鳥越一向一揆歴史館セミナーに参加してきました。
旧鳥越村時代に一向一揆歴史館として開館、以来白山市への合併、そして今年10年目を迎えます。5月には入館者10万人を迎える予定だそうで、自分は友の会まだ5年目ですが、全国に稀有なこの歴史館が注目されることを願っています。
今日は輪島光琳寺住職の木越祐聲氏による「山内と金沢御堂」というテーマでした。木越氏は今こそ住職をされていますが、数年前までは石川県立歴史博物館の学芸員をされていましたので、住職という立場というよりも講師という立場での講演でした。
今日は、越前超勝寺と加賀4カ寺(松岡寺、本泉寺、光教寺、願得寺)の対立が起きた「享禄の錯乱」から加賀一向一揆滅亡までの山内衆の動向についてよくわかりました。現在の山内衆とは鳥越を中心とした白山麓と考えている人が多いですが、中世は小松市波佐谷を含むもっと広い地域を指したそうです。
木越氏は余談もとても面白かったのですが、その中からひとつ。中世から残った石川県の氏族に「長氏」があります。穴水の長谷部信連の子孫で、加賀八家にも名を連ねましたが、「長谷部」がなぜ「長」となったのか?ずっと不思議なことだったのですが、中国(宋)式に姓を一字にすることが中世に流行ったそうです。そこで一字取って「長」にしたとか。鎌倉後期の武将「高師直」も元は「高科」という姓だったそうな。へぇーーーって感じですよね。