遠江の楔として「この城を制する者が遠江を制する」と云われた高天神城へ行ってきました。
最初、搦手口を通り過ぎ、大手口へ向かったはずが、どこで間違えたのか?結局搦手口より入りました。結果的に少し日影のある搦手口に車を停められたので良かったですが・・・
さて、ここからは総ルート3時間歩き通した探訪の記録です。
なんせ国史跡として郭も多い城ですので、写真点数も半端ない数となりました。
搦手口から入ると、すぐに「史跡 高天神城跡」の石碑が立っています。少し先の松の木のあたりが搦手門跡となります。
階段を上っていくと途中に三日月井戸があります。山城では井戸は生命線です。この井戸は壁から伏流水がしみ出ているようです。
搦手と大手の合流地点まで来て、まずは本丸方向から攻めることにしました。
本丸の一段下の的場曲輪です。
本丸には土塁が周囲に回っていたようですが、現在も北側、西側を中心に所々残っています。
本丸からの景色はあまり開けていなかったので、御前曲輪に移動しました。
ここからは東側の景色がよく見えます。
整備当時はここから三の丸へ下りる道があったようですが(三の丸側に看板が無造作に倒されていました)、現在は整備された階段ルートを遠回りしていきます。
御前曲輪の北側の土塁上に元天神社が建っています。案内板上は「元宮」となっている場所です。
三の丸に下りてきました。
ここは御前曲輪より数メートル下がりますが、眺望は開けています。
さらに下って大手門をめざします。途中、着到櫓跡がありました。
さらに下りて大手口駐車場まで行きましたが、こちらの入口は石碑がなく、旗が立てられていました。
大手口と搦手口を比べると、大手道は狭く山城の雰囲気を感じることができますが、搦手道は広く歩きやすかったですね。
戻ってまた上ります。着到櫓跡の数メートル下あたりが追手門(大手門)となります。
合流地点まで戻ってきて、井戸曲輪へ向かう前に南西方向へ下る道が
先にはトイレがありますが、
その先に広い曲輪がひとつありました。
戻って階段を上ると、そこが鐘曲輪です。
井戸曲輪は名のごとく城内最大の井戸があります。
高天神社へ上る前に、二の丸を見てきます。途中通路から搦手方向(北)がよく見えます。
二の丸です。
二の丸の一段下に袖曲輪が附属します。
袖曲輪下には本間八郎・丸尾修理の供養塔が立っています。
二の丸の袖曲輪と堂尾曲輪の間は大きな堀切となっています。
堂尾曲輪は北方向に突き出た尾根を利用した長い曲輪です。
その堂尾曲輪に沿って西側に長い横堀が掘られています。
ここから井戸曲輪まで戻って高天神社の階段を上ります。
途中の曲輪が西の丸です。社務所が建てられています。
高天神社と元天神社のどちらがこの山の高所なのでしょうか?
本堂の裏や側面には削られていますが、土塁が残されています。
ここからの眺望もよいですね。左手前の屋根は社務所ですよ。
本堂の裏には馬場平へ至る道が続いています。その間は深い切割となっています。
馬場平は高天神城最西の曲輪です。馬場とは言われていますが、この場所に馬で乗りつけるのは難しいでしょうね。
現在は眺望台として整備されています。それにしても暑い日でした。
馬場平ですべての曲輪をまわりましたので、引き返してもよかったのですが、甚五郎の抜け道なる細道がまだ先に続いています。地図上は麓に出るようですし・・・
この判断が間違いでした。入る時点では登城から2時間を過ぎるほどでしたが、さらに1時間を消費することになろうとは・・・・
昼ならともかく、雨の日や夜は到底歩けそうもない細道をクモの巣を払いながら進みました。
20分ほど進むと分かれ道となり、下り道となりました。ここまでは比較的平坦でしたが、下りが落ち葉で滑るところもあり、杖なしでは進めない状況でした。
ここ数年誰も歩いていないのでは??そんな疑問もよぎりながら
進むしかない道を歩いていると、ようやく林の谷池にでました。
ひと安心かと思いきや、道があるのはわかるものの、膝丈以上の草むらを進むことに・・・・
どこか攻城というよりも、敗走の気分になりながら、ようやく茶畑と整備された道路に到着!
堂尾曲輪の突き出た尾根が遠くに見えます。
本来はこの碑のもっと近くに出るはずだったのですが、池からの道を間違えたようです。
草むらに埋れているのは、岡部・板倉の碑です。
最後は散々でしたが、無事に帰れたので苦労した分、後で良い思い出になるのです。
帰り道、行くときは分からなかったのですが、横須賀七人衆のひとり「渥美源五郎屋敷跡」の案内柱を見つけました。
さて、問題の大手口ですが、こちらです。でも上るときのおすすめは搦手口です。
投稿者: Tadashi
能ヶ坂砦 静岡県の城館
掛川から高天神城へ向かう国道38号線を走っている途中で、ひとつの看板が目に入りました。
「高天神城 六砦の中の一つ 能ヶ坂砦」
六砦といっても、高天神を守るための前線の砦というわけではなく、武田方がこもる高天神城を攻めるために、徳川方が高天神城を包囲するように築いたものらしい。つまり陣城ということか。
その6つとは、小笠砦、中村砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、三井砦。
近くの城東中学校の入口に気になる物を発見!
天守風の「立志の城」
目の前に見える能ヶ坂砦、地元の宝、高天神城を愛する気持ちが伝わってきますね。
掛川古城 静岡県の城館
掛川城と言えば、山内一豊の築城した龍頭山の近世城郭を思い浮かべる方が多いと思いますが、最初の掛川城はここ子角山に築城されました。
築城したのは今川家の重臣であった朝比奈泰煕です。城といっても中世城郭ですから天守があったわけではありません。
本郭の跡は現在龍華院となっています。
龍華院は徳川家光の御霊屋です。
坂を上ると結構な広さのある郭です。
外見もそうですが、内装もきらびやかな建造物です。
郭のまわりを土塁がめぐっています。
現在は東側と西側を中心に残っています。
掛川古城の見どころは何と言っても本郭と二の郭の間を遮断する、この大堀切でしょう!
5メートルはあろうかという大変に深い堀切です。
本郭の先の階段を上ると、
そこは公園として整備されています。
すぐ南側に学校があるからでしょうか。この学校の校庭や
北側の町並みをのぞむと、この場所が高所であることがよくわかりますね。
掛川城 静岡県の城館
今日も暑い日となりました。朝から汗だくです。折角の城日和なので一番乗りを目指してお出かけです。
大手町駐車場に車を停め、大手門から散策スタートです。
まだ朝早いので店なども閉まっていますが、掃除のおばちゃんたちが観光客をお迎えしてくれます。
大手門の中に復元されたのは番屋です。
大手門近くの大手橋から逆川沿いに見る掛川城です。
観光案内処の「こだわりっぱ」から見る掛川城です。いかにも土産屋らしいでしょ
昼の掛川城です。復元された四足門と天守ですが、復元されたのは平成6年なので外観も古くなってきていますが、それ以上に太鼓櫓前や天守前の木が大きくなりすぎです。
四足門横に復元された三日月堀。
そして、四足門
二の丸内の十露盤堀。全国に先駆けて本格的復元整備された城らしいですね。
まだ開館前だったのですが、一人女性の方がいらっしゃいましたよ。
本丸広場はお花畑となっています。
市指定文化財の太鼓櫓です。
入場券は一番乗りでしたが、シャッターチャンスを狙っていると、係りの人が門を掃除し始めたので、終わるまで待っていたら抜かれてしまいました。
それでは入城です!!
門の横に、伝説が残る霧吹井戸があります。
天守へ入る前に天守のまわりを散策です。西側にもうひとつの門があり、その先は掃除道具がおいてありましたが・・・(ここは現実的)
天守の下壁には石垣からよじ登る人を止めるための剣先が並んでいます。これは剣壁とでも言うのでしょうか?
石垣の横列は一直線とはいえず、これは中世の積み方ですね。
中はさすがに木造復元ですね。青森ヒバを使った木組みは最近木造復元が増えてきたとはいえ、やはり新鮮です。
最上階からの眺めも最高です。
石落としや狭間も復元されています。ここは近代的安全措置がされていて若干興冷めします。
観光客もボチボチ来るようになりましたので、天守を出て二の丸へ向かいます。
天守と二の丸の間にある帯曲輪です。当時はもう少し広い部分があったようですが、明治に下の十露盤堀を埋めるために崩されたそうです。
二の丸茶室の庭から見る天守です。ちょっと風流でしょ
二の丸美術館の前にあるのは勝手台所の井戸跡です。
二の丸御殿の東側に残る「黒土塁」。二の丸御殿を隠す目的で作られたからそう言われるそうな。
二の丸御殿から天守を見上げながら政務を行っていたのでしょうか。
二の丸御殿は重要文化財です。二の丸御殿として残るのは、二条城と掛川城の2城のみです。
そんな重要な建造物であるのは間違いないのですが、管理は二条城ほどは厳重ではありませんね。ゆっくり、たっぷりと楽しみたい身としてはありがたいです。管理は民間へ委託されているようですが、受付で係りの方をしばし談笑していました。
市立図書館前のはす池
その横にひっそりと井戸跡が残っています。
掛川城公園の北側に位置する竹の丸、掛川城の曲輪のひとつですが、明治に城下の葛布問屋の松本家に払い下げられ、現在はその住宅を市文化財として指定し見学することができます。
日本100名城スタンプラリー 掛川城
今回の静岡の城めぐりで2個目、42個目のスタンプは掛川城です。
図柄は戦後初の木造復元天守です。青森ヒバを惜しげもなく使用して復元されました。
同じアングルはこんな感じでしょうか?
場所は本丸から天守へ上がる階段の途中、腰櫓台跡から見上げるように撮りました。
天守の最上階には賞状が展示されています。雲がなければ富士山も見えるようですが、今日は見えませんでした。
スタンプは入場券売場や天守ではなく、二の丸御殿の受付にあります。スタンプは2種類あり、写真の大きさと、もうひと回り小さいサイズがあります。なぜでしょうね?
掛川城の夜景 静岡県の城館
今日は2つの山城を制覇して疲れましたが、予定通り掛川に到着したこともあり、散策にでかけました。
明日はゆっくりしていられない可能性もあるので、城下の門を見てきました。
ここは円満寺の山門ですが、元掛川城の「蕗の門」です。
屋根には「亀」ですね。
掛川の町はそれほど大きくはないですね。陽も沈んでしまいましたが、まだ薄暗い状態です。
今日は月曜日でもともと休館日ですので、人はいません。と思ったら、自分と同じく写真を撮っている女性がいましたよ。歴女かな?
しばらく天守を眺めていましたが、空腹になったので夕食へ、
しかし、城下も休館日にあわせて休みが多く、ようやく見つけた大衆食堂で一休みです。
出てくると、すっかり真っ暗になっていました。大手門の向こう側に天守が浮かんで見えますね。
最初どうしようか迷っていましたが、夜景を見に来て良かったです。
丸子城 静岡県の城館
丸子城へは登り口が2経路ありますが、駿河匠宿から登ることにしました。
登る前に昼食です。丸子は宿場の頃から「とろろ汁」が名物で、匠宿でも食べれますが、少し奥のほうの食堂でとろろそばを食べました。おいしかったですよ。
と、目標となる丸子城はあの山頂です。
麓には鳥瞰図があり、これを見ると楽しみが膨らみます。
麓には「丸子城まで15分」という看板があります。さあスタートです。
しばらく登ると、丸子稲荷神社奥宮に到着します。ここが丸子城の大手門です。
ここまで15分・・・
地図は城の入口ですね。確かに丸子城には着いたけど、ここからが本番です。
山城は土塁や空堀など写真ではうまく写らないことが多いのですが、丸子城は規模が大きくわかりやすいので、ただ写真をご覧いただきます。
どうですか?すごくないですか?
結果的にあまりに楽しくて登ったり、下ったりしながら、写真を撮りまくってしまいました。あっという間に2時間が経ちました。
といっても、夏の山城はクモの巣と薮蚊との戦いですね。
久能山城 静岡県の城館
昨日は寝不足でしんどかったので、今日は十分な睡眠をとってややゆっくりとホテルを出てきました。
9時過ぎに久能山城の麓に到着。いちご園の駐車場に500円で車を停めてスタートです。
見上げる遥か上に一の門がのぞいています。高いなー
というより今朝も朝から30度を越える猛暑日。汗が噴出すだろうから給水は必須です!
入口の案内板には「頂上まで1159段」の文字が・・・・
これ見たら大部分の人は諦めるだろうな。
最後の案内は、本堂内の蘇鉄にかかる「神廟まで40段」。つまり一の門までは1000段はない・・・だろうと思う。
でも、大部分の人は諦めるだろうな。
しかし、山城の醍醐味は麓からの登頂だーーーー
と、心の中で思いながら遥かに続くジグザグの階段を一段一段上っていきます。
ようやく一の門まで上ってきました。両脇に石垣を積んだ本格的な埋門ですね。数少ない城の遺構です。
一の門をくぐるとまだ石段が続きます。右側の石垣の上の平地には
旧宝物殿がありますが、
ここからの眺めがすばらしいです。高所恐怖症の自分にはちょっと高い。
しかし、信玄はこの駿河湾を眺めて狂喜したことでしょうね。
この郭には勘助井戸と名づけられた井戸跡が残っています。
つい数年前まで建物を中心に修復を行っていましたが、今は石垣をまだ修復中でした。これは計画のうちなのか、駿河地震によるものなのかわかりませんが、
職人が石に穴を開ける作業をしていました。
社務所前には「史跡久能山」の石碑が立っています。
そこから下を眺めると、一段下に井戸跡が残っています。
それでは、有料の境内へ入ります。まだ10時前で人はまばらです。
重要文化財の楼門です。豪華絢爛ですね。それに大きい。
楼門をくぐると「元和三年」の銘が残る手水鉢で手を清めます。
唐門もすばらしいですね。修復間もないこともあり、色鮮やかな状態を見る事ができました。
と、東照宮ばかりとなっていますが、城跡の痕跡探しも怠ってはいませんよ。
五重塔跡から裏をのぞくと、一般通行禁止となっている山頂の愛宕社へ上る道があり、階段の奥、左へ折れる場所に石垣が見えます。積み方から見ると近代のものではないようですね。
さて、東照宮の拝殿は煌びやかですね。自分はまだ日光東照宮へ行ったことはないですが、もっと観光資源として宣伝したらいいと思いますよ。
今日も中国からの観光客がたくさんいましたが、色使いが中国風だと思いませんか?
本殿の板戸の絵画もすばらしいですね。
家康公の神廟です。個人の墓としては最大級の大きさです。さすがです。
右奥にひっそりと家康公の愛馬の墓がありますが、案内板があるわけではないので、観光客のほとんどはこれを見ずに帰っていました。
神廟の一段下の山裾に石段らしき?ものが3段あるのを見つけました。これは何でしょうか?
自分が拝殿に入る頃には少しずつロープウェイで到着した観光客が増えてきましたが、帰り道ではどこを撮っても人が入らないことはありませんでした。行くなら平日でも10時前が狙い目ですね。
持舟城・浅間山砦 静岡県の城館
JR用宗駅を下りると、ホームから見える裏山が持舟城です。
JR用宗駅は南口しかないため、北側にある持舟城へはぐるりと回っていかないといけません。
駅前の看板を見ると、海に非常に近いことがわかります。
現在城山の東側に小坂川が流れていますが、江戸時代の古絵図では東側まで海が入り込み、北側は沼地が広がっていたそうです。
麓の浅間神社
その裏に城跡までの農道が整備されています。
少し上ると眼下に突き出た山の先端部が見えます。そこが浅間山砦となります。
さらに上ると、本曲輪への入口があります。
しばらく上ると、広く開けた平坦地へ出ます。
ここが本曲輪となります。昭和まではここに城山神社があったそうですが、今はありません。
曲輪のほぼ中央に「持舟城址」の石碑が立てられています。
本曲輪にある案内板には持舟城の縄張りと城下の関連施設が書かれています。
本曲輪と二の曲輪の間には深い堀切が切られています。
その堀切の奥に、小さな祠と深い井戸跡が残っています。
二の曲輪に上ってみましたが、一面のみかん畑となっており、私有地のようでしたので入るのをやめました。
下りてきて、城下の大雲寺まで来ました。ここに搦手がありました。寺前の駐車場も広い敷地が広がっていますが、ここは「館跡」と伝わっています。
その西側へ進んだこの辺りが「船溜り、蔵屋敷」と伝わる場所です。江戸時代は現在のJRの線路まで海岸線が迫っていたのかもしれません。
持舟城が今川軍の水軍の拠点と言われる所以ですね。
賤機山城(しずはたやまじょう) 静岡県の城館
暑くなる昼前の時間帯ですが、ひとつ山登りをします。
駿府城を後にして近くの浅間神社参道にやってきました。
浅間神社は久能山東照宮に劣らず、煌びやかな装飾です。
本堂の後ろにそびえる山が賤機山です。
境内の階段を上って賤機山公園をまずは目指します。
寝不足の状態では辛かったですが、階段をゆっくりと上っていきました。
賤機山公園からは市内がよく見渡せます。
賤機山城はこの奥が主郭ですが、今川氏がまだ統治していた頃、駿府城内にあった今川館の詰めの城として築かれました。
駿府城(今川館)がよく見えます。
賤機山公園の観音様の
その脇から散策路があります。
ここはウォーキングコースとなっており、多くの方とすれ違いました。
途中、大きな堀切を横切りました。
さらに進むと、賤機山城の主郭に出ました。
この主郭は土塁に囲まれています。
ここ以外の郭跡はわかりにくいですね。
まわりは木々で囲まれているため、見晴らしがきくのは北側の南アルプス方向だけですが、侵入先は甲斐ですから、ちょうど見張り台の役割にもなりますね。
駿府城 静岡県の城館
熱帯夜が続く中でも、冷房をしないで寝ていたらすっかり寝不足になりましたが、結果朝早く起きたので、そのまま駿府城を見学することにしました。
静岡駅から歩いていくと、まずは外堀に出ました。さすがに家康の隠居城だけあって大きな水堀です。
県庁方向に外掘沿いに歩いていくと、石垣の工事現場に出くわしました。
昨年の8月11日の地震で崩壊した場所ですが、大手御門口となります。
迂回して中堀に移動すると、ここにもう1箇所積み直している場所がありました。
建造物の残っていない駿府城に復元された東御門と巽櫓です。朝早く来て人通りも少なく、思いっきり写真を撮ることができました。
水堀に映る巽櫓がまたイイですね!
城内は公園となっていますが、過去の発掘調査の成果がそのまま整備されているところが何箇所があるようです。
1つは内堀の一部。
そして二の丸水路と、
先ほどの内堀に続く一部です。
駿府城はまだ復元計画の途中のようですが、天守については史料的裏付けがないということで中止されたそうです。せめて天守台は復元して欲しいですね。
本丸跡には家康像と、お手植えのミカン(右奥)がありました。
家康像は東向きなので、写真を撮るのは朝がいいですね。
掘(外掘、中掘、内堀)と石垣を中心に、復元建造物を見学すると3時間ほどかかります。
日本100名城スタンプラリー 駿府城
今年の夏は本当に暑いですね。今日もうだるような暑さの中、41個目のスタンプをゲットしてきました。
徳川家康の隠居城であった駿府城です。
スタンプの図柄は平成元年に復元された巽櫓と平成8年に復元された東御門です。少し斜め上から俯瞰したアングルですが、どこからですかね?
通常はこのようなアングルです。今日は晴天で白壁が映えますね。
東御門は枡形を構成する一の門、二の門、多門櫓すべてを復元しています。
復元された巽櫓と東御門は、月曜日と年末年始を除いて有料で見学することができます。
中には駿府城の天守の復元模型であるとか、
駿府城下町模型などを見ることができますよ。
田中城 静岡県の城館
月曜日休館ということで、急遽土曜日に訪問を変更して、田中城へやってきました。
「大手」交差点から入るとすぐに田中城跡の石碑が立っています。
下屋敷横の駐車場に車を停め、散策開始です。真夏の土曜日の昼下がり、観光客もまばらです。
田中城は全国で唯一の円形掘で囲まれた城です。現在も北半分の道路にその面影を残しています。
早速、下屋敷跡へ向かいます。ここでは本丸櫓と仲間屋敷・馬屋の実物を移築してあります。本丸櫓は明治になって民間に払い下げられて民家として利用されていたということです。
入口でボランティアの方が下屋敷や建てられている建造物の説明と、散策コースのみどころを説明してくれます。おすすめは本丸と二の掘、三の掘、三の掘土塁をめぐる30分コースとのことでしたが、1時間半のフルコースを選択して散策開始です。
御成街道の途中にある「馬上の清水」です。殿様が馬の上で水を飲んだ場所だそうです。
そして、その御成街道から本丸へ至る入口にあたる「平島木戸」です。
2本道を内側に入った交差点が、「平島一の門跡」であり、交差点部分に三日月掘がありました。
その向こう側に三の掘と土塁が残っています。前の道が右側にカーブしていることがわかると思います。
「三の掘と土塁跡」です。家と同じ高さもあろうかという高い土塁ですが、残っているところは少ないです。
三の掘沿いに歩いてくると、もう1箇所「三の掘と土塁跡」が残っています。
そこから外周部へ歩いていくと、「松原木戸」と外堀がありますが、ちょうど松の木?を伐採しているところでしたので、足早に通り過ぎました。
ここは田中城の水源として利用されていた「姥ヶ池」です。今でも水を湛えています。
もう一度内部へ入ります。西益津中学校の裏に「三の掘」の水堀と土塁が残っています。暑さで少し腐臭がしていましたが・・・ここだけ破壊されずに残されたのですね。
とその三の掘の道路向かいには「武家屋敷石垣跡」が残り、風情を感じさせてくれます。
「二の掘」も水堀で一部が残っています。
西益津小学校が田中城の「本丸跡」となります。
休日でも門が開いていましたので、中にお邪魔させていただきました。
本丸跡の石碑が立つ前庭には田中城の縄張りが再現されていました。城内に立つ小学校らしい素敵な配慮ですね。
小学校校庭に隣接して「三日月掘」が半分だけ残っていますが、残念ながら水堀ではありませんでした。
六間川に架かる橋のところに「新宿木戸」があり、現在道路として四方のうち三方の木戸を見る事ができます。
新宿木戸から少し歩いて、旭伝院があり、ここの山門が田中城内の屋敷門だったと伝えられています。
最後に「東木戸」を探して狭い路地を迷ってきました。総時間2時間の暑い散策でした。
末次城 石川県の城館
能登町行延にある末次城です。今まで何度か前を通ったことがあり、ずっと気になっていましたが、今日は時間があったので寄ってみました。
道路から入ってすぐに案内板が設置されています。
これによると、末次城は珠洲郡の入口を守備するため築かれた山城で、上杉謙信の能登侵攻のとき、末次氏を中心に対抗したが落城したと書かれています。
その末次氏の末裔の末次家はまだこの山城の麓にあります。これってすごいことですよね!
そのおかげもあり、この山城の遺構は当時そのままに保存されているようです。
それでは、奥に見える看板の裏から中に入ります。
最初の20メートルほどは階段らしきものが見えていましたが・・・・
そこから道は全く不明になりました。夏はダメですね。整備されたのはもう二十年も前になるでしょうから、今は誰も近づかない史跡になってしまっているのかもしれません。春先にもう一度チャレンジです。
松波城 平成22年度庭園跡発掘調査現場説明会
新聞報道され、今日は時間も空いていましたので松波城まで行ってきました。
金沢から140キロ、3時間・・・・。遠いですね。
松波城の庭園跡は三の郭にあり、昭和54、55年に最初の発掘調査が行われましたが、平成18年度より詳細な発掘調査を行ってきました。
今年度は調査の最終年度にあたり、整備まで遺構の保存のため埋め戻されるそうです。
説明が始まってすぐ、沢ガニが出てきてビックリしました。かなりの大きさですが、横穴を掘って住んでいるようです。川からは随分遠いのですが、どこから来たのでしょうね?
礎石建物のトレンチが遊歩道の下に掘られていました。この部分は昭和の発掘調査では手付かずだった部分で、破却の土層がそのまま出てきたため、新聞報道にもありました、礎石建物と枯山水遺構が16世紀に間違いないと確定できたそうです。
礎石自体も赤く変色し、焼けた炭跡が残っています。土層にも焼き炭が混ざっています。この層から枯山水と同じ庭小石が発見されました。
枯山水の前には池遺構が出ています。
しかし、枯山水と同時期のものかどうか確定できなかったようです。水のない庭の手前に水の池?というもの不自然ではありますね。
この池、水が溜まっていたのですが、ここ数日は雨は降っておらず、不思議に思っていましたが、この池の底からは水がジワジワと染み出して来ているそうです。湧き水が出るんですよ。
庭園奥の斜面には泥岩貼付遺構が残っています。
枯山水遺構は19個の景石と3123個の小石により形成されています。小石は昭和の発掘調査で採取されたものがあるので、当時は4000個以上の小石があったようです。
どうです。水が流れているように見えますね。これが16世紀の奥能登に存在したなんて驚きです。
水の流れをあらわすために、小石は寝かせず立てて配置されています。破却され埋められる前はもっときれいだったことでしょう。
この貴重な枯山水遺構ですが、もうしばらくして埋め戻されます。今日は遠かったけど貴重なものが見れました。
松波城 石川県の城館
能登半島の先端、旧内浦町にある松波城です。
旧松波駅側から行くと山の上に看板が見えます。この右側からも公園に入ることはできますが、
ぐるりと麓を反対にまわると、公園へのもうひとつの入口があります。それではここから登ります。
上ってすぐのところに一本目の石碑があります。
平坦地を2つ上がると、町並みを見下ろすことができる平坦地にでます。「音川亭址」という石碑がありますが、出丸跡になると思われます。
町並みの向こうに大きな屋根の寺院が見えます。
この寺院は松岡寺です。松岡寺は本願寺八世蓮如の子により、小松市波佐谷に勢力を持っていた浄土真宗系の寺院です。
この郭と隣りの郭の間には深い堀切が見て取れます。
隣りの郭跡には2本目の記念碑が立てられています。
この郭と三の郭の間には橋が架けられています。
この深い堀切には数年前まで「のと鉄道」が走っており、すぐ近くに旧松波駅があります。
橋を渡ると、大手門址があり、三の郭があります。松波城の防衛ラインは基本的に東側のこの大手門からとなります。
三の郭には枯山水跡が残ります。
三の郭の上に二の郭があります。
二の郭と本丸の間の通路は狭くなっています。といっても車が通れるほどの広さはあります。
本丸跡には石碑が立てられています。
本丸の二の郭側には土塁の一部が残っています。
本丸側の入口に案内板がありますが、すでに古く、書かれている郷土資料館などはなくなっています。というより、他の建物も現在は使用されてはいないようです。
松波城は松波川を防衛施設のひとつとして利用しています。松岡寺の下から見た松波川ですが、右奥に見える山が松波城となります。
旧松波駅は現在、松波城址情報館となっています。
不定休ということでしたが、今日はお休みでした。
なんとか光る窓を遮りながら中をのぞくと、松波城の模型があるようです。
金沢城 石川門修築工事
今年冬までは二の門のある北側の塀と二の門の修築工事が行われていましたが、夏からは櫓のある南側の工事が始まりました。
石川櫓は金沢城のシンボルですし、ここからのアングルはよく絵葉書にも使用されるものですので、櫓が隠れれば残念がる観光客もいることでしょうね。この辺のスケジュールはよくわかりませんが・・・
修築工事に合わせてかどうかわかりませんが、草刈りされたみたいですね。
将軍の井戸も下からはっきり見えますね。
金沢城 玉泉院丸発掘調査
発掘で掘り出した土を入れた土嚢が多くなりましたね。
玉泉院丸はさらに深く掘って調査が進められているようです。こちらもブルーシートで見えないけど。
金沢城 橋爪門復元工事
橋爪門の発掘調査の真っ最中ですが、
かなり深く掘り下げて調査しているようですね。
ブルーシートでよくわかりませんが・・・
篠山城 兵庫県の城館
丹波篠山城に来ました。
夏休みですが、それほど人出は多くないですね。
掘は綺麗に整備されていますが、石垣は夏草が繁茂している場所もありました。
鉄門址に木製の冠木門があり、その奥に復元された大書院が建っています。
まずは外回りから始めます。大書院の前にひとつ井戸跡が残っています。
そして、二の丸庭園跡の中にもうひとつ井戸跡が残っています。
二の丸庭園の奥に埋門跡が残っています。埋門なので門に向って下がっています。
大書院は2000年に復元されて、以前来たのは7年ほど前でしたか?まだ白木の映える頃だったと記憶していますが、風雨に晒されて古びてきました。
二の丸庭園から本丸へ入ると、青山神社が鎮座しています。
本丸の東南隅に天守台が残っています。天下普請で築造された篠山城の天守台は大きく立派です。実際に天守が作られたことはないですが、よい物見台になりますね。
天守台から東方向には播磨富士と呼ばれる八上城が見えます。
八上城は波多野氏の居城で、明智光秀の母を人質にした命乞いが叶わず、逆上した波多野家臣により母が殺されてしまったという悲しい逸話の残る地です。一度登ってみたい。
大書院は有料ですが、中では篠山城が築かれた経緯のビデオ放映や、復元された大書院の中を見学することができます。
上段の間で襖絵などが復元されています。
上段の間を側面から守る武者隠しの間はこんなに狭いのですよ。
篠山市のマンホールは篠山城の石垣を描いています。
今日は外堀や馬出を見て回ることができませんでしたので、次回はゆっくりと城下をまわってみたいです。