常浜公園の西端に位置する畑が木村城跡です。
安土町大字常楽寺には、中世から近世にかけて栄えた「常楽寺港」と呼ばれた港がありました。この常楽寺港の入り口付近に「木村」と呼ばれる小字名が残った畑があります。ここが木村城(館)跡の推定地で、佐々木六角氏の家臣であった木村氏の居館とされています。
現在館跡と伝えられる一角は畑地として残されていますが、周辺の水路の大部分が埋め立てられ、現在見られる石垣は後世に構築されたと推定されているので、遺構ではありません。
平成元年の発掘調査で、南北に伸びる溝状の遺構が検出され、館を区画する堀跡の一部と推定されています。伝承部分が多い木村城ですが、その実態は明らかにされていません。
投稿者: Tadashi
連続講座「安土城四百三十年」 第三回 安土城をつくった男達
今日は講演会に参加するために安土城考古博物館に来ました。
先週のシルバーウィーク中は映画「火天の城」の影響もあってか、開館当時を彷彿させるような込み具合だったようです。
講演会は連続講座「安土城四百三十年」の第三回目です。前回までは日程が合わなかったので初参加となります。テーマは「安土城をつくった男達」で、今話題の岡部又右衛門や、狩野永徳、後藤平四郎、京のたい阿弥など安土城築城に関わった人々を紹介されました。
今回も100名を越える参加者がいて大盛況でした。
1時間の講演のあと、現在開催中の秋季特別展「戦国の城 - 安土城への道」のギャラリートークがありました。今回の特別展では門外不出の城絵図の展示もあり、とても楽しめました。
連続講座に参加すると、資料と修了証の他に、彦根の「しょうぶ屋」さんのご好意でキーホルダーがもらえました。毎回違う絵になるのかな?次回以降もできるだけ参加したいですね。
展示会は前後期の入替制で、すべての展示を見ることはできません。連続講座第四回に参加すれば後期を見ることができます。実物を堪能した後は図録で楽しみます。
安土城下町を歩く
今日は安土城の城下を歩きました。前回の訪問時は安土駅の南側を歩きましたので、今回は北側を歩きます。
映画「火天の城」で安土町は随分と盛り上がっていました。
駅前では信長像が出迎えてくれます。
まずは駅前を西側に進み、「梅の川」に向かいました。
梅の川は、織田信長の家臣武田夕庵が、この水で茶を献上したところ、信長公はたいそう気に入り、茶会に好んで用いたと言われる水場です。
続いて、「北川湧き水」です。室町時代に常楽寺港として栄えたこの地区には湧き水が当時の姿で多く残っています。
湧き水の近くに常楽寺港の船着場址が残っています。
現在では湖岸からかなり内陸部となっていますが、常浜公園として葦茂る良い魚釣り場所となっているようです。
常浜公園から西の湖に向かう途中、道路上のマンホールが気に入りました。信長の旗印、永楽通宝ですね。
安土城の西側に広がる「西の湖」です。安土城築城当時は湖面が城の北側に大きく広がっていました。
安土城の西側に位置する「活津彦根神社」です。
現在の本殿は江戸時代前期のものです。
神社から東に進むと、朝鮮人下街道に至ります。安土城はすぐそこに見えます。
角に嘉永7年の法華塔が残っています。
百々橋を渡れば、安土城の百々橋口です。
下街道を戻ると、途中「新宮大社」がありました。
茅葺の美しい拝殿のある神社でしたが、敷地を取り囲む石垣の入り組み方が複雑で、砦かとも思える程でした。
さらに下街道を進み、少し外れた場所に「セミナリヨ址」がありました。南蛮寺のあった場所ですね。今はすっかり整備されて史跡公園となっています。
ここからは安土城が間近に見えます。
下街道は城下では何度も曲がります。この曲がり角では「常夜灯」が残っています。
石は一見して古さがわからないのが欠点ですね。
さらに進むと「活津彦根神社」の参道の入口がありました。ここから数百メートル先に先ほどの境内がありますが、下街道からまっすぐに参道が設けられていたことになります。
下街道からまっすぐ北に神社への参道、下街道は右に折れます、。
そこから50メートルほど南に神社の御旅所が残っています。
この角には「朝鮮人街道」の石碑が立っています。向こうの角を左に曲がれば安土駅です。
金沢城 西惣構跡升形遺構
久しぶりに西惣構跡升形遺構を見てきました。
現在はすでに発掘現場は埋め戻され、説明看板がポツリと立っているだけになっていました。
宮腰台場 石川県の城館
もう1箇所の金沢の台場は、大野からくり記念館のそばにある大野お台場公園にあります。
公園の石碑の題字は、現石川県知事の谷本知事によるものです。
公園内には港近くということで、藩政期の北前船を模したオブジェが作られています。
どこに台場跡があるのかと探していましたが、公園内からは見えません。
と思っていたら、外周部の歩道に作られていました。これでは生垣で公園内からは見えませんね。
どこか短身で憎めない姿ですが、こんな大砲じゃ打てませんよね。
砲身の向けられた方角には海があったはずですが、開拓で海が少し遠くなってしまいました。
寺中台場 石川県の城館
城館とは呼べない・・・かもしれませんが、今日は台場跡に2箇所行ってきました。
まずは、寺中台場跡です。銭屋五兵衛記念館の横にある大野湊緑地公園内に復元されています。
全長80メートルのうち、17メートルが復元されていますが、台場なのに近くに海はありません。
寺中台場は、宮腰台場、畝田台場とともに、加賀藩が幕末の外国船警備のために築いたものです。
この台場は寺中神主(大野湊神社神主宅か?)の屋敷跡に築かれ、前面に堀をめぐらした内陸の台場です。外国艦隊の火力差を考慮して、上陸後の対応を図ったものと考えられています。
畝田台場はさらに大規模だったそうですが、現在はありません。
復元された台場の後ろから海側を望むと・・・・こんな感じです。雰囲気ないなー
樺沢城 新潟県の城館
樺沢城は小さな山城ではありますが、山城独自の機能が随所に見られる良い城でした。樺沢城については、入口にある龍譚寺で今泉博物館発行の特別展「山城 樺沢城」(500円)が販売されています。分かりやすいですのでおすすめです。
さて、龍譚寺の向かいに城への入口があります。
小さな川を渡るとすぐに「元屋敷跡」の石碑があります。
登っていくと「仙桃院お花畑跡」の看板がありますが、
その石碑は龍譚寺の前にあります。
進むと、左方向が崖面となり、そこらじゅうに看板が立っていました。「空堀」「土塁」・・・・などなど
土塁と頂上方向の崖面の間の通路に沿って空堀があるようなのですが、草が茂る今の時期はわかりませんね。
通路を抜けると、頂上側の通路が大手口です。
大手口を入ると三の丸跡となりますが、三ノ丸は2段になっているのは珍しいです。
三ノ丸と二ノ丸の間には深い堀切があります。
「空堀」と看板のある、右が三ノ丸側、左が二ノ丸側、写真でもわかるほどの堀切は珍しいです。
二ノ丸跡は意外に小さいです。
二ノ丸と本丸の間にも深い堀が掘られています。
本丸に至る途中に、胞衣塚(えなづか)があります。景勝が誕生した時、その胞衣を納めた所と言われています。
本丸のまわりには帯曲輪が巡っています。
本丸は思いの外広く、眺めは最高です。
上田庄を望む位置に作られた本丸からは、坂戸城も左前方に見えます。
頂上に富士権現も見えますね。
本丸を下ると、「ロープをつかっておりてください」
本当にロープなしでは下りれません。写真でもご覧のとおりの急勾配です。
本丸から西の丸に至る途中に畝状竪堀があります。ロープで登り下りして五重以上の竪堀を見ることができそうですが、2重目を見て今日は時間がないので諦めました。
そして西ノ丸です。こちらからも上田庄が見えますが、木々が邪魔していますね。
樺沢城下には樺沢城保存活動の一環として、標石が多く立てられています。その中のひとつ、「黒金屋敷跡」です。
こちらは龍譚寺の手前にある「下屋敷跡」です。
坂戸城 新潟県の城館
坂戸城に登ります。
麓の駐車場で係りの人に、「薬師尾根コース」と「城坂コース」のどちらが急かを訪ねましたが、80パーセントが坂だと言われた「薬師尾根コース」から登ることにしました。
入口からしばらく通路の脇に地蔵が立っています。後世に頂上の富士権現に向かう信仰の道へと変貌したのでしょう。逆なのかな?
道の途中で脇道を進むと御居間屋敷跡がありました。広い平地が広がっていました。
城坂方向から入る入口は虎口となっています。
戻って、道はさらに急に続きます。向こうに頂上が見えますが、なかなか近づきません。
今日は早起きしたこともあり、体力が持ちません。何度も休憩しましたが、急な坂道からの眺望はすばらしいです。
ようやく頂上近くまで来ましたが、最大の難関、ロープに、鉄鎖?登るのはまだマシで、下りてくる人がたくさんいるのに驚きです。
頂上の実城には富士権現社が建ち、十数人がくつろいでいました。
本丸からの眺めも最高です。
富士権現の裏からは尾根筋が続き、小城、大城の郭があるようです。
道の中程、木のこんもりした部分が小城、先端が大城のようです。
小城だと思われる場所です。というのもこの尾根については案内板がないのです。薬師尾根では松が多かったですが、小城では白樺(かな?)が多いですね。
大城の入口には礎石?とも思われる2個の石が横たわっています。
大城からは実城とは違う方角がよく見えます。
実城にも連絡をとれる距離にあり、連携して機能していたことが容易に予想できます。
実城に戻って、城坂コースを進みます。下の段は広瀬曲輪となります。
5分程で別の尾根筋にある主水曲輪への分かれ道があります。
3本の深い堀切を進んで15分程で先端近くの主水曲輪に到着しました。大城といい、主水曲輪といい、実城からアップダウンがあって体力的に厳しい山城です。
主水曲輪からは越後方向がよく見渡せます。
戻って城坂コースを下りてくると途中に水場跡の案内があります。
実際の場所に案内が見つからなかったのですが、プラスチック管のあるこの辺りが石が多く、水場だと思われます。この場所は観光地図には載っていませんね。
水場を後にして、桃の木平に到着しました。かなり広い平地です。名前の由来は桃木でも立っていたのでしょうか。現在はないようでしたが・・・
城坂コースは薬師尾根コースと比べ緩やかですが、木々に囲まれて展望はあまりよくありませんね。
城坂コース入口まで来ると、一本松が立っていました。
一本松からは砂利道ながら車の乗り入れもできるようになっています。途中、天地人ロケ地の旗がなびいていました。
この辺りで武田軍との遭遇シーンが撮られたようですね。
さらに下ってくると、途中土塁や堀をもつ御館と思われる場所に出ました。
御館の入り口には石垣が残っており、坂戸城跡の石碑が立っていました。観光客はここまで来て引き返す人が多いようですね。
坂戸城で石積みが見られるのはここだけです。
柱跡の残る礎石も残っています。
別の場所には「上杉景勝・直江兼次生誕の地」の石碑が立っています。
御館から入り口までの間には広大な家臣屋敷跡が広がっていました。
道の両側が屋敷跡です。
麓には内堀跡として埋田堀が3カ所復元されています。
ハスが咲き、カモが戯れる雰囲気ある水場となっていました。
登り始めてから3時間半さすがに疲れました。
天地人の旅 IN 南魚沼
今日は誕生日です。私もついに30代後半に突入しました。
シルバーウィーク後半は天候が崩れる予報だったので、またまた強行軍ではありますが、朝6時に出発して南魚沼市に出かけました。
3時間ほどで六日町ICに到着。シルバーウィーク期間でも北陸道から関越道は渋滞なしに来ることができました。
まずはJR六日町駅前の「愛・天地人博」を見学。
駐車場は隣りの南魚沼市役所駐車場だったので、市役所前の上杉謙信公と直江兼続公のレリーフを見てきました。
移動して川沿いの駐車場に駐車し、周辺を歩きます。
向かったのは直江兼続公伝世館。観光客がいっぱいでゆっくり見れませんでしたが、パンフレット類をたくさん入手しました。
駐車場から伝世館への道すがら一週間後に開催される「トキめき新潟国体」の昇り旗が並んでいました。地元石川県は前田利家?ですね。頑張って書いたんでしょうね。
黄金の穂を垂れる田では稲刈り真っ最中でしたが、田の後方にそびえるのは坂戸城です。
伝世館の裏は銭淵公園となっており、池の背に坂戸城がそびえます。
この銭淵は長尾政景が溺死したと言われている場所です。園内に「長尾政景公生涯之地」の碑が立てられています。
坂戸城に登った後に上田長尾氏史跡公園に向かいました。
新しい長尾政景公の墓碑の裏には天正と明治の古い墓碑がひっそりと立っています。
史跡公園のなかには、政景公以外にも歴代の上田長尾氏の当主の墓碑と、直江兼続公の墓碑が立っています。
駐車場に戻り、雲洞庵へ向かいました。雲洞庵は大河ドラマにも出てきた幼い景勝と兼続が学んだ地です。しかし、ここだけは観光客であふれ、駐車場が足りずに道にはみ出していました。大河ドラマの影響はすごいですね。まあ、自分もその一人なのですが・・・
山門は朱色で装飾され、別名赤門と呼ばれています。
本堂ほかの建物も広いです。宝物館には貴重な品々が残っていましたが、保存状態があまり良いようには見えませんでした。
雲洞庵からは遠く坂戸城が見えます。
まだまだ行けそうだったので、龍譚寺に向かいました。ギリギリで拝観時間に間に合いました。本堂には景勝の母、仙桃院の寄贈した文殊菩薩が特別公開されています。
境内には「上杉景勝公生誕之地」の石碑が立てられています。この龍譚寺の本尊は珍しい文殊菩薩です。それは仙桃院に関係あることなのでしょうね。
龍譚寺の前が樺沢城跡です。夕方遅くなってきていましたが、住職に頂上まで20分ほどと聞かされていたのでひと回りしてきました。
なんとか当初予定していた計画を消化できました。引き替えに昼食は最後までお預けとなってしましたが・・・腹減ったなあ。
愛・天地人博でいくつかのみあげをゲット。南魚沼には専用キャラがいるのですが、購入したのは米沢の専用キャラ「かねたん」のぬいぐるみとメモ帳、景勝と兼続に扮したキティのお菓子、そして入場記念としてもらえた南魚沼産コシヒカリ1キロです。米沢は行けそうにないなー
金沢城いもり堀 さらに石垣作業は進む
金沢城のいもり堀鯉喉櫓台の石垣工事は一週間でかなり進みました。
最近は土曜日に作業していないので作業風景を見る事ができません。しかも今日はあいにくの雨模様です。
作業も中盤を迎えているので、上空からも撮影してきました。
といっても、金沢城本丸の辰巳櫓跡からです。直下にある鯉喉櫓台の作業状況はここからよく見えます。
堀から立ち上がる西側、南側だけではなく、北側の本丸方向の石垣も積み始めたようです。
隅石は一番早く積まれていきますね。
下に下りてきてみると、すでに一段積み上がっている状態です。
南側の鯉喉櫓台までの水堀も整備が始まりました。すでに完了している西側と同じ形に掘られていきます。
9月例会 「辰巳用水の国史跡申請について」
本日は、金沢城・兼六園研究会の9月例会の日でした。
金沢市文化財保護課の庄田氏により、「辰巳用水の国史跡申請について」というテーマで、辰巳用水の史跡指定に向けての調査成果と現状について講演を聞きました。
辰巳用水は、東京の玉川上水、神奈川の箱根用水(3番目は他の組合せもあるようです)とともに、日本三大用水と呼ばれていますが、藩政期に作られた用水をそのまま利用している辰巳用水は全国でも稀有な存在です。
現在国史跡指定範囲と考えている部分は、辰巳用水の東岩取水口から兼六園前までの流路一帯のなかで、上流部隧道、中流部開渠、下流部は天徳院附近の開渠と旧横山邸(金沢国立病院)前の開渠となっています。その中では、上流部の隧道と三段石垣が目玉ですね。
辰巳用水関連施設としては、加賀藩の土清水塩硝蔵跡も発掘調査が進められていますが、一括申請か単独申請かはまだ決定されていないようです。
現在、東岩取水口のすぐ上流で辰巳ダムが建設中であり、辺りの景観はまさに様変わりしていますが、貴重な文化遺産である辰巳用水は後世まで残したいものです。
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金沢城いもり堀 鯉喉櫓台は急ピッチに作業進む
いもり堀の鯉喉櫓台の石積み工事は急ピッチに進んでいます。
10日ほど来ないと、どんどん積み上がっています。写真も何も残っていない新造の石垣は積むのが早いですね。
脇の通路の植え込みの高さまで石が積まれました。
裏込石も一段高かった後方の土盛りと同じ高さまで来ましたが、石垣の中は地山の上には裏込石しか入れていません。通常内側には土盛りをして、石垣の間1メートルから2メートル石を入れるのですが、すべて裏込石なんて、これでいいのでしょうか?
さらに着々と積めるように石が待機しています。
西側の土塁側も石積みが見えるようになりました。
よく見ると積む位置を確認するための印が貼ってありますね。
半年後には辰巳櫓の高石垣の前に櫓台が出現します。楽しみですね。
金沢城 河北門復元整備
金沢城復元整備は順調に進んでいるようです。
太陽に照らされて囲いのなかのニラミ櫓の塀の輪郭がうっすらと浮かんでいます。
隙間から海鼠塀が見えます。塀はほぼ出来ているようです。
最近は外観がほとんど出来てきたこともあって久しぶりに行っても、あまり変わり映えしませんね。
二の門の大屋根の天辺にある箱棟もほとんど完成したようです。
土壁はヒビに塗り重ねられてきれいになっています。漆喰を塗る日も近そうです。
見学台から唯一見える二の門の出窓の屋根にも鬼瓦が乗りました。
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金沢城 石川県の城館
石川門、加賀藩の金沢城のシンボル的存在です。
観光客は兼六園から城内に入るため、兼六園との間に架かる石川橋を渡って石川門をくぐってきます。しかし、ここは金沢城にとっては搦手門です。
小立野台地の先端部に築かれた金沢城の最大の弱点はこの台地伝いに攻められることです。そこで現在道路になっている百間掘を兼六園との間に築き、石川門を建てました。門の形式は堅固な枡形です。
金沢城の大手口は、現在唯一の水堀、大手堀が残る尾坂門です。ここは大手らしく巨大な鏡石がいくつも配置されています。ちょうど隅石として使用されている鏡石は、その厚さを実感できる珍しい巨石です。
尾坂門を進むと、新丸の向こうに平成13年に復元された菱櫓が見えます。本丸の天守が焼失したあと、本丸には天守代用の三階櫓が建てられましたが、建造物の高さは菱櫓のほうが高く、実質の天守としての役割を果たしました。
新丸から三の丸に入るところに河北門があり、現在復元整備中です。
金沢城では他にも、石川門と塀が修復中、いもり堀と鯉喉櫓台が復元整備中、玉泉院丸跡が復元整備に向けて発掘調査中と、平成26年度の北陸新幹線延伸まで復元・修復ラッシュです。
高岡城と高山右近
高岡城の大手口に、高岡城の縄張りをしたと言われている高山右近の銅像が立っています。
キリストの十字架を手に立つ右近はキリシタン大名として有名で、摂津高槻城の城主でした。バテレン追放令により流罪となった右近を前田利長が客賓として召抱え、利長の隠居所となった高岡城の縄張りをすることになったと伝わりますが、現在では築城期間に右近は加賀藩に滞在していなかった証拠などが見つかり、この説はかなり怪しくなっています。
高岡城 石垣の巻 富山県の城館
少し間が空きましたが、高岡城の3回目、石垣の魅力について紹介しましょう。
二の丸から本丸に渡る土橋の両側に築城期の石垣が残っています。
これだけの高さの石垣は高岡城ではここでしか見ることができません。
西側は堀のほうに下りて、すぐ傍で石垣を観察することができます。
よく見ると、刻印の残る石がたくさんあることに気が付きます。すぐに10以上は見つけることができますよ。
東側は水堀となっていて、下りて観察することはできませんが、明の丸方面から見ることができます。
他の郭や土橋では、水堀の水面に一段ほどの石積みが見えます。これは築城期のものか、城址公園整備のものか、詳細な現況調査が待たれます。
ここでひとつ城下にある遺構を紹介します。
大手口から徒歩5分のところに、大手町神明社があります。
この拝殿は、加賀藩2代藩主で高岡城を築城した前田利長の御廟の鎮守堂の遺構です。鎮守堂は明治に入って、この拝殿と本殿が五福町神明社に移築されました。後方の幣殿は後世のものです。
拝殿だけではなく、後方の幣殿の金具にも前田家の剣梅鉢紋を見ることができます。
富山城 富山県の城館
内堀に映る天守が絵になる富山城ですが、元々の富山城には天守はなく、戦後城址公園で開催された博覧会に合わせて建設された模擬天守です。
模擬天守は郷土博物館となっていて、富山城の歴史について学ぶことができます。数年前にリニューアルされてから、現代的な楽しい展示となりました。一見の価値ありますよ。
この博物館を眺めながら内堀を渡る橋が、二の丸から本丸に入る大手口となります。
橋を渡ると、そこは石垣虎口となっており、右に2石、左に1石、前に2石の計5石の鏡石が配されています。この5石は陰陽道の五芒星を意味するとも言われています。
その石垣を進んで、右に折れたところに鉄御門がありました。
現在、藩政期の富山城の建造物遺構として残るのは、唯一この千歳御殿の門です。戦後民間に払い下げられていたが、平成19年度に寄贈・移築されました。
千歳御殿は10代藩主利保の隠居所として、現在の歓楽街である桜木町あたりに建てられ、移築された門は御殿の正門でした。北向きに建てられた門は晴天下では陰になって絵になりません。
本丸への搦手口を入ると、佐藤記念美術館があります。
その前には今年日本庭園が整備されました。
整備前の発掘調査でここから戦国時代の素堀の井戸が発見されました。現在は埋め立てられ、位置だけわかるようになっていました。
この発見により、今まで神保氏や佐々氏の居城した中世富山城がここにあったことが初めて考古学的に証明されました。
富山市埋蔵文化財センター 富山城研究コーナー
富山城石垣ツアー
晴天の今日、遅い夏休みを取りました。目的地はここ富山城址です。
目的のイベントの前に、富山市郷土博物館で開催中の企画展「梅鉢紋をさがそう」を見てきました。
富山藩主に関連する品々から、富山藩の家紋である「丁子梅鉢紋」を探すという企画です。
ゲーム感覚でとても面白かったです。
同じ前田家といえども、本家加賀藩は「剣梅鉢紋」、大聖寺藩は「瓜実梅鉢紋」、七日市藩は「星梅鉢紋」だそうです。ちなみに、富山藩の丁子とは植物の名前です。
さて、本日の目的は「石垣ツアー」に参加することです。今年初めて開催されているこのイベントは6月から始まり、今回が4回目です。基本水曜日に開催されるイベントはサラリーマンには参加できるはずもなく、11月の祝日が唯一の機会なのですが、これがために休みを合わせました。
集合場所である郷土博物館前には思っていたより大勢の人が集まっています。
毎回参加しても新しい発見を!ということで、今回は城内コース(基本コース)のほかに、船橋コースが準備されていました。3分の2は常連さんみたいで船橋コースに行きましたが、自分は城内コースです。
最初は、郷土博物館の隣りにある屋外展示場にある石垣石から解説が始まりました。
次に、郷土博物館の土台となっている本丸石垣に残る鉄御門の貫端部加工石(部屋でいうと敷居にあたる門柱を支えるための横に敷かれる木材)。石垣の崩落による積み直しにより、本来あるべき場所とは違う場所にありますが、言われないと気付きませんね。
次に本丸石垣、郷土博物館の模擬天守のちょうど下の隅石として使用されている石。陰陽道の五芒星が石いっぱいに描かれています。富山城には裏鬼門となる南東方角に2箇所残っているそうです。
最後に、佐藤記念美術館の建つ本丸石垣です。北向きで日陰になるところなので、苔生して非常にわかりづらいですが、明治期に積み直している部分の石が、色や積み方が違っているのがよくわかる場所だそうです。1時間という短い時間でしたが、参加できてよかったです。今後も続けてもらえれば、富山城址の復元に一役買う存在になりそうな予感がします。
高岡城 井戸の巻 富山県の城館
今日は高岡城址に残る2つの井戸についてです。
こちらは本丸の隅にひっそりと残っている本丸井戸です。なにげなくぶらり散歩していると、つい見逃してしまうような場所にあるので今までその存在も知りませんでした。
そして、三の丸にある民部之井戸です。こちらは目立つ部分にある井戸で、上屋がかかるほど重要な井戸だったようです。
高岡城に滝があることを知っている人はどれだけいるでしょうか?
城に滝?と思う人もいると思いますが、本丸にある射水神社の外周部、堀沿いにある道を歩くと、途中に石橋があります。この左手に・・・
「古城の滝」があります。この滝は藩政期のものではなく、高岡古城公園の整備と同時に新造されたものです。
その傍には太平洋戦争で掘られた防空壕の跡を見る事ができます。城に歴史あり、ですね。
高岡城 堀の巻 富山県の城館
しばらく土曜日に行ってきた高岡城を紹介します。
高岡古城公園の石碑は大きなものが、ここ元竹薮側と三の丸搦手口の2箇所にあります。
内堀にかかる「朝陽橋」です。藩政期はここに橋はありませんでした。この橋がなければ本丸に行くのにぐるりと回らなければいけませんが、ここを渡れば本丸に直行できます。公園整備の上では必須だったのでしょう。
この橋から眺める堀の景色はいいものです。
藩政期の堀がほぼそのまま残っている高岡城は、日本100名城にも選ばれていますが、古城公園整備の計画にはこの三の丸を囲む堀だけは埋めたてられる予定になっていた時期もありました。
しかし、広い水堀の残っている城址はまさに水鳥の楽園です。
さまざまな水鳥がいつ来てもたくさんいます。
堀に向けて一眼レフを向けている人がいたので、自分も覗いていると、被写体はカワセミでした。実物を見たのは初めてです。
亀もたくさんいて、甲羅干しをしている亀も何匹かいましたが、死んだ鯉をつついている3匹の亀がなんとも微笑ましい光景でした。両側からつつけばいいのに、同じ方向からつついているので、鯉は流されてしまって、それを追いかけながら一所懸命つついている亀には、もう少し利口になれば?と思わずにはいられませんでした。