見晴らしの良い高台に大通寺があります。
長篠城の巴城郭や瓢郭を眼下に見下ろすこの山に武田軍の陣地がありました。
この陣地に陣取ったのは、馬場信春、武田信豊、小山田信行の三将です。
遊歩道になっている山中を歩くと意外に大きな平坦部が広がっています。先日の台風で倒木が多く、遊歩道を何箇所もふさいでいました。
2000人と言われる兵が陣取ったと説明されています。
注意深く観察すると、低い石積みや土盛が見えますが、これが陣跡のものなのか、遊歩道整備のためなのか、森林植樹によるものなのか判断できませんでした。
長篠城に行ったときはゆっくり散策するのも気持ちよいですよ。
カテゴリー: 攻城記
長篠城 愛知県の城館
ここは長篠合戦で有名な長篠城です。
本丸址は子供たちが野球できるほど広いです。。
本丸址入口に立つ長篠城址史跡保存館では、城主だった奥平氏に関する展示がされています。
本丸と帯郭の間には深い堀があります。
土塁の上には古い長篠城址の石碑がありました。
本丸の向こう側に行くと、武田軍が陣取った5つの砦群が見えます。
この看板なぜフェンスなのかというと、
鉄道が敷かれているんですよ。長篠城址は線路でまっ二つにされており、今も電車が通っています。
本丸址の西側に弾正郭址があります。入口の石積みは見所のひとつですね。郭の中には住宅が建ち、今も住んでいるようです。
弾正郭の向かい側に家老屋敷址があります。
線路を横切って行くと、野牛郭址になります。左手の土塁は物見櫓址です。
野牛郭には殿井が残っているのですが、看板が木に隠れていて最初見落としてしまいました。保存館で聞いて帰る前にまた見にきました。石組みが良く残っています。
保存館の駐車場横は巴城郭址となります。
保存館の駐車場前は倉屋敷址になります。保存館のまわりだけでも多くの見所がありますね。
保存館から東に少し歩くと、瓢郭址があります。線路沿いの標柱の場所は畑となっていました。
さらに東に歩くと搦手門址となります。石がたくさん積まれていましたが、遺構ではないようです。
保存館から北の大通りに出て西に歩くと、サークルKの駐車場に大手門址の標柱がありますが、この辺りは全く遺構は残っていませんね。
さて、線路を横切って野牛郭を行くと、その先端部は少し盛り上がっています。櫓址ですが、正面の木々がなければ川の対岸がよく見えることでしょう。
さらに、進んで下に降りていくと川岸までたどり着きますが、地図ではここに「夢出会い橋」が・・・
橋が・・・
あるはずだったのですが、今は橋脚しか残っていません。保存館で尋ねると、以前イベントで期間限定で架けられていたことがあるそうです。次はいつのことやら?
ここを渡れると、鳶が巣山砦方面へ行くのに近いのですが・・・
しかし、天候が良ければ川を横切る線路とともに絶景を見ることができますよ!
鳥羽山城 静岡県の城館
イベントの昼休みを利用して、お隣の鳥羽山城を再訪しました。(昨日も行きましたが夕方で暗かったもので)
大手門跡に続く大手道は幅6メートルの立派なものです。
大手門など本丸のまわりは、武田軍との攻防のあとに入封した堀尾氏により石垣造りになったようです。
大手門のほかに、橋のかかった通用門と
搦手門が本丸の入口となります。
本丸はかなりの広さです。
本丸西側には腰巻石垣が長く残っています。
笹曲輪からは天竜川を挟んで和田ヶ島砦が見えます。
本丸からは二俣城は見えませんが、一段下のわんぱく広場になっている曲輪から、かろうじて二俣城が見えます。
腰曲輪を利用した駐車場には公園となっている城址の全体図があります。
二俣城 静岡県の城館
二俣城は武田軍との激戦地となった城です。また、徳川家康の嫡男信康が自害させられた城としても有名です。
国民文化祭しずおか2009に合わせ、期間限定で復元された天守です。
蔵屋敷跡には入ることができません。
蔵屋敷と二の郭の間には深い堀切を見る事ができます。
鳥羽山城側から見ると、現在は堤防になっていますが、左の天竜川に向かって、右側から川が流れていました。川の合流点の先端に山城を築いていました。
刑部砦 静岡県の城館
刑部城の近く、「刑部砦」跡です。ここは刑部城以上に探すのに苦労しました。
道沿いに碑があるのですが、非常に見落としやすい場所にあります。
正面に「史蹟」、裏に由緒が書かれていますが非常に読みにくくなっています。
犀ヶ崖で首実検をした武田信玄が三方原台地を北上して陣を構えた場所と伝わっています。
わかりにくい場所ですが、サンキューオートの隣りですので、そちらを目印に探すと良いでしょう。
刑部城 静岡県の城館
交差点近くに立てられた「刑部(おさかべ)城址」の案内板です。ようやく探し当てました。
山城だと聞いていたのですが、
道向いのあちらの山か?
振り向いてあるこちらの山か?
道路建設により2つに分断されているそうなのだが、案内板でも書かれている残っている犬走や井戸跡が見たかった・・・
こちらの山の別の面には「金襴の池」という刑部城にまつわる話がかかれた案内板もありますよ。
松下屋敷(頭陀寺城) 静岡県の城館
浜松駅近くに宿泊したこともあり、朝は早く出かけて松下屋敷にやってきました。
一歩通行やら細い路地が交差し、かなり迷いましたが到着です。
公園となっている屋敷跡の休憩所に由来が書かれています。
石碑には「松下嘉平次屋敷跡」と書かれています。案内板には松下嘉平次は豊臣秀吉が奉公したとあります。そういえば、秀吉は信長の草履取りになる前に松下氏に奉公していましたが、この場所がそうだとは・・・、尾張生まれの秀吉がはるばる遠江まで来たんですね。
かなり錆びた案内板ですが、屋根があるおかげで何とか読むことはできます。
絵図によると、公園のまわりの今道路になっている部分は少なくとも堀か屋敷地内だったようですね。
曳馬城 静岡県の城館
浜松東照宮への参道ですが、坂になっていて徐々に上っている土地であることがわかります。
浜松東照宮は浜松城古絵図には「古城」として表記されています。
鳥居の横に「曳馬城跡」の碑があります。
境内には思いの他広い空間があります。
境内の一番奥に少し盛り上がった土塁か?何かと思えるものがありましたが、明確に遺構と思われるものは何もありません。
横から境内を見るとかなりの高さがありますので、ここに城が築かれた理由もわかりますね。
いざ浜松城へ! 静岡県の城館
浜松城に来ました。良い天候に誘われてか、たくさんの観光客が訪れています。
公園無料駐車場側から本丸に至る通路脇には古い石垣が残っています。
いざ浜松城天守の中に入ります。
通常展示に加えて、国民文化祭にあわせて「センゴク」原画展をしていました。迫力ある戦国の男たちで絵でした。マンガ本欲しくなってしまいましたよ。
最上階からの展望は浜松の市街を見渡せます。駐車場となっている一帯は旧二の丸となりますが、奥の木が茂っているあたりが浜松城築城前の曳馬城跡となります。
入ってきたのと逆側の本丸入口の石垣も、通路両側にそびえ良い風景です。
本丸には井戸がひとつ残っていますが、天守の地下にもひとつ残っています。他にも井戸はあったようですが、見当たりませんでした。
本丸一段下の郭に家康像が立っています。向きが東向きだったら、後ろに天守が見えるのですが。
鉈尾山城 岐阜県の城館
北陸東海自動車道の途中に「古城山パーキングエリア」がある。
パーキングエリアに附近の地図があるが、古城山は別名、鉈尾山(はたおやま)と言われるらしい。パーキングからどの方角に山がそうであったのかよく分からなかった。
天文8年に佐藤将監清信が山上に築城し、3代目方政の時代に岐阜城の織田秀信に従って関ヶ原の合戦に出陣して生死不明となり、廃城となった。
金沢城 丑寅櫓跡
本丸東側にあり、兼六園に面する櫓台が丑寅櫓跡です。
普段はあまり観光客が来ない場所ですが、
ここからは天気がよければ、医王山系の山々や石切り場である戸室山が見えます。
それでは城らしい見所を紹介します。櫓台なので、隅石に柱穴が見られます。
こちらは北西
そして北東
百間堀に面する南東には3石連続で柱穴があります。
最後の南西は櫓台整備のためか柱穴はありません。
と思ったら、櫓台の上に並んでいる1石に柱穴を見つけました。
今度行ったときはじっくりと鑑賞してくださいね。
熊本城 城主手形来る!
久しぶりに熊本市から郵便が届いたので何かな?と思ったら
「熊本城主手形」が入っていました。
一年間の有効期限で
1.熊本市が管理する13の有料施設へ無料入場
2.熊本県物産館、熊本城内売店、動植物園売店での5%割引
3.城主手形協賛店での特典
という内容です。
寄付をして一口城主になったのは、もう3年も前になりますので、熊本市の熊本城復元にかける思いは並々ならぬものですね。
現在は第二期復元事業に入り、今後も建物の建造が進むのは楽しみですが、また余裕があれば寄付したいと思わせる特典ですね。
熊本城復元募金 新「一口城主制度」
堅田城 石川県の城館
探訪会で疲れましたが、まだ明るいということでいつか行きたいと思っていた堅田城跡に登ってきました。
山側環状のトンネルのあるいずれの山だとは聞いていたのですが、森本トンネルの頂上でした。
堅田城は北陸道・小原越といった主要道や森下川・河北潟・日本海といった水上交通の要衝に立地する中世山城であり、麓の堅田B遺跡(山側環状の工事で発掘調査が行われ、現在は道路の下)からは鎌倉時代の館跡が見つかっています。
森本ICを下り、市街方向から医王病院を越えると案内板がありました。
麓に立つ看板を見ると、ここ墓地側と少し先の神社裏から登山道が整備されているようです。別のホームページではもう1本あるようなことを書いてありましたが、ここには記載がありません。
墓参の方用に砂利の駐車場がありましたので車を停めて登ります。麓から400メートル。15分ほどのちょうどよい距離です。
半分の200メートル進むと、けもの道になりました。3年ほどまえに整備され、竹が伐採されましたが、未だにその根元が残っていて気をつけないとつまずいてしまいます。
主郭に到着すると思いのほか広いですね。
主郭西側に見張り台とも思える小山があり、そこからは日本海、河北潟が一望できます。
主郭南側にまわると北陸道森本ICがよく見えます。
主郭の東側には一段低い郭があり、神社裏から登ってくる道があります。平地として整備されているのは主郭と東側の郭です。西側にも郭がありますが、木々に囲まれている影響もあるのか草も生え放題でした。
主郭の北側には2列の畝状竪堀を見ることができます。ちょっと分かりにくいです。
主郭の西側にまわりこむと、そこには大規模な畝状竪堀がありました。
こんな近所で大規模な畝状竪堀が見れるとは・・・感動です。
これだけ良好に遺構が残っているのだから、もっと有名になってもいいと思うのですが・・・
金沢城、七尾城、鳥越城、小松城、大聖寺城・・・・他の城は残念ながらいまいち知名度がありません。
夕方に登ったのには理由がありました。もしかしたら夜景がきれいかな?と思っていたのです。数十分で空が赤くなってきました。
金沢市街の方角は木々で隠れてしまっています。隙間からなんとか県庁が見えますが、夜景が一番きれいな方角なので勿体無いですね。
森本ICにできる光の列がきれいです。もっと暗いときれいなのですが、懐中電灯を持参していませんし、足元が見える間に麓に下ります。熊の目撃情報はないようですが、カモシカが出るようですし。
かなり低くなってから視界が開けていました。医王病院の向こうに市街が見えます。暗いと足元の竹の切り株につまずきそうで恐いですが、整備すれば卯辰山に負けない夜景スポットになりますね。
二曲城 石川県の城館
白山市鳥越の一向一揆歴史館の背後の山が二曲城跡です。
現在一向一揆歴史館では、平成16年より史跡整備のために進められてきた二曲城跡発掘調査の成果を展示する企画展が年内開催されています。
二曲城は鳥越城の支城のひとつですが、鳥越城ほど有名ではありません。しかしながら、鳥越城とセットで国史跡に登録されています。(どれほどの人がこの事実を知っているのか?)
小さな山城なのでサッと見ても小1時間はかかりません。
まずは入ってすぐに虎口にあたる土塁に突き当たります。
その土塁の背後にはため池が残っています。
さらにそのまま谷あいを進むと、土嚢の積まれた土塁に突き当たりますが、この場所で石積みが見つかっています。また、手前には空堀が見つかっています。
本丸には小さな祠が建てられています。眼前には鳥越城が望めます。
本丸からは鳥越城方面や白山方面が望め、手取川の悠々と流れています。空が晴れていれば白山も見えます。
里に近いのでクマは出ないようですが、蛇には遭遇しますよ。気を付けて下さい!
二曲城は古文献に多く記載が残っていますが、その一部は鳥越城だと考えられています。近くの殿様屋敷は二曲城の根小屋と推測され、平時の館と戦時の山城という対で機能していたと考えられます。
殿様屋敷 石川県の城館
白山市鳥越の一向一揆歴史館の裏に殿様屋敷跡と呼ばれる場所があります。
道路から2メートルほど高くなっている高台は、現在大部分が畑となっています。
隣接する八幡神社の境内は
さらに高くなっていますが、平坦地はかなりの広さです。
上段と下段の一部は墓地や参道として一部破壊されていますが、屋敷範囲は見てとれます。
当地は在地土豪の二曲左京進、または鈴木出羽守の子である鈴木左京進の屋敷跡と推測されています。
岩倉城 石川県の城館
小松市から白山市鳥越に入る道路沿いに岩倉城があります。
道路沿いに案内板がありましたので登ってきました。後ろに見えるのが岩倉山です。
案内板の道路の向こう側に遊歩道への入口がありますが、案内板側からは見にくいですね。
岩倉山は杉の木で覆われています。
軽自動車も通れる幅の遊歩道を進むと、途中に案内板がありました。ここから40分程度で頂上のようです。
少し進むと「おうめ地蔵」がありました。案内板がなく由来はよくわかりませんが
和やかなお顔の地蔵様です。
しばらく行くと、車道幅の遊歩道は切れ、けもの道幅の登山道となりました。後で考えるとここから頂上まで40分だったようです。
数10メートル登ると、「さむらい道」右という石碑がありました。道は上にも続いていますが、石碑に沿って右に曲がります。
遊歩道とは違う元々の登山道のようです。非常に雰囲気にある道でしたが、ずっと下っていきます。
遊歩道も登ってわずかに下がる場所もあったので、いずれ登ると思っていましたが、約10分やはり下っているので、これでは麓に着いてしまうと思い引き返しました。
戻ってみると、先の木に城址の矢印が逆になっているではないですか!
気を取り直して登ります。この山の地肌は基本的に岩のようです。それが山の名前の由来かもしれませんが、雨の日や大雨の後だと登山道は滑りやすくとても登れそうにはありません。登山道は完全に雨の通り道となっていて、長年表面を削られています。
登っていくと、「馬かけ馬場」に出ました。
案内板には「眺望良好」と書かれた場所で、朽ちた看板が下に横たわっています。
しかし、現在はこんな状態・・・・。本来であれば麓の集落や道路が見渡せるはずであったのですが、杉木が成長しすぎです。城跡が整備されたのが今から20年ほど前になるようで、20年も経てば杉も大きくなりますね。
さらに進むと大きく開けた平地に出ました。
ここは「米左衛門屋敷跡」です。岩倉城は加賀一向宗が越前の朝倉氏に対抗した築城した山城で、最初の城主が沢米左衛門と伝えられています。
屋敷跡の本丸側出口には「米左衛門地蔵」がありました。
さらに進むと、「岩倉城址」が左側、「岩倉観音」が右側の分かれ道に出ました。
時間も足りなくなっていたので「岩倉城址」に進みます。虎口らしい部分に入ると小さな平地に出ました。そこが「変形馬出」となります。写真中央付近が入口の虎口、その向こうに本丸の土塁と帯郭が見えます。
この変形馬出から本丸に入る枡形虎口が一揆勢方の大手口となります。織田方に奪われた後は搦手口となりました。
本丸は非常に広い郭です。回りに土塁が巡っています。良好に土塁が残っていますが、やはり眺望がきかないのが山城としては非常に残念です。
「一向一揆古戦場」の木碑とともに案内板が設置されています。
案内板を見ると、この本丸を中心に非常に多くの郭が残っているようです。
本丸から平入虎口を出ると、
そこは角馬出と
本丸帯郭を伴う二の丸となります。平入虎口は一揆方の搦手口、織田方になって大手口となりました。
二の丸の先には三の丸が広がります。
その北側には空堀を兼ねる登山となっていますが、こちらは整備されておらず、先の道が全くわからなくなっています。
本丸に戻ると、東口の近くに、投げ石が残っていました。一揆方が500年前に運び込んだものと思われます。
東口をまっすぐ下りてしまうと腰郭に出てしまいましたが、少し戻って下りると岩倉観音に出ました。この観音がある場所は大きな帯郭となっています。
あまり清掃はされていないようですが・・・
中には石造の千手観音様、狛犬が大事に保管されていました。
戻る途中、水が流れる小さな橋を渡ると、
「清水地蔵」が祀られていました。
麓まで下りてくると、案内板をもう一度見ました。どうも二の丸の位置が違うようです。二の丸の指している場所は角馬出であり、白い帯郭の部分が二の丸としたほうが適切なようです。
調度案内板の前に駐車していたところで、そのお宅のご年配と話をする機会がありました。
この集落は17軒しかないようです。集落の人間もめったに登らない山に登る人が珍しかったようですが、良好に残る山城の特徴は県内随一です。そんな山城が宣伝もされずに埋れているのは確かに勿体無いですが、そのおかげで未だにここまで残っているのも確かですね。以前三重県などからも登るために来たとか!これだけの遺構が残っていれば遠方から来ても一見の価値はありますね。
織田方との争いの時代になると、鳥越城の支城として街道を監視する役割を担った岩倉城は、本城の鳥越城と近郊の二曲城が国史跡になったにもかかわらず、自治体が違うというだけで文化財指定もないようです(市指定ぐらいにはなっているのかな?)。
この辺りではよくイノシシが出るそうです。つい最近もそこの山に出たそうです(遊歩道の途中にオリがあった)が、クマは最近でないようです。一昔は鹿もいたそうですが、移動して今はいなくなったとのことですが、今日は何にも会わなくて良かったです。
安土城 滋賀県の城館
安土城は現在公開中の映画「火天の城」の影響で大勢の観光客が詰め掛けています。
平成20年度に20年にも及ぶ発掘調査を終えたばかりですが、安土城の全貌はまだまだ謎のままです。
安土城考古博物館から見る方角(南側)が大手となります。
こちらは城下町から見る(西側)安土城です。
意外とこの「安土城址」の石碑は知られていない存在なのかもしれません。日本100名城スタンプラリーの図柄にも採用されているのですが・・・
昨年から入山が有料となり、総見寺に近い西側から登る道からは入山できなくなりました。残念です。
観音寺城 滋賀県の城館
今日は山頂に登ったわけではありませんが、周辺からみる観音寺城を紹介します。
こちらは麓の安土城考古博物館からみた観音寺山(観音寺城)です。観音寺城には考古博物館から登る道が2本、桑実寺から登る道、観音正寺から登る道があります。桑実寺から登る道のみ入山料300円かかります。
こちらは安土城下町のセミナリヨ址に整備されたセミナリヨ史跡公園から見た観音寺城です。
こちらは常浜港舟入跡や木村城跡のある常浜公園から見た観音寺城です。
木村城 滋賀県の城館
常浜公園の西端に位置する畑が木村城跡です。
安土町大字常楽寺には、中世から近世にかけて栄えた「常楽寺港」と呼ばれた港がありました。この常楽寺港の入り口付近に「木村」と呼ばれる小字名が残った畑があります。ここが木村城(館)跡の推定地で、佐々木六角氏の家臣であった木村氏の居館とされています。
現在館跡と伝えられる一角は畑地として残されていますが、周辺の水路の大部分が埋め立てられ、現在見られる石垣は後世に構築されたと推定されているので、遺構ではありません。
平成元年の発掘調査で、南北に伸びる溝状の遺構が検出され、館を区画する堀跡の一部と推定されています。伝承部分が多い木村城ですが、その実態は明らかにされていません。
宮腰台場 石川県の城館
もう1箇所の金沢の台場は、大野からくり記念館のそばにある大野お台場公園にあります。
公園の石碑の題字は、現石川県知事の谷本知事によるものです。
公園内には港近くということで、藩政期の北前船を模したオブジェが作られています。
どこに台場跡があるのかと探していましたが、公園内からは見えません。
と思っていたら、外周部の歩道に作られていました。これでは生垣で公園内からは見えませんね。
どこか短身で憎めない姿ですが、こんな大砲じゃ打てませんよね。
砲身の向けられた方角には海があったはずですが、開拓で海が少し遠くなってしまいました。