勝山市役所や市民会館のある場所は勝山城のあった場所です。
数年前に来た時は、案内板のあった場所はちょっと違っていた記憶がありますが、
今は市民会館の前の庭園に城址の石碑が立っていて、手前に案内板があります。
雪に覆われてはっきりとはわかりません。
城址の碑は立派ですが、奥に追いやられて目立ちませんね。
ゆめおーれ勝山から中央公園に入る交差点に架かる橋のあたりに「東御門」があったようです。
市民会館の南側は大きく地形が下がっていて、「七里壁」と呼ばれる城内と城下を隔てる天然の防御壁となっています。
城下には所々に道の案内板が立てられ、歩きながら城下の学習をすることができます。
全部で何か所あるのかわかりませんが、自分は10か所近く確認しました。
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福井城 福井県の城館
福井城の建造物復元第二弾として2年前に復元された「御廊下橋」です。その奥の石垣は天守台となります。
橋を櫓を乗せるという形式は府内城など全国でも数城でしか見ることができない貴重なものです。
御廊下橋から本丸に入るところの門は「山里口御門」です。埋門とも言われた門は石垣の間に隠れたように建つ門であり、今も石垣に木材を固定した穴が残っています。
天守の石垣はそのまま残っています。というより本丸の石垣の大部分と内堀一周が水堀として残っているのが福井城の見どころですね。
天守台そばには「福井」の語源となった「福の居」が残っています。
天守台には天守の礎石が並んでいますが、その巨大さからは譜代に恥じない巨大な天守が建っていたことが想像できます。
本丸の福井県庁前には徳川家康の二男結城秀康の石像が作られましたが、どこか日本っぽくない?
と思っていたら作ったのはやはり中国の方でした。どう見ても甲冑は鉄板だよな。
福井城建造物の復元第一弾は福井市郷土歴史博物館の「舎人門」です。三の丸の加賀方面の出入口に立つ門でした。赤瓦が特徴的ですが、夜はライトアップされて水堀に映る姿がいい景色ですね。
福井城の復元をすすめる会では、御廊下橋に続いて、本丸巽櫓の復元を目指しているそうです。本丸は四隅の櫓台がすべて残っているので、櫓が復元されれば水堀に映る美しい姿が見どころですね。
北ノ庄城 福井県の城館
福井市の北ノ庄城址公園です。2、3年前に整備されました。
ここは柴田勝家公を祀る柴田神社の境内です。ここが北ノ庄城の本丸跡と説明されることが多いですが、全く確証はありません。というのも、北ノ庄城を破壊した上に福井城が築城されたためと、同時代の絵図が全く残っていないためです。
柴田神社本殿の隣には三姉妹神社が建っています。そのため柴田神社は恋愛の神でもあります。
三姉妹の母である「お市の方」の銅像が三姉妹神社を見守るように立っています。以前は違う向きでしたが、この向きは偶然でしょうか?
柴田勝家像は幹線道路に向かって立っています。こちらも以前は違う向きでした。知る限り3回向きが変わっていますね。
隣接して城址資料館が建てられました。ボランティアのガイドによる説明付きです。「柴田勝家公は尾張の生まれですよー」、って知ってるよ。
二階から城址公園を見渡せますが、境内地でもあるのでそんなに広い範囲ではありません。ここから見える石垣なども多くは整備用だったり、福井城のものだったりします。
北ノ庄城の石垣はこちらと、
こちらの2箇所の根石が1列分残っているのみです。市内では福井城の遺構の下に北ノ庄城の遺構が何箇所か見つかっているようですが、全貌がいつか解明されることを願っています。
越前大野城 福井県の城館
築城430年祭の行われている越前大野城です。
亀山の頂上に模擬天守が建てられていて、町のシンボルです。
以前訪れたのはもう8年ほど前になるでしょうか?そのときはこのあたりに駐車場があった記憶がありますが、山麓の二の丸跡には現在「学びの里 めいりん」が建てられ、
道路沿いに内堀が復元されています。
南登り口には城門が建てられていますが、藩政期にここに道はなく、観光用の門です。
藩政期の山頂への道は唯一この「百間坂」のみです。
百間坂を登ってくると、三の郭に出ますが、ここから本丸への入口は石垣が積まれています。
三の曲輪の先端には「麻木櫓」が建てられ、城内唯一の二重櫓でした。
現在は麻木櫓の建っていた斜面はコンクリで固められていますが、藩政期は土のままだったようです。
本丸北東面です。
東面は石垣が積まれていますが、隅で切れ、南面は土塁となっています。
三の郭から本郭へ入る石垣上に「越前大野城」の石碑が立てられています。
本丸御殿の建てられた石垣上には模擬天守として資料館が建てられています。
二の郭には大野城下町の基礎をつくった金森長近の銅像が立っています。
資料館に入る前に本郭のまわりをぐるりと一周しました。こちらは南側の「武具蔵跡」です。
そして「お福池」です。
本郭への入口は2箇所。殿様が登るのはこちら「駕籠道」です。
本郭の北西方向に広がるのは「塩硝蔵跡」です。
模擬天守から西、福井方向にはこの亀山に城を移す前の戌山城が見えます。
東側には二の丸、三の丸、城下が広がります。
資料館の東の平坦部には
亀山の最頂点、三角点があります。
殿様以外の武者はこの急な「武者走り」を登りました。
急、かつ折れがあり、視界が一瞬遮られます。
本丸の南側は「地獄谷」という非常な急斜面となっています。
街中に残る「石燈籠地蔵尊」です。金森長近が城下町を建設するにあたり、ここを起点として京都を模した碁盤の目の町割りを行いました。
大野城の唯一の建造物の遺構である「鳩門」です。亀山の北西にある光明寺の寺門として改修されて残っています。前面は火頭窓。
背面は障子戸となっていますが、二の丸の正門として威厳ある大きさの門です。
国吉城 福井県の城館
姫路へ向かう途中で、昨年春オープンしたばかりの若狭国吉城歴史資料館に寄りました。
佐柿町奉行所跡に建設された資料館の入館料は100円!安いですね。
ここでは国吉城を中心に佐柿町の歴史を学ぶことができます。国吉城の立体模型もありますよ。
資料館は夏休みとはいえ、平日の午前なので観光客は自分たちだけでしたのでゆっくりと見学できました。
資料館を見て帰ろうと思っていると、受付で今日は本丸近くで発掘調査が行われているとのこと・・・
登るつもりはありませんでしたが、調査中と言われれば登らないわけにはいきません!!
ということで登り始めますが、寝不足気味もありバテバテです。6分ほど登ったところで佐柿の町並みが見えました。
さらに登ると、本丸下段の堀切のところへやってきました。
今回の発掘調査はこの堀切のようです。
堀切の両側に石垣が出ています。
かなり立派な石積みですね。中世の山城でも堀切のみ石垣をもったものは見たことないですが、もしかすると郭をぐるりと石垣が巻いていたのかもしれませんね。破却されてここだけ残ったのであればわからないこともないな。
すぐ上の本丸へ向かいます。本丸の入口は虎口のようになっているようですが、手前に「石垣」の看板があるけど、どこ???
と思っていたら、側面の急な崖の部分に一部石積みが残っていました。自然石を積んだ形式は堀切の石積みと同じ形式です。
本丸から見た佐柿の町並みです。
本丸はけっこう広いです。
中央付近に「国吉城」と書かれた小さな石碑と案内板があります。
本丸奥には一段高くなった土塁が残っています。その下に堀切が残っているようですが確認できませんでした。
戻ってくると休憩が終わって、発掘作業が始まっていました。
下りてくる途中に伝二の丸跡があります。資料館前の案内板では出丸跡となっていました。
一段低い平坦地へ下りてみると、ここには土塁と門跡が残っていました。
反対側の郭から見ると、この門跡はまっすぐには進めない巧妙な仕組みになっていることがよくわかります。
麓には館跡があります。前回の訪問時はこの館跡の発掘調査が行われていました。館跡のまわりは石組み水路が見つかっています。
国吉城はこの麓の館と山頂に築かれた山城という、中世の典型的な平時の館と詰めの城形式です。
資料館に戻ってきました。奉行所の石垣も復元されています。
整備された駐車場には「国吉城址」の立派な石碑が新設されていました。本丸へ登らない方はこの石碑の前で記念撮影するのでしょうね。
村岡山城 福井県の城館
何年かぶりに福井県勝山にある村岡山に登ってきました。
前に一度訪れたとき、どこから上ったのか記憶になかったので、とりあえず山を登るような道を進むことにして、村岡神社の本堂の脇の道を進むことにしましたが、けもの道はあるものの、夏場であるので草が非常に大きく育っていました。
前は石仏のある道を進んだ覚えはあったのですが、そこまで長い道のりがあったかもしれない・・・
と思いながら、草道を進むこと20分
ようやく見覚えのある石仏の道に到達しました。
今来た道はこんな感じで前回とは違う回り道を進んでしまったようです。
頂上への道には菩薩像の石仏が非常に多く立てられています。
最初は一向一揆戦乱の舞台となった山城を鎮魂するために、子孫たちにより立てられたものかと思っていました。下りた後わかったことですが、この菩薩像は四国八十八霊場めぐりを映した霊場を再現したものです。
途中の道は急で足場も悪く、雨で濡れた日は滑ってとても危険です。
登りはじめて40分ほどでようやく頂上に到達しました。
一段高い本郭の入り口には掘にかかる土橋を当時のまま見る事ができます。
本郭には南側に物見台、北側に土塁など土の高まりをはっきりと確認できます。
本郭から眼下を見下ろすと、福井県恐竜博物館が見えます。
本郭の北側から東側、南側とぐるりと掘がめぐっています。
本郭の北側には、手前に郭1、奥に郭2の2つの平地を確認できます。
郭1から郭3への入り口両側には土塁が残り、
郭3に入って、郭4へ至る入り口は虎口がきれいに残っています。
郭4と郭1の間の土塁、その土塁の郭4側に掘が掘られています。
その郭4から北側の斜面を見下ろすと・・・・
畝状たて堀が残っています。ちょうど草刈が終わったところだったのか、4つの畝がはっきりと確認できました。
畝の間に入るとこんな感じですが、攻める側は畝の間を進むことになり、隣の畝へ移動することや、連絡を取ることを困難にします。
一向一揆が立てこもった村岡山に、敵対していた平泉寺の僧兵が攻めて、反撃されて撃退されたのもこの畝状たて堀が活躍したのかもしれませんね。
この出来事のあと、村岡山は勝山と呼ばれ、今の勝山市の元となりました。
本郭の東側に二の郭があり、南側に一段高い物見台が残っています。
二の郭の南側に大きく段を下げながら、4つの郭(郭5~郭8)とそれぞれの間に、堀切が残っています。
こちらはあまりに草深いので郭6より先は進むのを断念しました。
帰りは霊場の道を戻ってきました。途中草も生えない歩きやすい道が一部あります。
神社に戻ってくると、間違いにようやく気付きました。
神社の泉の道(中央の道)を行きは進んだのですが、こちらは遠回り、近道は石段の先(右側の道)ということです。旧ですが、こちらが近道です。
神社の入り口には「村岡城址」の看板が・・・ そう言えば、前はここから登ったんだった。
鳥居の脇には看板も立てられています。村岡小学校の裏という記憶しかなかったのですが、登るときは村岡神社をめざしましょう!
一乗谷朝倉義景館 福井県の城館
雪の季節にここ福井県一乗谷にやってくるのは初めてです。ちょうど週末まで天候も悪かったですので、雪景色を期待していましたが、まさに絶好の散策日和でした。
帰って来て確認したら、雪の照り返しで写真がかなり飛んでしまっていました。
こういう景色を期待して長靴持参で行きましたので、早速履き替えて散策です。他の観光客は靴で難儀していましたよ。
どうです、一面の雪景色に浮かぶ朝倉義景館跡と、
一乗谷朝倉氏遺跡のシンボルの「唐門」です。
それでは雪が残る一乗谷朝倉遺跡をご覧下さい。
一乗谷山城跡と企画展「金工の技と美」 福井県の城館
今日はお盆でしたが、ちょうど企画展の解説があるようなので、福井市の一乗谷朝倉氏遺跡に行ってきました。下道で行ってきましたが、思いのほか空いていたので良かったです。
最初に天台宗の西山光照寺跡を見に行きました。ここは石像が何体も集められていていい遺跡なんですが、石碑がなんでこんな場所に立っているのでしょうか?もっといいアングルで遺跡が写る場所に移動してほしいです。
次に、企画展の前に山城跡に登ることにしましょう。そのために今日は朝早く出てきました。
一乗谷で最も有名な遺跡である朝倉館跡には、すでに大勢の観光客が来ていました。お盆の時期は多いときでは1000名以上来るそうです。
始め勘違いしていて、朝倉館跡の裏に山城への入口があるものと思っていましたが、そこには右側に初代孝景の墓、左側に南陽寺跡庭園がありました。
南陽寺は足利義昭が京を追われて一乗谷に身を寄せたときに滞在した尼寺です。現在庭園の一部の石列が当時の面影を残しています。
駐車場を復元町並から、一乗谷史跡公園センターに移動し、八幡神社の横から登っていきます。
看板には「城山まで1.5km」と書かれています。
少し登るとそこは馬出と呼ばれる場所です。石垣を所々で見る事ができます。
その馬出の間を上っていくと、砂防堤がありました。その脇の階段を上がると、
「城山まで1.0km」の看板が。ここまでは比較的楽だったんですが・・・
そして、そこには「小見放城跡」の書かれた看板?が立っています。後方右側になりますが、そこは行けません。なにしろ草深いですからね。
そこからはまさにけもの道程度の広さの上り坂を登る、登る、登る・・・・、ひたすら急な坂を登りました。途中ではクモやゲジゲジ、蚊に加えて、蛇にも睨まれてしまいました。夏の山は注意が必要です。
道は地下水がしみ出てぬかるんでいるところもあり、足場が良いといえませんでした。
が、ひたすら登るとようやく次の看板が・・・
「城山まで0.2km」あと少しです
そこからも、さらに登り坂。最初に着いた場所が「千畳敷」と呼ばれる本丸跡です。
ところどころに破壊された石が散乱しているのが、戦乱の爪痕として生々しいですね。
千畳敷では土塁跡もはっきりとわかります。
さらに奥に進むと一の丸となります。郭跡はさらに上ですが、道はないようです。
郭と道となっている間には溝跡らしい窪みがあります。写真ではわかりにくいですが、右下から左上に斜めになりますよ。
一の丸の奥に、二の丸、三の丸が続きますが、各郭の間は堀切により完全に遮断されています。
さらに、その堀切と逆側には竪堀が深く掘られています。間の土橋?は結果的に細くなり敵の侵入を防ぐようになっています。
一乗谷山城は、麓から千畳敷(本丸)、一の丸、二の丸、三の丸となっていて不思議です。最終防衛地点の本丸が一番奥になっていないのはなぜ?
しかし、詰めの城の山城をなめていました。こんなに急な道のりだとは思いませんでしたよ。体調が万全でないと非常にきついです。やっとのことで下りてきて、足がガクガクになってしまいました。
砂防堤附近で今日始めて人とすれ違いました。親子2人でしたが、まだまだ子供は元気に登っていきましたが、山城はここからが本番、果してたどり着いたでしょうか?
1時半から始まる一乗谷朝倉氏遺跡資料館の企画展に少し遅れてしまいました。
今日の目的はこの企画展「金工の技と美」の鑑賞です。折角見るなら解説付き!ということで解説に聞き入ります。お盆で家族連れが復元町並を訪れる中、この解説には10名余の参加です。ちょっと寂しい感じですが、その分ゆっくりと聞けました。帰りに図録を買ってきました。