新川運河沿いのきれいに整備された河川敷
その一画に兵庫城跡の石碑と案内板が立っています。
天正8年(1580)、池田信輝と輝政父子が花熊城を攻め落とした功によって兵庫の地を与えられて、この地に兵庫城を築城しました。
兵庫城は江戸時代に尼崎藩領となって陣屋が置かれ、その後、大坂町奉行所の勤番所や兵庫鎮台、兵庫裁判所と変わり、廃藩置県により「兵庫県」となったときの最初の県庁所在地だそうです。
明治7年(1874)に新川運河の開削が行われ、城跡の中心地はほとんど川敷になってしまったということで、まさにここが中心地ですね。
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姫路城 東部中濠をめぐる 兵庫県の城館
前回は埋め立てられて道路となった南部中濠から西部中濠をめぐりましたので、今回は東部中濠をめぐりました。
範囲は内京口門から野里門までです。
東部中濠も南の一部は埋め立てられ、この内京口門の手前部分から残っています。
広い堀と内側の土塁がセットで残っています。堀は流れが止まっているためか濁っています。
土塁に案内板が立っていますが、絵図は消えかかっていました。
堀沿いに北に向います。堀が鍵状に折れる正面に内京口門があります。
門両側の石垣は残っています。この東中濠の内側には現在学校や病院が並び、この内京口門の中にも賢明女子学院高校があって、中から見学することができません。
しかし、案内板のイラストを見ると両側の石積みは元々のものではなく、門は内枡形でこの両側は塀だったようです。
門の東側、濠は道路で寸断されていますが、細い水路で南側とつながっているようです。
門の西側、北側に濠は折れています。
北側へ濠は続きます。
暑い中、日陰になった濠沿いの通路を歩きます。
しばらく歩くと橋にぶつかりました。
ここが久長門です。
ここも内枡形門ですが、この南側の石垣、北側の石垣ともに、外部分の石垣の上部は取り去られています。
北側の石垣も道路幅を広げるため、奥の石垣は南側を削られていると考えられ、その平面は当時のものではないかもしれません。
久長門を後にして、さらに北へ歩きます。ここから歩道は住宅地に隣接して、裏道という感じです。
徐々に西側にカーブしてきました。
この辺りまで来ると濠の水も澄んできて、泳ぐ鯉もくっきり見えるようになりました。小さな小魚もいるようでしたが、ここは魚釣り禁止地区です。
大きな道路が見えてきました。
ここが野里門の外側のようです。濠は左手に折れて、後ろ(西)側に流れます。
枡形の真ん中を道路を通り、向かい側に石垣が見えます。
この野里門も内枡形門です。イラストの右側が北側です。
案内板の後ろに残る石垣は枡形の内側の西側部分の石垣の一部です。
北側を流れる濠は幅が少し狭まっているようです。歩いている間は観光客はまったく見ませんでした。中濠も姫路城の魅力のひとつですよ!
姫路城大天守の鯱を比べる
姫路城の大天守は修理中
初公開の「リの一渡櫓」では、
修理で下ろされた鯱を含め、歴代の鯱が展示されています。
遠きにあっていつもは見づらい鯱が間近に見れるよい機会なので、各時代の鯱を見比べてみましょう。
昭和時代の現役の鯱。
先代の明治時代の鯱。
江戸時代の鯱。
それぞれの違いを遡りながら比較します。
頭、牙と耳が大きい昭和時代の鯱
黒目のない明治時代の鯱。
見た目はかわいい?マヌケ顔?の江戸時代の鯱。鯱って守り神だからもっと怖い顔をしているのでは?
昭和時代の足ヒレ。簡略化され、体の鱗も小さい。
明治時代の足ヒレは彫りが深く、鱗にも穴が空いている。鱗模様はこれが一番クッキリしていて良い。
江戸時代の足ヒレは小さい、鱗は大きめ。
最後に尾ビレ。昭和時代の尾ビレは両側に大きく広がっている。
明治時代の尾ビレは彫りが深い。中央に真っ直ぐの模様がこの時代の特徴です。
江戸時代の尾ビレは幅が一番狭い。
ちょっと変わった記事を書いてみました。どうですか?
篠山城 兵庫県の城館
丹波篠山城に来ました。
夏休みですが、それほど人出は多くないですね。
掘は綺麗に整備されていますが、石垣は夏草が繁茂している場所もありました。
鉄門址に木製の冠木門があり、その奥に復元された大書院が建っています。
まずは外回りから始めます。大書院の前にひとつ井戸跡が残っています。
そして、二の丸庭園跡の中にもうひとつ井戸跡が残っています。
二の丸庭園の奥に埋門跡が残っています。埋門なので門に向って下がっています。
大書院は2000年に復元されて、以前来たのは7年ほど前でしたか?まだ白木の映える頃だったと記憶していますが、風雨に晒されて古びてきました。
二の丸庭園から本丸へ入ると、青山神社が鎮座しています。
本丸の東南隅に天守台が残っています。天下普請で築造された篠山城の天守台は大きく立派です。実際に天守が作られたことはないですが、よい物見台になりますね。
天守台から東方向には播磨富士と呼ばれる八上城が見えます。
八上城は波多野氏の居城で、明智光秀の母を人質にした命乞いが叶わず、逆上した波多野家臣により母が殺されてしまったという悲しい逸話の残る地です。一度登ってみたい。
大書院は有料ですが、中では篠山城が築かれた経緯のビデオ放映や、復元された大書院の中を見学することができます。
上段の間で襖絵などが復元されています。
上段の間を側面から守る武者隠しの間はこんなに狭いのですよ。
篠山市のマンホールは篠山城の石垣を描いています。
今日は外堀や馬出を見て回ることができませんでしたので、次回はゆっくりと城下をまわってみたいです。
三木城 兵庫県の城館
雲龍寺の駐車場に車を停め(ここに停めるのがいいと道の駅観光案内で教えてもらいました)、雲龍寺の前を三木城本丸へ向います。
雲龍寺です。今でも広い寺域が残っています。
本丸へ向う途中、防火貯水池のある一段低い敷地がありました。
当時のものかどうかわかりませんが、下の郭とかなりの落差があったことがわかります。
本丸跡の一部は稲荷神社となっています。
三木合戦と
三木城の絵馬が奉納されていました。
神社裏は広い空き地となっていましたが、
その隅に別所長治公の石像が立てられています。
その横の一段高い丘は、従来天守台跡と伝わっていましたが、発掘調査で櫓跡程度であることがわかっています。
その一番高い平坦地に長治公の辞世の句が書かれた石碑が立てられています。
そこから見渡す景色は面前の川です。本丸跡から川に向って急峻な崖地となっています。
このことからも三木城が台地の先端に築かれた城であることが実感できますね。
稲荷神社前には三木市埋蔵文化財センター?があり、休日でも三木城を中心とした遺物の展示をしています。三木合戦に関係する砦跡の遺物や、地形模型などもあり、無料ですが見ごたえはあります。
最後に雲龍寺に戻って、駐車場近くにある別所長治公首塚を見ました。手前の石積みは三木城の外堀に使用されていた石を集めて作られたそうです。
明石城 兵庫県の城館
JR明石駅前の明石公園内に明石城跡があります。
こちらは薬研掘です。かなり幅広の掘です。
東ノ丸横の石垣沿いを降りていくと、石垣の高さが意外と高いことが実感できます。
石垣沿いに進み、二ノ丸と本丸の間の階段を上ります。
二ノ丸から明石駅方面の眺めはこんな感じです。
本丸に入ると、巽櫓があります。
こちらは中に入ることができ、中の本格的な木組を見ることができます。
窓からは反対の四隅に建つ坤櫓を見ることができます。
坤櫓のほうは今は中に入ることができません。
稲荷曲輪から降りて、坤櫓を見上げるとベストビューですね。
芝生広場から眺める2つの櫓のアングルもベストビューです。
公園内にあるマンホールにも明石城が描かれていますよ。
御着城 兵庫県の城館
姫路市にある御着城公園にやってきました。
公園前には「御着城址」の石碑が立てられています。
ここ御着城は黒田官兵衛の仕えた小寺氏の居城でした。
公園内には城郭風の姫路市東出張所が建てられていて、
その前の公園内には黒田官兵衛の顕彰碑が立てられています。
そんなに広い公園ではないなー、と思っていたら入口の案内板に
隣りの小学校の校庭から土塁と堀跡が発掘されていることが記載されていました。
この校庭と公園とすぐ横を走る国道2号線の向こう側を含めて、かなり広い城域であったようですね。
第27回全国城郭研究者セミナー in 姫路
今年も全国城郭研究者セミナーの季節がやってきました。今年の開催地は姫路市です。
会場は姫路城前の「イーグレひめじ」です。
開始前に姫路城を歩き回っていたので、少し遅れて到着しましたが、真夏日の気温のなか歩いたので着いた頃には汗が止まらない状態でした。
1日目の今日は7本の調査・研究報告がありました。
新しい研究成果や持論を聞いてとても興奮しました。
7本目の報告では、神奈川県の権現山城について、従来の定説や遺跡推定地に拘らず、実際には場所が違っているという報告があり、とても興味深いものでした。
イーグレひめじの4階は、姫路城天守を正面に見ることができる最高のビュースポットになっていますよ。
姫路城中濠 兵庫県の城館
JR姫路駅を出ると通りの向こうに姫路城が・・・
学生時代以来となるでしょうか?いやいやもう一度来たような
姫路城に向かって歩いていくと、途中で石垣を見つけました。これは何かと思っていたら、中堀沿いの門跡でした。
ここは「中ノ門跡」です。水堀は道路になっていますが、石垣は道路建設に影響のなかったものは残されたようです。
ということで、まだ歩いたことのない中濠沿いの門跡めぐりを始めることになりました。
西に向かっていくと、間もなく門跡が見えてきました。
枡形を構成する石垣もある程度残っているようですが、道路建設のため少し削られているようであるのが残念です。
ここは「鵰門跡」(くまたかもんあと)です。
さらに西に向かって歩いていくと、「埋門跡」があります。
ここはとにかくハトが多い・・・・って城めぐりには関係ないですね。
二の門(当地ではどういうのかわからないけど)の前の一の門との間の枡形を確認できます。この枡形の回りの石垣はかなり低いところまで取り払われているものの、姫路城の門跡の形式は多彩ですね。
この埋門跡が西南隅となります。北へ向かいましょう。
次は「車門跡」です。
この門も枡形の部分がよく残っています。
左側の門の入口が右側を流れる船場川と直接接していて、船で出入りできたようです。
一の門(当地でそういうか分からないけど)は船場川に架かる橋から出入りしたようです。現在も同じ場所に橋が架けられています。
南側の水堀は今は短くなって空掘となっていますが、
北側の掘は今も満々と水を湛えています。
水堀と川の間の散策路を歩いていくと、姫路城が見えてきました。
大通り沿いの歩道に石碑が立てられています。
この通りを行くと大手門となります。
北側の歩道に渡ると、北側の掘と川はまた雰囲気が変わりますね。
掘から川に流れ込む場所で鴨たちが一生懸命に何かを突いていました。魚でもいるのかな?
ここは「市ノ橋門跡」ですが、残る石垣は道路に対して斜めです。
というのも、門の北側と南側で掘の幅が違っていたからでしょうか。
実際の門の方角はこんな感じですね。
この市ノ橋門に隣接して、
広大な好古園がありますが、まだ入ったことがありません。
好古園を過ぎると、内堀が見えてきました。
西の丸の渡櫓の修復用足場も見えますね。
と、ここで姫路城内に入るところですが、それは別に話すとして、もうひとつ門跡を紹介します。
ここは「総社門跡」です。
枡形の中を道路が通っているので、囲まれた門であるという痕跡は残念ながら全くないですね。
道路の向かいの市民会館の入口脇に石垣が残っていますが、草に覆われて気付きにくくなっています。
門の形からここに石垣があるのはおかしいので、位置をずらして保存されたものかもしれません。
姫路城 兵庫県の城館
世界遺産でもある国宝姫路城です。
桜門橋を渡ると、大手門です。
大手門は大きな高麗門です。
正面に家紋が5個付けられています。これは誰の家紋でしょうか?
大手門をくぐって三の丸広場にでると、正面に大天守を拝むことができます。
大きなクレーンが何本も建ち、足場の鉄骨が大天守の半分くらいまで組みあがりました。
工事計画を見ると、今年度中は天守の中に入れないようですね。
有料ゾーンへ入ります。入ってすぐに「菱の門」があります。
菱の門をくぐり左手に進むと、「中村大佐顕彰碑」がありました。
中村重遠大佐は、城の恩人です。陸軍が城郭を駐屯地とするために建造物を破壊しようとするのを陳情で辞めさせた人です。姫路城や名古屋城がこうして守られました。名古屋城は残念ながら戦争で焼失しましたが・・・
そこから西の丸へ入り渡櫓へ向かうとこちらも足場が組まれていました。
工事中でも中に入れますよ。
とはいえ、中は足場に近づかないように通路は制限されていました。
長い渡り廊下を歩いていくと、最後に化粧櫓に来ます。ここは将軍家から嫁いだ千姫が生活した場所と伝えられています。部屋には人形が置かれ、観光客にもわかりやすい工夫がされていました。
外から見た化粧櫓です。
さあ天守へ向かいましょう!まずは「はの門」へ向かいます。
「はの門」をくぐると、二の丸、この「にの門」越しに見る西小天守は絵になりますね。
そして「にの門」への階段です。
そして「ほの門」へ
「ほの門」を通って振り返ると、「水一門」があります。
隅櫓と乾小天守に挟まれた「水二門」です。
くぐると本丸(備前丸)への最後の門、「水三門」です。
大天守の南面と東面は徐々に鉄骨が組まれていますが、小天守側はまだ天守を見ることができます。
備前丸へ出ると、半分は工事中で通り抜けることができません。
ということで、引き返します。
「はの門」のあと、「ろの門」を抜けます。
そして「いの門」を抜ければ「菱の門」に戻ってきます。
有料ゾーンを出てくると、出口に「天守の庭」があります。ここは大天守の礎石配置を再現しています。
三の丸広場の隅に「大天守大柱展示場」があり、
昭和の大修理で交換された西大柱が展示されています。
竹田城 兵庫県の城館
山上の石垣がすばらしい播磨竹田城です。
駐車場から一番遠い入口から入ります。
2度目ですが、ここは石垣がすばらしいですね。
北千畳から大手門と城下を見下ろしてみました。高いなあー
三の丸から二の丸と本丸方面を撮ってみました。夏は草深いですね。
三の丸を通って、弐の門を通りすぎたところで一度引き返しました。
もう一度の登城は南千畳からです。
正門の向こう側に見えるのが天守台です。
今度は花屋敷から駐車場へ向かいました。
さて、なぜ2度も登城したのか?というのは一緒に上っていた母が迷子になったからです。(自分が迷子か?)急な崖も多いのでとても心配しましたが、舗装道路から上ってきて、なぜ花屋敷から下りるのかと思いましたが、今回は草深かったので疲れたこともあり諦めて、次回は春先に来ましょうかね。