近くの駐車場に停めたのでようやく行けました。
その場所は彦三郵便局。
ではなく、その場所にあったという「彦三種痘所跡」です。金沢大学は医学部から始まり、その前身がこの場所にあった種痘所ということになっています。よってここが発祥の地ということになりました。
金沢は戦災にあっていないので、道路が江戸時代そのままの場所が多く残っています。このあたりも大きく変わっていないので場所はほぼ確定なんですよ。
北国総合研究所が金沢工業大学の協力を得て作成した、金沢城の辰巳櫓20分の1模型。
完成した後、赤羽ホール、しいのき迎賓館と数ヶ月展示されていたものの、その後展示スペースがなく、一般の目に触れる機会がなくなってしまいました。
今日は百万石まつり。60回を記念して142年ぶりに復活した盆正月の「作り物」コーナーに再び登場しました。
内側もしっかりと作ってあるのですが、一方向から見ることができるのみで裏からも見たかった。
3Dプリンターで作られた模型はとても精巧にできています。来年も見られるかな?
金沢城と兼六園で観桜期である春のライトアップが始まりました。
とはいえ、今冬の厳しさと春冷えで開花が遅れていた桜はまだ咲き始めたばかりです。
全体では2~3分咲きといったところでしょうか?
暗くなるまでは日中も無料開放されている兼六園で待つことにします。
今日は観光客が少ないです。
今日は時間があったので、少し散策して石垣修築中の栄螺山(さざえやま)に上ってみました。今は工事中で霞ヶ池側からのみ上れるので、誰も上ってこず頂上でひとりゆっくりしていました。
それにしても、ここからの霞ヶ池の眺めはいいですね。
徐々に暗くなる霞ヶ池を眺めていました。
18時40分頃にはすっかり暗くなりました。
今日は午後から雨がやみ風がないため、水の流れを止めた霞ヶ池にくっきりと唐崎の松が映っています。
ライトアップではいつも人で身動きできなくなる徽軫灯籠の前も今日はまばらで、ゆっくりとアングルを決めながら撮影できました。
では、金沢城に向かいます。
壁を塗りなおした石川櫓はライトアップにも映えます。桜と三日月と一緒に
堀の水に映る橋爪門と塀もきれいです。
もっと桜が咲いているときれいなのですが、ライトアップされると、つぼみでもきれいですね。
五十間長屋も堀に映ります。
人気の少ない河北門では二の門から望む菱櫓がいい。
復元された河北門は菱櫓と一緒に新しいスポットですよ。
前日に東京江戸博物館で「徳川御三卿展」を見たこともあり、時間もないところですが見ないと帰れません。
まずは、一ツ橋に残る一橋門石垣です。
内側から見ると・・・
歩道を作るために素っ気無いコンクリートで押さえられています。
奥の柵の中には工事のときに残した石でしょうか?たくさんの石垣用の石が無造作に置かれています。
中には刻印が刻まれた石もあり勿体無いことです。もう少し活かす手はないでしょうか。
橋を渡って、石垣が残る辺り一帯が一橋家の屋敷跡です。御三卿の中で唯一、内堀の外に屋敷がありました。
NHK大河「龍馬伝」で登場することもあり、もっと注目されても良い史跡ですが、あまり人は立ち止まらないですね。
さて、内堀沿いに散策を続けます。まずは平川門
往時は竹で編まれていたという竹橋門を通り、
一橋門から10分ほどで清水門に到着します。
正面に高麗門、右に渡櫓門、左には内堀があり、防御に強い形式です。重要文化財となっています。
高麗門を内側から
渡櫓門は鉄張りの重厚な構えですね。
清水家屋敷と田安家屋敷のあった北の丸は、現在「北の丸公園」となっていて、現在は大部分が園地となっています。
田安門近くには武道館が建っています。
田安門が見えてきました。
田安門の渡櫓門の内側には珍しく部屋があったようですね。番所でしょうか。
こちらの入口も鉄張りで重厚ですね。
高麗門は両側に石垣が積まれ、清水門とは異なっています。ちなみに、田安門も重要文化財です。
田安門の高麗門の脇の塀は広く廻っていますので、雰囲気が清水門とは明らかに違いますね。通路脇の木々も邪魔だ!と思っていましたが、ここは桜の名所だったようです。
田安門の標柱がどこにあるのかと探したら、こんな遠くにありました。清水門とは違い、見通しが利かないので場所変えてほしいものです。
御三卿の名残りを感じる部分はところどころに残っていますが、ほとんどの方は素通りですから、そんな重要な史跡だとは思ってもみないのでしょうね。
仕事前に散策です。今日も昨日と同じく、祥伝社新書の「江戸城を歩く」を参考に歩きます。コース4の「日本橋川」を途中まで攻略します!
歩いていると常盤橋公園に着きました。予定していたのとは逆方向に歩いたようですが、今更戻れないのでそのまま進みます。
橋は当時のものではないようですが、枡形に向かって川を渡り、公園内には枡形の両側の石垣が残っています。枡形になるために囲むもう一方が壊されていますが、都心にこれだけのものが残ったのは川がカーブしていて、道を作るのに邪魔にならなかったからでしょう。
現在の常盤橋は少し東側に架かっています。そこから日本橋に向かいます。
日本橋はこの「梅ぼ志飴」に描かれているように、浮世絵として多く描かれています。ちなみに「梅ぼ志飴」はべっこう飴です。
さて、見学を・・・・・と思ったら、なんと工事中でした。
北詰めの道路基準道標は見学できます。
橋梁はブルーシートで大きく包まれています。
普段は道路の真ん中にあって見学できないこの道路元標も見学できる!
と思ったら、外されていました。ここが日本の道路の基準点ですよ。
もう一方の北詰めには魚市場発祥の地の石碑が立っています。鮮魚や塩干魚を荷揚げした魚河岸がこの辺りにあったそうですが、築地市場の前身はこの地にあったということですね。
川沿いに西に戻り、一石橋にきました。
この橋の歴史は古いようです。
橋柱は現在1本だけ残っています。その横の金網に囲まれたところに
迷子しらせ石標が立っています。
壊されないように厳重に囲まれていますね。
そこから1つ南に行った交差点あたりに呉服橋門があったようなのですが、
今は交差点名として残るのみです。
説明板もないのか、と歩いていると少し離れた日本ビル前に見つけましたよ。
さらに西へ歩くと、新大手町ビルの脇にひっそりと道三橋の案内板が立っています。この通路が道三堀だったのかな?
交差点を北に進み、外堀まで戻ったところが鎌倉橋です。南岸に大部分が蔦におおわれた石垣が残っています。
そこから川沿いに西へ進むと、物揚場跡の案内板があります。
そこは神田橋です。建築資材の陸揚げ場所だったところですが、対岸に神田橋門があったようです。
西の北詰めには神田橋の案内板が立っています。
橋のたもとにある首都高への入口の向こう側に石垣が残っているようですが、首都高で隠れ、蔦で隠れ、よく見えませんね。
もうひとつ西側の錦橋から西側の南岸は石垣が続いて残っていますね。
次の橋は一ツ橋です。
交差点も一ツ橋です。想像の通り、徳川一橋家の屋敷前にあった門跡であるのですが、長くなったので後半は別記事に書くことにします。
江戸東京博物館を後にして、少し江戸の名残りを散策しましょう。今日の散策路の参考は前回と同じ、祥伝社新書の「江戸城を歩く」です。コース7の「両国橋から御茶ノ水」を半分くらい攻略します!
とその前に・・・
両国の観光地図にありました赤穂浪士の討ち入りのあった「吉良邸跡」を見に行きます。
屋敷跡のほんの一部を公園としているのですが、ちゃんと表札も掛かっていますよ。
中に入ると、稲荷神社と
赤穂浪士の供養碑
首洗い井戸などが記念として復元されており、
小さい空間ですが、観光スポットとして充実しています。
さて、出発地点の両国橋です。両国というのは、橋の架かる隅田川が武蔵国と下総国の境界線だったことによるそうです。
右奥に見えるのが、隅田川に流れ込む神田川の第一橋、柳橋です。
両国橋から見る隅田川です。大きな川です・・・と、ここからスカイツリーが見えますよ。
神田川の第一橋、柳橋です。ドイツ式の永代橋となっていて、現代のものは昭和4年に復興されたものですが、東京では少ない近代遺産のようです。
柳橋付近の神田川には船遊び用の船宿がたくさん連なっていました。絵になりますね。
浅草橋南詰めの交番のあたりが郡代屋敷跡です。
農民を管轄した関東郡代の役宅跡らしい。
交番の向こうのビルのそばに何か石が見えたので、行ってみると、
そこには石垣の石がありました。隅田川も江戸城防衛のため、柳原土手という防備用の石垣があった場所があるそうです。それにしても、誰も見ないところにひっそりとありますね。
浅草橋を渡ると、
北詰めの浅草橋公園が浅草見附跡です。
浅草橋は浅草寺への参道ですね。ここには、というより対岸の郡代屋敷のほうだけど、枡形門があったのですが、今は見る影もなく、この石碑のみが当時を偲ばせます。
さあ、帰ろうと・・・・両国広小路の碑を見るのを忘れたよ。
2年計画で進められていた、北國総合研究所の金沢城辰巳櫓模型が完成して実物が見られるようになりました。
場所は北國新聞赤羽ホールの一階廊下です。今日はイベントがあって模型のすぐ横に受付のお姉さんがいましたが、折角来たのでしっかり写真に収めて来ました。ちょっと視線が痛い・・・
それにしてもよく出来ていますね。3Dプリンターという最先端の立体プリンターで作られています。
入母屋屋根の蛙股のなかの梅鉢紋もちゃんと再現されていましたよ。
側面を見ると壁に継ぎ目が見えます。ここで合わせているんですね。
外から見ると内側もしっかり作られていますが、写真は夜でないとガラス映りがあって難しいですね。
今日はNTT病院の近くを通ったので、ふと冬で石積みが見やすくなっているかと思い、病院裏に行ってみました。
駐車場を横切り、病院の裏にまわると、そこには金沢城の西内惣構が流れています。
金沢城下に作られた東内・東外・西内・西外の4つの惣構のうち、この西内惣構は最も残りが悪いのですが、浅野川に注ぐ終端近くは石積みの残りも良いですね。
予想通り、石積みを覆っていた草は枯れ、よく見える状態になっていました。
マジマジと眺めていると、隅の部分は算木積みとなっていてなかなか立派ではないですか!
カーブの部分の石積みは藩政期の面影があります。
とこの部分を眺めていると、平面の中に隅のような斜めの積み方が見られます。流路がどこかで変わったのでしょうか?
完全に裏に回ってくると、ここも隅は立派ですね。
さらに進むとここで終わりのようです。なんか工事しているような・・・
ってここは主計町の緑水苑ではないですか!ただ今復元工事中です。ここに繋がるのね、初めて知りました。
今年3年目となり、恒例となりました金沢城橋爪門(一の門)のしめ飾りです。
藩政期の絵本から忠実に再現されたものですが、以前これを製作できる職人が一人しかいないというのをニュースでやっていました。今はどうなっているのでしょうか?
一方こちらは長町の前田土佐守家資料館です。
橋爪門よりは少し短いですが、基本的に形は変わりないですね。
正月ということで、ミニコーナーとして土佐守家に伝来する天神堂や天神画像などが展示されていました。
ここは金沢城下、東外惣構堀の標柱前です。
この辺りの堀跡は非常に細くなっており、溝と見間違うばかりなのですが、今日は少し雰囲気が違いました。
その原因は堀に覆うこの鉄製のフタです。こんなの前はなかったはず?ですが・・・・
冬の間だけ雪で水路が詰まらないように被せられたものなのか?恒久的なものなのか?
昨日に続いて、また二俣城にやってきました。
今日もイベント目白押しです。
昼間に見る復元天守は夜とは違いますね。週間天気では雨が予想されていましたが、朝は何とか晴れてよかったです。
勇壮な和太鼓演奏からイベントは始まりました。
続けて居合が披露されます。
午前の部の最後は、日本放鷹協会による放鷹術披露です。
本丸内を颯爽と飛ぶ鷹、今は日本種ではなく、イギリスのスカイホークなどを使用するようですが、観客も参加して鷹匠がどういう訓練をしていたのかを体験しました。
昼の休憩の後は居合から始まりました。竹の居合斬りは切れないミネを使用するもので、すごい迫力でした。
昨日以上の観客が来ていましたが、期間限定の二俣城復元にしてはもう少し人出があってもよかったと思いますね。新型インフルエンザの影響もあるのでしょうけど。
続けて、朝から準備をしていた武者行列が始まり、
舞台上で徳川軍と武田軍による演劇が行われました。
続けて、長篠・設楽原鉄砲隊による火縄銃砲術演武が行われました。すでに天候がかなり怪しくなってきていましたが、順調に演武は進み、
三段構えの演武などもあり、
すべての演武を終えるまでなんとか天気は持ちました。
一通りイベントを楽しんだので、帰ろうと駐車場に向かっている途中で土砂降りとなってしまいました。後のイベントはどうなったでしょうね。しかし、わざわざこのイベントのために遠征してきて良かったです。
帰りにイベントに連動した企画展をしていた田代家に寄りました。田代家は天竜川を利用した筏問屋です。
中では、「二俣城物語展」として、二俣城や鳥羽山城の発掘調査や小説、絵画などが部屋に所狭しと並べられていました。
中に、平成7年に初めて復元されたときの二俣城復元天守の写真がありました。今回の天守は立派だと聞こえてはいましたが、比べるまでもないですね(#^.^#)
写真でよく見る画なのだが、なかなか場所が分からなかったもの
この「三方原古戦場」の碑です。
地元の観光マップにも載っていない?地元に入った後にどうしても見たくて探していると・・・
ありました。ここは中区の浜松市営の墓地です。
ちょうど管理事務所では
三方原合戦の貼絵展が開催中でした。
今回静岡まで足を伸ばした理由に、国民文化祭にあわせてここ二俣城に天守が復元されると知ったからです。
初日の今日は一日限りの夜のイベントが開催されます。
天竜川も夕暮れに沈んでいきます。
城跡となっている山上へは東側の公園入口から上るのが通常ですが、隣りの鳥羽山城を見に行った帰りでもあり、地元の人と一緒に西側入口より登ります。
そのおかげで山上にのぞく復元天守と月の風景を見る事ができました。
山上に到着すると目の前に復元天守が現れました。
回り込みます。一夜城として発表されていたイメージ図どおりではないですが、9日間という公開限定期間で撤収されてしまうのは勿体無い出来ですね。
後で聞いたところによると、建築に2、3週間もかかったそうで、解体された後はいつかまた公開されるまで保管されるそうです。
本丸入口に立つ木像は、ここで自害した家康の嫡男信康の像です。
今日は地元の方中心に100人以上の人が集まっていました。ドライアイスの煙幕とともにイベントが始まりました。
天守二階の窓が開き、法螺貝が演奏されます。窓開くんだー、という驚きの演出です。
初めに、犀ヶ崖資料館で見た遠州大念仏が演じられました。漆黒に浮かぶ復元天守の前で演じられる大念仏はなんとも言えない厳かなものでした。
続けて、地元生田流の琴の演奏がありました。金沢城でも同様のイベントを何度も見ましたが、城に和の演奏はやはり合いますね。
最後に日本舞踊が披露されました。晴れてて良かったですが、夜は寒かったですね。明日は昼のイベントです。
国民文化祭しずおか2009を見るために静岡までやってきたので、関連イベントを見ていきますよ。
まずはクリエート浜松で開催中の「絵図でみる浜松城」です。
会館の一室に絵図や浜松城の発掘調査成果などの写真が展示されていました。
貴重な大絵図も堪能できるこの展覧会、期間限定ながら無料です。
そして、道向いの浜松まちづくりセンターに移動します。そちらでは「徳川・武田争奪の城」として、北遠・湖北の30の城について絵図や縄張り図、写真が展示されていました。それらの城跡が紹介された「浜松の城跡見どころマップ」もゲットできました。こちらも無料でした。
今日はいい天気になって良かった!浜松に到着するまでに豊田で1時間の大渋滞にはまってしまいました。
浜松市に到着して初めに寄ったのは犀ヶ崖古戦場です。まずは犀ヶ崖資料館を見てきました。
中には遠州大念仏の資料が展示されていますが、三方原合戦唯一の史跡として当時の模型があります。決戦場の広さを実感できますよ。
犀ヶ崖がその名のとおり深い崖地です。三方原合戦で夜営していた武田軍を徳川軍が急襲して、この崖に次々と落ちて亡くなったという場所だそうです。
石碑もあります。
のぞくとかなり深いです。斜面には竹も群生しており、当時はこれで竹槍なども作ったのでしょうかね?
資料館の裏には合戦でこの地で討死した本多忠真の顕彰碑もあり、その後ろには徳川家康お手植と伝わる楠木もあります。
この碑の右後方には「旗立ての松」という看板があるのですが、附近に松らしき木がない!?
不思議に思って資料館の管理人に聞いてみると、数年前に松くい虫にやられて枯れてしまったとか!それは残念なことです。看板の謎、解決です。
金沢歴史遺産探訪月間が昨日から今年も始まりました。探訪会、文化財公開、伝統芸能披露と多くのイベントが開催されます。
今日は、惣構跡探訪会に参加しました。昨年第一回として西内・外惣構跡探訪会が開催され、今年は東内・外惣構跡探訪会が開催されます。
今まで惣構の探訪会は西惣構が中心だったので、東で開催されるのは今回が初めてではないでしょうか。講師は惣構跡探訪ではすっかりお馴染みになりました、金沢工業大学の増田教授です。
2年続けての参加が多いものと思っていましたが、数人だったのが意外でした。
集合場所であった金沢市庁舎南分室で講義を受けてから出発です。
東外惣構の見所はやはりその始点になる兼六園内の山崎山ですね。
早速、出発して県立美術館裏の階段を上り、小立野口から兼六園内に、山崎山で初めの解説です。
喰違虎口の一部であった山崎山は土塁の一部であり、古木が多く樹生するあたりが言われてみると庭園とは異なる趣に見えます。
そこから八坂を下り、路地に入ります。東外惣構が流れ落ちる道筋は非常に少なくなっているのですが、写真の中央の用水は新しいものです。右側からこの用水に合流している溝が惣構堀の名残りだということでした。
そこからすぐ近くの駐車場に土盛りが残っていますが、これが土居の跡ではないかと思われるのですが、民有地のため保存が難しいそうです。貴重な文化財ではありますが、一般生活との両立ができないのは残念なことです。
そして、材二親和会童志園は敷地が惣構堀、向こうの壁が土居の高さを示しており、痕跡は全くありませんが、その大きさのよく分かる場所です。
途中、旧成瀬家邸の立派な石垣を横目に、常福寺をぐるりと回ります。常福寺の敷地は一段高くなっており、その敷地に添って惣構は流れていきます。
ここで予定コースは横山町に入るのですが、賢坂辻を曲がり、東内惣構へ向かいました。
内惣構は小将町中学校の前から始まり、味噌蔵町小学校に向かって下ります。小学校前でみんなが覗き込んでいるのは・・・・
惣構が道路下を通り、流れてくる惣構堀跡です。ここでほぼ直角に右に折れます。
ここから入ったことのないような細い路地に入りましたが、惣構堀と土居との落差がよくわかる場所でした。
味噌蔵町交差点から斜めに入り、寺島蔵人邸の1本南側の道を歩きました。ここが惣構の内側の道、内道の跡です。1本北側の道路(寺島蔵人邸前)とは確かに落差があります。
また、個人宅に残る松の木は打道の幅を示しているそうで、興味深いですね。
枯木橋で惣構の深さを実感し、
最終地点は東内惣構堀枯木橋詰遺構です。皆さん最後まで真剣に話を聞いていましたね。
来年も開催されるか分かりませんが楽しみにしています。
今日は安土城の城下を歩きました。前回の訪問時は安土駅の南側を歩きましたので、今回は北側を歩きます。
映画「火天の城」で安土町は随分と盛り上がっていました。
駅前では信長像が出迎えてくれます。
まずは駅前を西側に進み、「梅の川」に向かいました。
梅の川は、織田信長の家臣武田夕庵が、この水で茶を献上したところ、信長公はたいそう気に入り、茶会に好んで用いたと言われる水場です。
続いて、「北川湧き水」です。室町時代に常楽寺港として栄えたこの地区には湧き水が当時の姿で多く残っています。
湧き水の近くに常楽寺港の船着場址が残っています。
現在では湖岸からかなり内陸部となっていますが、常浜公園として葦茂る良い魚釣り場所となっているようです。
常浜公園から西の湖に向かう途中、道路上のマンホールが気に入りました。信長の旗印、永楽通宝ですね。
安土城の西側に広がる「西の湖」です。安土城築城当時は湖面が城の北側に大きく広がっていました。
安土城の西側に位置する「活津彦根神社」です。
現在の本殿は江戸時代前期のものです。
神社から東に進むと、朝鮮人下街道に至ります。安土城はすぐそこに見えます。
角に嘉永7年の法華塔が残っています。
百々橋を渡れば、安土城の百々橋口です。
下街道を戻ると、途中「新宮大社」がありました。
茅葺の美しい拝殿のある神社でしたが、敷地を取り囲む石垣の入り組み方が複雑で、砦かとも思える程でした。
さらに下街道を進み、少し外れた場所に「セミナリヨ址」がありました。南蛮寺のあった場所ですね。今はすっかり整備されて史跡公園となっています。
ここからは安土城が間近に見えます。
下街道は城下では何度も曲がります。この曲がり角では「常夜灯」が残っています。
石は一見して古さがわからないのが欠点ですね。
さらに進むと「活津彦根神社」の参道の入口がありました。ここから数百メートル先に先ほどの境内がありますが、下街道からまっすぐに参道が設けられていたことになります。
下街道からまっすぐ北に神社への参道、下街道は右に折れます、。
そこから50メートルほど南に神社の御旅所が残っています。
この角には「朝鮮人街道」の石碑が立っています。向こうの角を左に曲がれば安土駅です。