随分と間が空いてしまいましたが43城目は月山富田城です。
スタンプは花ノ壇に復元された屋敷のバックに本丸の存在する山をとらえた構図です。
いい構図ですが、柵が数本朽ちて倒れていたのが残念です。
花ノ壇の一段上の郭である山中御殿です。右奥が花ノ壇、右手に大手道が続きます。
麓の道の駅にある安来市立歴史資料館の裏に、立体模型があります。風雨に晒されているので文字盤がいくつかなくなっています。
その歴史博物館にスタンプがあります。認定証もありますよ。
投稿者: Tadashi
月山富田城 島根県の城館
仕事で島根に出張するついでに1日前乗りして来たものの雨模様です。とはいえ、折角来たので久しぶりに広瀬にやってきました。広瀬に来るときはいつも天候がよくないように思いますが、楽しみにしてきました。
飯梨川を天然の堀として、奥に高くそびえるのが日本五大山城のひとつ、富田城の本丸です。
麓の道の駅に安来市立歴史資料館があります。平成の合併でここ広瀬町は安来市となりました。先に見学してから登ろうかと思いましたが、着いたのは9時前、開館は9時半ということで先に登ることにしました。
駐車場からすぐのところに「尼子興久の墓」があります。今日は雨模様なので露出が厳しいです。
一番下の郭は「千畳平」です。
郭内には尼子神社があります。
千畳平の1つ上の郭は、「太鼓壇」となります。奥の小山の上に
「尼子氏之碑」が立てられています。
さらに太鼓壇には有名な山中鹿介像が立っています。
その見つめる先は三笠山です。三笠山の上にかかる三日月を排して、「願わくば、我に七難八苦を与え給え」と祈ったといわれています。
太鼓壇の上の郭は「奥書院」となります。
さらにすすむと「花ノ壇」に出ます。
奥のほうに復元された屋敷跡の写真ばかりが出ていますが、手前に広い郭です。
花の壇と山中御殿平の間にあるこの郭はなんていう?郭でしょうか。
御殿平の入口には多聞櫓が建っていました。
多聞櫓から御殿平をみると、奥に本丸の山が見えます。まだ随分奥ですね。
御殿平の菅谷口に井戸跡(雑用井戸)が残っています。
菅谷口は石垣に囲まれ、直角に曲がっています。ここは攻めるのが難しいですね。
菅谷口は新宮谷方面にあり、入口に広瀬藩松平氏の菩提寺である城安寺があります。
城のような構えの石垣は近世のものでしょうが、谷の迫った尾根には防御用の郭があったことでしょう。
御殿平に戻りましょう。御殿平の中央には山中御殿がありました。堀に囲まれた跡が復元されています。
千畳平と厳倉寺の谷筋を通るのが大手道で、御殿平に入ります。
御殿平の大手道沿いに大井戸があります。
案内板があっても道が埋もれてどこか探しましたが、竹藪の中でしたね。見つけるのが大変でした。
この軍用大井戸は今でもかなりの深さを持っていますね。落ちたら簡単には登ってこれそうにありません。見学者も少ないし、大変です!
大井戸の近くに池があります。この辺りには大量の湧水があるようです。
御殿平に戻り、菅谷口と反対側の塩谷口にやってきました。
このあたりの郭や土塁は特に掘り返された跡がありました。資料館の方にお聞きすると、猪が根のあたりにいるミミズを食べるために掘り返しているんだとか!麓の資料館付近にも現れることがあるそうで、今日は会わなくて良かった。
「塩谷」という自分と同じ名前を持つ地域から入ります。谷筋も短いため、入口を特に堅固に作ったようですね。
本丸へ登る七曲りから見渡す御殿平は壮観です。
本丸までは20分、さあ登りましょう!
石畳の跡が見えます。
しばらく登ると、山吹井戸があります。ここは浅いです。
七曲りをひたすら登ると、三の丸に出ます。高い石垣ですが、段が多いところが技術が未発達ですね。未発達なだけなのか、鬼門除けをしているのか、角をとっている部分も見えます。
階段を上って二の丸へ進みます。
雨が強くなってきて、霧が深くなってきました。奥に本丸も見えてきました。先を急ぎます。
二の丸から麓を見渡すと、やはり霧が深いですね。晴れていれば遠くまで見えるところなのですが・・・
二の丸と本丸の間には深い堀切が掘られています。
本丸は奥に勝日高守神社が建てられています。また天気の良いときに登りたいですね。
下りてきて対岸の三日月公園に尼子経久像が立てられています。奥に富田城が見えます。
経久の指し示す先は、鹿介と同じ三笠山です。陶隆房との戦いにいざ出陣!っていうところでしょうか。
安来市立歴史資料館で受付の方といろいろと先の話などをさせていただきました。ご厚意ですでに配布終了しているという「山陰の城館跡」という小冊子をいただきました。縄張り図などもあり、ちょっと持ち歩くにはいい本ですね。再配布してほしいところですが、予算がないかな?
「多賀17城発見報告」勉強会
多賀町立博物館で開催された「多賀17城発見報告」勉強会に参加してきました。
会場となったあけぼのパーク多賀には町立博物館のほかに、図書館と埋蔵文化財センターが入っています。
多賀町は日本で最も完全に近い「アケボノゾウ」の化石が出土したところで、見つかった1993年当時は大さわぎしたようですが、自分はまだ高校生になったばかりで全く知りませんでした。
昼休みに博物館に入ってみましたが、歴史は多賀大社が中心で、展示も少なく研究が進んでいない様子でした。
勉強会は多賀観光ボランティアの田畑氏の主催で、滋賀民俗学会理事の長谷川氏の講演という形式でしたが、地元の方が意外に少なく、地元の方の関心は多賀大社にあるようですね。
20名弱の参加者はこれでも主催者の想定以上であったようですが、せっかくのふるさと学習の機会ですので、やはり地元の方の関心がもっと欲しいです。
レジュメは手作りで2冊分。既知でない城跡らしきものが一つの町内に17も発見された経緯や発見の方法など、とても楽しくためになるひとときでした。
国道306号からあけぼのパークに向かう「北多賀」交差点から見える山並みですが、ここだけで、赤丸の各山頂部に城跡があるんですよ。スゴイ!
10時からの開始前に、近くの多賀大社に参拝しました。
全国に末社も数多くのもつ社にしては境内は思いのほかコンパクトです。
多賀大社と言えば、しゃもじ?なのかな。
参拝者は少なかったですが、初孫の安産祝?と思しき家族連れがいて微笑ましい光景でした。
境内には秀吉ゆかりの庭と書院があるということで見学してきました。庭は座視鑑賞式で、池には水が引かれていました。今の季節は木が枯れていてイマイチか?
しかし、書院の襖は金箔画ですばらしかったです。見学者は自分ひとりだったのでゆっくりと鑑賞しました。
金沢城 玉泉院丸暫定整備
しばらく来ていなかった間に、暫定整備が始まっていました。
今年は大雪だったので最近まで足が遠のいていたのは事実ですが、すっかり城内の雪はなくなりました。
玉泉院丸にあった見学路は閉鎖されてしまいました。
中央の池があった付近を一段低く掘り下げるようです。
横から見ると大型クレーンがよくわかります。
いもり坂口では何かを測定中?何を測っているのか?
金沢城橋爪門 ひさしの焼け跡を確認
今日は晴天の中、先日の新聞報道にあった橋爪門の遺構を確認に来ました。
日曜日なので作業はお休みです。
見つかったのは、橋爪門続櫓から石垣に接していた「添柱」と1階ひさしの焼け跡が発見されました。
どの場所か探していましたが・・・・
他の人が見たら何を探しているのか不審な人物この上ないですね。
このように筋がついています。
雪の白山麓攻城記
平野部の雪は溶けたし、先週の小谷山の件もあったので、セミナー参加のついでに城めぐりをしようと思っていましたが、今年の大雪をなめてました・・・反省
第一の目的は旧鶴来町の舟岡山城。今年整備を予定しているので、その前に現状をもう一度撮影したかったのですが・・・
目の前に開ける散策路・・・
のはずが
雪の固まりです。こんなに残っているとは、まだまだ春は遠いです。
いつもとは違った方角から鳥越城を撮影。右側の頂上付近に本丸があります。
しかし、入口はこんなにも雪が
生活道路ではありませんので、ここも春は遠いです。
麓の殿様屋敷。現在は畑になっているのですが、ここにも大雪の跡が。
屋敷の高台と考えられる神社境内は、鳥居も半分埋まりさらにすごいことに。
そして、二曲城の入口は見えるものの、
入口の橋には70センチほどの雪。前に進めない。
ということでここは大人しくセミナーまで常設展を久しぶりにじっくりと観賞しました。
今年の歴史館セミナーのテーマは「二曲城を考える」でした。2004年から6カ年で調査が続けられ、いよいよ来年度から4年程度で環境整備されます。
内堀館 長野県の城館
雪がまだ残っているので平地の館跡を訪れました。
ここは中野市上今井にある内堀館跡です。
土塁に残る大木がこの館跡の時代を感じさせてくれます。
江戸時代後期には飯山藩の本陣として使用されたという館内には、
今は個人宅となっていますが、ちょっとお邪魔をして、大きな古いお家を撮影させていただきました。
門の正面に戻って、門までは緩やかに傾斜があります。土塁に囲まれた館は周囲より一段高くなっています。
正門わきの土塁の石積みは大ぶりの石を使用していますが、近世のものか近代のものか?
正門の一方から屋敷裏まで水堀がめぐっています。
今は雪の重みで倒れた竹で覆われて、堀の深さが伝わらないですね。
土塁と堀の位置関係は案内板に紹介されています。
場所が大通りから中に入りわかりにくいですが、目印は佐藤病院です。
小谷城 滋賀県の城館
虎御前山見学会の後、小谷城へやってきました。
まずは麓、清水谷にある小谷城戦国歴史資料館へ。外はNHK大河効果もあってか賑やかになっているが、展示内容は以前と変わらないなー。まあ、ここでパンフレットと一緒に小谷城の縄張図(いつの間にかカラー版になった)がもらえるので、それを持って登城します。
入口は資料館横の追手道から入ります。まだ道が少しぬかるんでいる。
しばらく登って、自動車用道路と歩行者用道の分岐まで来ました。午前中にひと山登ってきた疲れもまだとれていないので、道路道を選択します。
比較的緩やかですが、長い道路道を歩いて行くと、途中鳥居のある巨石を発見!
写真で見ると縮尺がよくわからないと思いますが、4メートルほどの大きな岩です。
途中、まだ雪が被る伊吹山が見えました。
江のイベント旗が観光客を迎えています。
ようやく道路の終着です。
ここから京極丸まで25分と書かれていますが、ゆっくり見るとそれ以上にかかります。
まずは看板近くの「金吾丸」へ。ここは朝倉金吾教景が陣を張った場所ということで、その名がつけられています。
本丸へ向かいます。まずは「番所」です。
地元誌「みーな」に掲載された鳥瞰復元図が配置されていました。わかりやすくていいですね。
次の御茶屋へ行く途中、先ほど登った虎御前山が見えます。こうして見ると、手前の柴田勝家陣、木下秀吉陣、佐久間信盛陣と織田信長本陣ぐらいしかこちらから見えそうにないですね。
「御茶屋」に着きました。
ここにも復元図が置かれています。この絵を見ると、この郭の奥に庭園があったようです。
行ってみると、確かに景石らしき石が多数ありますね。
ひとつ上の「馬屋」です。郭内の木が伐採されたため、周囲の土塁もはっきりわかるようになりました。
その横、「馬洗池」です。石垣が残っている大きな池です。
さらにひとつ上の郭、「桜馬場」にきました。木々の葉が落ちて全くないので見通しもよく、広い郭だとよくわかります。
その先端部からの眺めはいいですね。山本山城の奥に琵琶湖と、そこに浮かぶ竹生島が見えます。少しかすんでいるかな。
それにしても、この風景見たことないですか?
しばらくすると、ボランティアガイドに連れられた一団がやってきました。説明を聞いていると、ここがNHK大河のロケ地。
そうです。ここが何度も出てくる市が長政と琵琶湖を眺めた場所なんですよ!
立っていた位置に石が置いてあります。
こちらは「市」
そして「長政」。マジックで書きなぐった感じですが、これもまた記念です。今限りの見学スポット、ガイドさんが来なかったら見逃していましたよ。ラッキーでした。
さて、先を進みます。桜馬場から本丸に至る「黒金門」です。この辺りは特に大きな石が使用されています。
門を入ると「大広間」が広がります。
次の復元図を見つけました。
「本丸」のまわりの石垣が数段残っています。本丸に上ったところで時間切れとなったので、今日はここで引き返します。
とその前に、赤尾屋敷を見に行きます。途中狭い通路や日陰のためか雪がまだ残る道を進みます。
重臣の「赤尾屋敷」にやってきました。
復元図をみると、ここは下にあと2段の郭があるようです。
一番上の郭には浅井長政が最後に自刃した供養塔が立っています。
下りてきて麓の江博覧会会場に来ました。
今日は時間もないので、博覧会は後日にして、みやげものを物色しました。
ぬいぐるみなども買うことはあるのですが、今回はあまりかわいくないのでやめました。そして、買ったのが・・・
水・・・なぜか現代風の三姉妹。時代の流れでもちろん「萌え」イラストですね。「江の雫」と命名された近江の水かと思いきや、高知室戸沖の海洋深層水です。
もうひとつが、三姉妹のマスコット。この二頭身キャラは旗にもかかれていたキャンペーンマスコットなんですが、初だけ白頭巾をかぶった出家後の姿で、特徴的だと言っても、ひとり年寄りなのはかわいそうなのでは・・・
先に資料館で新刊と新ビデオを購入しました。ともに企画は小谷城址保勝会です。ビデオは1枚1000円と少し高いと思いましたが、保存活動に寄付すると思えばささいな金額です。内容もそこそこ本格的で良かったですよ。
虎御前山城 滋賀県の城館
虎御前山城見学会に参加してきました。集合場所は虎姫自遊館です。9時に集合するのに6時に出発してきました。
初めて来た館内には虎御前山城に関する展示がされています。
こちらは関係する武将を紹介しています。
こちらは絵図。
そして立体模型です。これはわかりやすい。ずっと虎御前山は小谷山に向かって平行にある山だと思っていましたが、どちらかというと垂直ですね。
解説は丸山竜平先生と長谷川博美さんです。さあ出発です!
虎御前山と小谷山の間を流れる川です。左手に虎御前山、正面に小谷山が見えます。
入口に立てられた看板。虎御前山はハイキングコースになっています。
登り始めてすぐに「多賀貞能陣跡」があります。ちょうど藤棚あたりでしょうか。
自動車道と並行してこの矢合神社への参道が続いています。
道路をはずれて最初に訪れる陣跡は「蜂屋頼隆陣跡」です。
ここからは丹羽陣(キャンプ場)、滝川陣(鉄塔)が遠くに見えます。
「丹羽長秀陣跡」はキャンプ場となっており、看板などもないですが、盛り上がっている場所であることは一目瞭然です。開発されて跡はわかりません。
キャンプ場までは自動車で来ることができます。ここからは徒歩、ハイキングコースです。
鉄塔の横に「滝川一益陣跡」があります。虎御前山は古くから古墳が多く作られた信仰の山で、滝川陣も古墳を利用しています。
さらに進むと「堀秀政陣跡」が見えてきます。
織田信長陣跡が見えてきましたよ。
やはり信長の本陣だけあって、土塁こそ崩れわからないものの、郭のまわりに帯郭が何重にも巡っています。
虎口にあったと思われる門の正面には、横山城が見えます。ここからも虎御前山城と横山城が連携しあっていた様子が想像できます。
郭近くの草や木が刈り込まれたとはいえ、まだ木が多く、小谷城方向が見えないのは残念でした。信長の気分になりたかったのに・・・
しかし、合間から小谷山最高所の大嶽城がかろうじて見えましたよ。
大きく下って先の陣跡に進みます。
「木下秀吉陣跡」です。この郭のまわりにも虎口や帯郭、かざし堀などがあり、見どころ満載です。
木々の隙間からなんとか小谷山が見える。
最前線は「柴田勝家陣跡」です。ここまで来るとまた小谷山は見えなくなってしまいました。
勝家陣も古墳を利用したものですが、古墳は破壊しないように利用されたようです。昔の人もたたりを恐れた?
さて、立体模型にはもうひとり「佐久間信盛陣跡」というのがあったのですが、今は行けるのか?帰ってきてから気がつきました。
思っていたより高くない山城であったので、ハイキングはちょうどいいですね。また行ってみたいと思います。
丸岡城ライトアップ 福井県の城館
勝山左義長まつりの帰り、雪残る白山麓を迂回し、国道8号線経由で帰る途中、行きも脇を通過した丸岡城があまりにもきれいにライトアップされていたので寄ってみた。
土曜日の夜とはいえ、寒い中誰も丸岡城公園にはいませんでした。ということで、天守のライトアップ撮影をひとり堪能してきました。
現存12天守のひとつである丸岡城天守は木造です。規模は小さいですが、天守台とのバランスはなかなかのものです。
もう少し石垣にもライトアップされていれば嬉しいのですが。
でも、いい写真も撮れたのでなんか得した気分です。
越前勝山城 福井県の城館
勝山市役所や市民会館のある場所は勝山城のあった場所です。
数年前に来た時は、案内板のあった場所はちょっと違っていた記憶がありますが、
今は市民会館の前の庭園に城址の石碑が立っていて、手前に案内板があります。
雪に覆われてはっきりとはわかりません。
城址の碑は立派ですが、奥に追いやられて目立ちませんね。
ゆめおーれ勝山から中央公園に入る交差点に架かる橋のあたりに「東御門」があったようです。
市民会館の南側は大きく地形が下がっていて、「七里壁」と呼ばれる城内と城下を隔てる天然の防御壁となっています。
城下には所々に道の案内板が立てられ、歩きながら城下の学習をすることができます。
全部で何か所あるのかわかりませんが、自分は10か所近く確認しました。
金沢城橋爪門の遺構確認 二の門の位置特定
金沢城橋爪門の復元整備で、石川県は19日までに、1881(明治14)年の火災で焼失した橋爪門二の門の遺構を確認した。巨大な柱の重さに耐えられるよう地盤を固めた跡と、橋爪門続櫓の石垣から発見された柱と屋根の焼け跡が手掛かりとなり、門の正確な位置が裏付けられた。(北国新聞2011年2月20日付記事より)
金沢城 冬のライトアップ
大雪の後のライトトップ。雪は2年ぶりでしょうか?
まずは兼六園真弓坂から入園します。
今年は友人と夜景用に三脚を使用して撮影しました。写真に詳しい友人に助言をもらいながらも、兼六園で撮った写真はぶれたものが多く、でも例年以上に良い写真が何枚かありました。
ここ数日の気温上昇により、木々に被った雪はなくなったけど、池は一部凍ったままで、水面に映る美しい姿がない場所もあったが、凍った水面もまた近年では珍しい光景だ。
寒さのためか、来週三連休がやはり人気なのか、今日の来客は少なめでした。
園内は滑らないように通路の氷は取り除いてあったけど、一部にはうず高く積まれた雪が残っていました。そんな珍しい光景も見ながら、場所を移動しながら写真を撮っていきました。
一番人気は唐崎の松ですね。
では、金沢城公園に場所を移します。
外壁塗装の修築が完了した石川門櫓。光に反射する白い壁が美しいです。
が、脇の一の門の壁が若干ミスマッチです。
金沢城公園は兼六園よりは人気が少ないです。
三の丸広場は一面の雪景色。五十間長屋の屋根雪はすっかり溶けてしまっているのは残念ですが、雪の冷気のためか寒いです。
復元後初めての雪のライトアップを迎える河北門です。
河北門への入場口から見る、河北門一の門、ニラミ櫓台、菱櫓、向こうに橋爪門、この光景は新しい金沢城の絶景スポットです。
この菱櫓、五十間長屋、橋爪櫓の奥行きのある絵もいいでしょ!
橋爪門の中では発掘調査が進められているため、門は閉じられたまま。そのためもあってか橋の上の雪は除雪もされず積もったままだ。
堀には氷が張っている。こんな光景も2回目だろうか。
この河北門、菱櫓のアングルは古写真にもある。
河北門二の門の内側から枡形を覗けば、そこには菱櫓が顔を出す。
終園のアナウンスが流れてきた。もう9時だ。時間はあっという間に過ぎる。
高梨氏館跡 長野県の城館
大雪の後の出張で長野県中野市に来ました。今日はいい天気ですね。
中野市の街中に、地図上にも大きく載っている「高梨氏館跡」があります。まだまだ雪がたくさん残っていますが、大きな館跡だと思っていたら、北信濃最大の方形館になるそうです。
堀に架けられた橋の橋脚部分に石積みがわずかに残されています。
高梨氏は平安時代以降続く信濃源氏の有力武士であり、室町時代末期の甲斐武田氏と越後上杉氏の抗争のなかで上杉方を頼り、上杉氏の会津移封とともに廃城になったようです。
方形館がほぼ完全に残り、館跡を囲む土塁や堀がここまで残っているのは貴重ですね。
入口には解説板や
平成19年に中野市史跡に指定された石碑が立てられています。
土塁の発掘から土塁の中に築地塀が見つかり、初期のころは塀に囲まれた館が防備にために土塁を備えていった過程が分かる珍しい遺跡です。
中は遺跡公園となっていますが、今は一面雪景色です。公園内には管理用建物が建っています。
雪に埋れてしまっていますが、枯山水式庭園が見つかっています。わずかに石が雪から覗いています。
復元された井戸跡の向こうに柱列があり、
ここも雪に埋れて何かわかりませんが、建物跡ですね。
公園裏のほうの堀もしっかり残っています。こちらの面は近所の子どもの遊び場になっているようです。足跡やソリ跡が残っていますので、ちょうどいい坂なんでしょうね。
まわりに高い建物がないので、堀から見る景色も非常にいいです。
管理用建物に入るそばの橋は石垣が復元されています。
こちらの橋は木製です。
雪が消えたらまた訪れたいですね。
今年の名古屋城検定は・・・・!
本日、検定実行委員会事務局からハガキが来ました。
内容は・・・
「平成23年度の名古屋城検定は、実施時期や受験資格をリニューアルし実施することになりました。実施時期は、従来の5月から11月12日(土)に、また、受験資格として、これまでの初級、中級、上級へのステップアップ方式から、単年度でも対応可能とするため、どのコースからでも受験できる方式に変更して行うことにいたしました。詳細な募集要項の発表は、本年4~5月を予定しています。」
ということで、初級飛ばして、中級でも上級でも受験できるようですが、いきなり上級受ける人はさすがにいないでしょうね。合格特典もなくなってしまうのか??
それにしても5月から11月って、日程的には、金沢検定の前日になってしまうような気がする・・・どうしようかなー
弘前城築城400年祭
弘前城は、藩祖為信公により計画され、二代藩主信枚公により慶長16年(1611年)に完成しました。
以来、弘前市は、先人達のたゆまぬ努力により津軽地域の政治・経済・文化の中心都市として発展してまいりましたが、平成23年(2011年)に築城400年の節目の年を迎えました。
弘前城の築城は、現在の弘前のまちなみ形成の礎であり、築城から400年を迎えることは、歴史的にも、まちづくりの観点からも非常に大きな意義があります。
また、この機会を、先人の歩みを振り返りながら新たな未来へ踏み出す第一歩と位置づけ、平成23年に、市民と共に全市を挙げて「弘前城築城400年祭」を実施することといたします。
弘前城築城400年祭ホームページ
マスコットキャラの「たか丸くん」かわいいですね。実物を見てみたいなー
関ヶ原合戦の前後数年は築城ラッシュで、藩の基礎ができた時代ですから2000年ぐらいから築城400年祭が各地で開催されてきました。もう終盤という感じがしますが、現地へ出かけてみようかという良い機会になります。
増山城跡整備 安室屋敷跡一帯に着手
砺波市の国指定史跡・増山城跡の雑木林整備などに取り組む砺波市教育委員会は新年度、阿室(あじち)屋敷跡一帯での作業に着手する。伐採を終えた一の丸跡付近からは高岡市福岡町の木舟城跡など戦国時代の主要な城跡が見渡せる。増山城は越中三大山城の一つで、2009年7月に国史跡に指定を受けた。
増山城には一の丸、二の丸、三の丸のほか、隠居所とされる安室屋敷などがあった。城跡一帯は放置されていた時代が長く、地元の増山杉がうっそうと茂る。砺波市教育委員会では来年3月まで3年計画で整備に取り組み、既に一の丸跡などで不要な雑木を伐採した。
新年度は安室屋敷跡の増山杉を伐採する。切り出された増山杉はチップにし、城跡の遊歩道などに敷き詰めて再利用している。増山城跡の保存に関しては、保存管理計画策定委員会が新年度末までに計画を策定する予定となっている。(北國新聞2011年1月4日付け記事より)
地中に眠る秀吉時代の石垣 大阪城、市が本格調査へ
豊臣秀吉(1537~1598)の呼び名にちなみ、「太閤(たいこう)さんの城」として親しまれる大阪城。しかし、現在の石垣は徳川時代のもので、秀吉の遺構は約400年間、地中に眠ったままだ。天守閣復興から80年となる来年度、大阪市はその謎に迫ろうと、本格的な発掘調査に乗り出す。
財団法人「大阪市博物館協会」などによると、1583年に秀吉が築城を始めた大阪城は、徳川家康の攻略により、1615年の大坂夏の陣で落城。天守閣は焼け落ちた。現在の石垣(高さ最大32メートル、総延長11.2キロ)は、徳川2代将軍の秀忠が再築した。豊臣の石垣は地中に埋められ、その上に徳川の石垣や新たな天守閣が造られたという。
豊臣の石垣の一部が初めて確認されたのは1959年。堀の水が干上がった際に市が地盤調査をしたところ、本丸の地下約7メートルから見つかった。翌60年に幕府の大工頭の子孫宅で発見された豊臣時代の本丸の図面とも一致。天守閣前の広場に見学用の穴(直径約3メートル、深さ約10メートル、普段は非公開)が設けられたが、それ以外は埋め戻された。
市は、来年度予算案に調査費数百万円を計上する。豊臣時代の石垣は、加工した石を積み上げた徳川期のものとは違い、自然石を多用した3段構造。まずは、85年に現天守閣の南東約100メートルで発見された旧本丸の最上段「詰(つめ)の丸」の石垣の調査を始める。(asahi.com2011年1月2日付け記事より)
高岡城「天守閣」調査へ
高岡市教育委員会は13日までに、高岡城跡の発掘調査で、「天守閣」予定地との指摘がある本丸北端など7ヵ所を今年度の調査対象にすることを決めた。定説では高岡城に天守閣は造られなかったとされるが、本丸北端は地形などから重要施設があった可能性が大きく、市教育委員会は城の構造解明の足掛かりになることを期待している。
高岡城は築城時の姿がほとんど分かっていない。同市教育委員会は国史跡指定を目指し、今年度から3ヵ年の発掘調査を計画し、本丸北端など7ヵ所については年内にも着手する。調査対象は、本丸北端と南端、土橋の石垣、本丸外周の土塁3ヵ所、北端斜面の計7ヵ所で保存状態は良い。(北国新聞2010年12月14日付け記事より)
土清水塩硝蔵 「縮具所」にも水路跡
加賀藩の黒色火薬製造施設だった「土清水塩硝蔵」の第4次発掘調査で、火薬の原料を練り合わせて板状に延ばす工程を行ったとみられる「縮具所」の遺構が金沢市涌波町の発掘現場で見つかった。施設内に水路の跡が確認されたことから、辰巳用水の水を引き入れて水車を回していたと考えられ、同用水と塩硝蔵の密接な関係があらためて裏付けられた。
調査結果は、12日に開かれた現地説明会で報告された。縮具所は、1864(元治元)年の塩硝蔵改修工事に合わせて新築されたとみられ、絵図に配置が示されているが、その役割ははっきりしていなかった。4ヵ年にわたる発掘調査は今回で一区切りとなり、市では年度末をめどに報告書をまとめる。(北國新聞2010年12月14日付け記事より)