本日、11月に入るなり肌寒い1日でしたが、金沢城大学第四回が行われました。
今回は金沢城調査研究所の石野友康氏による「よみがえる金沢城」の3回目です。対象は本書の第4
章・第5章で、五代綱紀と宝暦の大火が対象です。石野氏は研究所のなかで絵図・文献担当だそうです。
五代綱紀は御三家に次ぐ家格を非常に意識していた藩主であり、金沢城をそれにふさわしくなるよう多くの改築を行っています。時は元禄の将軍綱吉の時代です。綱紀が蒐集した古文書や美術品は蔵4棟一杯になったともいわれ、現在の尊経閣文庫の名の由来となっています。
金沢城の二度の大火、宝暦の大火と文化の大火。宝暦の大火のあとは財政難だったため、二の丸御殿は大広間や表能舞台は再見されず、寛政の大地震、文化の大火を経てようやく再建されたようです。
寛政の大地震は1799年となるが、金沢を襲った直下型地震であり、城内や城下にも大きな被害が出たということであったが、あまり解明が進んでいないのか、金沢城略年表には省略されることが多く、金沢市史通史編にもその記述はないようである。それほど大きな地震が200年前にあったということでその詳細を知りたくなった。
前回に続き、「よみがえる金沢城」の訂正点を2点。
・77ページの「一万四〇〇〇貫目」という記述が正しくは、「一五〇〇貫目」。
・77ページの奥村支流の「温良」に金沢城代の色がついているが、正しくは無色(城代にはなっていない)。