先日観光看板の架け替えが行われた尾山神社前の用水開渠にも寄りました。
現在の見出しは「西内惣構堀跡」
内容は「尾山神社前の水路は、慶長四年(1599)二代藩主前田利長が、金沢城下の防御のために高山右近に造らせたとされる西内惣構堀の一部にあたります。寛永九年(1632)に三代藩主前田利常が、犀川上流上辰巳地内から金沢城まで辰巳用水を引かせ、その落水で西内惣構堀にも水が満たされました。明治六年(1873)に尾山神社が初代藩主前田利家を祀るために創建され、同八年までに前面の惣構堀は大幅に埋められて水路となりました。その後、昭和二十年代に暗渠化され今日に至りました。金沢市では、この水路が明治以降、辰巳用水の管理に携わる人々(現:辰巳用水土地改良区)によって支えられ、その潤いが市民に親しまれてきた経緯をふまえ、平成九年に用水保全条例に基づく保全用水(辰巳用水)に指定しています。」
右側「まちなか用水の開渠化」は「金沢市では、伝統環境に調和した潤いのある用水空間の創出を目的に、平成七年からまちなかにおける用水の開渠化や年間を通じた流水の確保に取り組んでいます。ここ尾山神社前では、昭和初期頃の景観をもとにして開渠化とせせらぎの再生を行いました。」
11月時点の見出しは「辰巳用水の概要」
内容は「辰巳用水は、寛永9年(1632)加賀藩三代藩主前田利常の命により小松の町人板屋兵四郎が完成させたといわれています。寛永8年(1631)の大火をきっかけに防火用水として造られましたが、これにより金沢城内の生活用水の確保や、城周辺の空堀を水濠とすることが出来たとされています。辰巳用水の水は、犀川の上流、上辰巳町東岩地点で取水され、約4kmの隧道区間を経て小立野台地を下り、兼六園の曲水の主要な水源として利用されています。また、現在は金沢のまちなかを流れる代表的な用水の一つとして市民に親しまれています。なお、ここ尾山神社前の辰巳用水は、かつて城下町を囲んでいた、内・外二重の惣構のうち、西内惣構堀にあたります。」
右側の「辰巳用水(尾山神社前)の開渠化」は「ここ尾山神社の辰巳用水は、明治6年(1873)の神社創設時は開渠でしたが、昭和20年代に蓋がかけられ暗渠化されました。今回、昭和初期頃の景観をもとにして開渠化を行いました。」
当初は辰巳用水であることを強調した文章に、一行のみ西内惣構堀であったことを記載。今回は西内惣構堀であることを前面に出しながら、現在は辰巳用水の管理下にあることを記載しています。随分と変わりましたが、辰巳用水と西内惣構堀を両立させようと苦労した跡が見えます。いっその事、別々に看板を立てたらいいのにと思います。
新しい金沢の観光スポットに関する今年一番の騒動の顛末でした。