石川県文教会館へやってきました。
今日と明日の2日間、金沢城調査研究10周年記念シンポジウム「城郭石垣の技術と組織を探る 金沢城と諸城」が開催されます。
県に金沢城研究調査室が設置されたのは、金沢城跡から金沢大学が移転して県所有となった後です。10年の間に研究室は金沢城調査研究所として格上げされ、昨年度の国史跡指定にも多大な貢献がありました。
今回は10周年の記念年としてだけではなく、研究所になったことを契機に全国の石垣研究者を外部嘱託研究員とした5年間の研究成果の集大成でもあります。
北垣聡一郞所長の開催の辞
「石垣研究の歩みと現在」
基調講演
「金沢城石垣の変遷と特徴」
金沢城調査研究所 滝川重徳氏
総括報告1
「遺構からみた徳川期大坂城普請の組織と技術」
東北芸術工科大学 北野博司氏
総括報告2
「石垣普請の組織と穴太の役割」
金沢城調査研究所 木越隆三氏
1日目半日ではありましたが、最先端の城郭石垣の研究成果が聞けて充実しました。
投稿者: Tadashi
和田山砦 石川県の城館
小春日和のなか、雪解けの和田山へ向かいました。
道路の雪は解けているけど、
山中の雪はまだ少し残っているけど、かなり遺構が見やすくなった。
草一つ生えていない虎口は、構造がわかりやすいけど写真写りはイマイチか
二の丸の奥に櫓台が見えます。
本丸に入って、櫓台の上から
まだ雪の残る山々をしばし鑑賞
本丸をめぐる土塁の雪がなくなったことで、写真ではわかりにくくなった。
前回と同じく細い土橋を渡り、
そこから雪の残る空堀と帯郭が見えました。下りていくには北面のまだ雪が深い。
もう少し本丸まわりの木を伐採してくれると、この景色が拝めるのだが・・・・
和田山砦 石川県の城館
冬の貴重な晴れ間。明日よりまた荒れるようだったので、和田山へ向かった。
今日は残っていた和田山の南尾根を目指すことに。
まずは北側から入って古墳群を見て回る。
こんな状況でも散歩する人はいるようです。尾根と尾根の間には深い谷が入っています。
古墳がもっとも多く並ぶ尾根に入ると、ちょうど防虫作業の最中でした。
古墳の中にはわかりに溝を掘ったものがあります。この古墳はさらに正面に土橋が残っています。
枯れ木の合間、合間から除く景色が広々としていました。
忠魂碑(題字は「霊碑」)の立つ広場まで来ると、その先は中世の和田山砦です。
和田山砦は一向一揆の拠点となった後、柴田勝家軍により砦として利用されたところです。北方に手取川が流れ、手取川以南の最前線となった場所です。
縄張り図もありましたが、中世城郭にして「本丸」「二の丸」はないですね。せめて「一の郭」「二の郭」にしてほしいところです。現在地が表示されていないもわかりにくい・・・
二の丸の櫓台をめぐる深い空堀。この櫓台そのものも古墳です。
空堀沿いに進むと、ここを下って帯郭となりますが、さすがに雪深くて進めません。
空堀と帯郭の間を渡る土橋と虎口。
虎口を入ると二の郭となります。櫓には右前方から上るようです。
櫓にはわずかに土塁が残っていました。
松の合間から下を監視できますが、松を切ってくれればもっと景色を楽しめるのですが・・・
もともと古墳の山ですから城メインで伐採もできないとは思いますが。
本丸に入ります。こちらも古墳を利用した櫓台があります。
櫓台からの景色。こちらの眺望は南側に少し開けています。
一の郭
その北側から西側にかけて土塁が残っています。いまはちょうど土塁部分のみ雪が溶けて、写真でもよくわかる状態です。
一の郭から二の郭へ向かう土橋。右前方が帯郭です。
最後に南側に降りて腰郭を歩きました。
古墳を利用した砦だとは知っていたので城としての構造物は期待していませんでしたが、思っていた以上に中世城郭を楽しめる場所でした。次は雪が溶けてから訪ねてみましょうか。
和田山砦・能美古墳群 石川県の城館
寒波がやってきて時折激しく雪が降る天候ですが、昼休みには良い天気になりましたので、近くの能美古墳群へ行ってきました。冬になって下草が枯れて、地形がよく見えるようになっていると予想してのことです。
能美古墳群は石川県内最大の古墳群で、手取川左岸に点在する寺井山、和田山、末寺山、秋常山、石山にわかれて、50基以上の古墳が尾根に築かれている。
とは言っても、開発により山は削られ、住宅地や公園になった場所も多く、地図では濃い緑色の部分が現存の丘陵地、灰色の部分が失われた丘陵地ということになる。左に位置する寺井山は9割以上が失われてしまった。
和田山の麓の駐車場に車を停め、散策開始!
もっと大きな和田山古墳群南尾根は次回にして、最初に和田山古墳群北尾根に向います。
城山と呼ばれている北尾根の登り口。低い丘陵地ですから、あっという間に頂上です。
頂上には和田山5号墳。比較的大きな前方後円墳ですね。草も枯れて形状もよく見えます。
上に上ると広い空間があり、一時的な陣地としては申し分ないです。
ここ和田山は加賀に攻めいった織田軍が陣をはったと言われています。総大将は柴田勝家ですが、位置関係からして、もっとも後方の和田山に柴田が陣取り、残りは寺井山や末寺山などに陣をはったのでしょうね。
さて次は、和田山の北に位置する末寺山古墳群に行きます。
この尾根にはたくさんの古墳が残っているようです。冬とはいえ、この辺りは笹が多く自生していて、古墳がわかりにくかったです。特に、末寺山は南と北の尾根沿いに古墳が並ぶのですが、南尾根の円墳はどこなのか全くわかりませんでした。
雪はあまりなかったのですが、それでも日陰部分はまだうっすら残っている箇所もあり、こんな寒い中誰も来ないですから足跡も当然ついていませんよ。
さすがに最北に位置する末寺山北尾根からの眺めはいいですね!
ここは最前線の見張り台として古墳が利用されたことでしょう。
末寺山7号墳の円墳。盗掘か?発掘か?真ん中にぽっかりと穴のあいた円墳でした。
最後に9割を失った寺井山古墳群へ。
唯一残された円墳は、住宅街にひっそりと整備されて残っていました。
ここからは和田山も
末寺山もよく見えます。ここは古墳のまわりの木がまったくありませんから、他の古墳群ももう少し見晴らしを良くしてくれると嬉しいですね。とここでまた雪が激しくなってきました。
次回は和田山南尾根へ。
大津城 滋賀県の城館
大津市の京阪浜大津前の大津港駐車場の一角に「大津城跡」の石碑が立っています。
大津城は琵琶湖に面した平地に築造された水城で、関ヶ原合戦の前哨戦、大津城籠城戦でも有名な城です。その時の城主が浅井三姉妹の二女初の嫁いだ京極高次でした。
NHK大河「江 姫たちの戦国」でも描かれていたので、一般の方にも有名になったことでしょう。
浜大津駅までの歩道橋に上ると、琵琶湖を一望できます。海の港とは少し違いますね。
比叡山も見えますよ。もう少し晴れていれば・・・
この歩道橋の下、国道を含めて浜大津駅周辺が大津城の本丸があった場所です。
交差点を電車が行き交います。ちょうど「源氏物語」のラッピング電車が行きました。
後で知ったけど、ここを「けいおん!」のラッピング電車も走っているようです。
10分ほど歩いて大津市のアーケード街へ
日曜午前中にしては人がまばらな商店街です。今はどこの商店街も苦しいのだろうけど、あまりにも・・・
それとも日曜だから人が少なかったのか?
「大津百町館」、奥が明治の商人屋敷となっているところで、今日は時間がなかったので次回に。
入口の大津町の模型はしばらく眺めてきましたよ。
中に「大津百町おもしろ発見地図」(200円)という、現在の道路に、大津城の縄張りと城下町であった大津百町の町名が書かれた地図が売っていました。今はほとんど破壊されて面影の残っていない大津城を感じながら散策することができますよ。
アーケード街にある大津祭曳山展示館
その横(右が大津祭曳山展示館)の空地の奥に、大津城を唯一偲ぶことができる外堀の石垣が残っています。元々は建物があって、ここもやはり見えなかったのかもしれません。
堀の石垣なので、城内の石垣よりは積み方が少し雑かな?
左側は5メートルほど行って右に曲がっています。
右側はずっと続いているように見えますが、2メートル先からは積み方が変わっています。
この石垣の場所は先程のおもしろ発見地図によると、外堀の南東隅近くの内側の石垣ということになりますね。
他に大津城を偲ぶ場所もないですから、もっと見学しやすくしてもらいたいです。それと、この場所どこになるか最初わからなかったんですよ。案内看板もないですし、せめて大津城跡の石碑近くに立ててくれないでしょうか。
今日の目的は、コラボしが21で開催された「講座 近江の姫たち」に参加することでした。
定員200名のところ、130名ほど集まりました。昨年はNHK大河「江 姫たちの戦国」で大変盛り上がった湖北地区ですが、その時流に乗って地元の滋賀県教育委員会もこの歴史遺産を地元に深く浸透させようと、数多く探訪会を行って来ました。今日はその総まとめというところでした。
先着100名にお土産がもらえるとあって、開場30分前に入りましたがその甲斐ありました。各探訪会で配布された資料の数々です。遠方からは足繁く通えませんからね。観音寺城探訪会だけは参加しましたので、これは2冊目になりました。
帰りにはSAで東海道大津宿の名物「走り井餅」を買って来ました。
企画展「金沢城の今昔」 金沢大学資料館
現在、金沢大学資料館(図書館内)では企画展「金沢城の今昔」を開催中です。入館無料ですが、平日のみ(10:00~16:00)の開館ですので、年末年始休みの最終日に行ってきました。
比較的穏やかだった三が日を過ぎ、今日は大雪の一日でした。今日から授業が始まった学生たちも寒そうです。
展示室に入ります。
前回の特別展は一室すべてを展示替えしていたので見ることができなかった通常展を壁側に戻し、中央部を企画展に使用していました。
井上鋭夫氏を中心にした金沢城学術調査委員会が行った発掘調査で見つかった遺物などは、現在の金沢大学がその多くを収蔵しています。
数年ぶりに本丸で見つけた阿弥陀仏を彫った石造遺物が展示され、
発掘日誌なども展示されていました。
「金沢城と前田氏領内の諸城」(名著出版)などを著した喜内敏氏。
本企画展は、喜内氏の遺品が石川県立歴史博物館に寄贈されたことが契機だったようです。
(そのうち、歴史博物館でも金沢城展やるのかな?)
その遺品のほんの一部が展示されていました。
企画展を見た後、初めて通常展のほうも見ました。金沢大学には発掘調査の遺物や、学校で使用されていた品のほかにも、江戸時代の加賀藩のものも収蔵しています。
その中から二点、
幕末の加賀藩の文学校、「明倫堂」の扁額です。新井白蛾の筆によるものです。
ここでは儒学を中心に算学、和学、天文学、礼法、易学、医学などを教えていました。
そして加賀藩の武学校、「経武館」の扁額です。加賀八家のひとつ土佐守家の直方の筆によるものです。
弓、槍、剣、馬術、居合、組打、長刀などを教えていました。
金沢城玉泉院丸庭園の復元 泉水、中島の造成に着手
加賀藩の築庭様式の中で、ひときわ異彩を放ったとされる名園が現代によみがえる。石川県は新年度、金沢城玉泉院丸庭園の復元に乗り出す。江戸末期の絵図や埋蔵文化財調査で確認された遺構を基に、泉水や中島などの造成に着手。パノラマ上に広がる石垣景観との一体的な整備を進め、2014年度の北陸新幹線金沢開業までに往時の姿を再現する。
新年度は、文化庁や玉泉院丸跡調査検討委員会の専門家らと協議し、庭園の復元に向けた具体的な設計に入る。江戸末期の絵図や埋文調査の結果を基に、池の形や位置を忠実に再現するほか、庭園に植える樹木についても兼六園など他の大名庭園を参考に、当時の植生を再現する方針だ。
県は、北陸新幹線の金沢開業までに庭園中心部を先行して整備するとともに、外周部の埋蔵文化財調査を続け、遺構などが確認できたところから順次復元していく。
県は、玉泉院丸跡の外周石垣の復元工事にも着手する。旧県立体育館の出入り口を造る際に取り壊された合同庁舎前交差点前の石垣が対象で、スロープで分断された部分に戸室石を積み足し、城郭外周の景観を整える。(北國新聞2012年1月3日付記事より)
旧江戸村の海鼠塀調査へ
石川県は、金沢市湯涌温泉の「旧江戸村」に保管されている金沢城玉泉院丸跡の海鼠塀の調査に乗り出す。移築の経緯や保管状況などを調べ、玉泉院丸の整備に合わせた塀の活用を検討する。
旧江戸村に保管されているのは、玉泉院丸外周の石垣上にあったとされる土塀の一部。高さ2.9メートル、長さ13.37メートルで、金沢市などの記録によると、1969(昭和44)年7月に玉泉院丸跡から現在の場所に解体、移築されたという。(北國新聞2011年12月21日付け記事より)
兼六園の噴水もっと古い 国内最古1861年
金沢城二の丸にあった噴水が安政5年(1858)年の絵画に描かれていることを、石川考古学研究会員の坂野さんが17日までに確認した。これまで考えられてきた噴水設置時期の文久元年(1861)より、少くとも3年さがのぼる。二の丸の噴水と言われ、同じく1861年設置とされてきたが、より古い時期に造られた可能性が大きくなった。
噴水が描かれてきたのは金沢市立玉川図書館が所属する「紙本著色金沢城二ノ丸御殿景観図」。著者は加賀藩お抱え絵師の佐々木泉景で、安政5年7月の作と明記してある。藩主の居間から日本海に沈む夕日を望む雄大な構図で、茶室近くの池に噴水が見られた。(北國新聞2011年12月18日付け記事より)
高岡城跡 「貫土橋」の遺構か
高岡市の高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査で、細かい石を敷き詰めた栗石層が「貫土橋」(かんどばし)周辺で見つかった。市教委は16日、報道陣向けに現地説明会を開き、江戸時代初期の文献や絵図でしか残っていない貫土橋の存在を裏付ける遺構となる可能性を指摘した。梅苑周辺からは複数の土塁も発掘され、城跡の基本構造が徐々に浮かび上がってきた。
市教委によると、調査区間内に10~20センチのこぶし大の石が約20メートル、最大約2メートルの幅で敷き詰められ、栗石層を形成していた。通常、石垣の基礎部分を沈下させないように固め、安定性を高めるために設置される。(北國新聞2011年12月17日付け記事より)
遺構が見つかった朝陽橋付近
小口城 愛知県の城館
大口町にある小口城です。
現在は本丸の一部だった櫓台跡を中心に公園として整備されています。
小口城は尾張領内の岩倉と犬山の中間点にあり、街道上の重要な拠点でした。
平成11年にこの館風の展示館と望楼ができたようです。展示館ではここ小口の歴史を学ぶことができます。
展示館の前には発掘で見つかった井戸跡と
鍛冶場の炉跡の位置がわかるようになっています。
公園は近くの小学生の遊び場になっているようで、たくさんの子供たちが遊んでいましたが、見上げるほどの望楼に上ることもできます。目が回るほどにグルグルと上がっていくと、さすがに転落防止に金網が張ってありますが、四方一望できます。
昔は見渡す限り田畑が広がったのどかな場所だったのでしょうが、今は住宅地が広がります。
公園横に広い空地がありますが、そこには昔小学校があったそうです。その敷地ももとは小口城の本丸です。
岩倉と犬山の中間にあるということで、この望楼からは犬山城も
小牧城も見えますよ。
晩秋の犬山城へ 愛知県の城館
今日は午前中は天気良かったですが、徐々に雲が広がってきて、最後の太陽です。長良川に映る太陽が眩しく、湖岸の山上にそびえる天守が良いですね。
天守までの道脇はすっかり紅葉しています。今年は秋が遅れましたから、まだまだいけますね。
紅葉と石垣の組み合わせはいいですね。
本丸内は紅葉には少し遅いようでしたが、それでも観光客がそこそこいましたよ。さすがに国宝です。
天守最上階に上ると、四方景色が広がります。これは南方面の名古屋方面。
先程とは反対に、小牧山上の小牧歴史館が見えます。
西方面の奥に金華山が見えます。
最大望遠で山上の資料館が見えました。肉眼ではまったく見えませんでしたが。
上から望む長良川もいいですよ。
城下のみやげ店でマスコットキャラのわん丸君のぬいぐるみを買いました。春に小さいほうも購入したので、今日は大きいのを買いました。大きいのは手の肉球もあるんですよ。お店の方はどんどん売れるけど入荷が少ないんですよ、って嘆いていました。売れるっていうのはわかりますよ。かわいいですからね。
自販機にもわん丸君が描かれて、大活躍ですね。
青塚砦 愛知県の城館
犬山市の青塚古墳史跡公園に来ました。
古墳が整備され、ここまで全形が残っているのは貴重ですね。上に登れないのは殘念だけど。
ここは秀吉VS家康で争った小牧長久手合戦のとき、秀吉軍の森長可が陣を張った場所です。
しかし、看板にも古墳の説明だけで砦跡であることは一言も書かれていません。
ここから小牧城の歴史博物館が見えます。開発された現在でも見えるということは、当時は丸見えだったことでしょう。戦場の臨場感が味わえます!
小牧城 愛知県の城館
小牧城のあった小牧山にやって来ました。昔はまわりも田畑が広がり、小牧山全体がきれいに見えたのでしょうけど、今は、会瀬川沿いのこのスポットからやっと見える軽度ですね。
小牧山の頂上にある小牧歴史館を目指します。
資料館はちょうど本丸にあたる場所に建っているのですが、近年その周囲の発掘調査で巨石を使用した石垣の一部が次々と発見されました。
こちらにも
信長が小牧山に在城したのは数年なので、これまでは本格的に整備されないうちに岐阜城へ移ったと考えられていた定説を覆すことになりました。
資料館からの遠望は、今日の天候にも恵まれてとても良いです。こちらは北方面。
小牧長久手合戦のとき、徳川家康はこの小牧山に陣取り、北側に布陣した羽柴秀吉軍と向かい合いました。
肉眼では見えなかったけど、デジカメを最大望遠にしてみたら、なんとか犬山城が見えました。
史跡として保存されている小牧山の麓には、おそらく小牧合戦時代の土塁が残り、山裾との間に広い郭を形成していることが今でも確認できます。
それにしても大きな高い土塁です。どこの城跡でも数万人が野営する場所などないと思うところが多いですが、ここはなるほどと思えます。
通路を造るために、土塁を切断した部分をそのまま展示施設として見せています。
井戸跡も残っています。
郭との間の空堀も復元されています。山城の面影が残る場所ですね。
切山城跡 火縄銃の鉛玉発見
金沢市北東部の切山城跡で行われた市の発掘調査で3日までに、火縄銃の鉛玉1個が出土した。16世紀後半の製造とみられ、同時期の土器片も見つかった。市埋蔵文化財センターによると、築造年代の特定につながる初めての出土品で、同遺跡を含む一帯の城郭群の国史跡指定を目指す動きに弾みがつきそうだ。
鉛玉は直径約1.1センチで医王山方面を望む物見やぐら跡周辺から出土した。同センターによると、16世紀後半から国内で広く使われた火縄銃の鉛玉と特徴が同じだという。このほか、1~2センチ四方の土器片3点が出土した。(北國新聞2011年12月4日付け記事より)
鉛玉が見つかった物見櫓周辺
江戸城本丸と能楽の聖地へ 東京都の城館
東京出張に合わせ、早めの電車で東京に乗り入れました。今日は快晴で散策日和になりました。
なかなか機会が少ない江戸城の本丸を見学することにします。今は皇居東御苑と呼ばれている場所です。
大手門から入り、北桔橋門へ抜けるルートとします。
大手門の一の門(櫓門)を見ると、漆喰が崩れ落ちている箇所が数カ所見られました。東日本大震災では江戸城の建造物も影響を受けたことは聞いていましたが、まだ修復されず放置されたままですね。
大奥あたりから見た天守台です。さすがに江戸城だけはスケールが違います。今日は地元の学校が遠足に来ていましたよ。
天守台に上ります。
天守台から見た本丸は広いですよ。地下部分でこの高さですから、天守が建っていたら絶景が広がっていることでしょうね。
江戸城天守台は天下普請で加賀藩が担当しました。三代利常の時代です。石材は大きく迫力ありますが、隅が空襲で欠けているが痛々しいです。
本丸と二ノ丸をほぼ一周し、秋の江戸城を楽しみました。
北の丸を抜け、靖国神社にやってきました。初めてですが、目的は参詣ではありません。
境内に移築された能楽堂。
雨ざらし?なのは少し驚きでしたが、中がよく見えて有難い。
目的は・・・・
この「能楽」と書かれた扁額です。書いたのは加賀藩13代前田斉泰公。明治に入り、廃藩置県が行われ、それまで藩の庇護にあった能が急速に廃れていくことを危惧した斉泰公が、東京で盛大に能を行ないました。「能楽」という言葉が初めて使われた事例でもあります。
高岡城速報展 発掘調査報告&講演会
高岡城は前田利長が築城した近世城郭ですが、長く公園として保存されてきて本格的な調査が行われてきませんでした。高岡市では平成22年度から価値向上の取り組みの一環として発掘調査など多角的な調査に着手しました。
今年夏には本丸広場の初めての発掘調査を大規模に行い、御殿の礎石が多数発見され、今回その成果を踏まえて速報展が城内の高岡市立博物館で行われています。
新館2階の第3展示室で行われた展示ですが、あまり広くない展示室内ではありましたが、関連する展示物と本丸発掘調査の結果について展示されていました。
現在の城内の数カ所で発掘調査が行われていて、
梅苑
明丸土塁
本丸入口付近
本丸北東部土塁
本丸児童遊園
朝陽橋付近、と6カ所で進行中、または予定の調査が行われていました。今日はブルーシートが被されていて、その実態は不明でした。
午後は市役所で特別講演会が開催されました。予約が必要でしたが、始まるまでには会場はいっぱいになっていました。
はじめに本丸発掘調査の成果が報告され、
続けて、高岡徹氏による「前田利長の高岡築城」、千田嘉博氏による「高岡城の歴史的価値」の講演が行われ、高岡城が価値ある城跡であるという認識が高まりました。
往時は本丸の周囲は石垣が巡っていたということで、土塁と堀のイメージのある高岡城が非常に近代的な印象に変わりました。
観音寺城を探検する2011
滋賀県文化財保護課主催の「観音寺城を探検する2011」に参加してきました。
今日はこの観音寺城に上ります。早めに安土入りし、なかなか行けていなかった考古博物館で図録を購入してから集合場所に向います。
集合場所は五個荘の「ぷらざ三方よし」です。ちょっと迷いましたが何とか辿り着きました。
やはり年配の方が多いですね。小さな子供連れの親子もいます。
これまで桑実寺口、石寺口、近江風土記の丘口は通ったことがありましたが、今回の川並口は初めてです。これで観音寺城の4つの登城口を制覇できます。
川並の町並みを通り、結神社の境内から登山道を上ります。
最終列でゆっくりと登り始めたけど、途中子供たちはやはり疲れたようでペースが落ちてきた。
八分ほど上ったところで休憩所があって、そこからの景色が絶景だった。今日はいい天気に恵まれて良かった!
まずは伝布施淡路丸から探検スタートです。
そこから大土塁に向かって、大見付、伝伊庭丸、伝馬場丸と通り、もうひとつの伝伊庭丸まで行きました。
この伝伊庭丸と隣りの伝三井丸は大土塁側に二重になった石垣が残っています。上を歩くだけでは気が付きませんね。
伝三井丸を出て、さらに伝馬淵丸(上から)、伝沢田丸を通り、
本丸に到着です。
さらに伝平井丸を通り、伝池田丸まで行ってここで昼食でした。ここが観音寺城で○○丸と付いた中では一番広い郭でしょうね。
そこから下に下り、巨石が並ぶ女郎岩
ここからは向かいの箕作山が眼下によく見えます。
さらに下りて、伝木村丸へ。ここから池田丸まで戻らなくてはいけなかったのが辛かった。
そして観音正寺で休憩です。
最後に伝目賀田丸に行きました。ここには井戸跡が残っています。石積みのある井戸でよく残ったなーという感じです。
帰り道は下りなので楽でしたが、雨が降って濡れていたら大変な行程でしたよ。そうでなくとも四時間以上の行程、足はガクガクです。
加越国境城郭群と古道探訪会
金沢歴史探訪月間のイベントして「加越国境城郭群と古道探訪会」が開催されました。現在発掘調査中の切山城と金沢市指定史跡の松根城、それをつなぐ小原越古道をめぐる旅です。
参加者18名と市職員を乗せたバスは大雨の中、一路切山城へ向います。
険しい山道を登って切山城へ。ちなみにこの道は現代の道です。
しばらく登ると小原越と重なる箇所に竪堀があります。現代の道より一段高い位置にあるので不思議な感じですが、両側から見ると低くなっています。
切山城の脇を小原越が通っており、上から道を監視できるわけですが、一部は非常に急峻な切岸となっています。
現在の道の脇に旧小原越古道が残っていて、もとは非常に狭い道だったことがわかります。まるでけもの道!しかし、この脇街道は本道である北陸道よりも交通量があった時代もあるのだそうだ。
富山側からの最初の障害は先の竪堀だが、金沢側からの最初の障害はこの堀切。
1枚目が主郭のトレンチだが、その中からは柱穴が見つかっています。
石が集められた場所も・・・柱の根固めか?
主郭には櫓台とまわりをぐるりと土塁が巡っています。
もう少し天候が良ければ眺めは最高なのだろうけど、今日は大雨。まったく視界がありませんでした。
その後、大雨で小原越を歩く予定は中止となり、バスで松根城へ移動。数年前、日光で薄くて読めなくなっていた看板が新しくなっていました。
砺波平野や河北潟が一望できる主郭からは、こちらも霧でまったく視界なし。殘念です。
切山城と松根城は、羽柴VS織田・徳川の小牧・長久手合戦の北陸地方での代理戦争の舞台です。桐山城が前田利家方、松根城が佐々成政方、他の二俣越、田近越、北陸道でも同様のにらみ合いが行われていたけど、比高でいうとこの時点では佐々方が優勢だったのかな。
金沢市は3年計画で発掘調査や文献調査を行い、2城と古道一括で史跡申請を行う予定だそうです。
玉泉院丸跡ガイドツアー 城と庭のもてなし事業
日本で唯一の石垣で築かれた庭の滝の全貌が現れました!
生憎の大雨でしたが、ささやかに今年の「城と庭のもてなし事業 ~紅葉を愛でる~」が開催されました。
目玉の「玉泉院丸跡ガイドツアー」は定員40名でしたが、大きく定員超えの60名近くの参加がありました。大雨だったので、まずは中で金沢城調査研究所の冨田さんにより今回の発掘結果について報告がありました。
そして、大雨の外に出て下から説明を受けました。
雨だといろいろと大変ですが、石垣を見る時はそんなことばかりではありません。しっとりと濡れた石は写真に移してもその色合いがよくわかります。
滝下には大石が並べられ、特に手前(西)側には青戸室が並びます。
また滝の東側には飛び石の並ぶ園路が発見されました。玉泉院丸庭園は池泉廻遊式庭園ですが、これまで歩く園路が見つかっておらず、貴重な発見となりました。
上の色紙短冊積み石垣も現在の地表面から2メートル50掘り下げられ、この高さは近くから見ても迫力ありますね。
下からは水を受ける石や玉石敷きが見つかり、今まで涸滝か?水滝か?で議論のあった課題に答えが出ました。
特に、大きな石の板の中央には滝の水により削られたと考えられる凹みがみられ、勢い良く流れていたときはここに、弱いときは後ろの水受石に水が落ちていたようです。
玉石敷きの保存状態もよいですね。
滝下は滝壺のようになっていたようで、石垣が囲み、庭園側には暗渠もみつかりました。この暗渠が実際につながっているかどうかまでは今回わかっていません。
それにしても、50名以上で雨の中説明を聞くのは大変でしたが、午後の現場説明会には参加できなかったので良い機会でした。
「玉泉院丸跡ガイドツアー」は城と庭のもてなし事業のイベントのひとつでしたが、雨で残念でした。
三の丸北園地では、テントひとつで「紅葉しおり作り教室」が開催されました。
ガイドツアーに参加する前に一足先に行ったら1番目でした。材料をもらって早速制作です。
紅葉と銀杏で2枚のしおりを作成しました。