近くの駐車場に停めたのでようやく行けました。
その場所は彦三郵便局。
ではなく、その場所にあったという「彦三種痘所跡」です。金沢大学は医学部から始まり、その前身がこの場所にあった種痘所ということになっています。よってここが発祥の地ということになりました。
金沢は戦災にあっていないので、道路が江戸時代そのままの場所が多く残っています。このあたりも大きく変わっていないので場所はほぼ確定なんですよ。
金沢城調査研究10周年記念シンポジウム「城郭石垣の技術と組織を探る 金沢城と諸城」の2日目です。今日は朝から丸1日ですよ。
研究報告1
「慶長11年の江戸城普請における加藤清正の石材調達指図について」
別府大学 白峰旬氏
白峰報告では新しい知見を得ました。名古屋城の天守石垣に人名の書かれた角石が数石あります。その理由が石材の大きさの目安とする目的だったということです。
江戸城の調達指示の書状に中に、「『勝兵へ』くらいの石を送ってこい」と家臣に指示しているそうです。
研究報告2
「万治元年の江戸城普請と加賀藩」
金沢城調査研究所 石野友康氏
研究報告3
「軍学と後藤家石垣秘伝書」
愛知県立大学 長屋隆幸氏
軍学の流派は
・越後流
・長沼流
・甲州流
の3大流派に、甲州流から派生した
・北条流
・山鹿流
の2つを加えて5流派となるようです。加賀では有沢家が甲州流、北条流、山鹿流の混在した流派を教えていたようです。
研究報告4
「九州における近世城郭石垣の変遷」
佐賀県立名護屋城博物館 市川浩文氏
研究報告5
「加藤嘉明と藤堂高虎にみる石垣構築技術」
松山市教育委員会 楠寛輝氏
研究報告6
「近世大学池田家の石垣普請」
鳥取市教育委員会 細田隆博氏
研究報告7
「東国における野面積石垣構築技術と画期」
山梨県教育庁埋蔵文化財センター 宮里学氏
パネルディスカッション
「城郭石垣の技術と組織からみた金沢城」
パネルディスカッションでは、野面積み→打込はぎ→切込はぎと年代によって自然石から切石から進む石垣構築過程をこれまで進化だとする風潮が、実はある面では退化だという主張がなされました。
石加工技術としては自然石から割石、切石と高度化しているが、石積み技術としては最も難しいのは自然石、切石は簡単になっている。要は石垣のバリエーションが増えたということだと。
丸1日はさすがに疲れましたが、比較研究の大切さを実感した充実した報告会でした。来年から金沢城調査研究所では、金沢城の兼六園、その周囲の武家屋敷に点在する庭園の調査から金沢の石積み技術を解き明かし、玉泉院丸庭園の特異な石垣の解明と、名勝指定に向けた調査がおこなわれるようです。
石川県文教会館へやってきました。
今日と明日の2日間、金沢城調査研究10周年記念シンポジウム「城郭石垣の技術と組織を探る 金沢城と諸城」が開催されます。
県に金沢城研究調査室が設置されたのは、金沢城跡から金沢大学が移転して県所有となった後です。10年の間に研究室は金沢城調査研究所として格上げされ、昨年度の国史跡指定にも多大な貢献がありました。
今回は10周年の記念年としてだけではなく、研究所になったことを契機に全国の石垣研究者を外部嘱託研究員とした5年間の研究成果の集大成でもあります。
北垣聡一郞所長の開催の辞
「石垣研究の歩みと現在」
基調講演
「金沢城石垣の変遷と特徴」
金沢城調査研究所 滝川重徳氏
総括報告1
「遺構からみた徳川期大坂城普請の組織と技術」
東北芸術工科大学 北野博司氏
総括報告2
「石垣普請の組織と穴太の役割」
金沢城調査研究所 木越隆三氏
1日目半日ではありましたが、最先端の城郭石垣の研究成果が聞けて充実しました。
現在、金沢大学資料館(図書館内)では企画展「金沢城の今昔」を開催中です。入館無料ですが、平日のみ(10:00~16:00)の開館ですので、年末年始休みの最終日に行ってきました。
比較的穏やかだった三が日を過ぎ、今日は大雪の一日でした。今日から授業が始まった学生たちも寒そうです。
展示室に入ります。
前回の特別展は一室すべてを展示替えしていたので見ることができなかった通常展を壁側に戻し、中央部を企画展に使用していました。
井上鋭夫氏を中心にした金沢城学術調査委員会が行った発掘調査で見つかった遺物などは、現在の金沢大学がその多くを収蔵しています。
数年ぶりに本丸で見つけた阿弥陀仏を彫った石造遺物が展示され、
発掘日誌なども展示されていました。
「金沢城と前田氏領内の諸城」(名著出版)などを著した喜内敏氏。
本企画展は、喜内氏の遺品が石川県立歴史博物館に寄贈されたことが契機だったようです。
(そのうち、歴史博物館でも金沢城展やるのかな?)
その遺品のほんの一部が展示されていました。
企画展を見た後、初めて通常展のほうも見ました。金沢大学には発掘調査の遺物や、学校で使用されていた品のほかにも、江戸時代の加賀藩のものも収蔵しています。
その中から二点、
幕末の加賀藩の文学校、「明倫堂」の扁額です。新井白蛾の筆によるものです。
ここでは儒学を中心に算学、和学、天文学、礼法、易学、医学などを教えていました。
そして加賀藩の武学校、「経武館」の扁額です。加賀八家のひとつ土佐守家の直方の筆によるものです。
弓、槍、剣、馬術、居合、組打、長刀などを教えていました。
清洲城にやって来ました。
天守風建造物が建っている場所にもともと天守はなく、観光用に建てられた模擬天守と呼ばれるものですが、この赤い橋から見える城門と天守はいつもワクワクさせてくれますね。
天守前の庭園にはこれまた絵になる風景が広がります。
横の御殿風建造物は入った記憶がないですが、今回は中に入れるようです。
今日はここが主目的です。
NHK大河ドラマ「江」に合わせて開催中の「ドラマ館 江と三英傑 絆のやかた」です。長浜のほうは宣伝も多かったですが、ここ清洲のほうは直前に知りました。
そうそう「清洲町」は平成の合併で「清須市」になったそうです。城名は「清洲城」のままですが
入場券。ちょうどもぎ取られる部分に織田家家紋が印刷されているので、さきに撮影してみました。
展示内容は清洲会議を中心とした愛知県が輩出した三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の展示でした。随分前に放映された部分でもあるので、もう展示終了間際の今となっては古い。
では、周辺を散策します。まずは広場にあった濃姫像です。信長は・・・
と対岸の公園に向かう途中、河原沿いに織田家家紋を見つけた。
おみやげ店には家紋をかたどった最中が販売されていました。美味しかった!
公園には若き日の信長像が立っていました。
天守の対岸のみやげ店横に「清洲古城址」碑が立っています。もとはこちらが城のあった場所です。
公園内には信長公を祀る社が建っています。
発掘調査で見つかった石垣が野外展示されています。
天守内展示の最上階には往時の屋根を復元展示されています。金箔瓦ってこういう感じなんですね。
最上階から見える風景はどこも近代的になってしまいましたが、名古屋市街方向を眺めると・・・
名古屋城が見えますよ。1610年、ここ清洲から名古屋へ、城下が移動しました(清洲越し)。
名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園に来ました。
前回は昨年春、名古屋城検定に合わせて歩いてここまで来ました。今回も名古屋城検定に合わせてですが、車で来ました。Googleナビで来たら、どうしても神明社境内にナビされてしまい、途方にくれているところで記憶に残る風景に会って、なんとか辿り着きました。
昨年は銅像建立の一週間前の訪問で、残念ながら対面できなかった信長像と義元像でしたが、若き日の信長にようやく会えました。
義元も従来の小太りの貴族風ではなく、凛々しい姿で、地元ならではの敬意が感じられます。
公園は桶狭間合戦の地理がモニュメントとして配置されています。
今は閑静な住宅街で、世間を驚かす一大事件が起こりました。
ちょうど設置しているところに遭遇した「桶狭間の桶」(地元ボランティアの方の洒落ですよ)は今も健在でした!
近くながらなかなか行けなかった野田山の加賀前田家墓所に行ってきました。
これは下から登っていったときの入口。車の場合は直接上のほうの駐車場へ行けます。
この入口横には松夫人の実家である篠原家の墓所がありました。
観光客の見学場所のメインはやはり初代利家と松の墓でしょう。
隣り合って造られています。松の横には長男利長(二代)、利長の上には主家である織田家から利長に嫁いだ永姫、その横に利長の兄利久、日本古来の長幼の序や主従関係を墓の位置で表しています。
利長公の墓。大きな土饅頭の前に墓碑。参詣道入口に鳥居が立つのは明治になって神道に改宗させられたから。大名では日本最大級の墳墓です。
松の墳墓。他の墳墓を見ると、利家と松の墳墓の周りにも堀があったと思われます。
まだまだ紹介できますが今日はこの辺で・・・
急ぎ足ですべての墓をまわっても二時間半かかりました。藩主や生母以外にも子や乳母の墓があったりします。前田家以外にも隣接して加賀八家の横山家や村井家の墓所もあります。他の重臣たちの墓所もあることでしょう。
観光用駐車場からの眺め。木々を伐採してくれると金沢市内が望めるのになー。利家公もこの場所から見守ってくれるのに。
川のように見えるが、これは牛ヶ首用水。加賀藩三代藩主前田利常の命により、新田開発を目的に掘削された用水です。
この用水が堀のように守る百塚山に富山藩初代藩主前田利次は、富山城の新城を建てる計画をしていました。実際には計画は頓挫し、後世に悲願だったこの地に富山藩藩主墓所が造られました。
真国寺は墓所守としてこの地に建てられました。
寺領には不釣り合いな鳥居から伸びる参詣道。元大名は明治維新により強制的に神道に改宗させられたので、墓は土饅頭の仏式であるのに、神式の鳥居が付きます。
現在の墓所には藩主以外の墓も多く立てられていますが、地図の上と右の大きな空間が藩主墓所となります。
上の空間には、初代、4代、5代、8代、9代、10代、11代、12代の8人、右の空間には2代、3代、6代、7代の4人の墓があります。11代までが旧式の土饅頭となっています。
参詣道の両側には灯籠が並び、
そのひとつを見ると「延宝四年」の文字が・・・他の灯籠も似たような時期のものが多かったです。
山門を入って正面は、初代利次公の墓となります。こちらは山門からの参詣道もそこそこの長さがあり、一基の面積も広いものです。
対して、右側の墓所。
山門正面は五代利典公の墓ですが、右側に二代正甫公の墓です。こちらは参詣道も短く、墓石近くの木々も墓参を邪魔するように大きくなっています。
元はもっと参詣道が長く、広い空間だったのかもしれません。一般への墓所の解放とともに、設置面積を広げるために削られたのかもしれません。
最近は大名墓所が観光地として整備されている場所も多くなったが、ここはまだまだ知られざる観光地となっているようです。
長者山にある臨済宗南宗寺に来ました。南部氏墓所を探していたのですが、Googleナビでは大慈寺に案内されて場所を探すのに苦労しました。
南宗寺の山門は県重要文化財で江戸時代の創建。
正面の棟にはこの地を治めた南部家の家紋。
背面の棟には武田菱?と思いましたが、南部氏は甲斐の出身で南北朝時代に八戸にやってきたらしく、武田氏に関係するのでしょうね。
本堂裏の墓地の中に、県史跡の八戸南部氏墓所がありました。ようやく辿り着きました(・・;
藩の石高は大きくなかったので、大名墓地としては小さなものですが、
整然と五輪塔が並び、そこはやはり格の違いが感じられます。
八戸の隠れた名所でお詣りを
一乗谷に盛り上がる夏がやってきました。今日と明日は万灯夜、明日は朝倉戦国まつりが開催されます。
写真できれいなこの風景を一度見てみたいと思っていました。
「一客一燈」ということで誰でも参加できる万灯夜に自分も参加しようと申し込みました。
テント横の五色の水、さて何に使うのか?
そばと飲み物付きの1000円券を購入しました。
今日のイベントの最初は、朝倉義景公墓所前で行われる地蔵盆です。
地蔵盆とは子供の無事な成長を願って行われる法会で、今日も地元の子供たちが参加していました。日陰でも暑い中、立っていたのでフラフラする子供もいて親も大変です。
終わった後で子供たちに着いていって、朝倉神社の前に来ました。ここから子供みこしが出発します。
その前に、神様に祈ります。神事の最中も子供の中にはいたずらをする子もいて、ここでもやはり親は大変です。
そして、子供みこしが出発しました。
地元新聞に大きく載った記事
高岡市教育委員会は5日、高岡城跡(高岡古城公園)の本丸広場で見つかった建物遺構について、加賀藩2代藩主の前田利長が居住したころの屋敷「本丸御殿」の可能性がると発表した。
本丸広場には、高岡城跡の郭の配置から、城主の館が置かれた可能性が高いとされてきた。現存する絵図に御殿が描かれたものはないが、利長の書状から、勝手方(広間・台所)が完成したことや、入城後に畳の材料を調達するよう命じたことが分かっており、城主が居住する御殿の存在が推定されていた。
高岡城跡で建物遺構が見つかったのは初めて。高岡市教育委員会は、城跡の国史跡指定を目指して2008年度から総合調査に取り組んでおり、10年度から発掘調査に着手。礎石は6月下旬に始めた調査で見つかった。
調査では8カ所を発掘し、江戸時代後期の地層から一段下の地層で、建物の礎石が6カ所で計16個見つかった。長さ50~60センチの楕円形で、同軸線上に並んでいる。場所は広場の中央から北側にかけて広範囲にわたり、市教育委員会は建物の横幅が50メートル以上になる可能性を指摘している。
(北國新聞2011年8月6日付記事より)
明日、一般向けの説明会が開催されますが予定が入っているので、今日見られるかどうかわかりませんでしたが行ってきました。
高岡市立博物館に続く大手口。
高岡市立博物館に展示されている高岡の模型
模型の高岡城は、堀には石垣が巡らされていますが
二の丸から本丸に架かる橋の両側に残る
この石垣以外は土塁だったと推定されているはずでは?
さて、目的の本丸へ
本丸広場はすっかり金網に囲まれていて、今日は中に入れませんので金網沿いに中を伺います。
新聞報道は中央部のトレンチを載せていましたが、ここから向こうへ3つのトレンチが並んでいますので、一直線に礎石が出ているようです。
西側の1つのトレンチにも礎石が1つ。
東側の1つのトレンチにも礎石が1つ。
東北隅のカギ状のトレンチ
ここからは3つの礎石が発見されました。調査員がちょうど記録を取っていました。
今回は80センチほどの深さのトレンチを掘っていますが、地層は黒い層が2つ。下の黒い層は焼土層のようにも見えますが、この下の地層が江戸初期のものとなるようです。
記録はトレンチと遺物の関係図のようです。
能美市の呉竹文庫駐車場にやってきました。
存在は知っていてもどこにあるのか探していますが、ここの駐車場にありましたよ。
「上杉 織田手取川の戦 遠望の地
上杉に逢ふては 織田も名取川
はねる謙信 逃ぐるとぶ長」
後世の有名な狂言を書いた石碑が立っています。
隣には合戦の経緯を書いてあります。
駐車場から程ないところを手取川が流れています。
北陸鉄道の鉄橋の先は河口になります。
ここ数日の好天で瓦は水が多くありませんが、合戦のときは大雨で増水していました。増水した下流域を渡るのは至難の業でしたでしょうね。
呉竹文庫は北前船で財を成したここ本吉(美川)の熊川氏の蔵書を展示した元図書館だそうです。今は蔵書の和本の展示をしています。呉竹文庫と石川ルーツ交流館の入場券で300円です。
石川ルーツ交流館から国道8号線に向かう途中の田の横に、何か立っているということでちょいと見物。
長享2年(1488)、富樫政親の命により越前口の援路を開くため高尾城より南下した松坂八郎が高尾城に引返すため、今湊より川を渡ったところ、長屋の一揆の追撃を受け此の地において全滅した。その後間もなく高尾城は落ちたが、その頃より当地周辺に火玉ががあらわれるようになり、「ちょうやの火」と呼ばれるようになったそうです。
北国総合研究所が金沢工業大学の協力を得て作成した、金沢城の辰巳櫓20分の1模型。
完成した後、赤羽ホール、しいのき迎賓館と数ヶ月展示されていたものの、その後展示スペースがなく、一般の目に触れる機会がなくなってしまいました。
今日は百万石まつり。60回を記念して142年ぶりに復活した盆正月の「作り物」コーナーに再び登場しました。
内側もしっかりと作ってあるのですが、一方向から見ることができるのみで裏からも見たかった。
3Dプリンターで作られた模型はとても精巧にできています。来年も見られるかな?
金沢城と兼六園で観桜期である春のライトアップが始まりました。
とはいえ、今冬の厳しさと春冷えで開花が遅れていた桜はまだ咲き始めたばかりです。
全体では2~3分咲きといったところでしょうか?
暗くなるまでは日中も無料開放されている兼六園で待つことにします。
今日は観光客が少ないです。
今日は時間があったので、少し散策して石垣修築中の栄螺山(さざえやま)に上ってみました。今は工事中で霞ヶ池側からのみ上れるので、誰も上ってこず頂上でひとりゆっくりしていました。
それにしても、ここからの霞ヶ池の眺めはいいですね。
徐々に暗くなる霞ヶ池を眺めていました。
18時40分頃にはすっかり暗くなりました。
今日は午後から雨がやみ風がないため、水の流れを止めた霞ヶ池にくっきりと唐崎の松が映っています。
ライトアップではいつも人で身動きできなくなる徽軫灯籠の前も今日はまばらで、ゆっくりとアングルを決めながら撮影できました。
では、金沢城に向かいます。
壁を塗りなおした石川櫓はライトアップにも映えます。桜と三日月と一緒に
堀の水に映る橋爪門と塀もきれいです。
もっと桜が咲いているときれいなのですが、ライトアップされると、つぼみでもきれいですね。
五十間長屋も堀に映ります。
人気の少ない河北門では二の門から望む菱櫓がいい。
復元された河北門は菱櫓と一緒に新しいスポットですよ。
「甲賀市史 第7巻 甲賀の城」の発刊を記念したシンポジウムに参加するため甲賀市に来ました。会場は甲賀市甲南情報交流センター忍の里プララです。
少し早く到着したので、旧甲南町の観光場所を散策です。
まずは甲賀流忍者屋敷です。ここは甲賀忍者の筆頭望月家で、中には忍者の屋敷ならではの仕掛け(カラクリ)がたくさんありました。観光客がひっきりなしに来ていましたよ。
ここはめずらしい六角堂です。
そして文化財指定されている新宮神社の表門です。この奥に本堂がありましたが、参道が舗装されてはいますが残っているのがいいです。
さて、会場のプララです。
たくさんの人が来ていましたが、始まってから来る人が多すぎますよ。
シンポジウムは二部構成で、前半が報告会、後半が座談会です。
前日に東京江戸博物館で「徳川御三卿展」を見たこともあり、時間もないところですが見ないと帰れません。
まずは、一ツ橋に残る一橋門石垣です。
内側から見ると・・・
歩道を作るために素っ気無いコンクリートで押さえられています。
奥の柵の中には工事のときに残した石でしょうか?たくさんの石垣用の石が無造作に置かれています。
中には刻印が刻まれた石もあり勿体無いことです。もう少し活かす手はないでしょうか。
橋を渡って、石垣が残る辺り一帯が一橋家の屋敷跡です。御三卿の中で唯一、内堀の外に屋敷がありました。
NHK大河「龍馬伝」で登場することもあり、もっと注目されても良い史跡ですが、あまり人は立ち止まらないですね。
さて、内堀沿いに散策を続けます。まずは平川門
往時は竹で編まれていたという竹橋門を通り、
一橋門から10分ほどで清水門に到着します。
正面に高麗門、右に渡櫓門、左には内堀があり、防御に強い形式です。重要文化財となっています。
高麗門を内側から
渡櫓門は鉄張りの重厚な構えですね。
清水家屋敷と田安家屋敷のあった北の丸は、現在「北の丸公園」となっていて、現在は大部分が園地となっています。
田安門近くには武道館が建っています。
田安門が見えてきました。
田安門の渡櫓門の内側には珍しく部屋があったようですね。番所でしょうか。
こちらの入口も鉄張りで重厚ですね。
高麗門は両側に石垣が積まれ、清水門とは異なっています。ちなみに、田安門も重要文化財です。
田安門の高麗門の脇の塀は広く廻っていますので、雰囲気が清水門とは明らかに違いますね。通路脇の木々も邪魔だ!と思っていましたが、ここは桜の名所だったようです。
田安門の標柱がどこにあるのかと探したら、こんな遠くにありました。清水門とは違い、見通しが利かないので場所変えてほしいものです。
御三卿の名残りを感じる部分はところどころに残っていますが、ほとんどの方は素通りですから、そんな重要な史跡だとは思ってもみないのでしょうね。
仕事前に散策です。今日も昨日と同じく、祥伝社新書の「江戸城を歩く」を参考に歩きます。コース4の「日本橋川」を途中まで攻略します!
歩いていると常盤橋公園に着きました。予定していたのとは逆方向に歩いたようですが、今更戻れないのでそのまま進みます。
橋は当時のものではないようですが、枡形に向かって川を渡り、公園内には枡形の両側の石垣が残っています。枡形になるために囲むもう一方が壊されていますが、都心にこれだけのものが残ったのは川がカーブしていて、道を作るのに邪魔にならなかったからでしょう。
現在の常盤橋は少し東側に架かっています。そこから日本橋に向かいます。
日本橋はこの「梅ぼ志飴」に描かれているように、浮世絵として多く描かれています。ちなみに「梅ぼ志飴」はべっこう飴です。
さて、見学を・・・・・と思ったら、なんと工事中でした。
北詰めの道路基準道標は見学できます。
橋梁はブルーシートで大きく包まれています。
普段は道路の真ん中にあって見学できないこの道路元標も見学できる!
と思ったら、外されていました。ここが日本の道路の基準点ですよ。
もう一方の北詰めには魚市場発祥の地の石碑が立っています。鮮魚や塩干魚を荷揚げした魚河岸がこの辺りにあったそうですが、築地市場の前身はこの地にあったということですね。
川沿いに西に戻り、一石橋にきました。
この橋の歴史は古いようです。
橋柱は現在1本だけ残っています。その横の金網に囲まれたところに
迷子しらせ石標が立っています。
壊されないように厳重に囲まれていますね。
そこから1つ南に行った交差点あたりに呉服橋門があったようなのですが、
今は交差点名として残るのみです。
説明板もないのか、と歩いていると少し離れた日本ビル前に見つけましたよ。
さらに西へ歩くと、新大手町ビルの脇にひっそりと道三橋の案内板が立っています。この通路が道三堀だったのかな?
交差点を北に進み、外堀まで戻ったところが鎌倉橋です。南岸に大部分が蔦におおわれた石垣が残っています。
そこから川沿いに西へ進むと、物揚場跡の案内板があります。
そこは神田橋です。建築資材の陸揚げ場所だったところですが、対岸に神田橋門があったようです。
西の北詰めには神田橋の案内板が立っています。
橋のたもとにある首都高への入口の向こう側に石垣が残っているようですが、首都高で隠れ、蔦で隠れ、よく見えませんね。
もうひとつ西側の錦橋から西側の南岸は石垣が続いて残っていますね。
次の橋は一ツ橋です。
交差点も一ツ橋です。想像の通り、徳川一橋家の屋敷前にあった門跡であるのですが、長くなったので後半は別記事に書くことにします。
江戸東京博物館を後にして、少し江戸の名残りを散策しましょう。今日の散策路の参考は前回と同じ、祥伝社新書の「江戸城を歩く」です。コース7の「両国橋から御茶ノ水」を半分くらい攻略します!
とその前に・・・
両国の観光地図にありました赤穂浪士の討ち入りのあった「吉良邸跡」を見に行きます。
屋敷跡のほんの一部を公園としているのですが、ちゃんと表札も掛かっていますよ。
中に入ると、稲荷神社と
赤穂浪士の供養碑
首洗い井戸などが記念として復元されており、
小さい空間ですが、観光スポットとして充実しています。
さて、出発地点の両国橋です。両国というのは、橋の架かる隅田川が武蔵国と下総国の境界線だったことによるそうです。
右奥に見えるのが、隅田川に流れ込む神田川の第一橋、柳橋です。
両国橋から見る隅田川です。大きな川です・・・と、ここからスカイツリーが見えますよ。
神田川の第一橋、柳橋です。ドイツ式の永代橋となっていて、現代のものは昭和4年に復興されたものですが、東京では少ない近代遺産のようです。
柳橋付近の神田川には船遊び用の船宿がたくさん連なっていました。絵になりますね。
浅草橋南詰めの交番のあたりが郡代屋敷跡です。
農民を管轄した関東郡代の役宅跡らしい。
交番の向こうのビルのそばに何か石が見えたので、行ってみると、
そこには石垣の石がありました。隅田川も江戸城防衛のため、柳原土手という防備用の石垣があった場所があるそうです。それにしても、誰も見ないところにひっそりとありますね。
浅草橋を渡ると、
北詰めの浅草橋公園が浅草見附跡です。
浅草橋は浅草寺への参道ですね。ここには、というより対岸の郡代屋敷のほうだけど、枡形門があったのですが、今は見る影もなく、この石碑のみが当時を偲ばせます。
さあ、帰ろうと・・・・両国広小路の碑を見るのを忘れたよ。
福井市立郷土歴史博物館に行ってきました。
現在開催されている秋季特別展は「福井城と城下町のすがた」というテーマで、福井城の絵図や遺物、城下町の絵画などが展示されています。
福井市や富山市には市立の歴史博物館があって、城を中心とする城下町の展示を年に1度はしているのでうらやましい限りです。金沢市には博物館は数多くあるけれど、歴史中心の博物館がなく、金沢城や城下町に関する史料はまとまっていない・・・・それは玉川の近世史料館になるのかな?
今日来たのは講演会があったからです。吉田純一福井工業大学教授による「福井城とその城下」、遺構や遺物の話、国京克己若越建築文化研究所代表による「瑞源寺と福井城」、福井城本丸御殿の遺構である瑞源寺の話。福井城には知られている以上に実は遺構や遺物が残っていることを知りました。
講演会を聞いた後に展示を見ると、ポイントが絞れてよくわかりましたよ。
越前大野城築城430年祭の開催されている大野市へやって来ました。
記念特別展として大野市歴史博物館では「越前大野城 -金森領国から土井大野藩へ-」が開催されています。
金森の作った大野城や城下町、関連する遺物が展示されています。金森氏が大野で行った業績がよくわかる展示でした。
大野市は金森氏の行った城下町整備がそのまま残っています。藩政期の建物はさすがに少ないですが、この土地独自の建て方の家はまだまだ数箇所で見る事ができます。
軒を深く、端に板を下げる形となるようです。
二の丸跡に建てられた学びの里「めいりん」では、越前大野城フォーラム 「長近の時代と城」が開催されました。
基調講演 越前大野城から見た日本の城 千田嘉博奈良大学教授
事例発表1 金森氏と高山城 田中彰氏
事例発表2 金森長近の上有知城下町つくり 古田賢司氏
事例発表3 発掘された北庄城 河村健司氏
受付では430年祭のマスコットキャラの「うぐピー」と「うめピー」がお出迎えです。
会場には大野城の発掘調査で出てきた遺物が展示されていました。
会場は250名のところ150名の参加で、少し空きが目立ちましたがやはり地元のご年配が多いように感じました。折角の歴史を学ぶ機会であるのに、もっと若い世代にも参加してほしかったですね。町づくりや観光資源の参考になるいい話だったのですが・・・