小松城は加賀藩3代藩主前田利常が隠居城として、一国一城令の例外として整備された城です。
沼地の島を曲輪として利用し、梯川を外堀とした堅牢な城でしたが、近年は埋め立てが進み、沼地であったことを想像することもできません。
平成2年に小松市制50周年を記念して12本の石碑が立てられています。その中のいくつかを紹介しましょう。
ここは小松市役所前の芦城公園です。「三の丸跡」に整備されました。春には公園内いっぱいに桜が咲いて人で賑わいます。
隣りの小松商業高校の前には「二の丸跡」の石碑が立っています。商業高校と小松高校の校舎がほぼ曲輪の大きさです。
小松高校テニスコートの脇に本丸の天守台がひっそりと残っています。
テニスコートが本丸御殿跡、小松高校の校庭が本丸跡になります。
天守台の西側に唯一の掘沿いの石垣の遺構が残っています。
鰻橋跡の石碑から家の方向に、琵琶島から二の丸への橋(鰻橋)が架かっていました。ここにあった門の遺構が園町の来生寺に残っています。
この石碑から徒歩20分ほどですので、見逃さないように。
その来生寺へ行く途中に葭島神社があります。
この本堂は本丸御殿の一部が移築されたものと言われており、天井に天井画が残っています。
梯川の対岸には藩政期に天満宮が創建され、今も同じ地に残されています。繁殖中なのかカラスが着いてきて恐い思いをしました。
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雪景色の金沢城へ 石川県の城館
昨日は市内へ出かける用事もありましたので、金沢城へ。
最近は北陸も雪が少なくなりました・・・と言っても、今年は時々豪雪になるのですが、やはりあっという間に消えてしまいますので、出かけるタイミングで屋根に雪が残っていたり、こんなに一面雪景色の金沢城には地元でも滅多に会えるものではないですね。
そういう意味で貴重な機会ですので、ゆっくり散策です。散策路が整備されてきた城内も大雪で一部は通行止めになっていました。そのくらい一気の豪雪だったのですね。
建造物の屋根雪もいいですが、石垣にうっすらと残る雪が旅情を誘います。何度も来ていますが、今日の景色は特別ですね。
とはいっても、雪の中の散策は体力使います。絶景を求めて歩き回りましたよ。
石川門も雪が積もると風情が増しますね。
今日は午後から内部公開日だったのですが、残念ながら時間が合いませんでした。準備を始めた石川門で石落としを開けた珍しい写真を外側から撮ることができました。
辰巳櫓もいい風情です。昨日の地元新聞では、この辰巳櫓から水の手門までの県道沿い(兼六園側、写真では右側)の松の木などを間伐して石垣をもっと見えるように新年度整備されるようです。これもぐるりと城外を一周する石垣見学コース整備の一環です。
昨日の夜はちょうど恒例となった冬のライトアップ日でした。冬のライトアップでもここ数年は雪がなかったですから、三年ぶりぐらいの雪景色でしょうか?と言っても、これだけの大雪の中のライトアップは初めてかもしれません。
雪景色の金沢城のライトアップは感動モノでした。あまりの寒さに人はまばらでしたが・・・
金沢城 丑寅櫓跡
本丸東側にあり、兼六園に面する櫓台が丑寅櫓跡です。
普段はあまり観光客が来ない場所ですが、
ここからは天気がよければ、医王山系の山々や石切り場である戸室山が見えます。
それでは城らしい見所を紹介します。櫓台なので、隅石に柱穴が見られます。
こちらは北西
そして北東
百間堀に面する南東には3石連続で柱穴があります。
最後の南西は櫓台整備のためか柱穴はありません。
と思ったら、櫓台の上に並んでいる1石に柱穴を見つけました。
今度行ったときはじっくりと鑑賞してくださいね。
堅田城 石川県の城館
探訪会で疲れましたが、まだ明るいということでいつか行きたいと思っていた堅田城跡に登ってきました。
山側環状のトンネルのあるいずれの山だとは聞いていたのですが、森本トンネルの頂上でした。
堅田城は北陸道・小原越といった主要道や森下川・河北潟・日本海といった水上交通の要衝に立地する中世山城であり、麓の堅田B遺跡(山側環状の工事で発掘調査が行われ、現在は道路の下)からは鎌倉時代の館跡が見つかっています。
森本ICを下り、市街方向から医王病院を越えると案内板がありました。
麓に立つ看板を見ると、ここ墓地側と少し先の神社裏から登山道が整備されているようです。別のホームページではもう1本あるようなことを書いてありましたが、ここには記載がありません。
墓参の方用に砂利の駐車場がありましたので車を停めて登ります。麓から400メートル。15分ほどのちょうどよい距離です。
半分の200メートル進むと、けもの道になりました。3年ほどまえに整備され、竹が伐採されましたが、未だにその根元が残っていて気をつけないとつまずいてしまいます。
主郭に到着すると思いのほか広いですね。
主郭西側に見張り台とも思える小山があり、そこからは日本海、河北潟が一望できます。
主郭南側にまわると北陸道森本ICがよく見えます。
主郭の東側には一段低い郭があり、神社裏から登ってくる道があります。平地として整備されているのは主郭と東側の郭です。西側にも郭がありますが、木々に囲まれている影響もあるのか草も生え放題でした。
主郭の北側には2列の畝状竪堀を見ることができます。ちょっと分かりにくいです。
主郭の西側にまわりこむと、そこには大規模な畝状竪堀がありました。
こんな近所で大規模な畝状竪堀が見れるとは・・・感動です。
これだけ良好に遺構が残っているのだから、もっと有名になってもいいと思うのですが・・・
金沢城、七尾城、鳥越城、小松城、大聖寺城・・・・他の城は残念ながらいまいち知名度がありません。
夕方に登ったのには理由がありました。もしかしたら夜景がきれいかな?と思っていたのです。数十分で空が赤くなってきました。
金沢市街の方角は木々で隠れてしまっています。隙間からなんとか県庁が見えますが、夜景が一番きれいな方角なので勿体無いですね。
森本ICにできる光の列がきれいです。もっと暗いときれいなのですが、懐中電灯を持参していませんし、足元が見える間に麓に下ります。熊の目撃情報はないようですが、カモシカが出るようですし。
かなり低くなってから視界が開けていました。医王病院の向こうに市街が見えます。暗いと足元の竹の切り株につまずきそうで恐いですが、整備すれば卯辰山に負けない夜景スポットになりますね。
二曲城 石川県の城館
白山市鳥越の一向一揆歴史館の背後の山が二曲城跡です。
現在一向一揆歴史館では、平成16年より史跡整備のために進められてきた二曲城跡発掘調査の成果を展示する企画展が年内開催されています。
二曲城は鳥越城の支城のひとつですが、鳥越城ほど有名ではありません。しかしながら、鳥越城とセットで国史跡に登録されています。(どれほどの人がこの事実を知っているのか?)
小さな山城なのでサッと見ても小1時間はかかりません。
まずは入ってすぐに虎口にあたる土塁に突き当たります。
その土塁の背後にはため池が残っています。
さらにそのまま谷あいを進むと、土嚢の積まれた土塁に突き当たりますが、この場所で石積みが見つかっています。また、手前には空堀が見つかっています。
本丸には小さな祠が建てられています。眼前には鳥越城が望めます。
本丸からは鳥越城方面や白山方面が望め、手取川の悠々と流れています。空が晴れていれば白山も見えます。
里に近いのでクマは出ないようですが、蛇には遭遇しますよ。気を付けて下さい!
二曲城は古文献に多く記載が残っていますが、その一部は鳥越城だと考えられています。近くの殿様屋敷は二曲城の根小屋と推測され、平時の館と戦時の山城という対で機能していたと考えられます。
殿様屋敷 石川県の城館
白山市鳥越の一向一揆歴史館の裏に殿様屋敷跡と呼ばれる場所があります。
道路から2メートルほど高くなっている高台は、現在大部分が畑となっています。
隣接する八幡神社の境内は
さらに高くなっていますが、平坦地はかなりの広さです。
上段と下段の一部は墓地や参道として一部破壊されていますが、屋敷範囲は見てとれます。
当地は在地土豪の二曲左京進、または鈴木出羽守の子である鈴木左京進の屋敷跡と推測されています。
岩倉城 石川県の城館
小松市から白山市鳥越に入る道路沿いに岩倉城があります。
道路沿いに案内板がありましたので登ってきました。後ろに見えるのが岩倉山です。
案内板の道路の向こう側に遊歩道への入口がありますが、案内板側からは見にくいですね。
岩倉山は杉の木で覆われています。
軽自動車も通れる幅の遊歩道を進むと、途中に案内板がありました。ここから40分程度で頂上のようです。
少し進むと「おうめ地蔵」がありました。案内板がなく由来はよくわかりませんが
和やかなお顔の地蔵様です。
しばらく行くと、車道幅の遊歩道は切れ、けもの道幅の登山道となりました。後で考えるとここから頂上まで40分だったようです。
数10メートル登ると、「さむらい道」右という石碑がありました。道は上にも続いていますが、石碑に沿って右に曲がります。
遊歩道とは違う元々の登山道のようです。非常に雰囲気にある道でしたが、ずっと下っていきます。
遊歩道も登ってわずかに下がる場所もあったので、いずれ登ると思っていましたが、約10分やはり下っているので、これでは麓に着いてしまうと思い引き返しました。
戻ってみると、先の木に城址の矢印が逆になっているではないですか!
気を取り直して登ります。この山の地肌は基本的に岩のようです。それが山の名前の由来かもしれませんが、雨の日や大雨の後だと登山道は滑りやすくとても登れそうにはありません。登山道は完全に雨の通り道となっていて、長年表面を削られています。
登っていくと、「馬かけ馬場」に出ました。
案内板には「眺望良好」と書かれた場所で、朽ちた看板が下に横たわっています。
しかし、現在はこんな状態・・・・。本来であれば麓の集落や道路が見渡せるはずであったのですが、杉木が成長しすぎです。城跡が整備されたのが今から20年ほど前になるようで、20年も経てば杉も大きくなりますね。
さらに進むと大きく開けた平地に出ました。
ここは「米左衛門屋敷跡」です。岩倉城は加賀一向宗が越前の朝倉氏に対抗した築城した山城で、最初の城主が沢米左衛門と伝えられています。
屋敷跡の本丸側出口には「米左衛門地蔵」がありました。
さらに進むと、「岩倉城址」が左側、「岩倉観音」が右側の分かれ道に出ました。
時間も足りなくなっていたので「岩倉城址」に進みます。虎口らしい部分に入ると小さな平地に出ました。そこが「変形馬出」となります。写真中央付近が入口の虎口、その向こうに本丸の土塁と帯郭が見えます。
この変形馬出から本丸に入る枡形虎口が一揆勢方の大手口となります。織田方に奪われた後は搦手口となりました。
本丸は非常に広い郭です。回りに土塁が巡っています。良好に土塁が残っていますが、やはり眺望がきかないのが山城としては非常に残念です。
「一向一揆古戦場」の木碑とともに案内板が設置されています。
案内板を見ると、この本丸を中心に非常に多くの郭が残っているようです。
本丸から平入虎口を出ると、
そこは角馬出と
本丸帯郭を伴う二の丸となります。平入虎口は一揆方の搦手口、織田方になって大手口となりました。
二の丸の先には三の丸が広がります。
その北側には空堀を兼ねる登山となっていますが、こちらは整備されておらず、先の道が全くわからなくなっています。
本丸に戻ると、東口の近くに、投げ石が残っていました。一揆方が500年前に運び込んだものと思われます。
東口をまっすぐ下りてしまうと腰郭に出てしまいましたが、少し戻って下りると岩倉観音に出ました。この観音がある場所は大きな帯郭となっています。
あまり清掃はされていないようですが・・・
中には石造の千手観音様、狛犬が大事に保管されていました。
戻る途中、水が流れる小さな橋を渡ると、
「清水地蔵」が祀られていました。
麓まで下りてくると、案内板をもう一度見ました。どうも二の丸の位置が違うようです。二の丸の指している場所は角馬出であり、白い帯郭の部分が二の丸としたほうが適切なようです。
調度案内板の前に駐車していたところで、そのお宅のご年配と話をする機会がありました。
この集落は17軒しかないようです。集落の人間もめったに登らない山に登る人が珍しかったようですが、良好に残る山城の特徴は県内随一です。そんな山城が宣伝もされずに埋れているのは確かに勿体無いですが、そのおかげで未だにここまで残っているのも確かですね。以前三重県などからも登るために来たとか!これだけの遺構が残っていれば遠方から来ても一見の価値はありますね。
織田方との争いの時代になると、鳥越城の支城として街道を監視する役割を担った岩倉城は、本城の鳥越城と近郊の二曲城が国史跡になったにもかかわらず、自治体が違うというだけで文化財指定もないようです(市指定ぐらいにはなっているのかな?)。
この辺りではよくイノシシが出るそうです。つい最近もそこの山に出たそうです(遊歩道の途中にオリがあった)が、クマは最近でないようです。一昔は鹿もいたそうですが、移動して今はいなくなったとのことですが、今日は何にも会わなくて良かったです。
宮腰台場 石川県の城館
もう1箇所の金沢の台場は、大野からくり記念館のそばにある大野お台場公園にあります。
公園の石碑の題字は、現石川県知事の谷本知事によるものです。
公園内には港近くということで、藩政期の北前船を模したオブジェが作られています。
どこに台場跡があるのかと探していましたが、公園内からは見えません。
と思っていたら、外周部の歩道に作られていました。これでは生垣で公園内からは見えませんね。
どこか短身で憎めない姿ですが、こんな大砲じゃ打てませんよね。
砲身の向けられた方角には海があったはずですが、開拓で海が少し遠くなってしまいました。
寺中台場 石川県の城館
城館とは呼べない・・・かもしれませんが、今日は台場跡に2箇所行ってきました。
まずは、寺中台場跡です。銭屋五兵衛記念館の横にある大野湊緑地公園内に復元されています。
全長80メートルのうち、17メートルが復元されていますが、台場なのに近くに海はありません。
寺中台場は、宮腰台場、畝田台場とともに、加賀藩が幕末の外国船警備のために築いたものです。
この台場は寺中神主(大野湊神社神主宅か?)の屋敷跡に築かれ、前面に堀をめぐらした内陸の台場です。外国艦隊の火力差を考慮して、上陸後の対応を図ったものと考えられています。
畝田台場はさらに大規模だったそうですが、現在はありません。
復元された台場の後ろから海側を望むと・・・・こんな感じです。雰囲気ないなー
金沢城 石川県の城館
石川門、加賀藩の金沢城のシンボル的存在です。
観光客は兼六園から城内に入るため、兼六園との間に架かる石川橋を渡って石川門をくぐってきます。しかし、ここは金沢城にとっては搦手門です。
小立野台地の先端部に築かれた金沢城の最大の弱点はこの台地伝いに攻められることです。そこで現在道路になっている百間掘を兼六園との間に築き、石川門を建てました。門の形式は堅固な枡形です。
金沢城の大手口は、現在唯一の水堀、大手堀が残る尾坂門です。ここは大手らしく巨大な鏡石がいくつも配置されています。ちょうど隅石として使用されている鏡石は、その厚さを実感できる珍しい巨石です。
尾坂門を進むと、新丸の向こうに平成13年に復元された菱櫓が見えます。本丸の天守が焼失したあと、本丸には天守代用の三階櫓が建てられましたが、建造物の高さは菱櫓のほうが高く、実質の天守としての役割を果たしました。
新丸から三の丸に入るところに河北門があり、現在復元整備中です。
金沢城では他にも、石川門と塀が修復中、いもり堀と鯉喉櫓台が復元整備中、玉泉院丸跡が復元整備に向けて発掘調査中と、平成26年度の北陸新幹線延伸まで復元・修復ラッシュです。