寺中台場 石川県の城館

城館とは呼べない・・・かもしれませんが、今日は台場跡に2箇所行ってきました。
寺中台場
まずは、寺中台場跡です。銭屋五兵衛記念館の横にある大野湊緑地公園内に復元されています。
寺中台場
全長80メートルのうち、17メートルが復元されていますが、台場なのに近くに海はありません。
寺中台場
寺中台場は、宮腰台場、畝田台場とともに、加賀藩が幕末の外国船警備のために築いたものです。
この台場は寺中神主(大野湊神社神主宅か?)の屋敷跡に築かれ、前面に堀をめぐらした内陸の台場です。外国艦隊の火力差を考慮して、上陸後の対応を図ったものと考えられています。
畝田台場はさらに大規模だったそうですが、現在はありません。
寺中台場
復元された台場の後ろから海側を望むと・・・・こんな感じです。雰囲気ないなー

樺沢城 新潟県の城館

樺沢城は小さな山城ではありますが、山城独自の機能が随所に見られる良い城でした。樺沢城については、入口にある龍譚寺で今泉博物館発行の特別展「山城 樺沢城」(500円)が販売されています。分かりやすいですのでおすすめです。
樺沢城
さて、龍譚寺の向かいに城への入口があります。
樺沢城
小さな川を渡るとすぐに「元屋敷跡」の石碑があります。
樺沢城
登っていくと「仙桃院お花畑跡」の看板がありますが、
樺沢城
その石碑は龍譚寺の前にあります。
樺沢城
進むと、左方向が崖面となり、そこらじゅうに看板が立っていました。「空堀」「土塁」・・・・などなど
土塁と頂上方向の崖面の間の通路に沿って空堀があるようなのですが、草が茂る今の時期はわかりませんね。
樺沢城
通路を抜けると、頂上側の通路が大手口です。
樺沢城
大手口を入ると三の丸跡となりますが、三ノ丸は2段になっているのは珍しいです。
樺沢城
三ノ丸と二ノ丸の間には深い堀切があります。
樺沢城
「空堀」と看板のある、右が三ノ丸側、左が二ノ丸側、写真でもわかるほどの堀切は珍しいです。
樺沢城
二ノ丸跡は意外に小さいです。
樺沢城
二ノ丸と本丸の間にも深い堀が掘られています。
樺沢城
本丸に至る途中に、胞衣塚(えなづか)があります。景勝が誕生した時、その胞衣を納めた所と言われています。
樺沢城
本丸のまわりには帯曲輪が巡っています。
樺沢城
本丸は思いの外広く、眺めは最高です。
樺沢城
上田庄を望む位置に作られた本丸からは、坂戸城も左前方に見えます。
樺沢城
頂上に富士権現も見えますね。
樺沢城
本丸を下ると、「ロープをつかっておりてください」
樺沢城
本当にロープなしでは下りれません。写真でもご覧のとおりの急勾配です。
樺沢城
本丸から西の丸に至る途中に畝状竪堀があります。ロープで登り下りして五重以上の竪堀を見ることができそうですが、2重目を見て今日は時間がないので諦めました。
樺沢城
そして西ノ丸です。こちらからも上田庄が見えますが、木々が邪魔していますね。
樺沢城
樺沢城下には樺沢城保存活動の一環として、標石が多く立てられています。その中のひとつ、「黒金屋敷跡」です。
樺沢城
こちらは龍譚寺の手前にある「下屋敷跡」です。

坂戸城 新潟県の城館

坂戸城に登ります。
坂戸城
麓の駐車場で係りの人に、「薬師尾根コース」と「城坂コース」のどちらが急かを訪ねましたが、80パーセントが坂だと言われた「薬師尾根コース」から登ることにしました。
坂戸城
入口からしばらく通路の脇に地蔵が立っています。後世に頂上の富士権現に向かう信仰の道へと変貌したのでしょう。逆なのかな?
坂戸城
道の途中で脇道を進むと御居間屋敷跡がありました。広い平地が広がっていました。
坂戸城
城坂方向から入る入口は虎口となっています。
坂戸城
戻って、道はさらに急に続きます。向こうに頂上が見えますが、なかなか近づきません。
坂戸城
今日は早起きしたこともあり、体力が持ちません。何度も休憩しましたが、急な坂道からの眺望はすばらしいです。
坂戸城
ようやく頂上近くまで来ましたが、最大の難関、ロープに、鉄鎖?登るのはまだマシで、下りてくる人がたくさんいるのに驚きです。
坂戸城
頂上の実城には富士権現社が建ち、十数人がくつろいでいました。
坂戸城
本丸からの眺めも最高です。
坂戸城
富士権現の裏からは尾根筋が続き、小城、大城の郭があるようです。
坂戸城
道の中程、木のこんもりした部分が小城、先端が大城のようです。
坂戸城
小城だと思われる場所です。というのもこの尾根については案内板がないのです。薬師尾根では松が多かったですが、小城では白樺(かな?)が多いですね。
坂戸城
大城の入口には礎石?とも思われる2個の石が横たわっています。
坂戸城
大城からは実城とは違う方角がよく見えます。
坂戸城
実城にも連絡をとれる距離にあり、連携して機能していたことが容易に予想できます。
坂戸城
実城に戻って、城坂コースを進みます。下の段は広瀬曲輪となります。
坂戸城
5分程で別の尾根筋にある主水曲輪への分かれ道があります。
坂戸城
3本の深い堀切を進んで15分程で先端近くの主水曲輪に到着しました。大城といい、主水曲輪といい、実城からアップダウンがあって体力的に厳しい山城です。
坂戸城
主水曲輪からは越後方向がよく見渡せます。
坂戸城
戻って城坂コースを下りてくると途中に水場跡の案内があります。
坂戸城
実際の場所に案内が見つからなかったのですが、プラスチック管のあるこの辺りが石が多く、水場だと思われます。この場所は観光地図には載っていませんね。
坂戸城
水場を後にして、桃の木平に到着しました。かなり広い平地です。名前の由来は桃木でも立っていたのでしょうか。現在はないようでしたが・・・
坂戸城
城坂コースは薬師尾根コースと比べ緩やかですが、木々に囲まれて展望はあまりよくありませんね。
坂戸城
城坂コース入口まで来ると、一本松が立っていました。
坂戸城
一本松からは砂利道ながら車の乗り入れもできるようになっています。途中、天地人ロケ地の旗がなびいていました。
坂戸城
この辺りで武田軍との遭遇シーンが撮られたようですね。
坂戸城
さらに下ってくると、途中土塁や堀をもつ御館と思われる場所に出ました。
坂戸城
御館の入り口には石垣が残っており、坂戸城跡の石碑が立っていました。観光客はここまで来て引き返す人が多いようですね。
坂戸城
坂戸城で石積みが見られるのはここだけです。
坂戸城
柱跡の残る礎石も残っています。
坂戸城
別の場所には「上杉景勝・直江兼次生誕の地」の石碑が立っています。
坂戸城
御館から入り口までの間には広大な家臣屋敷跡が広がっていました。
坂戸城
道の両側が屋敷跡です。
坂戸城
麓には内堀跡として埋田堀が3カ所復元されています。
坂戸城
ハスが咲き、カモが戯れる雰囲気ある水場となっていました。
坂戸城
登り始めてから3時間半さすがに疲れました。

金沢城 石川県の城館

石川門、加賀藩の金沢城のシンボル的存在です。
金沢城
観光客は兼六園から城内に入るため、兼六園との間に架かる石川橋を渡って石川門をくぐってきます。しかし、ここは金沢城にとっては搦手門です。
小立野台地の先端部に築かれた金沢城の最大の弱点はこの台地伝いに攻められることです。そこで現在道路になっている百間掘を兼六園との間に築き、石川門を建てました。門の形式は堅固な枡形です。
金沢城
金沢城の大手口は、現在唯一の水堀、大手堀が残る尾坂門です。ここは大手らしく巨大な鏡石がいくつも配置されています。ちょうど隅石として使用されている鏡石は、その厚さを実感できる珍しい巨石です。
金沢城
尾坂門を進むと、新丸の向こうに平成13年に復元された菱櫓が見えます。本丸の天守が焼失したあと、本丸には天守代用の三階櫓が建てられましたが、建造物の高さは菱櫓のほうが高く、実質の天守としての役割を果たしました。
金沢城
新丸から三の丸に入るところに河北門があり、現在復元整備中です。
金沢城
金沢城では他にも、石川門と塀が修復中、いもり堀と鯉喉櫓台が復元整備中、玉泉院丸跡が復元整備に向けて発掘調査中と、平成26年度の北陸新幹線延伸まで復元・修復ラッシュです。

高岡城と高山右近

高岡城
高岡城の大手口に、高岡城の縄張りをしたと言われている高山右近の銅像が立っています。
高岡城
キリストの十字架を手に立つ右近はキリシタン大名として有名で、摂津高槻城の城主でした。バテレン追放令により流罪となった右近を前田利長が客賓として召抱え、利長の隠居所となった高岡城の縄張りをすることになったと伝わりますが、現在では築城期間に右近は加賀藩に滞在していなかった証拠などが見つかり、この説はかなり怪しくなっています。

高岡城 石垣の巻 富山県の城館

少し間が空きましたが、高岡城の3回目、石垣の魅力について紹介しましょう。
高岡城
二の丸から本丸に渡る土橋の両側に築城期の石垣が残っています。
高岡城
これだけの高さの石垣は高岡城ではここでしか見ることができません。
高岡城
西側は堀のほうに下りて、すぐ傍で石垣を観察することができます。
高岡城
よく見ると、刻印の残る石がたくさんあることに気が付きます。すぐに10以上は見つけることができますよ。
高岡城
東側は水堀となっていて、下りて観察することはできませんが、明の丸方面から見ることができます。
高岡城
他の郭や土橋では、水堀の水面に一段ほどの石積みが見えます。これは築城期のものか、城址公園整備のものか、詳細な現況調査が待たれます。
ここでひとつ城下にある遺構を紹介します。
大手町神明社
大手口から徒歩5分のところに、大手町神明社があります。
大手町神明社
この拝殿は、加賀藩2代藩主で高岡城を築城した前田利長の御廟の鎮守堂の遺構です。鎮守堂は明治に入って、この拝殿と本殿が五福町神明社に移築されました。後方の幣殿は後世のものです。
大手町神明社
拝殿だけではなく、後方の幣殿の金具にも前田家の剣梅鉢紋を見ることができます。

富山城 富山県の城館

内堀に映る天守が絵になる富山城ですが、元々の富山城には天守はなく、戦後城址公園で開催された博覧会に合わせて建設された模擬天守です。
富山城
模擬天守は郷土博物館となっていて、富山城の歴史について学ぶことができます。数年前にリニューアルされてから、現代的な楽しい展示となりました。一見の価値ありますよ。
この博物館を眺めながら内堀を渡る橋が、二の丸から本丸に入る大手口となります。
富山城
橋を渡ると、そこは石垣虎口となっており、右に2石、左に1石、前に2石の計5石の鏡石が配されています。この5石は陰陽道の五芒星を意味するとも言われています。
富山城
その石垣を進んで、右に折れたところに鉄御門がありました。
富山城
現在、藩政期の富山城の建造物遺構として残るのは、唯一この千歳御殿の門です。戦後民間に払い下げられていたが、平成19年度に寄贈・移築されました。
富山城
千歳御殿は10代藩主利保の隠居所として、現在の歓楽街である桜木町あたりに建てられ、移築された門は御殿の正門でした。北向きに建てられた門は晴天下では陰になって絵になりません。
富山城
本丸への搦手口を入ると、佐藤記念美術館があります。
富山城
その前には今年日本庭園が整備されました。
富山城
整備前の発掘調査でここから戦国時代の素堀の井戸が発見されました。現在は埋め立てられ、位置だけわかるようになっていました。
この発見により、今まで神保氏や佐々氏の居城した中世富山城がここにあったことが初めて考古学的に証明されました。
富山市埋蔵文化財センター 富山城研究コーナー

高岡城 井戸の巻 富山県の城館

今日は高岡城址に残る2つの井戸についてです。
高岡城
こちらは本丸の隅にひっそりと残っている本丸井戸です。なにげなくぶらり散歩していると、つい見逃してしまうような場所にあるので今までその存在も知りませんでした。
高岡城
高岡城
そして、三の丸にある民部之井戸です。こちらは目立つ部分にある井戸で、上屋がかかるほど重要な井戸だったようです。
高岡城
高岡城に滝があることを知っている人はどれだけいるでしょうか?
高岡城
城に滝?と思う人もいると思いますが、本丸にある射水神社の外周部、堀沿いにある道を歩くと、途中に石橋があります。この左手に・・・
高岡城
「古城の滝」があります。この滝は藩政期のものではなく、高岡古城公園の整備と同時に新造されたものです。
高岡城
その傍には太平洋戦争で掘られた防空壕の跡を見る事ができます。城に歴史あり、ですね。

高岡城 堀の巻 富山県の城館

しばらく土曜日に行ってきた高岡城を紹介します。
高岡城
高岡古城公園の石碑は大きなものが、ここ元竹薮側と三の丸搦手口の2箇所にあります。
高岡城
内堀にかかる「朝陽橋」です。藩政期はここに橋はありませんでした。この橋がなければ本丸に行くのにぐるりと回らなければいけませんが、ここを渡れば本丸に直行できます。公園整備の上では必須だったのでしょう。
高岡城
この橋から眺める堀の景色はいいものです。
高岡城
藩政期の堀がほぼそのまま残っている高岡城は、日本100名城にも選ばれていますが、古城公園整備の計画にはこの三の丸を囲む堀だけは埋めたてられる予定になっていた時期もありました。
高岡城
しかし、広い水堀の残っている城址はまさに水鳥の楽園です。
高岡城
高岡城
さまざまな水鳥がいつ来てもたくさんいます。
高岡城
堀に向けて一眼レフを向けている人がいたので、自分も覗いていると、被写体はカワセミでした。実物を見たのは初めてです。
高岡城
亀もたくさんいて、甲羅干しをしている亀も何匹かいましたが、死んだ鯉をつついている3匹の亀がなんとも微笑ましい光景でした。両側からつつけばいいのに、同じ方向からつついているので、鯉は流されてしまって、それを追いかけながら一所懸命つついている亀には、もう少し利口になれば?と思わずにはいられませんでした。

木舟城 富山県の城館

講演会の後、久しぶりに木舟城に寄って来ました。
木舟城
何年ぶりに来たのでしょうか?まだ福岡町が高岡市と合併する前だったので、現在の看板が立てられ整備された城跡には少し驚きましたよ。
木舟城
天正13年の大地震で陥没してしまった木舟城は、そのまま廃城となってしまい、現在は小山がわずかに残るだけです。
木舟城
旧福岡町で整備されたときに設置された石碑です。数年前に範囲確認調査が行われ、地震痕などが発見されていますが、まわりの田んぼの土地改良整備のときに表土がかなり失われていたようで、わずかに残る中世の地層からいくつかの遺物が出土しています。
木舟城
道路を挟んだ向こう側にもうひとつの小山が残っています。
木舟城
そこには貴布祢神社があります。
木舟城
社殿脇にはこの辺りにあったものか墓石が集められていました。
木舟城
整備された木舟城でしたが、また天気の良い日に来ようと思います。
実性寺
その後、元木舟城下町にあった実性寺に行きました。現在はかなり離れた、道の狭い場所にありました。
実性寺
まずその大きさに圧倒されました。村の寺としては大規模な建物群です。
実性寺
城下町時代からの力の大きさを感じることができました。

川手城 岐阜県の城館

加納城から徒歩5分ほどのところに、済美女子高校があります。
川手城
その場所が斉藤道三に美濃守護職から追われた土岐氏の居城であった川手城跡となります。
川手城
校内のほぼ中央、小さな公園のようになっている一角に石碑と案内板が立てられています。
石碑は「史蹟川手城跡」となっていますが、案内板は「革手城」となっていて、統一感ないですね。
川手城
校庭はかなり広いですが、川手城の発掘調査は今まで行なわれていないようです。すでに廃城となっていた川手城は、加納城築城のときの部材として土砂までとられたようで、徹底的に破壊されたようですが、掘れば何か出てきそうなものですが・・・
石碑の場所が北隅になると推定されているようです。

加納城 岐阜県の城館

岐阜城の後、近くの加納城を見に行きました。
一方通行が多く、駐車場を探すうちに大手門跡に着きました。
加納城
大手門跡は旧中山道沿いに建ち、この道路をまっすぐ進んだところに本丸跡が残っています。
中山道
ついでに旧中山道に立っている道標を見てきました。加納城城下町の中山道には他に2箇所道標があります。
駐車場をやっと見つけました。本丸跡の南側入口です。
加納城
本丸跡は周囲の石垣が多く残っていますが、草で覆われているものが多いです。こちらは東南隅の石垣です。
加納城
こちらは東側の二の丸から入る升形の南面ですが、草の枯れる冬が撮影の好機ですね。
加納城
本丸はかなりの広さで、周囲を土塁が巡っています。夕方は近所の方の犬の散歩コースとなっているですね。
加納城
本丸に南から入ったところに案内板が立てられています。
加納城
こちらは西南隅の石垣です。
加納城
本丸西面の中央部あたりは、土塁の高さに比べ石垣が低く作られていますが、この土塁の上あたりにも櫓がひとつありました。
加納城
こちらは西北隅の石垣です。この隅は天守台と言われていますが、他の三隅に比べ石垣の高さが低いですね。
加納城
こちらは東北隅の石垣です。
加納城
二の丸跡の大部分はJR東海の管理地で更地となっています。
加納城
二の丸東北隅に岐阜地方気象台が建っています。気象台の西南隅にそれらしい石垣がありますが、これは新造のものです。
加納城
ぐるりと回って、加納小学校に隣接する北面に向かうと、そこには二の丸で唯一石垣が残っています。
加納城
少し突出した部分には御三階櫓が建っていたので、ここは巨石が使われて立派ですね。
しかし、よく見ると崩落防止のため、石垣の間はセメントで埋められており、遺構が完全とは言えず残念です。
加納城
振り返ると、加納小学校の校庭があります。ここは内堀を挟んで三の丸があったところです。
加納城
二の丸、三の丸の東側には荒田川が流れ、天然の外堀となっていますが、上流を望むと、金華山と岐阜城が見えます。思いの外、遺構の残っている加納城跡でした。

丸山砦 岐阜県の城館

岐阜城の馬の背登山道と瞑想の小道(水手道)が分岐するところに、伊奈波神社跡があります。
丸山砦
ここが丸山砦跡です。金華山頂上の岐阜城を守備するために、尾根筋に築かれた砦のひとつです。
丸山砦
遺跡の一番の奥の平坦部には石堂があります。木々が囲み、見晴らしを確認できないのは残念です。
附近は神社建設や後世の改変が著しく、砦跡の痕跡はこの郭の大きさのみですね。

天下布武のはじまり 岐阜城 岐阜県の城館

岐阜城を訪れたのは9年ぶりです。前回は雲ひとつない晴天で作り物のような写真になった日でしたが、午前中の曇天が嘘のように午後からは同じく雲ひとつない晴天となりました。
岐阜城
岐阜公園側から4本ある登山道のうち、行きは百曲り登山道を登ることにしました。
岐阜城
しばらく登ると、ここに郭があったことを思わせる石積みの隅部分がありました。
岐阜城
登山道の途中には道をそれないように何箇所にも看板が掲示されています。
岐阜城
というのも、所々岩だらけの場所が登山道となっていて、道がわかりにくいのです。先週は一乗谷山城を登りましたが、他の山城はけもの道のように道が続き、道がわかりにくいということはないのですが、金華山の道のわかりにくさは別物ですね。
しかし、さすがに岐阜城、登る途中に何人もの人とすれ違いました。
岐阜城
40分ほどでロープウェーの山頂駅に到着しました。
岐阜城
山頂駅からは別方向に七曲り登山道(大手道)が続いています。次回はこの道から登ることにしましょう。
岐阜城
山頂駅のすぐ近くに天下第一の門が立っています。冠木門のこの門は実際あったものではなく、記念として新造されたものです。
岐阜城
少し進むと上格子門跡がありますが、ここは実際に戦闘も行われました。
岐阜城
さらに進むと、馬場跡。
岐阜城
そして、二の丸門があります。手前の階段脇に残るのは旧石垣遺構ですが、
岐阜城
塀下の石垣、冠木門は新造のものです。
岐阜城
二の丸には塀が復元されていますが、その塀越しに復元天守を見ることができます。晴天では奥が白飛びして写真がうまく撮れません。
岐阜城
階段の途中からは岐阜城資料館を左に見て、岐阜市内が臨めます。
岐阜城
階段を上り、気象台の建物の横を下りていくと、軍用井戸が残っています。
岐阜城
岐阜城
模擬天守を写すにはここが一番のベストポイントですね。
岐阜城
石垣には金華山で取れる自然石が積まれています。
岐阜城
模擬天守の最上階から眺める景色は絶景です。遠くが霧がかっているのは残念です。
岐阜城
長良川にかかる橋の向こう側には斉藤道三が隠居していた鷺山城が見えます。
岐阜城
それでは、帰りは馬の背登山道を行くことにします。
岐阜城
ここを帰り道に選んだのは間違いでした。写真の場所が最難関の10メートル以上続く岩場ですが、行きの百曲り登山道以上の難所が多く、下りるのに40分。下りは上りより時間がかからないのが常識ですが、岐阜城はあなどれません。そういえば、入口看板に「老人・幼児には無理です」って書かれてあったな・・・
さて、岐阜城の遺構は近くにもうひとつ残っています。自家用車で岐阜公園に来たときは公園駐車場に停めることも多いと思いますが、
惣構土居
この駐車場の隣接する金華山トンネルから延びる土盛りが、城下町を囲むように作られた惣構の土居の跡です。残存部分はわずか数十メートルですが、貴重な遺構です。
惣構土居
まだまだ見逃した遺構がありますが、それは次回ですね。

織田信長居館跡 岐阜県の城館

岐阜城のある金華山の麓、岐阜公園内に織田信長居館跡があります。
1984年、岐阜市制100年の記念事業として、居館復元を目指し発掘調査が始まりました。
織田信長居館跡
第一次調査部分の入口には冠木門が復元されていますが、礎石が出土したわけではなく、位置もはっきりしていないようです。
織田信長居館跡
門をくぐり階段をのぼると、巨石が並ぶ通路が目の前に広がります。
織田信長居館跡
整備されてから時がたっているので少し草も繁茂して荒れた感じもありますが、すばらしい遺跡です。
織田信長居館跡
直角に曲がる通路を通って、階段を上ったところに石碑が立っています。
織田信長居館跡
織田信長居館跡
雨が降ったあとだと坂が少し滑りやすいので気をつけないといけません。
織田信長居館跡
ここまでは曇り空の午前中の写真を掲載しましたが、以下は晴天の夕方の写真となります。
織田信長居館跡
晴れすぎていると木の影がくっきり出てしまいますので、うす曇のほうが写真としては分りやすいですね。
織田信長居館跡
金華山ロープウェー
さて、ロープウェーの麓駅の西側入口の脇に第3次調査で発見された戦国時代の井戸が復元されています。
井戸跡
今は蓋が掛けられているので中はのぞくことができないのが残念です。
現在第4次調査が行われている信長居館跡ですが、あと数年後にはさらに奥まで整備されることと思いますので楽しみですね。最奥の上段には展望台でも作って城下方向の木々を払って見晴らしを体験できればいいと思いますがいかがでしょうか?

一乗谷山城跡と企画展「金工の技と美」 福井県の城館

今日はお盆でしたが、ちょうど企画展の解説があるようなので、福井市の一乗谷朝倉氏遺跡に行ってきました。下道で行ってきましたが、思いのほか空いていたので良かったです。
西山光照寺跡
最初に天台宗の西山光照寺跡を見に行きました。ここは石像が何体も集められていていい遺跡なんですが、石碑がなんでこんな場所に立っているのでしょうか?もっといいアングルで遺跡が写る場所に移動してほしいです。
西山光照寺跡
西山光照寺跡
次に、企画展の前に山城跡に登ることにしましょう。そのために今日は朝早く出てきました。
朝倉館跡
一乗谷で最も有名な遺跡である朝倉館跡には、すでに大勢の観光客が来ていました。お盆の時期は多いときでは1000名以上来るそうです。
南陽寺跡庭園
始め勘違いしていて、朝倉館跡の裏に山城への入口があるものと思っていましたが、そこには右側に初代孝景の墓、左側に南陽寺跡庭園がありました。
南陽寺跡庭園
南陽寺は足利義昭が京を追われて一乗谷に身を寄せたときに滞在した尼寺です。現在庭園の一部の石列が当時の面影を残しています。
一乗谷山城跡
駐車場を復元町並から、一乗谷史跡公園センターに移動し、八幡神社の横から登っていきます。
一乗谷山城跡
看板には「城山まで1.5km」と書かれています。
一乗谷山城跡
少し登るとそこは馬出と呼ばれる場所です。石垣を所々で見る事ができます。
一乗谷山城跡
その馬出の間を上っていくと、砂防堤がありました。その脇の階段を上がると、
一乗谷山城跡
「城山まで1.0km」の看板が。ここまでは比較的楽だったんですが・・・
一乗谷山城跡
そして、そこには「小見放城跡」の書かれた看板?が立っています。後方右側になりますが、そこは行けません。なにしろ草深いですからね。
一乗谷山城跡
そこからはまさにけもの道程度の広さの上り坂を登る、登る、登る・・・・、ひたすら急な坂を登りました。途中ではクモやゲジゲジ、蚊に加えて、蛇にも睨まれてしまいました。夏の山は注意が必要です。
一乗谷山城跡
道は地下水がしみ出てぬかるんでいるところもあり、足場が良いといえませんでした。
が、ひたすら登るとようやく次の看板が・・・
「城山まで0.2km」あと少しです
一乗谷山城跡
そこからも、さらに登り坂。最初に着いた場所が「千畳敷」と呼ばれる本丸跡です。
一乗谷山城跡
ところどころに破壊された石が散乱しているのが、戦乱の爪痕として生々しいですね。
一乗谷山城跡
千畳敷では土塁跡もはっきりとわかります。
一乗谷山城跡
さらに奥に進むと一の丸となります。郭跡はさらに上ですが、道はないようです。
一乗谷山城跡
郭と道となっている間には溝跡らしい窪みがあります。写真ではわかりにくいですが、右下から左上に斜めになりますよ。
一乗谷山城跡
一の丸の奥に、二の丸、三の丸が続きますが、各郭の間は堀切により完全に遮断されています。
一乗谷山城跡
さらに、その堀切と逆側には竪堀が深く掘られています。間の土橋?は結果的に細くなり敵の侵入を防ぐようになっています。
一乗谷山城跡
一乗谷山城は、麓から千畳敷(本丸)、一の丸、二の丸、三の丸となっていて不思議です。最終防衛地点の本丸が一番奥になっていないのはなぜ?
一乗谷朝倉氏遺跡資料館
しかし、詰めの城の山城をなめていました。こんなに急な道のりだとは思いませんでしたよ。体調が万全でないと非常にきついです。やっとのことで下りてきて、足がガクガクになってしまいました。
砂防堤附近で今日始めて人とすれ違いました。親子2人でしたが、まだまだ子供は元気に登っていきましたが、山城はここからが本番、果してたどり着いたでしょうか?
1時半から始まる一乗谷朝倉氏遺跡資料館の企画展に少し遅れてしまいました。
企画展「金工の技と美」
今日の目的はこの企画展「金工の技と美」の鑑賞です。折角見るなら解説付き!ということで解説に聞き入ります。お盆で家族連れが復元町並を訪れる中、この解説には10名余の参加です。ちょっと寂しい感じですが、その分ゆっくりと聞けました。帰りに図録を買ってきました。