秋のイベントが最も集中する10月第三週日曜日、今朝は大雨の中隣県富山に出かけました。
第一の目的地は高岡市美術館。前売券を購入していた特別展「高岡の名宝展」を見学です。現地に少し早く着いてしまって、まだ準備中でした。
高岡開町400年記念の一環として開催中の同展ですが、開祖前田利長、中興の祖前田利常に関する宝物、同市の瑞龍寺と勝興寺の宝物が一堂に会する貴重な展覧会です。今日は一番乗りで展示を見ました。
数年前の石川県立歴史博物館で開催された「瑞龍寺展」には行かず、今年春の「勝興寺展」にも行けなかった私でも、この展覧会でほとんどの重要な宝物は見れたと思います。図録ではなかなか感じられない本物の輝きを十分に堪能してきました。
続けて訪れたのは富山県埋蔵文化財センターです。同館では現在、特別展「前田の時代と城」を開催中です。
越中の城を中心に、富山城の絵図、高岡城、増山城、森寺城の模型、そして、安土城、小丸城、金沢城、富山城、増山城、放生津城、弓庄城、松倉城、春日山城、末森城、白鳥城の発掘遺物が展示されています。非常に充実した展示ですが、なんと無料で見る事ができますよ。
展示室の入口は富山城の石垣の写真が出迎えてくれます。虎口風になっており、城跡へ入るような雰囲気を感じることができます。ちなみに中は撮影禁止です。
時間がありましたので隣の富山県公文書館に入りました。こちらも展示は無料です。
同館では企画展「近世越中産物の世界」というテーマで、加賀藩・富山藩領で名物として奨励された特産品を紹介していました。
日本全国に知られた「加賀笠(菅笠)」が旧福岡町近郊(現高岡市)で栽培されていた原料を使っていたという事実を始めて知りました。思いのほか興味深い展示で新しい知見を得ることができました。
さて、今日第二の目的は、富山県立図書館で開催される記念講演会でした。
開演30分より前に受付に行ったらまだ準備中でした。
特別展「前田の時代と城」を記念した講演会で、「城が語る天下統一」というテーマで奈良大学の千田教授が講師でした。100名余りの参加者の前で軽快な話を楽しみました。
織豊系城郭研究では第一人者である千田氏ですが、静岡大学の小和田教授といい、この分野の第一人者は話上手で大学教授らしからぬ?方々ですね。
今日の話のなかでは千田氏の安土城定説の反論がとても興味深い話でした。
・大手道の道筋のこと
・本丸御殿の建物のこと
・本丸天守台と天守の構造のこと
これまた知見の広がる話でした。そういえば、千田氏も今回の特別展の展示内容については大絶賛でしたよ。
投稿者: Tadashi
金沢城 丑寅櫓跡
本丸東側にあり、兼六園に面する櫓台が丑寅櫓跡です。
普段はあまり観光客が来ない場所ですが、
ここからは天気がよければ、医王山系の山々や石切り場である戸室山が見えます。
それでは城らしい見所を紹介します。櫓台なので、隅石に柱穴が見られます。
こちらは北西
そして北東
百間堀に面する南東には3石連続で柱穴があります。
最後の南西は櫓台整備のためか柱穴はありません。
と思ったら、櫓台の上に並んでいる1石に柱穴を見つけました。
今度行ったときはじっくりと鑑賞してくださいね。
金沢城河北門復元 あまり変化はないですが
先日二の丸で仮設中だった施設は、今週開催のおしゃれメッセ2009の会場だったようです。
土曜日の今日は河北門からは金槌の音が響いていました。
ふと、見学台への通路から覗き込むと、二ノ門の下に入れる新しい雨水溝が用意されています。
ここに入る溝ですよ。
今は二ノ門も中の工事をしているので、見学台から見ても何も変わりがありませんが、先日の見学会の南側の大鬼が屋根に乗っています。
敷地内の作業所では今も木材を削る音がしていました。
金沢城いもり堀 久しぶりに工事見学
いもり堀前では歩道の整備が始まりました。
土曜日の今日は工事をしています。久しぶりに工事の様子を見学できました。
ちょうど最上段近くの石を据える作業中です。
北側では石を削っていました。
重心が定まらないのか何度も石を削っています。1つ積むにも時間がかかります。
ふと見ると、北面の石垣で1つ飛び出た石があります。すでに最上段に達したと思っていた北面はこの石が最上段になります。よく見るとうっすらと糸が見えます。
別の場所では石を測量しているようです。
見ていると、大きな定規で石の幅を測っています。
それを黒板に書いて写真を撮ります。
足場に当たる石の欠片の音がしました。よく見ると、堀底には削られた石片が散らばっています。が、ここで削られているのは新しく追加された石だけです。古い石はそのまま利用されます。
雨が少し当たってきましたので近くの美術館に避難します。美術館から出てくると、空はすっかり青空でした。
雨の間工事も中断していたようですが、ぐるっと回って辰巳櫓まで来たときには再開していました。
もう少し櫓台をズームアップ!
もう地上からは工事の様子が見にくいですが、上からはよく見えます。
先ほどとは別の石を積んで調整しています。
隣りでは先ほどの石の測量が進められています。
その場で調整するのが難しかったのか、一度外されました。
もう一度戻されましたが、まだうまくいかないようです。5分ほど見学していましたが、ここに来て10分以上誰も来なかった辰巳櫓にも観光客が来たので退散です。
こうしてみると、辰巳櫓からは鯉喉櫓台向こうにいもり堀が見えません。やはり道路の影響で堀幅が狭くなったことが原因で上からの景観はいまいちのようです。
熊本城 城主手形来る!
久しぶりに熊本市から郵便が届いたので何かな?と思ったら
「熊本城主手形」が入っていました。
一年間の有効期限で
1.熊本市が管理する13の有料施設へ無料入場
2.熊本県物産館、熊本城内売店、動植物園売店での5%割引
3.城主手形協賛店での特典
という内容です。
寄付をして一口城主になったのは、もう3年も前になりますので、熊本市の熊本城復元にかける思いは並々ならぬものですね。
現在は第二期復元事業に入り、今後も建物の建造が進むのは楽しみですが、また余裕があれば寄付したいと思わせる特典ですね。
熊本城復元募金 新「一口城主制度」
堅田城 石川県の城館
探訪会で疲れましたが、まだ明るいということでいつか行きたいと思っていた堅田城跡に登ってきました。
山側環状のトンネルのあるいずれの山だとは聞いていたのですが、森本トンネルの頂上でした。
堅田城は北陸道・小原越といった主要道や森下川・河北潟・日本海といった水上交通の要衝に立地する中世山城であり、麓の堅田B遺跡(山側環状の工事で発掘調査が行われ、現在は道路の下)からは鎌倉時代の館跡が見つかっています。
森本ICを下り、市街方向から医王病院を越えると案内板がありました。
麓に立つ看板を見ると、ここ墓地側と少し先の神社裏から登山道が整備されているようです。別のホームページではもう1本あるようなことを書いてありましたが、ここには記載がありません。
墓参の方用に砂利の駐車場がありましたので車を停めて登ります。麓から400メートル。15分ほどのちょうどよい距離です。
半分の200メートル進むと、けもの道になりました。3年ほどまえに整備され、竹が伐採されましたが、未だにその根元が残っていて気をつけないとつまずいてしまいます。
主郭に到着すると思いのほか広いですね。
主郭西側に見張り台とも思える小山があり、そこからは日本海、河北潟が一望できます。
主郭南側にまわると北陸道森本ICがよく見えます。
主郭の東側には一段低い郭があり、神社裏から登ってくる道があります。平地として整備されているのは主郭と東側の郭です。西側にも郭がありますが、木々に囲まれている影響もあるのか草も生え放題でした。
主郭の北側には2列の畝状竪堀を見ることができます。ちょっと分かりにくいです。
主郭の西側にまわりこむと、そこには大規模な畝状竪堀がありました。
こんな近所で大規模な畝状竪堀が見れるとは・・・感動です。
これだけ良好に遺構が残っているのだから、もっと有名になってもいいと思うのですが・・・
金沢城、七尾城、鳥越城、小松城、大聖寺城・・・・他の城は残念ながらいまいち知名度がありません。
夕方に登ったのには理由がありました。もしかしたら夜景がきれいかな?と思っていたのです。数十分で空が赤くなってきました。
金沢市街の方角は木々で隠れてしまっています。隙間からなんとか県庁が見えますが、夜景が一番きれいな方角なので勿体無いですね。
森本ICにできる光の列がきれいです。もっと暗いときれいなのですが、懐中電灯を持参していませんし、足元が見える間に麓に下ります。熊の目撃情報はないようですが、カモシカが出るようですし。
かなり低くなってから視界が開けていました。医王病院の向こうに市街が見えます。暗いと足元の竹の切り株につまずきそうで恐いですが、整備すれば卯辰山に負けない夜景スポットになりますね。
惣構跡探訪会(東内・外惣構)
金沢歴史遺産探訪月間が昨日から今年も始まりました。探訪会、文化財公開、伝統芸能披露と多くのイベントが開催されます。
今日は、惣構跡探訪会に参加しました。昨年第一回として西内・外惣構跡探訪会が開催され、今年は東内・外惣構跡探訪会が開催されます。
今まで惣構の探訪会は西惣構が中心だったので、東で開催されるのは今回が初めてではないでしょうか。講師は惣構跡探訪ではすっかりお馴染みになりました、金沢工業大学の増田教授です。
2年続けての参加が多いものと思っていましたが、数人だったのが意外でした。
集合場所であった金沢市庁舎南分室で講義を受けてから出発です。
東外惣構の見所はやはりその始点になる兼六園内の山崎山ですね。
早速、出発して県立美術館裏の階段を上り、小立野口から兼六園内に、山崎山で初めの解説です。
喰違虎口の一部であった山崎山は土塁の一部であり、古木が多く樹生するあたりが言われてみると庭園とは異なる趣に見えます。
そこから八坂を下り、路地に入ります。東外惣構が流れ落ちる道筋は非常に少なくなっているのですが、写真の中央の用水は新しいものです。右側からこの用水に合流している溝が惣構堀の名残りだということでした。
そこからすぐ近くの駐車場に土盛りが残っていますが、これが土居の跡ではないかと思われるのですが、民有地のため保存が難しいそうです。貴重な文化財ではありますが、一般生活との両立ができないのは残念なことです。
そして、材二親和会童志園は敷地が惣構堀、向こうの壁が土居の高さを示しており、痕跡は全くありませんが、その大きさのよく分かる場所です。
途中、旧成瀬家邸の立派な石垣を横目に、常福寺をぐるりと回ります。常福寺の敷地は一段高くなっており、その敷地に添って惣構は流れていきます。
ここで予定コースは横山町に入るのですが、賢坂辻を曲がり、東内惣構へ向かいました。
内惣構は小将町中学校の前から始まり、味噌蔵町小学校に向かって下ります。小学校前でみんなが覗き込んでいるのは・・・・
惣構が道路下を通り、流れてくる惣構堀跡です。ここでほぼ直角に右に折れます。
ここから入ったことのないような細い路地に入りましたが、惣構堀と土居との落差がよくわかる場所でした。
味噌蔵町交差点から斜めに入り、寺島蔵人邸の1本南側の道を歩きました。ここが惣構の内側の道、内道の跡です。1本北側の道路(寺島蔵人邸前)とは確かに落差があります。
また、個人宅に残る松の木は打道の幅を示しているそうで、興味深いですね。
枯木橋で惣構の深さを実感し、
最終地点は東内惣構堀枯木橋詰遺構です。皆さん最後まで真剣に話を聞いていましたね。
来年も開催されるか分かりませんが楽しみにしています。
鯉喉櫓台はついに最上段へ
先週見学会の開催されたばかりの鯉喉櫓台ですが、
先週高く積まれていた裏込石もわずかばかりとなりました。
北面の石垣もほぼ最上段まで積まれました。
南面も最上段まで積まれましたが、上部の裏込石の上はまだ整備が始まっていません。
楽しみはこの周りを取り囲む足場がいつ外されるかですね。
金沢城玉泉院丸 台風に備えて
玉泉院丸の発掘現場は先日の台風に備えて、いつもよりブルーシートの重しの数が多い。
今年度は現場説明会はないのかな?いつも変わり映えしない風景です。
金沢城河北門寄進 第四回記名会
今日は金沢城・兼六園大茶会が三の丸で開催されているが、他に第四回記名会も開催されていた。
この行事も宣伝が全く無いのはいかがなものか?夕方のニュースには流れていたけど、今回で河北門寄進に関する記名会も最後となり、次回は橋爪門なのかな?
見学現場も変わり映えしないなーと思っていたら、
二の門とニラミ櫓台をつなぐ土塀の壁はいつの間にか漆喰が塗り込められているではないか!
記名会場となった五十間長屋の前には何かのイベント用の会場設営が着々と進められている。何のイベントでしょうね。
富山城正門 石垣を確認
富山市は5日、同市の大手モールで、江戸期の富山城正門である「大手門」の石垣の一部を確認したと発表した。遺構として確認されたのは初めて。
大手門の石垣の一部は、大手モールと総曲輪通りの交差点の北側約10メートル地点で確認された。路面電車環状線化の工事に伴い市が大手モールを掘削したところ、昨年9月から今年7月にかけ、地下約90センチに石垣の一部が計4ヵ所で見つかった。
このうち、大手モールの西側からは、幅約3.2メートル、高さ2メートルにわたり4段分の石が検出。石は水平にそろえる「布積み」という積み方で、富山藩初期の1660年ごろに積まれたものとみられる。(北國新聞2009年10月6日付記事より)
二曲城 石川県の城館
白山市鳥越の一向一揆歴史館の背後の山が二曲城跡です。
現在一向一揆歴史館では、平成16年より史跡整備のために進められてきた二曲城跡発掘調査の成果を展示する企画展が年内開催されています。
二曲城は鳥越城の支城のひとつですが、鳥越城ほど有名ではありません。しかしながら、鳥越城とセットで国史跡に登録されています。(どれほどの人がこの事実を知っているのか?)
小さな山城なのでサッと見ても小1時間はかかりません。
まずは入ってすぐに虎口にあたる土塁に突き当たります。
その土塁の背後にはため池が残っています。
さらにそのまま谷あいを進むと、土嚢の積まれた土塁に突き当たりますが、この場所で石積みが見つかっています。また、手前には空堀が見つかっています。
本丸には小さな祠が建てられています。眼前には鳥越城が望めます。
本丸からは鳥越城方面や白山方面が望め、手取川の悠々と流れています。空が晴れていれば白山も見えます。
里に近いのでクマは出ないようですが、蛇には遭遇しますよ。気を付けて下さい!
二曲城は古文献に多く記載が残っていますが、その一部は鳥越城だと考えられています。近くの殿様屋敷は二曲城の根小屋と推測され、平時の館と戦時の山城という対で機能していたと考えられます。
殿様屋敷 石川県の城館
白山市鳥越の一向一揆歴史館の裏に殿様屋敷跡と呼ばれる場所があります。
道路から2メートルほど高くなっている高台は、現在大部分が畑となっています。
隣接する八幡神社の境内は
さらに高くなっていますが、平坦地はかなりの広さです。
上段と下段の一部は墓地や参道として一部破壊されていますが、屋敷範囲は見てとれます。
当地は在地土豪の二曲左京進、または鈴木出羽守の子である鈴木左京進の屋敷跡と推測されています。
岩倉城 石川県の城館
小松市から白山市鳥越に入る道路沿いに岩倉城があります。
道路沿いに案内板がありましたので登ってきました。後ろに見えるのが岩倉山です。
案内板の道路の向こう側に遊歩道への入口がありますが、案内板側からは見にくいですね。
岩倉山は杉の木で覆われています。
軽自動車も通れる幅の遊歩道を進むと、途中に案内板がありました。ここから40分程度で頂上のようです。
少し進むと「おうめ地蔵」がありました。案内板がなく由来はよくわかりませんが
和やかなお顔の地蔵様です。
しばらく行くと、車道幅の遊歩道は切れ、けもの道幅の登山道となりました。後で考えるとここから頂上まで40分だったようです。
数10メートル登ると、「さむらい道」右という石碑がありました。道は上にも続いていますが、石碑に沿って右に曲がります。
遊歩道とは違う元々の登山道のようです。非常に雰囲気にある道でしたが、ずっと下っていきます。
遊歩道も登ってわずかに下がる場所もあったので、いずれ登ると思っていましたが、約10分やはり下っているので、これでは麓に着いてしまうと思い引き返しました。
戻ってみると、先の木に城址の矢印が逆になっているではないですか!
気を取り直して登ります。この山の地肌は基本的に岩のようです。それが山の名前の由来かもしれませんが、雨の日や大雨の後だと登山道は滑りやすくとても登れそうにはありません。登山道は完全に雨の通り道となっていて、長年表面を削られています。
登っていくと、「馬かけ馬場」に出ました。
案内板には「眺望良好」と書かれた場所で、朽ちた看板が下に横たわっています。
しかし、現在はこんな状態・・・・。本来であれば麓の集落や道路が見渡せるはずであったのですが、杉木が成長しすぎです。城跡が整備されたのが今から20年ほど前になるようで、20年も経てば杉も大きくなりますね。
さらに進むと大きく開けた平地に出ました。
ここは「米左衛門屋敷跡」です。岩倉城は加賀一向宗が越前の朝倉氏に対抗した築城した山城で、最初の城主が沢米左衛門と伝えられています。
屋敷跡の本丸側出口には「米左衛門地蔵」がありました。
さらに進むと、「岩倉城址」が左側、「岩倉観音」が右側の分かれ道に出ました。
時間も足りなくなっていたので「岩倉城址」に進みます。虎口らしい部分に入ると小さな平地に出ました。そこが「変形馬出」となります。写真中央付近が入口の虎口、その向こうに本丸の土塁と帯郭が見えます。
この変形馬出から本丸に入る枡形虎口が一揆勢方の大手口となります。織田方に奪われた後は搦手口となりました。
本丸は非常に広い郭です。回りに土塁が巡っています。良好に土塁が残っていますが、やはり眺望がきかないのが山城としては非常に残念です。
「一向一揆古戦場」の木碑とともに案内板が設置されています。
案内板を見ると、この本丸を中心に非常に多くの郭が残っているようです。
本丸から平入虎口を出ると、
そこは角馬出と
本丸帯郭を伴う二の丸となります。平入虎口は一揆方の搦手口、織田方になって大手口となりました。
二の丸の先には三の丸が広がります。
その北側には空堀を兼ねる登山となっていますが、こちらは整備されておらず、先の道が全くわからなくなっています。
本丸に戻ると、東口の近くに、投げ石が残っていました。一揆方が500年前に運び込んだものと思われます。
東口をまっすぐ下りてしまうと腰郭に出てしまいましたが、少し戻って下りると岩倉観音に出ました。この観音がある場所は大きな帯郭となっています。
あまり清掃はされていないようですが・・・
中には石造の千手観音様、狛犬が大事に保管されていました。
戻る途中、水が流れる小さな橋を渡ると、
「清水地蔵」が祀られていました。
麓まで下りてくると、案内板をもう一度見ました。どうも二の丸の位置が違うようです。二の丸の指している場所は角馬出であり、白い帯郭の部分が二の丸としたほうが適切なようです。
調度案内板の前に駐車していたところで、そのお宅のご年配と話をする機会がありました。
この集落は17軒しかないようです。集落の人間もめったに登らない山に登る人が珍しかったようですが、良好に残る山城の特徴は県内随一です。そんな山城が宣伝もされずに埋れているのは確かに勿体無いですが、そのおかげで未だにここまで残っているのも確かですね。以前三重県などからも登るために来たとか!これだけの遺構が残っていれば遠方から来ても一見の価値はありますね。
織田方との争いの時代になると、鳥越城の支城として街道を監視する役割を担った岩倉城は、本城の鳥越城と近郊の二曲城が国史跡になったにもかかわらず、自治体が違うというだけで文化財指定もないようです(市指定ぐらいにはなっているのかな?)。
この辺りではよくイノシシが出るそうです。つい最近もそこの山に出たそうです(遊歩道の途中にオリがあった)が、クマは最近でないようです。一昔は鹿もいたそうですが、移動して今はいなくなったとのことですが、今日は何にも会わなくて良かったです。
第4回金沢城河北門現場見学会
今日は雨天を覚悟していたのですが、晴れました。うれしいです。
金沢城三の丸では「金沢城まつり2009」を開催中でした。
といっても宣伝は地元新聞の今朝の記事これだけ。城内でもチラシや立て看板は他に見当たらず、力が入っているのかどうか?観光客も少なく、主催者がかわいそうでした。
最初は忍者ショー!
立ち回りもしていましたが・・・・
途中から大道芸になってしまいました。観客の子供も巻き込んで・・・この辺りはさすがです。
昼からは殿と腰元のマジックショー。なぜこの格好なのか不思議ですが、腰元たちの本格的マジックの合間に、殿のコミカルな手品(ここはあえてマジックとは言わないでおきます)が笑いを誘っていました。最後のイリュージョンで、催眠術で浮いているところは新聞社記者も写真を撮っていました。
間近で見てもタネが分りませんでした。なかなかのものでしたよ。
さて、本日は第4回金沢城河北門現場見学会でした。1時間前の受付開始から大勢の方がやってきます。
今回は地元新聞での広報は見かけなかったですが、今までの参加者に直接案内した効果なのか、始まってみれば150名も大人数!驚きです。
2班に分かれて自分は鯉喉櫓班に行きました。さらにここで2班に分かれます。
足場を渡って間近に石垣を見る機会を得ました。
何度か聞いたことのある説明でしたが、石は前面より後ろに長い牛蒡石で、隣りの石とはわずかに隙間を作ります。これは石が重力で割れるのを防ぐためで、石の中程に接点を持たせています。さらに、この接点は下の二つの石にかかるように乗せるという石積みのセオリーのようなものだそうです。
その後は石加工の現場説明です。今回は大きな隅石の加工風景でした。
最後の仕上げ工程、専門用語では「石をはつる」と言います。
手前の小柄が男性が、金沢の名石工として有名な明地兄弟だと今日始めて知りました。
河北門南石垣台を古写真どおりに積むために、この兄弟無しには為しえなかったであろうと言われる有名人だったとは・・・今までの見学会でも何度もお目にかかっていたのに、全く気付きませんでしたよ。
見学現場では石工の道具も並んでいました。
今日の見学会で判明したことをいくつか
1.鯉喉櫓台の北側は土盛りがされ、北面から櫓台に上る階段がつきます。櫓台上からいもり堀を・・・というアングルで写真が撮れます。
2.元のいもり堀は道路を挟んで対面まで渡る広いものであるので、今回の堀底は本来の堀底から数メートル上になります。そのため、復元鯉喉櫓台は9.3メートル(藩政期石垣4.5メートル、復元石垣4.8メートル)の高さになりますが、藩政期石垣はさらに下に5メートル弱ほど埋まっているのです。つまり、元々9メートルほどの石垣が残っているのですね。
3.鯉喉櫓台の復元石垣部分は裏込めに石ばかりを詰めています。見学前の最大の疑問であったこの事を質問してきました。結論は、石ばかりを詰めたほうが水はけだけでなく、強度も強いそうです。土盛りより強度が強いとは意外でしたね。こうなると、最後の関心は上面をどう仕上げるのかですね。
次に河北門に移動しました。
ここでもやはり2班に分かれて、まずは大鬼の見学です。人と比較してもその巨大さがわかります。総重量140キロ!
継ぎ目は錫をまぜたハンダでしっかり水漏れを防いでいます。
中の木型は空洞も多く、総重量の軽量化に役立っています。
大鬼には前田家の家紋である剣梅鉢紋がついています。
次に市民としては工事中初めて一の門をくぐり、海鼠塀の目地漆喰仕上げ工程の見学です。
鉛製の平瓦はステンレス製の釘で上下2箇所ずつ固定されているそうです。釘は漆喰の目地の下になります。
以前は鉄釘を使用していたそうで、錆びにより釘が膨張して抜けにくくなる反面、頭の錆びが目地漆喰のヒビの原因ともなるため、今回はステンレス製を使用しています。
職人さんが小さな小手で何度も丁寧に丁寧に目地漆喰を仕上げています。
きれいな海鼠を作るための根気の要る仕事ですね。
海鼠塀の裏には真新しい狭間が見えます。
二の門の石垣東面では地面が掘り起こされ、雨樋となる溝が出ていました。これから溝の復元にかかるのでしょうね。
さて、最後に二の門に上りました。
ちょうど大鬼の取り付け作業を見せていただけました。今日見た大鬼は反対方角に取り付けられます。
足場でこうやって二の門を外側から見る事ができるのもあとわずかです。というのも、12月にはこの足場が取り外されるそうです。囲いも外されるそうですが、春になってからのほうがよいのでは?と素人は思うのですが、何はともあれ年末には菱櫓を背景にした河北門の写真が撮れる?のかな
その直前の11月末に最後の現場見学会が開催される予定です。
ムラ直しの終わった二の門の壁は、漆喰塗り職人が20数名並んで一気に漆喰塗りされるそうで、次回見学会のときは真っ白の二の門を見る事ができるでしょう。
これで今日の予定はすべて終わりましたが、参加人数もあってか、すでに30分も時間オーバーしています。
が・・・今日はさらにオプション見学会が用意されていました。その石川門修復現場に向かいます。
出し部分で説明を受けます。こちらの出しでは石落としの板が外されていました。
太鼓塀北面の内側はムラ直しが終わり、漆喰塗りを待つばかりです。
東面の出しでは「出し柄振板」に付いた屋根跡について説明がありました。出し柄振板の役割は出し部分での太鼓塀の境目を隠すことですが、上部に残る屋根跡は、出しのほうが古いことを物語っていて、太鼓塀が後年の修復で元のものより低く作られたことが原因です。
東面でも漆喰塗りは今からですが、来年度は石川門南側太鼓塀に取り掛かるそうです。
今日は屋根瓦を敷く作業の真っ最中でした。
終わってみればすでに5時。1時間オーバーの見学会は充実したものでしたが、最終となる来月末、何人の参加者が押し寄せるでしょうか。
金沢城いもり堀 水はどこから来る
金沢城いもり堀、鯉喉櫓台の前ですが、堀の中にパイプが出ているのがわかるでしょうか?
このパイプはいもり堀への辰巳用水の取水口です。
道路を挟んだ旧金沢中警察署も整備中ですが、中央附近のマンホールの右側がいもり堀へ、左側が広坂通りの辰巳用水へ流れます。ここまで来る経路は石引通りから兼六園霞ヶ池、瓢池となっています。
藩政期の経路は霞ヶ池から百間堀、いもり堀でしたが、百間堀は今はないので、経路変更は致し方ありません。しかし、藩政期と同じ辰巳用水の水が入るのは喜ばしいことですね。
入水を今か今かと待ついもり堀ですが、水位は1.5メートル程度を予定していて、今芝生を植えている下の土手の附近まで水が張られるようです。
入水から満水までは3日ほど、意外に早いですね。それから数日後濁りが取れれば金沢城に新しい風景が出現します。来年春が楽しみですね。
鯉喉櫓の石積みはさらに進みました。
辰巳櫓から見ても進んでいますね。
今日の見学会では足場から間近に石垣を見る事ができました。ここは石が横一直線に並ぶ布積みという積み方です。
この鯉喉櫓の南面の石垣は隅石附近以外は石と石の間が大きく空いている部分もあります。石で埋めることが多いのですが、ここはそのまま。近くで見ると気になる穴も、遠くから眺めるとさも気にならないのだそうです。
いもり堀の発掘調査で見つかった石は加工されずにそのまま鯉喉櫓台に使用されています。
残り二段を残すのみとなった櫓台ですので、出番を待っていた石も少なくなりました。
なくなった区画からは囲いが撤去され、また以前の姿に戻りました。芝生の剥げた部分が年月を感じさせますね。
金沢城いもり堀 鯉喉櫓台はさらに進む
今日は天候も良かったですが、シルバーウィークの反動でしょうか?金沢市内の人出はいまひとつでしたね。
いもり堀の鯉喉櫓台工事は短期間で随分と進みました。
南面の堀も形になってきましたよ。
前面は歩道からはるかに高くなり、木枠からするとあと一段か二段でしょうか。
歩道に接する石垣は・・・細かいですね。他とは違って趣がないです。
背面の石垣も二段見えるようになりました。
積まれるのを待っていた石もなくなったグループも出始めました。すべての石がなくなるのも今しばらくですね。
金沢城 玉泉院丸に案内板が!
久しぶりに玉泉院丸の様子を見てきました。
到着してみると、ん!
新しく案内板が立てられていました。発掘調査中と書いてあるので、整備が始まったら替わるようですね。
相変わらずシートがかかっていて状況が全くわかりません。
以前の記事はこちら
安土城 滋賀県の城館
安土城は現在公開中の映画「火天の城」の影響で大勢の観光客が詰め掛けています。
平成20年度に20年にも及ぶ発掘調査を終えたばかりですが、安土城の全貌はまだまだ謎のままです。
安土城考古博物館から見る方角(南側)が大手となります。
こちらは城下町から見る(西側)安土城です。
意外とこの「安土城址」の石碑は知られていない存在なのかもしれません。日本100名城スタンプラリーの図柄にも採用されているのですが・・・
昨年から入山が有料となり、総見寺に近い西側から登る道からは入山できなくなりました。残念です。
観音寺城 滋賀県の城館
今日は山頂に登ったわけではありませんが、周辺からみる観音寺城を紹介します。
こちらは麓の安土城考古博物館からみた観音寺山(観音寺城)です。観音寺城には考古博物館から登る道が2本、桑実寺から登る道、観音正寺から登る道があります。桑実寺から登る道のみ入山料300円かかります。
こちらは安土城下町のセミナリヨ址に整備されたセミナリヨ史跡公園から見た観音寺城です。
こちらは常浜港舟入跡や木村城跡のある常浜公園から見た観音寺城です。