金沢城は大火によって、政務の中核だった二の丸御殿を何度か再建しています。宝暦の大火(1759年)と文化の大火(1808年)の2回ですが、その後の再建段階を追っていくと加賀藩の財政の状態や城下町の様子がよく分かるそうです。そして、天守閣を失った本丸の機能はこの頃には完全に停止していて、二の丸に至る三御門、つまり、石川門、河北門、橋爪門が関としての重要な意味を持ってくるのです。
石川県では、現在河北門の復元を進めています。将来的には橋爪門も復元して、最終的な目標である二の丸御殿の復元につなげたいのですが、三御門と言っても、石川門・河北門と橋爪門とでは格に違いがあります。石川門と河北門は三ノ丸に入る門、ここで従者は半分になり、橋爪門から二の丸に入るという具合です。将来的にはぜひこの辺りが分かるように復元してほしいものです。