石川県能美市高座町の西山古墳群でこれまで、古墳と推定されていた南尾根の四、五号墳が戦国時代末期(十六世紀後半)とみられる山城の土塁の一部だったことが15日までの能美市教育委員会の詳細分布調査で分かった。
市教育委員会によると、山城は織田信長軍が1577(天正五)年に手取川で上杉謙信と対峙した際か、1575(天正三)年以降に和田山城の一向一揆を攻めるために築いた陣城跡の可能性もあるという。
西山古墳群は標高約36メートルの丘陵上に、15基以上の古墳が分布すると推定される。1964年から1967年にかけて行われた緊急調査で、弥生墳丘墓など計7基で構成される能美古墳群の一部として確認されたが、その後は本格的に調査されていなかった。そのため市教育委員会は、今年度から三年計画で西山古墳群の詳細分布調査に乗り出し、初年度は古墳が良好に残っていると推定された南屋根を調査した。
この結果、南屋根から古墳は見つからず、戦国時代の曲輪や土塁、切岸の防御機能を備えた山城跡とみられる遺構が見つかった。市教育委員会によると、全長約20メートル、高さ約1.5メートルの土塁の盛土がこれまで古墳のように見えていたらしい。(北國新聞2007年12月16日付記事)