今日は辰巳櫓からみた鯉喉櫓台から始まります。櫓台上部には保護用のブルーシートが被せられました。これより冬に入りますので、完成まではこの状態が続きそうですね。
さて、鯉喉櫓の石垣工事のため分断されていた、いもり堀の堀底が完全につながりました。
今は櫓台前の歩道整備の真っ最中です。
広坂交差点から見ると、あんなに高い櫓台がこれだけしか見えていない・・・
なんだか残念です。
投稿者: Tadashi
二の門の囲いが外れている
今日は講演会参加のために市内にやってきました。金沢城に来てみると、二の門の仮屋根が外れている。ニラミ櫓はまだ動きありません。
二の門がきれいに見えるようになりましたが、真新しかった銅板は心なしかくすんでいるように見えます。これから一冬越しますので、鉛瓦や四隅の鉄板も風雨に晒されてどうなるでしょうか?
大きなクレーン車で囲いの鉄骨が外されたようですね。
先日修復工事の囲いが外された石川門の二の門です。
よく見ると、太鼓塀部分も囲いが外されているではないですか!
新しくなった支えの柱が塀と並行になって、金沢城では橋爪門に続く塀で見ることができますが、これだけ間隔が狭いところはないですから、石川門の辺りも雰囲気が変わりますね。
加賀藩・歴史文化護持協力会 第二回総会
広坂休憩館で加賀藩・歴史文化護持協力会の第二回総会が開催されました。
前回は2008年1月でしたが、発足を大々的にアピールするため、看板など外注制作費が予想以上にかかったらしく、今回は質素に行われました。今回も前田家ご当主の利裕氏を迎える予定でしたが、風邪の為、残念ながら急遽欠席となりました。
21年度の会員特典は「不破家文書」です。不破家関係文書375点の目録と一部翻刻が掲載されています。翻刻のボランティアの皆さんには利裕氏の花押入り感謝状が手渡されました。花押を入れた賞状は利裕氏も初めてだったそうです。
次年度は旧町名の記載された金沢古地図、または加賀藩の治めた加越能のうち、古文書研究の比較的進んでいない富山呉西地区の藩政期文書について研究を進めたいということでした。古地図については藩政期のものでも100点以上残っているそうですが、地区により差別用語が書かれており、発行に当たっては非常に難しい課題を含んでいるそうです。いろいろな意見を持った人がいるけど、自分はそのまま復元してほしいですね。
講演会では、初めに今回の不破家文書をご提供いただいた不和一氏により、不破家の由緒について話がありました。
稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の美濃三人集は有名ですが、不破光治はこの3人とともに西美濃四人衆と言われたそうです。織田信長に従った後は、前田利家、佐々成政とともに柴田勝家与力として府中三人衆となりましたが、その事蹟については今まで不明な点が多かったですね。
今日の話を聞いたところによると、不破家は合戦の第一線で働くというよりは、他家との交渉事を円滑に進める役割を与えられていたようです。
最後に、今回不破家文書の翻刻を監修された屋敷道明氏により、「不破家文書に因んで」というテーマで、今回発行された「不破家文書」の翻刻について解説がありました。
今年春に地元新聞で記事になった「府中三人衆連署扶持宛行状」ですが、火打村の赤座殿に対し、56石の扶持を与えるという文書で、たった56石に3人で連署しています。連署の順は、不破光治、前田利家、佐々成政です。当時3人は勝家与力として、それぞれ、龍門寺城、府中城、小丸城に在城していましたが、10万石を3等分していたという通説どおりであれば、たった56石に3人で連署しないであろう、ということで、裏返せば独立した権限を持っていなかったと考えられるということです。残念なのは、3人連署の書状が確認できるもので2通しかなく、もっと見つかれば確証が持てるということでした。
会では今年も会員募集を続けているということです。入会のお問い合わせは、TEL 076-263-2323(加賀藩・歴史文化護持協力会)まで。
以前の記事はこちらから
金沢城いもり堀 着々と
辰巳櫓台から見た鯉喉櫓です。
柵と植樹はほぼ終わり、歩道の整備中です。
鯉喉櫓前の堀ののり面もきれいになりました。
来年にはここに水が入ります。
このいもり堀を望む展望台の機能も果たす、旧石川県庁の北ブロックですが、ガラス張りの新しい姿が少しずつ見えてきました。
金沢城河北門 仮屋の壁が外されたら
先月末の最終見学会を終え、今週から工事用仮屋の解体が始まりました。先週末はまだ紅葉真っ盛りでしたが、ここ数日の大雨でほとんど散ってしまいました。
二の門の仮屋の壁は外され、鉄骨の間から見えるようになりました。
一の門は上だけ外されているのは先週と同じです。ニラミ櫓台がまだ仮屋のままであり、中が見えません。
前から見てその大きさがようやく実感できるようになりました。石川門よりひとまわり大きいと聞いていましたが、こうして見るとやはり大きいですね。
と、石川門を見ると、こちらの工事用仮屋も外され、修復工事で塗り替えられた漆喰の白壁がまぶしいですね。
二の門以外はまだまだ仮屋のままです。
鉄骨になって景色も随分変わりました。
丑寅櫓台から見た三の丸です。来春にはこの景色もがらりと変わりますね。
金沢城河北門工事第5回見学会
金沢城河北門工事の第5回見学会が開催されました。
この工事用上屋の景色も見納めです。そう今回の見学会は足場に上って間近に見学できる最後の見学会なのです。
こちらに設置されていた見学台も
16日に撤去されてしまいました。
今回は予約もいらず、順番に中に入るということで30分ほど遅れてきましたが、まだ待っている人がいますね。
中に入ると雨溝の工事が始まっていました。
今回の解説場所は3箇所。一階二の門前、二階一の門横、三階二の門屋根前です。
一階では木工事の解説が主に行われました。
二の門入口は今はまだ木がむき出しですが、上屋が外されたあと鉄板が張られて見えなくなります。
二階の内部では床を張る工事が進められていました。
一の門の横で鉛瓦葺きの解説がされました。
三階では漆喰塗りの解説がされました。
二の門の大屋根には金具みたいなものが取り付けられていました。避雷針だそうです。
丸瓦には前田家の家紋がずらりと並んでいますが、鬼瓦の家紋は少し違います。加賀前田家の家紋は剣梅鉢紋で「剣」がついています。鬼瓦の家紋は剣付きです。
二の門のこの広い面は10数人の左官が並び、一日で漆喰を仕上げました。本当にきれいですね。
出てくるともう誰も並んでいませんでした。自分の次の組が最後の組のようです。
今回は河北門のみです。来週には二の門の上屋が解体されるということで来週も出かけましょうか。
今回で現場見学会は終了ですが、来年3月の完成時には何か式典やイベントはあるでしょうか?楽しみですね。
一の門はすでに上屋が外されています。こうして見えるようになると石川門よりも大きいですね。
新丸から河北門に入る坂沿いは紅葉真っ盛りです。来年には最高の撮影スポットになりますよ。これまた楽しみですね。
玉泉院丸は秋真っ盛り!
今日の地元新聞には玉泉院丸の記事が載っていました。
別件で来たものの、折角来たからには寄っていかないわけにはいかない!
発掘現場はブルーシートがかけられたままです。
石垣と色付いた紅葉の組み合わせが最高に秋!って感じでしょ
金沢城いもり堀 水堀化へいよいよ工事進む
本日の金沢城いもり堀の鯉喉櫓です。
先々週すっかり出来上がっていた石垣を・・・
北部分を覆い隠す土の山!
勿体無い話ですが、整備上は仕方がないこと。こちら側に櫓台に上る道がつきます。
南側では工事用道路で分断されていた堀の工事がついに始まりました。
辰巳用水の水を引き込む管も傾斜に添ってきれいに切られています。
南側も堀の東側の傾斜によって少し下の部分が隠れてしまいました。
堀がつながる日も近いですね。
堀のまわりには植樹と柵の設置が着々と進んでいます。
金沢城 惣構堀にフタ?
ここは金沢城下、東外惣構堀の標柱前です。
この辺りの堀跡は非常に細くなっており、溝と見間違うばかりなのですが、今日は少し雰囲気が違いました。
その原因は堀に覆うこの鉄製のフタです。こんなの前はなかったはず?ですが・・・・
冬の間だけ雪で水路が詰まらないように被せられたものなのか?恒久的なものなのか?
金沢城 玉泉院丸現地説明会
県体育館が撤去されて発掘調査が進められていた玉泉院丸跡ですが、今週から見学コースが設置されました。といっても発掘現場は遠くから眺めるだけですが・・・
まだ30分前でしたが、早くも人が集まってきていました。朝から雨が降っていたので、設置されたテント内には見つかった遺物が展示されていましたが、城内として厳重管理されていた池だったのであまり数は多くないようです。
金沢調査研究所の木越副所長の挨拶で始まった頃には150名近い人が集まっていました。研究所による発掘調査の始まった90年代末に比べれば市民の関心も非常に高まっていますね。
続けて富田氏による調査の概要説明です。
さて、2班に分かれて最初に紅葉橋奥の発掘調査地点に行きました。上から見ると非常に深い場所です。
下に降りて説明を聞きます。
この辺りは宝暦の大火の後に石垣のほとんどが積み直されていて、その時代の土層があります。
石垣も表面の削り方が全く違うので、積み直し部分がよくわかりますね。
次に中島にかかる地点に入りました。杭は打たれているものの不安定でなかなか足場が恐い場所でした。上から眺めるとその底までの高さに驚きます。中島の高さの現在の地表面からすると随分低い位置にあります。
中島の対岸は裏込石と州浜が見つかりましたが、石垣の石自体は抜き取られていました。しかし、最下段の石垣の下の胴木として使われた木材がそのまま残っており、保存状態も思ったよりいいようです。
中島の上の土層からは明治期に軍隊が畑地として使用したときの畝も見つかっており、近代遺産としても貴重な場所のようです。
最後に出島にかかる地点に行きました。
ここは出島の対岸から一段のみながら石垣も見つかり、ちょうど石垣が切れる北端部を検出していました。州浜もきれいに残っていますね。
前日の新聞報道にもあった出島の先端で見つかった「景石」です。玉泉院丸庭園は回遊式庭園なので、歩いているときの景観ポイントとしてこの石も利用されたことでしょう。
この石には穿孔貝の痕が残り、海岸からここまで運ばれた証拠ということで、県内では富来辺りで取れるそうです。
予想以上の成果が出ている玉泉院丸ですが、新幹線には間に合わないけどぜひとも庭園を復元してほしいですね。
金沢城いもり堀 鯉喉櫓台
鯉喉櫓台は今週まわりにあった足場が外されました。
こうなると写真映りもいいですね。正面から見ると、埋れていた旧石垣部分と積み直した新石垣部分が、今はくっきりとわかる状態です。
藩政期は青戸室のほうが硬かったそうですが、今取れるのは赤戸室のほうが硬いため、昔のものは黒く、今のものは赤いものが目立ちます。数年経てば今よりは目立たなくなるでしょうが。
今朝の土砂降りで堀復元部分には水が溜まり、完成を先取りして水堀のようにも見えます。
堀の南側は土塁となっていますが、そのままかと思ったら木材を運んでいる?
ちょうど作業中であった作業員の方に尋ねると、柵を作るようです。やはり落ちる人が心配ですか?
金沢城河北門の外工事は完了間近!
金沢城河北門復元現場です。工事用仮屋が建てられてから長くなりましたのでこの風景も見慣れました。
合間から見える二の門の壁はすっかり真っ白の漆喰が塗られています。
見学台から見える壁も真っ白になりました。
今日は見学台も人は少なかったですが、帰ってきてから明日でこの見学台がなくなることを知りました。タイミング的にもちょうど最後に入れたので幸運でした。
見学台からみる工事用仮屋もこれが見納めです。仮屋自身が今月末の現場説明会を最後に、来月から解体が始まります。いよいよ平成の築城第二期も大詰めです。菱櫓前に建つ大手門が見られるのも間近ですから楽しみですね。
加賀藩土清水塩硝蔵跡現地説明会 金沢歴史遺産探訪月間
金沢歴史遺産探訪月間の最終週のイベントである加賀藩土清水塩硝蔵跡の現地説明会に参加してきました。
今日は朝から時折土砂降りとなるような荒天でしたが、地元の方中心に50人ほどの人が集まりました。
今は果樹園となっている一帯に塩硝蔵の中心的建物であった「御土蔵」「干場」、そして今回発掘調査の行なわれた「搗蔵」がありました。
一段高くなっている場所には辰巳用水が流れ、脇の遊歩道から「搗蔵」、その向こうに昨年度まで発掘調査が行われた「御土蔵」が見えます。
2棟並んで建っていた御土蔵の1棟にはロープが張られ、その大きさがよくわかるようになっていました。
敷地内に立てられた現場事務所でまずは解説を聞きました。
事務所内には昨年度までの発掘調査で見つかった瓦が展示されていました。
前田家の梅鉢紋の付いた平瓦は市内では金沢城とここ塩硝蔵のみ見つかっています。それだけ重要な施設であった証でしょう。
大雨の中3本のトレンチのうちの1本で新聞報道もされた搗蔵の説明を受けます。
2列の石列の間が水路の跡です。
すぐ脇を流れる辰巳用水は、搗蔵の直前で北側に少し曲がっています。これは搗蔵に引き込む水路がもう1本あったからで、今回発見された水路がその経路ということになります。
円形集石遺構も見つかり、搗臼が置かれた跡ではないかと見られています。
加賀藩土清水塩硝蔵は「三品搗蔵」「調合所」「役所」など重要施設がすでに民有地の下になっていて発掘の困難な状況ですが、現状を保存し、史跡指定を目指すことで、将来に残っていけばいいなと思います。
以前の記事はこちら
金沢城河北門復元 漆喰塗りは今!
朝は雨が降っていましたが、昼からは天気は回復しました。
合間から覗く二の門は所々漆喰が塗られ白くなっています。
まずは軒下、そして壁となるようですが、隅木は後になるようですね。
窓の部分も部分的に漆喰が塗られていますが、ここからはあっという間でしょうね。
真っ白になったら最後の現地説明会があります。
二の門を間近に見られる最後のチャンスですので楽しみです。
金沢城いもり堀 鯉喉櫓石積みほぼ完了
石垣の積み工事の行われていた鯉喉櫓台ですが、後ろの部分を残して前面部は完了したようです。
裏込め石を運ぶネットもようやく役目を終了です。
写真では足場があってわかりにくいですが・・・
上から見ると前面部は完成したことがよくわかります。来春にはこの辰巳櫓からの眺めが変わりますね。
安土城四百三十年 連続講座第四回「失われた安土城と残された安土城」
今日は天気の良い一日でした。
明日は金沢検定ながら勉強もそっちのけでやってきたのは、安土城考古博物館です。
9月に第3回講座に参加した「安土城四百三十年連続講座」の第四回講座が行われました。
今回のテーマは「失われた安土城と残された安土城 - 建造物から見た安土城」ということで、安土城に関連して残った建造物についてですが、知ってのとおり安土城天主は本能寺の変の後焼失しており、城内のほとんどの建造物も同時に失っています。そのあたりは礎石の配置から想像するしかないですね。
何が残っているかというと、安土山にあった総見寺の遺構です。現在も残るのは「三重塔」「仁王門」、そして超光寺に移築された「表門」(総見寺の裏門といわれる)の3つです。
現地見学は「旧総見寺跡」です。有料になってから初めて入りました。有料になるときの整備で崩れやすいところは石の合間などコンクリートで固めてしまったようで、以前来た印象とは随分変わり、廃城の趣きがなくなりました。
そうそう今回の参加者は前回よりも少なかったです。自分も前回初参加でしたが、6回の中で唯一の展示解説の前回は人気も高かったようです。
城跡に来て寺の説明でしたが、三重塔はバランスも良いですね。
今日も彦根のしょうぶ屋さんからキーホルダーをいただきました。2個目ゲットです!
それと、いつの間にか安土城前の駐車場が有料になっていました。車で行くと駐車場500円に入山料500円で1000円!とても城跡とは思えない料金ですね。
日本100名城スタンプラリー 岩村城
昨日に続いて今日は岩村城を訪れました。36個目のスタンプをゲットです!
本丸の南側の石垣は二段になっていますが、かなりの高石垣となっていて見ごたえあります。徒歩で歴史館から登ると最後に見る場所ですが、車で出丸跡から入ると、最初に見る場所です。岩村城には建物は残っていないので、石垣や井戸が見所となりますね。
歴史館から本丸まで登っても30分あれば到着しますので、日本三大山城と言われているわりにはあまり大変なことはありません。
スタンプは歴史館受付にあります。ほかに、城下町に2箇所設けられています。図柄は本丸北側の多段に積まれた扇石垣です。
天気が良い日ほど陰になる場所ですので、この日の最高の天候のもとでは写真はあまりうまく撮れませんでした。夕方であれば日があたって撮りやすいのかもしれません。
新城市設楽原歴史資料館と信玄塚
長篠城址史跡保存館で2館共通券を購入しましたので、新城市設楽原歴史資料館にやってきました。
当館では「京都奥平家菩提寺久昌院の長篠合戦障壁画」展をやっていました。
初めて見る障壁画でしたが、とても興味深いものでした。300円で図録も販売されていました。
歴史資料館の敷地内に信玄塚がありますが、観光案内にも書かれている塚はどこに・・・?
わからなかったので、歴史資料館の受付で教えてもらいました。
こちらが大塚と呼ばれる塚。
そしてこちらは小塚と呼ばれる塚。
2つの塚を合わせて信玄塚と呼ばれているそうです。織田・徳川連合軍と武田軍の間の設楽原合戦では1万6千人の戦死者があったと言われ、地元の方がねんごろに葬った2つの塚に当時亡くなっていた信玄の名が冠されたそうです。
日本100名城スタンプラリー 長篠城
日曜日と祝日の間の平日ですが、今日は休みをとりました。
豊川と宇連川の合流点に位置する長篠城はこうして、対岸の豊川にかかる橋から見るのが一番の絶景ですね。今日は天候も良かったので最高でした。
スタンプの図柄はこのアングルの長篠城と、長篠城の本丸址に入る場所にある土塁の上にある石碑を組み合わせたものです。
これがその石碑です。長篠城周辺は武田軍の陣砦跡や徳川軍の砦跡など多くの歴史スポットが整備されており、徒歩でまわると4時間から6時間ほどです。
さて、この長篠城が35個目となりました。
馬場美濃守信房の墓と蟻塚
大手門の近くに蟻塚があります。少し奥まった場所でわかりにくい場所ですが、蟻塚とは長篠合戦の多くの戦死者を埋めた場所で、のちに蟻が大量発生したので供養のために碑を立てて、蟻を封じこめたことに由来するようです。
附近には供養塔のようなものが多数あります。
大通りを挟んで、住宅地の奥を行くと、畑の真ん中に「馬場美濃守信房の墓」があります。
鳳来町指定史跡となっているこの地に、設楽原合戦の殿となった馬場信房の首が埋められていると伝えられているそうです。
武勇高き馬場美濃守に合掌