清洲城にやって来ました。
天守風建造物が建っている場所にもともと天守はなく、観光用に建てられた模擬天守と呼ばれるものですが、この赤い橋から見える城門と天守はいつもワクワクさせてくれますね。
天守前の庭園にはこれまた絵になる風景が広がります。
横の御殿風建造物は入った記憶がないですが、今回は中に入れるようです。
今日はここが主目的です。
NHK大河ドラマ「江」に合わせて開催中の「ドラマ館 江と三英傑 絆のやかた」です。長浜のほうは宣伝も多かったですが、ここ清洲のほうは直前に知りました。
そうそう「清洲町」は平成の合併で「清須市」になったそうです。城名は「清洲城」のままですが
入場券。ちょうどもぎ取られる部分に織田家家紋が印刷されているので、さきに撮影してみました。
展示内容は清洲会議を中心とした愛知県が輩出した三英傑、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の展示でした。随分前に放映された部分でもあるので、もう展示終了間際の今となっては古い。
では、周辺を散策します。まずは広場にあった濃姫像です。信長は・・・
と対岸の公園に向かう途中、河原沿いに織田家家紋を見つけた。
おみやげ店には家紋をかたどった最中が販売されていました。美味しかった!
公園には若き日の信長像が立っていました。
天守の対岸のみやげ店横に「清洲古城址」碑が立っています。もとはこちらが城のあった場所です。
公園内には信長公を祀る社が建っています。
発掘調査で見つかった石垣が野外展示されています。
天守内展示の最上階には往時の屋根を復元展示されています。金箔瓦ってこういう感じなんですね。
最上階から見える風景はどこも近代的になってしまいましたが、名古屋市街方向を眺めると・・・
名古屋城が見えますよ。1610年、ここ清洲から名古屋へ、城下が移動しました(清洲越し)。
投稿者: Tadashi
尾張大野城 江を訪ねる旅 愛知県の城館
江が最初に嫁いだ先として、今年注目を集めた尾張大野へやって来ました。ドラマではほぼ1話程度で別れてしまいましたが・・・・地元は盛り上げようと頑張っていますね。
平野部が続く中、ひときわ小高い丘の上に展望台が見えます。
大野城一帯は城山公園として整備されていました。
ぐるりと空堀がめぐる中心部に上がると、石碑と展望台がありました。
実際には天守はなかったのですが、展望台として建てられた建物は天守風ですね。
ここから見える伊勢湾を江も眺めたのでしょうか?
現在一番高い部分には佐治神社が祀られています。思ったより小さい社です。
主郭はかなりの比高差があり、天然の要害となっています。
町へ向かって、旧郵便局を改装したという尾張大野歴史資料館にも行ってきました。今年空きスペースを利用して開催されている資料館ですが、ドラマが終わった後も続くのかは不明です。期間限定かも?
中にはあいち戦国姫隊が来た時の様子や
ドラマで佐治一成を演じた俳優、平岳大さんが来た時の様子が展示されていました。
もちろん、佐治氏とドラマ登場人物の関係図などもあり、地元の歴史を紹介することも忘れていませんよ。ドラマ終了まであと少し、ぜひご覧アレ!
桶狭間古戦場 再び!
名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園に来ました。
前回は昨年春、名古屋城検定に合わせて歩いてここまで来ました。今回も名古屋城検定に合わせてですが、車で来ました。Googleナビで来たら、どうしても神明社境内にナビされてしまい、途方にくれているところで記憶に残る風景に会って、なんとか辿り着きました。
昨年は銅像建立の一週間前の訪問で、残念ながら対面できなかった信長像と義元像でしたが、若き日の信長にようやく会えました。
義元も従来の小太りの貴族風ではなく、凛々しい姿で、地元ならではの敬意が感じられます。
公園は桶狭間合戦の地理がモニュメントとして配置されています。
今は閑静な住宅街で、世間を驚かす一大事件が起こりました。
ちょうど設置しているところに遭遇した「桶狭間の桶」(地元ボランティアの方の洒落ですよ)は今も健在でした!
西南隅櫓、旧二之丸東二之門 修復工事
1年ぶりに名古屋城に来てみたら、西南隅櫓に素屋根が懸けられて、名古屋城一の撮影スポットが変わっていました。
西南隅櫓は濃尾地震で崩れて、城内唯一の菊の御紋が瓦に描かれた旧離宮の面影が残る建造物です。
次に西南隅櫓が見られるのは平成26年秋ということで、随分先ですね。工事中で掘部分にも部材が置かれていますので、あれ!?鹿たちは・・・
と思っていたら、表二之門近くの堀で仲良く休んでいました。
工事現場の看板には「旧二之丸東二之門」の文字もあり、
ずっと立入禁止になっていた現場に行ってみると、
こちらは完全に解体されて、礎石のみの状態に
こちらは一足先に平成24年冬に終了予定ということです。
名古屋城 西北隅櫓、乃木倉庫の特別公開
秋に名古屋城検定が日程変更になり、ちょうど特別公開中の西北隅櫓に入ることができました。県外者にはタイミングよく訪れるのは難しいことなので、自分も初めて入りました。
北西隅櫓は別名、清洲櫓とも呼ばれ清洲城天守を移築したものと言われた時代もありましたが、修復調査により現在は否定されています。層塔型という形式で、階が上がるごとに徐々に面積が狭くなる形式ですが、この建物は通し柱がなく、代わりに下階の廊下に貫を通すことで上階の柱を支えているそうです。写真は二階。
最上階でも広く、大勢の武士が待機できるようになっています。
眺めはよく、堀越しに名城公園方向を撮ってみました。
もうひとつ、同じく御深井丸に建つ乃木倉庫も中を公開していました。
太平洋戦争の名古屋空襲で本丸御殿の障壁画を守った土蔵の戸は、分厚く重量感があります。
中は単純な構造で広く空間が取られていました。
一角には古材や古瓦が集められて置かれていました。貴重な体験でした。
名古屋城本丸御殿 表御殿が・・・いつの間にか
名古屋城本丸御殿復元工事現場に久しぶりにやってきました。開府400年祭が行われていた昨年から1年ぶりになります。
ヘルメットを受け取って上に上がります。
1年前は玄関がようやく形が現れてきたところでしたが、
1年ぶりの工事現場は、あっという間に表書院の形ができていました。
玄関北の中之口部屋はようやく柱が立てられ、これから形が出てくるようです。まだ3分の1のスペースを作業しているだけですが、やはり大きいですね。上から見てきてこれだけの大きさですから、下から見上げると相当の大きさですね。入るのが楽しみです!
今日は土曜日なので木材加工場のほうにも入れました。
入口には切断で出た切れ端を持って帰れるコーナーもできていて、いい香りのするひのきの端をもらってきました。
今日は土曜日でしたが、作業している方が一人いました。
前回見た時は柱や貫など大きな部材を中心に削り出していましたが、今回は垂木など小さな部材も多く見られました。次来れるのはいつの日か?
名古屋城検定 第2回上級試験
あいち戦国姫隊も名古屋城検定初級を受験です!
今年は5月から11月に受験日が変更になって、第2回上級、第3回中級、第5回初級が開催されました。朝早くに出発して名古屋へ出向きました。
場所は昨年と同様に、鶴舞公園の名古屋市公会堂です。
受付10分前に着きましたが、前で何かやってるなーと思っていたのです。今年は新しく結成された「あいち戦国姫隊」が参加することはホームページで見て知っていましたが、ちょうど記念撮影していて、一緒に撮っている人もいましたが、自分は姫のみで1枚撮らせてもらいました。最初のがその1枚です。
会場に入ると上級を受験する皆さんは気合が入っています。座席表は100名。昨年よりは随分と減りましたが、皆さん熱心です。自分は勉強不足で出来は半分ほどでしょうか?合格証もリニューアルしたので、来年は初級からやり直そうかな。
今年はスポンサーから参加賞がありました。本丸御殿ラベルのお茶が2本、飴3個にボールペン1本です。ワオンカードとストラップは募金を兼ねて購入したものです。
<2011/12/20追記>
上級・第2回検定結果
受験者数:95名
合格者数:13名
最高点:39点/50点
平均点:21.2点
北ノ庄城 福井県の城館
北ノ庄城の天守があったと推定されている柴田神社境内に、天守が建ちました!
NHK大河ドラマ「江」で観光地として一年脚光を浴びましたが、遅ればせながら天守が復興されました。FRP(繊維強化プラスチック)製ですが・・・
柴田勝家公も喜んでいることでしょう。
絵図の残っていない天守は小早川隆景宛書状に「九重」とありますが、当時五層を越える天守はなかったため、復元も五層です。
復元は数年前の復元予想図どおりのようです。
この天守模型は永久のものはなく二年限定となっていますので、勝家公と天守をともに撮る人はお早めに!!
福井城跡展 福井県の城館
福井市文化財保護センターで「発掘が語るまちなかの歴史」というテーマで「福井城跡展」が開催されていました。
場所は足羽川を渡って、足羽山の麓、旧福井城下ではない場所になりますが、県外者にはちょっとわかりにくい。
福井市内でも開発のたびに発掘調査が行われ、数多くの福井城の遺構が発見されていますが、常時展示されているものは少なく、目に触れることがない遺物も多いのですが、
今回はそれらを一堂に集めて紹介しています。
城内だった場所、城下町だった場所、門跡、武家屋敷など状況は様々だったので、遺物もいろいろとあり、とても興味深い展示でした。
三国湊城 福井県の城館
中世に勢力を誇った三国湊白山千手寺は、南北朝期には城郭として利用され、太平記にも登場する。
平城だから当時は塀と堀に囲まれていたのだろう。この場所は海岸からわずかに上がっているが、とても高台とまでは言えない場所である。
解説板も設置されているが、非常にわかりにくい場所にある。
近くには特徴的な山門の妙海寺がある。
現在城地はその妙海寺の西墓地として利用されている。
千手寺城とも呼ばれた地には、現在石像の千手観音像が立っている。
丸岡藩砲台(丸岡藩台場) 福井県の城館
三国東尋坊近くの越前松原と呼ばれる景勝地に丸岡藩砲台があります。砲台というのは近世末に外国船の侵攻に備えて海岸を中心に造られた「台場」と言われている施設です。
整備から長い時間が経つのでしょう。史跡内に立てられた石碑は海風に煽られて傾いています。
入口には駐車場も完備されていますが、雨降る日曜日の朝にここを訪れる者はいません。
松原というだけあって松が多いようですが、砲台は海岸沿いの低い平地に作られていました。
東尋坊に近いこともあるのでしょう。岩がむき出しの崖地も所々にあり、
台場の材となる石材には事欠かないようです。ふと、海を眺めると・・・
最も遠くの石の上に、今も海を見守るように一匹の鵜が止まっています。
大砲は撤去されていますが、その台の保存状態は良いようです。台場一帯がこれほど良好に残り、当時を想像できる場所も少ないのではないでしょうか。
海側から見るとこういう感じですが、すべて石積みではなく、大砲を置いた場所の両側が石垣で、後は土塁となっています。
内側から海を狙うとこんな感じです。先程の鵜を狙い撃ちするとこうなります。内側のほうが石垣が重厚に積まれています。
よく見ると、積まれた石には「嘉永」の文字が刻まれたものもありますよ。ぜひ現地で確かめてください。
吉崎御坊 福井県の城館
芦原にある吉崎御坊に行ってきました。
ここは本願寺八世蓮如が北陸布教の足がかりとして拠点を置いた場所です。
本堂のあった場所は「吉崎御山」と呼ばれ、史跡として保存されています。
高台に築かれた御坊からの眺めはよく、海が近く、物資輸送にも適した土地だったことがわかります。
本光坊了顕の墓。文明六年(1474)の吉崎御坊炎上のとき殉教した方だそうです。
祐念坊霊空の墓。北大手口参道を守護した吉崎惣道場、吉崎御坊願慶寺の開祖の墓。
蓮如お手植えの松の木ですが、今は根本がわずかに残るのみです。
蓮如上人銅像。高村光雲の作だそうです。
御本堂跡。南に面し柱間五間の大きさだったそうだが、三度の火災で焼失した。
御腰掛石。御坊があった頃からあったもので、蓮如も腰掛けだろうと「吉崎山絵図」に書かれているそうです。
見玉尼公墓。蓮如の第四子(次女)でこの地で亡くなりました。
今日は時間がなく山上のみの見学だったので、次回は麓も散策してみたい。
金沢野田山 加賀前田家墓所
近くながらなかなか行けなかった野田山の加賀前田家墓所に行ってきました。
これは下から登っていったときの入口。車の場合は直接上のほうの駐車場へ行けます。
この入口横には松夫人の実家である篠原家の墓所がありました。
観光客の見学場所のメインはやはり初代利家と松の墓でしょう。
隣り合って造られています。松の横には長男利長(二代)、利長の上には主家である織田家から利長に嫁いだ永姫、その横に利長の兄利久、日本古来の長幼の序や主従関係を墓の位置で表しています。
利長公の墓。大きな土饅頭の前に墓碑。参詣道入口に鳥居が立つのは明治になって神道に改宗させられたから。大名では日本最大級の墳墓です。
松の墳墓。他の墳墓を見ると、利家と松の墳墓の周りにも堀があったと思われます。
まだまだ紹介できますが今日はこの辺で・・・
急ぎ足ですべての墓をまわっても二時間半かかりました。藩主や生母以外にも子や乳母の墓があったりします。前田家以外にも隣接して加賀八家の横山家や村井家の墓所もあります。他の重臣たちの墓所もあることでしょう。
観光用駐車場からの眺め。木々を伐採してくれると金沢市内が望めるのになー。利家公もこの場所から見守ってくれるのに。
富山藩藩主墓所 長岡御廟
川のように見えるが、これは牛ヶ首用水。加賀藩三代藩主前田利常の命により、新田開発を目的に掘削された用水です。
この用水が堀のように守る百塚山に富山藩初代藩主前田利次は、富山城の新城を建てる計画をしていました。実際には計画は頓挫し、後世に悲願だったこの地に富山藩藩主墓所が造られました。
真国寺は墓所守としてこの地に建てられました。
寺領には不釣り合いな鳥居から伸びる参詣道。元大名は明治維新により強制的に神道に改宗させられたので、墓は土饅頭の仏式であるのに、神式の鳥居が付きます。
現在の墓所には藩主以外の墓も多く立てられていますが、地図の上と右の大きな空間が藩主墓所となります。
上の空間には、初代、4代、5代、8代、9代、10代、11代、12代の8人、右の空間には2代、3代、6代、7代の4人の墓があります。11代までが旧式の土饅頭となっています。
参詣道の両側には灯籠が並び、
そのひとつを見ると「延宝四年」の文字が・・・他の灯籠も似たような時期のものが多かったです。
山門を入って正面は、初代利次公の墓となります。こちらは山門からの参詣道もそこそこの長さがあり、一基の面積も広いものです。
対して、右側の墓所。
山門正面は五代利典公の墓ですが、右側に二代正甫公の墓です。こちらは参詣道も短く、墓石近くの木々も墓参を邪魔するように大きくなっています。
元はもっと参詣道が長く、広い空間だったのかもしれません。一般への墓所の解放とともに、設置面積を広げるために削られたのかもしれません。
最近は大名墓所が観光地として整備されている場所も多くなったが、ここはまだまだ知られざる観光地となっているようです。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第3回総会
本日金沢歌劇座で第3回総会がありました。
前田名誉会長は都合が悪くなり欠席でしたが、会長の横山氏、副会長の村井氏、本多氏、前田氏の加賀八家の四家のご当主は出席されていました。
午前は総会(正会員のみ)後の講演会に出席しました。新規入会受付もありで、一般の聴衆も可能だったのですが、それらを合わせても40人程度で参加が少ないかなと思いましたが、講演会の内容はとても参考になりました。
今年度の更新特典として、横山氏所蔵の「宝暦九年金沢城下絵図」と「加賀藩江戸上屋敷御殿平面図」の二点が復刻されて頒布されました。とても大きいけど、それでも文字は読むのがやっとです。
講演会の内容もそれらにちなみ、金沢城調査研究所の木越副所長が「宝暦九年の金沢大火について」、石野氏が「江戸の本郷邸と加賀藩主」というテーマで話がありました。聴衆がすでに歴史的知識があるという前提であるので、内容もざっくばらんながら少し突っ込んだ話があって興味深く聞きました。
加賀藩の江戸上屋敷にも御鈴廊下があったこと知っていますか?ドラマで見るようなあんな派手なものかどうかはわかりませんけど。
それで、午後は護持協力会協賛で、北國総合研究所の「北國総研自主研究公開座談会」に参加してきました。こちらは定員200名ということで会場も手狭でしたが、城郭石垣の第一人者である金沢城調査研究所所長の北垣聡一郎氏と、造園研究の第一人者である京都造形芸術大学の中村利則氏、そして近江坂本から穴太衆の最後の棟梁栗田純司氏の3人により、「解けてきた金沢城の謎 よみがえる玉泉院丸から」というテーマで玉泉院丸の価値について、座談会形式で進められました。
司会は総研の小倉主幹でしたが、小倉氏いわく二度とない奇跡の組合せということで、確かに他では聞けない内容でしたね。小倉氏はケーブル放映の自主番組内で、色紙短冊積み石垣の脇の石垣上に空中茶室があったという持論を展開していたのですが、北垣氏と中村氏に1分せずに一蹴されたことをとても殘念がっていましたね。
さて、座談会のなかで穴太の伝統的な石積みは、
・「強」を重んじる積み方
・横目地は通しても縦目地は通すな
・高さの3分の1の裏込めを入れる
という規則があるそうですが、玉泉院丸の色紙短冊積み石垣はその法則を見事なまでに踏襲していないので、石積み集団が積んだのかどうかも疑問だという話がありました。
そういう意味でも玉泉院丸の石垣は、石「積み」ではなく、庭園の石「組み」に該当し、城内・城外問わず、国内にここだけの稀有な遺構になるそうです。庭園だと考えると、滝に見立てた縦長の石組み、一段低い脇石、段々に積まれた(重畳的)奥行きを表現した石垣群と、防御にはとても適さないと思われる石垣の謎が説明できると、中村氏から説明がありました。
北垣氏からは将来的には、整備方法により名勝指定も狙える価値があるということで、石垣修復や泉水整備とともに、対岸にあった御座所附近の復元整備も課題だというまとめで座談会は終了しました。
そこまでの価値だとは想像もしていなかったので、今後がとても楽しみになってきました。金沢城が兼六園以上の観光地になる日もそう遠くないかも・・・?
金沢城 色紙短冊石垣上の謎?の施設
最後の夏休み。昨日800キロを超える長時間の運転で帰ってきたにもかかわらず、あまり疲れておらず、折角の晴れの日だったので、また先日の発掘現場を見に来ました。
(疲れていないのは幻想で寝不足でハイだっただけだったようです・・・)
もうこの場所も秘密にしていなくてもいいでしょう。10月の北國総研ふるさと講座ではこの辺りが特集される(アクタスに掲載された)ので、この最高の眺めを御覧いただきましょう。
事故が起きると、フェンス取り付けや立ち入り禁止になりそうなので落ちないように注意してください。
松坂門の西側にあたる二の丸の一部となりますが、この色紙短冊石垣の上に謎の石組みが残されています。
問題はこの溝のついた排水口のような石。これをしてアクタスでは貯水施設だと予想していますが、この溝があるのは北側の石列のみで、二の丸側になります。
南側の石垣部分には塀を支えたくぼみが残されているものの、北側と同様の排水口は見当たりません。
私は今は囲まれるように置かれた石組みですが、明治に陸軍か、もしくは後の金沢大学が石を置き直して何か施設を作っていたのではないかと思っています。この謎はいつか調べてみたいと思います。
さて、下に下りてきました。
斜面のほうはこれ以上は掘れないそうです。土嚢が崩れてくる恐れがあるからで、今後は一段下を掘るために土嚢を積み直す作業が行われるようです。
色紙短冊石垣下の発掘現場です。
掘る作業は大詰めのようで、作業員は今日は少なかったですね。
手前のほうが掘られていて、裏込めのような割石も見られますが、平たい大きめの石がいくつか見えるので、もしかして石垣沿いにあった階段のようなものかもしれません。
前回見えた大きな石
よりくっきりと彫り出されていました。
どうでしょうか、ちょうど樋から落ちる滝を受けるような位置になりませんか?ますます興味深い玉泉院丸の発掘の様子でした。
金沢城 橋爪門は計測作業が進む
今日は晴れ!週末は雨予報なので晴れ間に発掘作業が進められていました。
先日立っていたパラソルは撤去されていましたが、今日もまだまだ暑いです。
石垣を計測している人達がいました。
こちらでも計測が進みます。
遠くから見ていると、やはり何をやっているかはよくわかりません。建物工事(普請)が始まれば、河北門のときのように見学台ができるようなので楽しみです。その前に現場見学会はいつだろうか?
金沢城 石川櫓門修復
春の桜、夏休みを過ぎ、観光客が空いてきた時期に石川門の二の門櫓がシートに覆われました。
南側の塀のほうはシートに囲まれたままの状態が長いですが、音はすれども何をしているのかわかりません。
倉庫のほうで何か部品を積んでいました。何かな?
八戸城 青森県の城館
八戸城にやってきました。
城の北部に八戸駅ができ、城下町との間にあった城内の大部分は開発されましたが、
その一部が三八城公園と市役所や市公会堂となりました。
今日は市役所前で催事が行われており、たくさんの人が来ました。
三八城公園に入ってすぐ右側に、
本丸跡の碑が立っています。
公園内には八戸藩初代の直房公の銅像が立てられています。
公園脇に行って駅の方角見ると、この場所が小高い段丘の上にあることが実にわかりやすく体験できます。市役所駐車場も車と人の出入口に非常に高低差があります。
市公会堂と公園の間に、三八城神社が建っていてここも城内です。
地震の影響でしょうか?本堂横の稲荷神社の鳥居が崩壊していました。
新田城 青森県の城館
八戸市街から少し郊外の新田八幡神社にやってきました。
標高38メートルの低い山ですが、かなり急勾配で中腹にある鳥居の横に、新田城の案内版と庚申の石碑が据えられています。
頂上一帯に2つの郭があったと考えられ、そのひとつが新井田小学校、
もうひとつは八幡社となっています。中に宅地や畑もあります。
その八幡社の本殿前に城址の石碑があります。
境内からは八戸市街が一望できます。
町会ではこの新田城を大事にしているようで、秋には「新田城まつり」が開かれています。今日は開催前だったようで。