訪城時にはスタンプがまだ準備されていなかった玄蕃尾城へ帰りに寄ってきた。
着く頃には辺りは真っ暗になってしまった。車のライトを頼りにスタンプを押す。
いつの間にか駐車場に仮トイレができていた。
訪城時にはスタンプがまだ準備されていなかった玄蕃尾城へ帰りに寄ってきた。
着く頃には辺りは真っ暗になってしまった。車のライトを頼りにスタンプを押す。
いつの間にか駐車場に仮トイレができていた。
福井県美浜町にある国吉城に行ってきました。続日本100名城スタンプラリー3城目だが、スタンプは2つ目。
季節展示や発掘調査報告会などで幾度となく訪れた城跡です。
駐車場から向かう途中、桜が咲いていた。石垣に桜はよく似合う。
ここ数年で発掘調査が行われ、きれいに整備された。
麓の城主居館跡
登っていくと途中、伝二の丸跡と書かれた出丸が突き出ている。土塁が良好に残る。
本丸下までくると、発掘調査で見つかった石垣がそのまま保存されている場所がある。
本丸のある斜面と尾根伝いの郭を区切る堀切の両側には石垣が見つかった。
尾根伝いの郭
本丸北西虎口跡
本丸の入口で両側に石積みと門の礎石が見つかっている。
スタンプの図柄はわかりにくいが、この虎口と思われる。
麓からは20分で登城
本丸の「国吉城」の標柱と、板五輪塔
本丸からは佐柿の町を見渡せる。風の強い日で、遮るもののない本丸は寒い。
麓に国吉城歴史資料館が建ち、受付でスタンプをもらう。
福井県と滋賀県の県境にある玄蕃尾城に行ってきました。
柳ヶ瀬トンネルの直前で左折して上ります。
福井側の登城口に到着。本来はこの駐車場にスタンプがあるはずだったのですが・・・・
まだ冬期ということなのかありませんでした。スタンプは次回
来たので登ります。
途中、行市山砦との分岐に出る。
この後、尾根に出ると一面の雪景色になった。
案内板には、主郭と2つの馬出郭、3つの虎口郭があると書かれている。
南虎口。雪に覆われていると写真に写したときに凸凹がわかりやすい。
主郭
主郭の隅に櫓台がある。
こんな雪でも2人とすれ違った。
やはり寒いので出直したほうが良さそうだ。
永平寺町の指定史跡の松岡藩館跡です。
松岡藩は五万石で、初代松平昌勝公、二代松平昌平公と続き77年で廃藩となったという。
その館跡は廃藩後畑地となり、現在は私有地となっている。唯一の名残が案内板後ろの「お館の椿」で、初代昌勝公が愛した椿と伝えられている。
福井県を走っているとき、ふと目に入ってきた小黒丸城跡の石碑
元はこの位置から北に50メートルほどの水田台地に石碑が立っていたらしい。
北に九頭竜川、西に日野川の二大川が合流する場所に築造され、鎌倉時代に北朝方の斯波高経が守った城という。
50メートルほど北の現状。圃場整備により昔の様子は知る由もないが、北に向かって緩やかに上りになっている。
1年ぶりに若狭国吉城歴史資料館へ行ってきました。
常設展示も一室ながら充実していて見応えありますよ。
今日は関西文化の日という企画で入館無料。さらにハイウェイキャンペーンで絵葉書1枚、アンケート記入で絵葉書2枚いただいてきました。
秋の企画展が興味深いものが多く、今年は「城の形 国吉城の姿を想像しよう」というテーマで、山城の国吉城の在りし時を想像するもの。城の基礎知識が多かったなかで、私の見たかったのはこれ!
国吉城の発掘調査一覧。本丸の周囲から埋もれた石垣がどんどん見つかっているという情報です。受付で聞いたら、まだ調査は続いていて埋められていないということ。
早速本丸へゴー!
昨年と違ったこと。この柵ですね。麓の居館跡の上をずらりと防御。あれ?上に行けないのかと思いきや、自分で開け閉めすることで行けました。昨年は猿に遭遇したけど、イノシシなんかもいるのかもしれません。
発掘現場に到着すると、調査面はブルーシートに覆われることなく露出していました。休日の一般見学者への配慮ありがたいです。
本丸に到着する頃には天候は下り坂、早く下山しないと。
昨年発掘の真っ最中だった本丸下の堀切。
間近で見学できます。
まだこれからのトレンチもあるようです。
下の段に下りて、先の石垣が二段になって積まれている部分へ。
現在の発掘現場あたりは本丸下をぐるりと石垣が巻いていた様子がよくわかります。展示と合わせて見学するとよくわかります。もうしばらくは見学できそうですよ。
国吉城は若狭町にとって歴史上もっとも表舞台に出てきた城跡ですから、これからも多方面に調査、整備が進むと思います。ちょっと期待。
金沢城二の丸にあった噴水が安政5年(1858)年の絵画に描かれていることを、石川考古学研究会員の坂野さんが17日までに確認した。これまで考えられてきた噴水設置時期の文久元年(1861)より、少くとも3年さがのぼる。二の丸の噴水と言われ、同じく1861年設置とされてきたが、より古い時期に造られた可能性が大きくなった。
噴水が描かれてきたのは金沢市立玉川図書館が所属する「紙本著色金沢城二ノ丸御殿景観図」。著者は加賀藩お抱え絵師の佐々木泉景で、安政5年7月の作と明記してある。藩主の居間から日本海に沈む夕日を望む雄大な構図で、茶室近くの池に噴水が見られた。(北國新聞2011年12月18日付け記事より)
北ノ庄城の天守があったと推定されている柴田神社境内に、天守が建ちました!
NHK大河ドラマ「江」で観光地として一年脚光を浴びましたが、遅ればせながら天守が復興されました。FRP(繊維強化プラスチック)製ですが・・・
柴田勝家公も喜んでいることでしょう。
絵図の残っていない天守は小早川隆景宛書状に「九重」とありますが、当時五層を越える天守はなかったため、復元も五層です。
復元は数年前の復元予想図どおりのようです。
この天守模型は永久のものはなく二年限定となっていますので、勝家公と天守をともに撮る人はお早めに!!
福井市文化財保護センターで「発掘が語るまちなかの歴史」というテーマで「福井城跡展」が開催されていました。
場所は足羽川を渡って、足羽山の麓、旧福井城下ではない場所になりますが、県外者にはちょっとわかりにくい。
福井市内でも開発のたびに発掘調査が行われ、数多くの福井城の遺構が発見されていますが、常時展示されているものは少なく、目に触れることがない遺物も多いのですが、
今回はそれらを一堂に集めて紹介しています。
城内だった場所、城下町だった場所、門跡、武家屋敷など状況は様々だったので、遺物もいろいろとあり、とても興味深い展示でした。
中世に勢力を誇った三国湊白山千手寺は、南北朝期には城郭として利用され、太平記にも登場する。
平城だから当時は塀と堀に囲まれていたのだろう。この場所は海岸からわずかに上がっているが、とても高台とまでは言えない場所である。
解説板も設置されているが、非常にわかりにくい場所にある。
近くには特徴的な山門の妙海寺がある。
現在城地はその妙海寺の西墓地として利用されている。
千手寺城とも呼ばれた地には、現在石像の千手観音像が立っている。
三国東尋坊近くの越前松原と呼ばれる景勝地に丸岡藩砲台があります。砲台というのは近世末に外国船の侵攻に備えて海岸を中心に造られた「台場」と言われている施設です。
整備から長い時間が経つのでしょう。史跡内に立てられた石碑は海風に煽られて傾いています。
入口には駐車場も完備されていますが、雨降る日曜日の朝にここを訪れる者はいません。
松原というだけあって松が多いようですが、砲台は海岸沿いの低い平地に作られていました。
東尋坊に近いこともあるのでしょう。岩がむき出しの崖地も所々にあり、
台場の材となる石材には事欠かないようです。ふと、海を眺めると・・・
最も遠くの石の上に、今も海を見守るように一匹の鵜が止まっています。
大砲は撤去されていますが、その台の保存状態は良いようです。台場一帯がこれほど良好に残り、当時を想像できる場所も少ないのではないでしょうか。
海側から見るとこういう感じですが、すべて石積みではなく、大砲を置いた場所の両側が石垣で、後は土塁となっています。
内側から海を狙うとこんな感じです。先程の鵜を狙い撃ちするとこうなります。内側のほうが石垣が重厚に積まれています。
よく見ると、積まれた石には「嘉永」の文字が刻まれたものもありますよ。ぜひ現地で確かめてください。
芦原にある吉崎御坊に行ってきました。
ここは本願寺八世蓮如が北陸布教の足がかりとして拠点を置いた場所です。
本堂のあった場所は「吉崎御山」と呼ばれ、史跡として保存されています。
高台に築かれた御坊からの眺めはよく、海が近く、物資輸送にも適した土地だったことがわかります。
本光坊了顕の墓。文明六年(1474)の吉崎御坊炎上のとき殉教した方だそうです。
祐念坊霊空の墓。北大手口参道を守護した吉崎惣道場、吉崎御坊願慶寺の開祖の墓。
蓮如お手植えの松の木ですが、今は根本がわずかに残るのみです。
蓮如上人銅像。高村光雲の作だそうです。
御本堂跡。南に面し柱間五間の大きさだったそうだが、三度の火災で焼失した。
御腰掛石。御坊があった頃からあったもので、蓮如も腰掛けだろうと「吉崎山絵図」に書かれているそうです。
見玉尼公墓。蓮如の第四子(次女)でこの地で亡くなりました。
今日は時間がなく山上のみの見学だったので、次回は麓も散策してみたい。
下城戸の石垣と上城戸の土塁の間は、朝倉氏とその家臣が居住した空間で、「城戸の内」と呼ばれていますが、シンポジウムでそろそろ城戸の外にも注目を!という話があったので早速散策をしてきました。
下城戸の外、刑場として使用されたと言われている「武者野」と呼ばれる地です。
傍らには見つかった石像が祀られていました。
この辺りに足羽川の湊があったとも言われています。
上城戸の外、御所と安養寺跡です。
安養寺は大きな寺院だったらしく、
足利義昭が将軍になる前に朝倉氏に匿われていたときに、安養寺に隣接して御所を構えたと言われています。石垣がわずかに残っています。
隣接する御所跡。
広大な遺構には何もありませんが
隣接する西側の山裾に入口らしきものが・・・
現在も林業の方が使用されるようで道が続いていますが、三段ほど落差のある砦跡のようです。
上城戸の西側の山裾にある盛源寺。現在の本堂裏の墓地は使用されているようでしたが、
本堂までの石段脇には見つかった石像が並べられ、
本堂の建つ平地には一際大きな石像が並んでいます。
一段高い本堂は街道の見張り台としてもちょうど良い高台に建てられています。
最後に城戸の内を散策。
夕方の城戸の内は人気も少なかったですが、ここは南陽寺跡庭園の下にある瓜割清水と呼ばれる湧き水です。暑い中でしたが、水はとても冷たかったですよ。
特別名勝 南陽寺庭園
特別名勝 湯殿跡庭園
特別名勝 朝倉館跡庭園
一乗谷にはもう一つ特別名勝の諏訪館跡庭園があり、全部で4つの特別名勝があります。城戸の外も見どころ一杯の一乗谷朝倉氏遺跡でした。
シンポジウムに参加するため一乗谷朝倉氏遺跡資料館へやって来ました。昼休みに発掘調査の真っ最中だと紹介された西山光照寺跡へ。
資料館から徒歩5分ほどのところの山裾に西山光照寺はありました。北の庄と呼ばれた現在の福井市や府中と呼ばれた武生市(越前市)から攻めて来たとすると、最初に見える障壁がこの西山光照寺となるそうです。寺院群が砦として利用されていたのでしょうね。
すでに整備された東側に隣接する西側を今年度は木々をすべて伐採して発掘調査しています。
発掘前にも地表から一部が現れていた「南無阿弥陀仏」と掘られた巨石もまるまる掘り起こされていました。
トレンチが何本も掘られていて、地山を確認しているようです。
先程の巨石が石垣のちょうど角に当たるようです。西側の巨石群ほどではないにしても、北側の石積みも大きな石が多いです。破壊されて地上1、2段ほどしか残っていませんが、往時はとても立派な石垣が続く壮観な風景だったのでしょうね。
寺院跡の入口に枡形になる?のかな、凹んだ石積みがありました。
発掘調査で見つかった石像が並んでいます。
石柱は線路からは見えるけど、見学者には見えない場所に・・・?なぜ
さて、西側はどう整備されるのか、楽しみです。
北陸道敦賀ICから舞鶴自動車道小浜西ICに向かう国道27号線、最後に通る後瀬山トンネルの上に後瀬山城はあります。今週末から小浜ICが開通しましたので、もう通る機会は減るでしょうが。
今まで登り口がよくわからなかったのですが、東側の麓の愛宕神社鳥居から登ります。
入口の案内板を見ると、本郭に愛宕神社本殿があるようです。
1段上がると、末社が2社あり、
その脇を登っていくようです。
新しい案内板が立てられていますが、下のポストにパンフレットはありませんでした。残念・・・
ずっと上のようですから、また次の機会にしましょう。
今年のNHK大河の影響で観光客が増えるとみた小浜市は、小浜城の臨時駐車場を準備しました。そこから徒歩3分、観光客は他に誰もいませんでしたけど。
歩いて行くと畑の向こうに立派な石垣が見えてきます。
石垣に隣接して建つ民家。異様な光景でもありますが、少しうらやましい。
小浜城本丸の石垣は南側以外の三面が残されています。その南西隅石垣、階段が封鎖されていませんでしたので、登ってみます。
民家と先に見える湾、小浜城が海に面した海城たる所以ですね。
本丸は小濱神社の境内となっています。
境内に案内板が立てられていますが、地元では初の嫁いだ京極氏より、江戸時代に入封してきた酒井氏のほうが大事にされているようです。
本殿横に橋として利用された大石と城内の井戸が残されています。
北西隅に残る天守台
天守台にも上ることができます。天守台から東を臨めば、小天守台と先に湾が見えます。
西を臨むと、民家の先に湾が見えます。
本殿裏の北側から駐車場に戻ります。小浜城は石垣を間近に見ることができるのがいいですね。
帰り道、若狭歴史民俗資料館で見たこの地の風習、色で塗られた地蔵を祀った祠を発見しました。
晴天の中、大谷吉継の敦賀城の遺構を探訪。大谷吉継で有名な敦賀城です。
敦賀西小学校の正門横に立つ敦賀城の案内碑です。平成9年に新たに立てられました。
3面の微妙な傾きの中、自分の映り込みを避けながら撮影するのは大変です。小学校の場所は絵図から三重の天守があった場所あたりだと推定されています。
そこから北に移動し、真願寺にやってきました。
寺の北を流れる闇加川。敦賀城の北限となる堀跡と言われています。
真願寺の境内に入ります。
境内の片隅に乾門と伝えられる礎石が野外展示されています。
最後に西に移動し、来迎寺まで行きました。駐車場と反対側が正門となりますが、寺門として移築されているのが、敦賀城の注文と伝わる門です。
部材を見ると、瓦や屋根裏など修築により新しくなっているものも見受けられますが、この戸の部分は古いようです。
敦賀城の遺構としては、南限と考えられる八幡神社の境内に表門の礎石が展示されているようです。
敦賀湾に面する山に構築された金ヶ崎城。朝倉氏と浅井氏に挟まれ、織田信長が這々の体で撤退した金ヶ崎の退き口で有名となりましたが、南北朝時代、新田義貞が陣を張った古くから北陸道の要所となった城です。
しばらく続く石段を登って行くと、城の入口は金崎宮の境内地となっています。
石段脇に新しく立てられた看板を見つけました。城跡というより公園の設備の説明板ですね。
横には城跡の解説板が新しく立てられています。
境内まで上がると、以前から立っている古い城跡の案内板が今も立っています。
境内にはNHK大河ドラマ「功名が辻」のときに製作された金ヶ崎城と天筒山城の模型が今も展示されています。
遊歩道の入口に立つ石碑。
遊歩道の入口でもこれだけの高さ。
敦賀市街を眺めると、左手に天筒山を望むことができます。
春(を少し過ぎた)一乗谷へ。
入口にして一乗谷最大の見所とも言える下城戸です。
この巨石を積み上げた虎口が往時の城下町口を彷彿とさせるのですが、他の観光客にはあまり人気がないようですね。
ここに春が残っていました。
復元建物横の駐車場に着くと、夕方の時間帯でしたが県外車がたくさん停っていました。やはり福井では人気の観光地です。
さすがに館入口の桜は終わっています・・・
館跡の山裾がいつの大雨からだったか以降ずっとシートが掛けられているのだけど、いつ外れるのだろう。
ここも桜が残っていて絵になりますね。
2年前だったでしょうか、発掘調査説明会に参加した金工業者が住んだ地域も整備が終わりました。
「米津」という名称に決まったのですね。
一乗谷川沿いに桜が植樹されています。向こうに見えるのは土塁の残る上城戸です。小さな写真ではわかりにくいですね。
夕暮れまで目一杯楽しみ、遅い春に思わず出会った一乗谷でした。
勝山左義長まつりの帰り、雪残る白山麓を迂回し、国道8号線経由で帰る途中、行きも脇を通過した丸岡城があまりにもきれいにライトアップされていたので寄ってみた。
土曜日の夜とはいえ、寒い中誰も丸岡城公園にはいませんでした。ということで、天守のライトアップ撮影をひとり堪能してきました。
現存12天守のひとつである丸岡城天守は木造です。規模は小さいですが、天守台とのバランスはなかなかのものです。
もう少し石垣にもライトアップされていれば嬉しいのですが。
でも、いい写真も撮れたのでなんか得した気分です。