金沢市の公文書などに記されている「惣構堀」の表現が、「惣構」に正されることになった。二十五日の同市教育委員会議では、「金沢市主計町伝統的建造物群保存地区(伝建地区)保存計画」の変更が了承された。金沢城を取り囲むように築かれた内外二重の惣構は広い堀と高い土居で敵の侵入を防ぐ構造となっており、「惣構堀」は一部分を示しているに過ぎず、市は市内各所に設置されている標柱や案内板の修正も検討する。
市は新年度に主計町伝建地区の緑水苑を整備し、西内惣構を復元するとともに、地区の防災拠点としての機能を高める。これに合わせて保全計画の内容を見直すことになり、地区の沿革を記したくだりの二カ所で見られる「西内惣構堀」の表現を「西内惣構」に変更する。地区の現況に関する部分に「古い絵図等に見られる東西の内惣構堀は暗渠化され」とあるが、この場合の「惣構堀」はかつての惣構の堀の部分を指したものであり、「惣構堀」のままとする。
市などによると、惣構の遺構が比較的良好な状態で残っている市役所裏の西外惣構では、江戸初期の寛文年間に堀の幅が約12メートルに及んだとされる。土居は高さが少なくとも5メートル以上はあったと推定され、堀と土居を組み合わせて強固な守りを築いたことが伺われる。しかし、戦のない平和な時代が続き、惣構の堀は狭められ、土居も削られた。明治に入って土居の多くが消滅する一方、堀は用水などに姿を変えて残ったため、一般的に「惣構堀」と呼ばれることになったと言われる。
「惣構堀」の呼称は「用水のまち金沢」を象徴する側面があるが、土居の存在が薄れ、惣構の威容が正しく伝わらない可能性がある。市が昨年九月にまとめた惣構発掘調査の報告書では「惣構堀」という呼び方について「堀を指す場合は良いが、土居跡も含む範囲を指すことは混乱を招くので、総称としては『惣構』が妥当」と指摘。昨年12月には内外の惣構が「金沢城惣構跡」の名称で市史跡に指定された。(北國新聞2009年2月26日付記事より)