきました。
初めて来た館内には虎御前山城に関する展示がされています。
こちらは関係する武将を紹介しています。
こちらは絵図。
そして立体模型です。これはわかりやすい。ずっと虎御前山は小谷山に向かって平行にある山だと思っていましたが、どちらかというと垂直ですね。
解説は丸山竜平先生と長谷川博美さんです。さあ出発です!
虎御前山と小谷山の間を流れる川です。左手に虎御前山、正面に小谷山が見えます。
入口に立てられた看板。虎御前山はハイキングコースになっています。
登り始めてすぐに「多賀貞能陣跡」があります。ちょうど藤棚あたりでしょうか。
自動車道と並行してこの矢合神社への参道が続いています。
道路をはずれて最初に訪れる陣跡は「蜂屋頼隆陣跡」です。
ここからは丹羽陣(キャンプ場)、滝川陣(鉄塔)が遠くに見えます。
「丹羽長秀陣跡」はキャンプ場となっており、看板などもないですが、盛り上がっている場所であることは一目瞭然です。開発されて跡はわかりません。
キャンプ場までは自動車で来ることができます。ここからは徒歩、ハイキングコースです。
鉄塔の横に「滝川一益陣跡」があります。虎御前山は古くから古墳が多く作られた信仰の山で、滝川陣も古墳を利用しています。
さらに進むと「堀秀政陣跡」が見えてきます。
織田信長陣跡が見えてきましたよ。
やはり信長の本陣だけあって、土塁こそ崩れわからないものの、郭のまわりに帯郭が何重にも巡っています。
虎口にあったと思われる門の正面には、横山城が見えます。ここからも虎御前山城と横山城が連携しあっていた様子が想像できます。
郭近くの草や木が刈り込まれたとはいえ、まだ木が多く、小谷城方向が見えないのは残念でした。信長の気分になりたかったのに・・・
しかし、合間から小谷山最高所の大嶽城がかろうじて見えましたよ。
大きく下って先の陣跡に進みます。
「木下秀吉陣跡」です。この郭のまわりにも虎口や帯郭、かざし堀などがあり、見どころ満載です。
木々の隙間からなんとか小谷山が見える。
最前線は「柴田勝家陣跡」です。ここまで来るとまた小谷山は見えなくなってしまいました。
勝家陣も古墳を利用したものですが、古墳は破壊しないように利用されたようです。昔の人もたたりを恐れた?
さて、立体模型にはもうひとり「佐久間信盛陣跡」というのがあったのですが、今は行けるのか?帰ってきてから気がつきました。
思っていたより高くない山城であったので、ハイキングはちょうどいいですね。また行ってみたいと思います。
丸岡城ライトアップ 福井県の城館
勝山左義長まつりの帰り、雪残る白山麓を迂回し、国道8号線経由で帰る途中、行きも脇を通過した丸岡城があまりにもきれいにライトアップされていたので寄ってみた。
土曜日の夜とはいえ、寒い中誰も丸岡城公園にはいませんでした。ということで、天守のライトアップ撮影をひとり堪能してきました。
現存12天守のひとつである丸岡城天守は木造です。規模は小さいですが、天守台とのバランスはなかなかのものです。
もう少し石垣にもライトアップされていれば嬉しいのですが。
でも、いい写真も撮れたのでなんか得した気分です。
越前勝山城 福井県の城館
勝山市役所や市民会館のある場所は勝山城のあった場所です。
数年前に来た時は、案内板のあった場所はちょっと違っていた記憶がありますが、
今は市民会館の前の庭園に城址の石碑が立っていて、手前に案内板があります。
雪に覆われてはっきりとはわかりません。
城址の碑は立派ですが、奥に追いやられて目立ちませんね。
ゆめおーれ勝山から中央公園に入る交差点に架かる橋のあたりに「東御門」があったようです。
市民会館の南側は大きく地形が下がっていて、「七里壁」と呼ばれる城内と城下を隔てる天然の防御壁となっています。
城下には所々に道の案内板が立てられ、歩きながら城下の学習をすることができます。
全部で何か所あるのかわかりませんが、自分は10か所近く確認しました。
金沢城 冬のライトアップ
大雪の後のライトトップ。雪は2年ぶりでしょうか?
まずは兼六園真弓坂から入園します。
今年は友人と夜景用に三脚を使用して撮影しました。写真に詳しい友人に助言をもらいながらも、兼六園で撮った写真はぶれたものが多く、でも例年以上に良い写真が何枚かありました。
ここ数日の気温上昇により、木々に被った雪はなくなったけど、池は一部凍ったままで、水面に映る美しい姿がない場所もあったが、凍った水面もまた近年では珍しい光景だ。
寒さのためか、来週三連休がやはり人気なのか、今日の来客は少なめでした。
園内は滑らないように通路の氷は取り除いてあったけど、一部にはうず高く積まれた雪が残っていました。そんな珍しい光景も見ながら、場所を移動しながら写真を撮っていきました。
一番人気は唐崎の松ですね。
では、金沢城公園に場所を移します。
外壁塗装の修築が完了した石川門櫓。光に反射する白い壁が美しいです。
が、脇の一の門の壁が若干ミスマッチです。
金沢城公園は兼六園よりは人気が少ないです。
三の丸広場は一面の雪景色。五十間長屋の屋根雪はすっかり溶けてしまっているのは残念ですが、雪の冷気のためか寒いです。
復元後初めての雪のライトアップを迎える河北門です。
河北門への入場口から見る、河北門一の門、ニラミ櫓台、菱櫓、向こうに橋爪門、この光景は新しい金沢城の絶景スポットです。
この菱櫓、五十間長屋、橋爪櫓の奥行きのある絵もいいでしょ!
橋爪門の中では発掘調査が進められているため、門は閉じられたまま。そのためもあってか橋の上の雪は除雪もされず積もったままだ。
堀には氷が張っている。こんな光景も2回目だろうか。
この河北門、菱櫓のアングルは古写真にもある。
河北門二の門の内側から枡形を覗けば、そこには菱櫓が顔を出す。
終園のアナウンスが流れてきた。もう9時だ。時間はあっという間に過ぎる。
高梨氏館跡 長野県の城館
大雪の後の出張で長野県中野市に来ました。今日はいい天気ですね。
中野市の街中に、地図上にも大きく載っている「高梨氏館跡」があります。まだまだ雪がたくさん残っていますが、大きな館跡だと思っていたら、北信濃最大の方形館になるそうです。
堀に架けられた橋の橋脚部分に石積みがわずかに残されています。
高梨氏は平安時代以降続く信濃源氏の有力武士であり、室町時代末期の甲斐武田氏と越後上杉氏の抗争のなかで上杉方を頼り、上杉氏の会津移封とともに廃城になったようです。
方形館がほぼ完全に残り、館跡を囲む土塁や堀がここまで残っているのは貴重ですね。
入口には解説板や
平成19年に中野市史跡に指定された石碑が立てられています。
土塁の発掘から土塁の中に築地塀が見つかり、初期のころは塀に囲まれた館が防備にために土塁を備えていった過程が分かる珍しい遺跡です。
中は遺跡公園となっていますが、今は一面雪景色です。公園内には管理用建物が建っています。
雪に埋れてしまっていますが、枯山水式庭園が見つかっています。わずかに石が雪から覗いています。
復元された井戸跡の向こうに柱列があり、
ここも雪に埋れて何かわかりませんが、建物跡ですね。
公園裏のほうの堀もしっかり残っています。こちらの面は近所の子どもの遊び場になっているようです。足跡やソリ跡が残っていますので、ちょうどいい坂なんでしょうね。
まわりに高い建物がないので、堀から見る景色も非常にいいです。
管理用建物に入るそばの橋は石垣が復元されています。
こちらの橋は木製です。
雪が消えたらまた訪れたいですね。
秋の名古屋城散策と天守台刻印 愛知県の城館
紅葉真っ盛りの名古屋城に来ました。この時期に来るのは初めてですね。
今回は時間がありますので、久しぶりに二之丸庭園から巡ります。
南蛮たたきです。
埋御門をじっくりと見るのも久しぶりです。
二之丸庭園の場所によっては、とてもきれいに紅葉しています。絶好の撮影場所ですね。
手水鉢に浮かぶ紅葉の葉が風情ですね。
二之丸庭園入口も紅葉が入るといつもと違います。
内堀には鹿たちが・・・・おー復活していますよ。元気でね!!
では、まだまだ時間がありますので天守台の刻印を探します。家紋など記号の刻印は沢山ありますが、文字の刻印もあるんですよ。こちらは有名な不明門近くの天守台北東隅の「加藤肥後守 内小代下総」(拡大あり)の刻印です。
問題はこちら天守台南西隅の刻印です。肉眼では全くどこにあるかわかりません。
デジカメを最大望遠(X18)で石ひとつひとつをじっくり探すこと10分・・・
ようやく見つけました!「○肥後守内 ○○○○○」、よく読み取れません。
(資料が見当たらないので後日更新します)
人気者のはち丸には撮影待ちの列がついていましたよ。
あーそれと、名古屋城売店で「名古屋城本丸御殿基金WAON」が売られていたので買いました。もちろん使いません。カードを記念に買ったようなものですよ。首里城にもあるみたいだけど、あちらはずっと行けないなー。
長島城 三重県の城館
桑名から名古屋へ行く途中、念願の長島城を見に行きました。長島は長島一向一揆の地、木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中(中学で習いましたよね、でも地元でないと実地を見ないとイメージ沸かないんですよ)地帯を拠点に織田信長と激戦を交えました。とはいえ、今知られる長島城は近世江戸時代に整備された城(陣屋?)です。
本丸跡は長島中部小学校となっています。校門から右に校舎、正面から左に運動場が広がっています。正面に大きな松の木が見えますか?この松は後ほど
校門から隣の長島中学校へ歩いていくと、小学校の歩道脇に「長島城跡」の案内板が立っています。絵図がプリントされていますが、かなり薄くなっていますね。
長島中学校の校門は陣屋風です。
戻って小学校の校舎前まで来ました。
大きな老木が伊勢湾台風にも耐えて残っています。ここが本丸の南西隅となるそうです。長島城時代から残っている数少ない生き証人です。
小中学校前を流れる川に架かる「大手橋」の名が、ここが大手であったことを偲ばせてくれます。
橋を渡ると、道標が残っています。
それでは、下町方面を散策します。
長島城跡の川の対岸には寺が多数点在しています。ここは「正敬寺」、真宗大谷派です。
少し歩いて「花林院」は曹洞宗?かな
散策の目的は、この「蓮生寺」です。真宗高田派となります。
山門は長島城の「大手門」であったと伝えられています。
小さな高覧門形式ですが、大手門ということは先ほどの大手橋を渡ったところにあったんでしょうね。大手門というにはやはり小さくないですか?
瓦には増山氏の家紋である「雁金」を見ることができます。午前中だと内側から見るのがいいですね。正面は逆光で見にくい・・・
長島城の建造物唯一の遺構です。そんなに距離は離れていないので見逃さないように。
桑名城 三重県の城館
「その手は桑名の焼き蛤」という洒落で有名な桑名。
東海道は名古屋の熱田の湊からここ桑名の湊まで舟でした。
その距離から「七里の渡し」と呼ばれていますが、
「七里の渡し」の鳥居の前で、桑名城沿いに進みます。
この湊を見渡すところに、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が復元されています。現代で言う灯台の役割でした。見張り台の役割もありましたけど。
徳川譜代の城として、「立ち葵」の家紋瓦に水の神として龍が乗っています。
蟠龍櫓はライトアップのされています。それを見たくて、前日夕方見に行った写真がこれです。
漆黒の闇に浮かぶ櫓。湊側から見ると、海に姿が写ってきれいです。風がない日はもっときれいでしょうね。
七里の渡しの鳥居もライトアップされています。
さて、この蟠龍櫓の近くから散策します。
桑名城と城下町の間、北大手橋の架かる堀には多くの舟が泊まっていましたが、その上がり部分は石造りで立派です。ここは藩政期そのままでしょうか?改修されているのでしょうか?揃わない石積みからは古いようにも見えますが。
蟠龍櫓のある曲輪は三の丸です。早朝からご年配がゲートボールを楽しんでいました。
三の丸は一部駐車場として無料開放されていますが、9時から開場される(ちょっと遅い)ので、自分は少し離れた場所に停めました。
駐車場横には藩政期城主だった本多忠勝の銅像が立っています。あの兜カッコいいですね。
今の桑名城跡は幕末の譜代藩としての面影が残っているのでしょうが、桑名松平家よりも本多家のほうが地元の方には誇りなのでしょうか?
本丸・二の丸は九華公園となっています。
水堀が残る憩いの場ですね。公園の案内図でも城の形がよくわかります。
管理事務所近くの扇橋口に、
桑名城絵図を描いた案内板が立っています。
管理事務所口には石が積まれていますが、この石は石垣の石の残りでしょうか?けっこう大振りですよ。
野外ステージのある曲輪は「奥平屋敷」と呼ばれているようですが、
この曲輪のまわりは藩政期そのままの石垣が残っています。堀沿いに残る石積みは見逃さないでくださいね。
それにしても、堀が広いからか、ここは鳥たちの楽園ですね。二之丸橋のあたりが最も集まっていましたが、欄干に並んでとまる姿はどこか落ち着きます。
堀に架かる橋の真ん中に東屋があり、その奥のグラウンドが朝日丸跡となります。
本丸に入ります。辰巳櫓跡は小山として残っています。
大砲のレプリカがある櫓台からの眺めはいいですね。
もうひとつ櫓跡が残っています。こちらは神戸櫓跡です。
本丸跡の一角に「桑名城跡」の石碑が立っています。
本丸の半分ほどは現在神社になっています。
鎮国守国神社。主祭神は藩祖松平越中守定信公です。ということは桑名藩の始まりは、松平家ということになっているのか?ここに本多家が入る余地はないようです。
本殿の脇の紅葉は真っ盛りでしたが、この奥に天守台が残っています。実は一度見逃して帰ろうとして引き帰しました。
天守台はひっそりと神社境内の残っており、
見ると、大きい石がかなり使用されています。立派な天守台です。
鎮国守国神社の隣は、九華招魂社。御祭神は戊辰戦争から太平洋戦争までの桑名出身戦没者のようです。
その隣は鎮国稲荷神社となっています。かなり広いので、全部まわると2時間以上かかります。
福井城 福井県の城館
福井城の建造物復元第二弾として2年前に復元された「御廊下橋」です。その奥の石垣は天守台となります。
橋を櫓を乗せるという形式は府内城など全国でも数城でしか見ることができない貴重なものです。
御廊下橋から本丸に入るところの門は「山里口御門」です。埋門とも言われた門は石垣の間に隠れたように建つ門であり、今も石垣に木材を固定した穴が残っています。
天守の石垣はそのまま残っています。というより本丸の石垣の大部分と内堀一周が水堀として残っているのが福井城の見どころですね。
天守台そばには「福井」の語源となった「福の居」が残っています。
天守台には天守の礎石が並んでいますが、その巨大さからは譜代に恥じない巨大な天守が建っていたことが想像できます。
本丸の福井県庁前には徳川家康の二男結城秀康の石像が作られましたが、どこか日本っぽくない?
と思っていたら作ったのはやはり中国の方でした。どう見ても甲冑は鉄板だよな。
福井城建造物の復元第一弾は福井市郷土歴史博物館の「舎人門」です。三の丸の加賀方面の出入口に立つ門でした。赤瓦が特徴的ですが、夜はライトアップされて水堀に映る姿がいい景色ですね。
福井城の復元をすすめる会では、御廊下橋に続いて、本丸巽櫓の復元を目指しているそうです。本丸は四隅の櫓台がすべて残っているので、櫓が復元されれば水堀に映る美しい姿が見どころですね。
北ノ庄城 福井県の城館
福井市の北ノ庄城址公園です。2、3年前に整備されました。
ここは柴田勝家公を祀る柴田神社の境内です。ここが北ノ庄城の本丸跡と説明されることが多いですが、全く確証はありません。というのも、北ノ庄城を破壊した上に福井城が築城されたためと、同時代の絵図が全く残っていないためです。
柴田神社本殿の隣には三姉妹神社が建っています。そのため柴田神社は恋愛の神でもあります。
三姉妹の母である「お市の方」の銅像が三姉妹神社を見守るように立っています。以前は違う向きでしたが、この向きは偶然でしょうか?
柴田勝家像は幹線道路に向かって立っています。こちらも以前は違う向きでした。知る限り3回向きが変わっていますね。
隣接して城址資料館が建てられました。ボランティアのガイドによる説明付きです。「柴田勝家公は尾張の生まれですよー」、って知ってるよ。
二階から城址公園を見渡せますが、境内地でもあるのでそんなに広い範囲ではありません。ここから見える石垣なども多くは整備用だったり、福井城のものだったりします。
北ノ庄城の石垣はこちらと、
こちらの2箇所の根石が1列分残っているのみです。市内では福井城の遺構の下に北ノ庄城の遺構が何箇所か見つかっているようですが、全貌がいつか解明されることを願っています。
越前大野城 福井県の城館
築城430年祭の行われている越前大野城です。
亀山の頂上に模擬天守が建てられていて、町のシンボルです。
以前訪れたのはもう8年ほど前になるでしょうか?そのときはこのあたりに駐車場があった記憶がありますが、山麓の二の丸跡には現在「学びの里 めいりん」が建てられ、
道路沿いに内堀が復元されています。
南登り口には城門が建てられていますが、藩政期にここに道はなく、観光用の門です。
藩政期の山頂への道は唯一この「百間坂」のみです。
百間坂を登ってくると、三の郭に出ますが、ここから本丸への入口は石垣が積まれています。
三の曲輪の先端には「麻木櫓」が建てられ、城内唯一の二重櫓でした。
現在は麻木櫓の建っていた斜面はコンクリで固められていますが、藩政期は土のままだったようです。
本丸北東面です。
東面は石垣が積まれていますが、隅で切れ、南面は土塁となっています。
三の郭から本郭へ入る石垣上に「越前大野城」の石碑が立てられています。
本丸御殿の建てられた石垣上には模擬天守として資料館が建てられています。
二の郭には大野城下町の基礎をつくった金森長近の銅像が立っています。
資料館に入る前に本郭のまわりをぐるりと一周しました。こちらは南側の「武具蔵跡」です。
そして「お福池」です。
本郭への入口は2箇所。殿様が登るのはこちら「駕籠道」です。
本郭の北西方向に広がるのは「塩硝蔵跡」です。
模擬天守から西、福井方向にはこの亀山に城を移す前の戌山城が見えます。
東側には二の丸、三の丸、城下が広がります。
資料館の東の平坦部には
亀山の最頂点、三角点があります。
殿様以外の武者はこの急な「武者走り」を登りました。
急、かつ折れがあり、視界が一瞬遮られます。
本丸の南側は「地獄谷」という非常な急斜面となっています。
街中に残る「石燈籠地蔵尊」です。金森長近が城下町を建設するにあたり、ここを起点として京都を模した碁盤の目の町割りを行いました。
大野城の唯一の建造物の遺構である「鳩門」です。亀山の北西にある光明寺の寺門として改修されて残っています。前面は火頭窓。
背面は障子戸となっていますが、二の丸の正門として威厳ある大きさの門です。
虚空蔵山城 石川県の城館
昼から曇ってきましたが、能美市(旧辰口町)の虚空蔵山城を訪れました。初めてでしたので、辺りをうろうろと迷いながらようやく到着しました。
和気小学校の裏にある山が虚空蔵山です。一帯は「こくぞう里山公園」として整備されています。
城跡への入口は和気小学校の体育館横になります。
入口の看板を見ると城域には4つの看板が立てられているようです。
入口に最初の看板「史跡虚空蔵山城」と脇に石碑が立っています。
それでは大手道から登ります。
大手道の南側には土塁が続いていますが、その外側に石垣があったそうです。しかし、急斜面のため確認することはできませんでした。今は埋まっているのかもしれません。
しばらく上がると2つ目の看板「大手門跡」が立っています。
通路の南側に平坦地があり、
そこからの景色がすばらしいです。足元に大きな石がありますが、
実際、このような大きな石が二段積まれています。大手道に沿って上がってくる石垣の最終地点となる部分だと考えられますが、ここまで大きな石がずっと積まれていたのかわかりません。
石積みの下は立っていられないほどの急斜面です。
大手道を上って最初にある曲輪は二の丸となります。
草が生えていてわかりにくいですが、土塁が囲むかなり広い曲輪であり、土塁の外側を空堀が囲んでいます。
二の丸の奥に進むと、「二の丸虎口の道」が続きます。先に3つの郭が存在します。
二の丸を下りたところに橋がかかっており、まわりの空堀を確認することができます。
2つ先の郭です。この左側先にもう1つ郭がありますが、ともに木々に囲まれて景色がよくありません。
こんな感じです。木々の間から少しだけ向こうが見えます。
二の丸まで戻って本丸に向かいます。
二の丸と本丸の間は深い谷となっていますが、通路は土橋のようになっており、両側に深い堀切が切られています。
堀切に見えますが、発掘調査報告書によると道の代用にもなっているようです。東側の下館へ下りる堀切の途中には井戸のある郭が存在するようですが、こんな有様です。
少しだけ下りてみてこの辺りが井戸か?と思って写真を撮りましたが、実際はもっと下がったところの郭だったようです。なんせ調査自体が20年以上も前になりますので、自然が戻りつつあり状況では探索も辛いですね。
本丸は二の丸より少し小さい曲輪ですが、こちらにもまわりを囲む土塁が残っています。
ここが最頂点ということで、本丸隅に三角点が設置されています。
帰りは薬師坂ですので、先に馬場を見てきます。途中黒岩の道への分かれ道があります。
すぐ下に「金の茶釜伝説」の残る黒岩があります。
なぜ黒岩というのかわかりませんが、ものすごく大きな石が数個窪みに残っています。
では、馬場へ向かいます。
馬場の曲輪は草むらでよくわからない状態でしたが、上徳山へ下りる道へ折れる最終箇所に土塁を確認することができます。
本丸に戻ってきました。
それでは薬師坂を下りましょう。
いくつかの郭を通ってくると、分かれ道にでます。「常基寺の道」の先にひとつ郭があるので見て行きます。
浅い堀切を越えるとその先が郭のようですが、やはり木々でその範囲がよくわかりません。
戻って、薬師坂を下ります。
薬師坂の途中に広い郭が残っています。
一向一揆の砦として使用された城跡でもあるので、中世城郭の趣を感じることができます。整備されてから時が経っている(木が大きく成長してしまっている)のでわかりにくくなっている部分もありますが、草の短い春先にでももう一度訪れてみたい城ですね。
二曲城 その2 石川県の城館
今日は二曲城へ行ってきました。
二曲城は鳥越城とともに加賀一向一揆最後の城として国史跡に登録されています。登録後に鳥越城のほうは石垣や門など整備が進みましたが、二曲城は現況調査にとどまり、発掘調査はここ3、4年の間に漸く行われました。
そして、来年度からようやく環境整備が始まることになりました。発掘調査を踏まえ、通路や看板が整備され、建物の礎石などが示されるようです。
ということで、環境整備で雰囲気が変わる前にもう一度来たかったのです。
しばらく進むと、土塁が正面に見えてきます。土塁左手には二の丸へ上がる通路があり、それに沿って堀切があります。
その土塁の間の道を上がると、土塁の内側には溜池が残っています。
本丸、二の丸がある北の尾根と南の尾根の間道の途中にもう一度土塁があがる箇所があります。ここは発掘調査で石積みとその前に空堀が見つかりました。今は双方埋められています。ここはどう整備されるのでしょうか?
間道の一番奥で左に折れていつもは本丸へ向かうのですが、今日は右上に折れて南の尾根の頂点を目指します。
初めて上りましたが、南側に土塁を持つ広い平坦地です。
ここから見える東方角は本丸よりこちらの郭のようがよく見えます。
戻って本丸へ向かいます。
本丸も発掘調査で見つかったものは埋め戻されています。
本丸から北側に本城である鳥越城が見えます。
二の丸です。
二の丸の先にも尾根続きに小さな郭が配置されています。
二の丸と先の郭の間には深い堀切が掘られ、その下がる先は最初の土塁部分です。
わかりにくいですが、郭と郭の間の土橋があった箇所です。右側の堀切がかろうじてわかるでしょうか。左側は発掘調査の後埋め戻されています。
麓にある鳥越一向一揆歴史館です。現在は「長島一向一揆展」が開催中です。
松根城 石川県の城館
加賀と越中の国境の城、松根城に行ってきました。加越国境は前田利家と佐々成政が覇を争った地であり、松根城は佐々方の城でした。
金沢方面から入ると、ゴルフ場の横道を進んで車で城の中まで行くことができます。ここは加賀方面からの門跡の土塁です。
この土塁の反対側に中世の小原越の街道跡が残っています。
小原越の最も高い松根峠から下りの道が続いていました。
土塁から城内に入ると、広い郭の先に一段高い砦跡があります。
入口の土塁から郭と反対側を上ると、小原越の監視用の郭があります。今は草が高く見通しはききません。
一番奥の郭沿いの道は遊歩道として整備されていますが、郭と間に土塁と空堀がくっきりと続いています。帯郭でしょうか。
帯郭から本丸への階段は急です。
本丸は広く、
加賀方面
越中方面を見渡すことができますが、今日は曇っていて、加賀方面の海も、越中方面の立山も見えませんでした。残念・・・
本丸には「松根城址」の石碑が立っていますが、NHK大河「利家とまつ」の頃に整備された看板は西陽にあたり薄くなっていました。
本丸からさらに先に二の丸と
三の丸が配置されています。
馬伏塚城 静岡県の城館
袋井市の田園地帯の小さな集落の中に馬伏塚城がありました。
ほとんどが開発で破壊されていますが、本丸の一角に神社が建てられたために一部が保存されてきました。
本丸口には解説の案内板が立てられています。
元土塁を断ち切って道路としたため、両側の土盛りの高さから土塁の高かったことを想像できます。
神社入口に城址の石碑が立てられています。
境内が本丸の郭の高さであり、土塁の上に
社が建っています。
周辺は平野であるため、社の土塁上からはかなり見通しがききます。
南側の農道から神社を見ると、隣家の茶畑が見えますが、茶畑のあたりも元土塁であり、そこにそって内堀があったと考えられています。
この写真を撮っている位置も元は神社境内と同じ高さの郭があったと考えられており、周辺は「羽城」と呼ばれ、つまり破城された場所です。
西側から本丸を撮った写真ですが、見て分かるように、田地より一段高かった城地は宅地として開発されてしまいました。
ただ、中世平城としては地元の方の努力により、わずかに往時を偲ぶ部分が残っているだけでも幸せなことかもしれませんね。
横須賀城 静岡県の城館
国史跡になっている横須賀城に来ました。公園内の無料駐車場に停めて散策スタートです。
駐車場のすぐ北側には米倉がありました。今は果樹園となっています。
駐車場の西側には二の丸が広がっていました。標識は二の丸入口にあった池の南端を示すものです。
その先に二の丸が広がっていました。
平城の宿命というか、横須賀城も開発により二の丸、三の丸は消滅し、本丸を中心とした部分が公園として保存されています。
本丸に隣接する西の丸です。
西の丸から本丸と南下御門を俯瞰できます。
本丸は近世城郭にふさわしく広大なものでした。
天守台が一段高く残っており、
その隣に城址の石碑が立っています。
本丸には横須賀城の復元模型が飾られていますが、
無残に所々壊されていました。国史跡になったことで、城跡に理解のない方の観光も増えたのでしょうか?地元ふるさと教育には欠かせない資産ではあるのですが、残念なことです。
天守台に上って、ここから昔は海が見渡せたと思いますが、今は埋め立てが進んで、海はのぞめませんね。
天守台から北側をのぞむと、北の丸とその先に砦の役割もしたと思われる松尾山が見えます。
下に降りてくると、本丸への正門となる南下御門の石垣が復元されています。小ぶりの丸い川原石が大量に積み上げられた珍しい石垣ですね。
その東に唯一池として残る三日月池が今も水を湛えています。
さあ、帰ろうと思って国道に出ると、道路沿いに看板が立っており、
この場所が南の外堀跡のようです。その奥に、西大手口にあたる土塁が見えます。ということは、この国道は南外堀と海との間の中土居道の遺構なのですね。
高天神城 静岡県の城館
遠江の楔として「この城を制する者が遠江を制する」と云われた高天神城へ行ってきました。
最初、搦手口を通り過ぎ、大手口へ向かったはずが、どこで間違えたのか?結局搦手口より入りました。結果的に少し日影のある搦手口に車を停められたので良かったですが・・・
さて、ここからは総ルート3時間歩き通した探訪の記録です。
なんせ国史跡として郭も多い城ですので、写真点数も半端ない数となりました。
搦手口から入ると、すぐに「史跡 高天神城跡」の石碑が立っています。少し先の松の木のあたりが搦手門跡となります。
階段を上っていくと途中に三日月井戸があります。山城では井戸は生命線です。この井戸は壁から伏流水がしみ出ているようです。
搦手と大手の合流地点まで来て、まずは本丸方向から攻めることにしました。
本丸の一段下の的場曲輪です。
本丸には土塁が周囲に回っていたようですが、現在も北側、西側を中心に所々残っています。
本丸からの景色はあまり開けていなかったので、御前曲輪に移動しました。
ここからは東側の景色がよく見えます。
整備当時はここから三の丸へ下りる道があったようですが(三の丸側に看板が無造作に倒されていました)、現在は整備された階段ルートを遠回りしていきます。
御前曲輪の北側の土塁上に元天神社が建っています。案内板上は「元宮」となっている場所です。
三の丸に下りてきました。
ここは御前曲輪より数メートル下がりますが、眺望は開けています。
さらに下って大手門をめざします。途中、着到櫓跡がありました。
さらに下りて大手口駐車場まで行きましたが、こちらの入口は石碑がなく、旗が立てられていました。
大手口と搦手口を比べると、大手道は狭く山城の雰囲気を感じることができますが、搦手道は広く歩きやすかったですね。
戻ってまた上ります。着到櫓跡の数メートル下あたりが追手門(大手門)となります。
合流地点まで戻ってきて、井戸曲輪へ向かう前に南西方向へ下る道が
先にはトイレがありますが、
その先に広い曲輪がひとつありました。
戻って階段を上ると、そこが鐘曲輪です。
井戸曲輪は名のごとく城内最大の井戸があります。
高天神社へ上る前に、二の丸を見てきます。途中通路から搦手方向(北)がよく見えます。
二の丸です。
二の丸の一段下に袖曲輪が附属します。
袖曲輪下には本間八郎・丸尾修理の供養塔が立っています。
二の丸の袖曲輪と堂尾曲輪の間は大きな堀切となっています。
堂尾曲輪は北方向に突き出た尾根を利用した長い曲輪です。
その堂尾曲輪に沿って西側に長い横堀が掘られています。
ここから井戸曲輪まで戻って高天神社の階段を上ります。
途中の曲輪が西の丸です。社務所が建てられています。
高天神社と元天神社のどちらがこの山の高所なのでしょうか?
本堂の裏や側面には削られていますが、土塁が残されています。
ここからの眺望もよいですね。左手前の屋根は社務所ですよ。
本堂の裏には馬場平へ至る道が続いています。その間は深い切割となっています。
馬場平は高天神城最西の曲輪です。馬場とは言われていますが、この場所に馬で乗りつけるのは難しいでしょうね。
現在は眺望台として整備されています。それにしても暑い日でした。
馬場平ですべての曲輪をまわりましたので、引き返してもよかったのですが、甚五郎の抜け道なる細道がまだ先に続いています。地図上は麓に出るようですし・・・
この判断が間違いでした。入る時点では登城から2時間を過ぎるほどでしたが、さらに1時間を消費することになろうとは・・・・
昼ならともかく、雨の日や夜は到底歩けそうもない細道をクモの巣を払いながら進みました。
20分ほど進むと分かれ道となり、下り道となりました。ここまでは比較的平坦でしたが、下りが落ち葉で滑るところもあり、杖なしでは進めない状況でした。
ここ数年誰も歩いていないのでは??そんな疑問もよぎりながら
進むしかない道を歩いていると、ようやく林の谷池にでました。
ひと安心かと思いきや、道があるのはわかるものの、膝丈以上の草むらを進むことに・・・・
どこか攻城というよりも、敗走の気分になりながら、ようやく茶畑と整備された道路に到着!
堂尾曲輪の突き出た尾根が遠くに見えます。
本来はこの碑のもっと近くに出るはずだったのですが、池からの道を間違えたようです。
草むらに埋れているのは、岡部・板倉の碑です。
最後は散々でしたが、無事に帰れたので苦労した分、後で良い思い出になるのです。
帰り道、行くときは分からなかったのですが、横須賀七人衆のひとり「渥美源五郎屋敷跡」の案内柱を見つけました。
さて、問題の大手口ですが、こちらです。でも上るときのおすすめは搦手口です。
能ヶ坂砦 静岡県の城館
掛川から高天神城へ向かう国道38号線を走っている途中で、ひとつの看板が目に入りました。
「高天神城 六砦の中の一つ 能ヶ坂砦」
六砦といっても、高天神を守るための前線の砦というわけではなく、武田方がこもる高天神城を攻めるために、徳川方が高天神城を包囲するように築いたものらしい。つまり陣城ということか。
その6つとは、小笠砦、中村砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、三井砦。
近くの城東中学校の入口に気になる物を発見!
天守風の「立志の城」
目の前に見える能ヶ坂砦、地元の宝、高天神城を愛する気持ちが伝わってきますね。