雪が降る冬らしい天候の中、いよいよ記名会の日となりました。今日は「新春金沢城祭2009」と題して、河北門上棟式や、戸室石によるオリジナルペーパーウェイト作りや河北門ペーパークラフトなどのイベントが同時開催されます。
上棟式は河北門の工事現場で行なわれているようです。自分はとりあえず記名会の会場となる五十間長屋に向かいます。
記名会のあと、寄ってみると片付け中でした。木工事はあまり年末から進んでいませんね。
会場へ向かう道も、今日の寒さのためか人はまばらです。ペーパーウェイトやペーパークラフトもあまり人気がありません。作るのは人気なかったですが、家でつくるからとペーパークラフトをもらっていく人は大勢いました。
自分の場所を確認します。申込み順なのか前のほうですね。前には報道陣が詰めますが、ギリギリ映らない場所でしょうか。
寄進証を写真に撮ります。あれ?名前が違うぞ!!!!
ということで、後日郵送してもらうことに。
受付は10時からでしたが、開始は11時から一斉に、ということなので、河北門ペーパークラフトに挑戦です。すべての完成には1時間以上かかるということで、20分コースの二の門を作ります。しかし、30分経っても完成せず、二の門と一緒に記名会の夢はあっけなく破れました。気を取り直して・・・
平瓦は素手で触ると指の脂がついてしまうということで手袋が準備されています。本格的に筆で書くのかと予想していましたが、マジックか筆ペンで書くようです。
書く文字を紙に練習し、いよいよ開始です。
ツルツルの表面ではなく、網目の裏面に書くのはなかなかに難しいことでした。
続けて、板壁に記名しました。こちらは1枚に7組が書くのですが、自分は一番下で土台のすぐ上となりました。書きやすかったですが、こちらは手袋なしに同じく筆ペンで書きました。立ったまま書くのが少し辛かったですね。
昼からは文教会館ホールに場所を移し、「シンポジウム 江戸城と金沢の御殿」を聞きました。
基調講演は平井聖氏による「篤姫の時代の江戸城」でしたが、大河ドラマにおける建造物の時代考証の大変さを交えながら、篤姫時代の江戸城の建造物について講演されました。
話のなかで、篤姫では「映像にいつも以上に臨場感があった」という感想が多かったそうですが、それはセットに天井を作ったから、という裏話がありました。天井は収録ではライトやマイクの邪魔になるので作らないことが多いそうですが、天井があることで見上げるアングルが撮れるようになって、いつもの水平アングルや俯瞰アングルと合わせて臨場感が出たとのことでした。
そういえば、こんな場面や
こんな場面も、天井が映っていますね。しかも、同じ絵柄を色合いを変えて利用しているそうで、面白いですね。
帰って、作りかけの河北門のペーパークラフトを完成させました。結局4時間もかかってしまいましたよ。1時間とはえらい少ない見積りでしたね。
その甲斐あって出来栄えはいい感じです。一の門やにらみ櫓台の塀は内側も貼り付けるという手の込みようで、完成するとA3サイズになったので迫力もそこそこです。にらみ櫓に二重櫓があるともっと見栄え良いのですが、復元イメージどおりなので記念になりますね。
月: 2009年1月
武田家、城下町で金加工? 甲府で金付着土器発見
甲府市は9日、戦国時代の武田氏館周辺の城下町遺跡などで発掘した土器片58点に金が付着していたと発表した。金は土器の上で加熱された際に溶けて付着したとみられ、城下町で金が加工されていたことを示している。市教育委員会は、複数の金山を有し天下取りをうかがった武田家の財力や金の流通過程を探る貴重な資料になるとしている。
市によると、戦国時代の城下町遺跡で金が付着した土器片が見つかったのは、七尾市の七尾城跡で出土したのに次いで2例目。武田家の資金源の一つとされる黒川金山(山梨県甲府市)や湯之奥金山(山梨県見延町)などで採掘された金が城下町の甲府に集められ、工房で装飾品などに加工された可能性が大きい。(北國新聞2009年1月10日付記事より)
今年度の加賀藩塩硝蔵発掘は・・・あれ?
今日は自宅周辺で作業停電がありました。すっかり忘れていましたが、停電で車を車庫から出すこともできなくなったので、午前中はサーバーを消したり付けたり、電化製品の状態を確認したりしていました。こんなときはオール電化の不便さをしみじみ感じますね。
昼前に家を出て、仕事に行く前に涌波の加賀藩塩硝蔵発掘現場の様子が気になって寄ってみました。
予想はしていましたが、発掘現場はすでに埋められていました。今年も現場説明会には参加できませんでした。あったのかな?
今年どのくらい解明されたのか、調査報告書が楽しみなところです。来年度もあるのかな?
津幡検定 22人に「源平合戦」合格証
昨年12月8日に実施された地元津幡町の検定は勉強不足のためパスしたが、今日その状況が新聞に載ったので紹介したい。
津幡町刊行協会が先月に実施した第1回「津幡ふるさと検定」の合格者が6日までに決まり、22人の合格者には丑年の幕開けにふさわしく、倶利伽羅合戦の「火牛の計」をモチーフにした合格証が贈られた。受験者39人の合格率は56%だった。合格証は名刺サイズで、倶利伽羅神社が所蔵する「源平倶利伽羅合戦屏風」の一部分を使用し、津幡らしいデザインとした。
検定は四択の問題五十問(一問1点)が出題され、40点以上で合格となる。最高点は48点、平均点は39.4点だった。町制定の鳥を尋ねる問題(答え・ハクチョウ)など全員正解は八問。一番の難問は津幡川の大改修の年(答え・昭和42年)で、正答率は10%だった。初回は初級のみの実施で、新年度に計画する第二回検定では、より難易度の高い級の新設を検討する。受験者には小中学生がいなかったため、町では「次回は児童生徒にも検定を呼び掛けて、受験者数を増やしたい」と話している。
辰巳用水 開削目的は玉泉院丸の庭園泉水用か?
石川県は新年度、金沢城公園玉泉院丸跡の整備で、辰巳用水開削の歴史にメスを入れる。1631年の「寛永の大火」で、加賀藩三代藩主前田利常が城下町の防火体制を強化するため開削したとされる用水だが、玉泉院丸で造成した庭園の泉水を確保することが狙いだったとの説もあり、県は8月に「金沢城玉泉院丸跡調査検討委員会」を新設し、庭園と用水の関係を洗い出す。
犀川上流から取水する辰巳用水は、現在は兼六園までだが、藩政期は城内まで水が届けられた。大火を契機に城内に水路を巡らせたものだが、こうした経緯に加賀藩の石垣技術者、穴太方・後藤家6代目の彦三郎が疑問を投げ掛けている。県金沢城調査研究所によると、彦三郎は家伝書で「高石垣等之事」と題して「(用水が)防火のためというのは名目で、城内の水が乏しく、泉水のために開かれたのではないか」と指摘している。
玉泉院丸跡は1961年に旧県体育館が建てられ、これまで本格的な調査は行われていない。県教育委員会が昨年暮れに体育館背後を予備調査したところ、藩政期の土層が確認され、明治以降も改変されていないことが判明した。2月の体育館撤去後の埋蔵文化財調査で、庭園の遺構をどれだけ解明できるかが課題だが、仮に寛永期以前に用水が引かれた痕跡が見つかれば、大火後に開削されたとする辰巳用水の歴史に一石を投じることになる。(北國新聞2008年1月4日付記事より)
福徳のなかは・・・
昨日は出かけたので1日空きましたが、今日福徳せんべいを開きました。おみくじと同じで中身の分からないものを開くのはワクワクしますね。
まずは鈴型?から。なかは「大黒さん」の金花糖でした。
次は俵型です。なかは「起き上がり人形」の金花糖と、トリの土人形でした。おお、こちらの土人形はビニール袋にも入らずに、そのままですね。まあ私は気になりませんが、福徳宝船はやはり高級品らしくビニール袋に入っているようです。
最後は小槌型です。なかは「鯛」の金花糖と、かぶら?の土人形でした。
狙った招き猫の土人形は当たりませんでしたが、土人形は2個ゲットしました。来年の楽しみにしましょう。
そういえば、今回福徳を買ったときに、森八さんにも福徳が売られていることを知りました。来年はその福徳と、福徳せんべいにしようかな。
富山城 天守築造目指す
藩政期、富山藩が富山城整備にあたり、天守の築造を目指していたことが明らかになった。富山城址公園の発掘調査を進めている富山市埋蔵文化財センターが2日までに、同公園南東側の一角で、天守を築く基礎となる天守台とみられる盛り土を確認した。天守台の存在を裏付ける発掘資料の発見は初めてで、富山藩が天守整備を念頭に本格的な工事に着手していた事実が浮かび上がった。
富山藩は1661年、幕府から天守築造を許可されているが、数多く残る江戸期の富山城絵図に天守は描かれていないため、富山城には天守は建てられなかったと考えられている。(北國新聞2009年1月3日付記事より)
*記事では現在使われなくなった「天守閣」を使用していますので「天守」と修正しています。
金沢城 いもり堀工事&玉泉院丸の現在
金沢城宮守(いもり)堀の水堀化工事は正月休みですが、作事は普請ほど短期間ではわかりやすい変化はありませんね。雪が降る日も多いので休み明けでもしばらくは工事は進まないかもしれません。
翻って、旧いもり堀沿いの玉泉院丸ですが、体育館解体工事は年末に急ピッチに進められ、あっという間に建物はほとんど撤去されてしまいました。
しかし、郭ひとつが更地になると広いものですね。市街地からの玄関口としてどう整備されるのか楽しみです。
金沢城 河北門復元整備&橋爪門正月飾り
今日は違う角度の写真から復元現場案内を始めましょう。
正門である大手門のある新丸から見上げた現場の様子です。
こちら側は見てのとおり囲いしか見えない状態であったので、しばらく来ていませんでしたが、いつの間にか一の門の石垣に沿う大柱が立てられていました。
石垣を積んでいた二の門とにらみ櫓台をつなぐ部分はほぼ積み終わっていました。2段で積まれているんですね。1段目はほとんど土塁で見えなくなりますので、今の状態は貴重な状態です。
二の門の木工事は、櫓の本体部分である「軸組み」をほぼ終わり、屋根をかけるためにその勾配を構成する「小屋組み」がかなり進んでいる状態でした。
上の写真では鉄骨に隠れて小屋組みは見えにくいですが、下の写真では分かるでしょうか。
正月ということで二の丸御殿への正門である橋爪門には、藩政期の注連飾りが今年も再現されました。「数の子飾り」っていうのですよ。
金沢市指定民俗無形文化財 加賀万歳(かがまんざい)
北陸特有の重い空です。今日は昼から出かけて無料開放中の兼六園にやってきました。初売りや初詣の人が兼六園にもたくさん流れているようです。
兼六園を出ようかという時に大粒のあられが降ってきました。今日は帰るまでに2回あられが降ってくるという冬らしい天候でした。
今日の目的の第一は、金沢能楽美術館で開催される「加賀万歳」です。美術館も今日は無料公開です。初めて入りましたが、公演会場は3階の研修室ということでした。
演目の始めは「式三番叟(しきさんばそう)」。一番初めに必ず演じられ、館の永久と主人の長寿を祝うものだそうです。
2番目の演目は「町尽くし(まちづくし)」。金沢の町や寺社の名前を唄い込んでおり、金沢城周辺から、金沢の中心街、金沢駅周辺へと今ではなくなってしまった町名を含む数多くの町を巡るもので、今年の北國総研のふるさと講座でも話題のひとつとなるものですが、橋なども出てきましたね。
3番目の演目は「北国下道中」。加賀藩が参勤交代のときの道中を唄いあげたもので、北陸道・中山道を通り江戸に至るまでの道中の名所名物を軽快にたどっていくもので、12泊の宿場が出てきました。
アンコールで最後に「百人一首」が演じられました。
今回初めて本物の加賀万歳を見ましたが、非常に楽しいものでした。万歳というだけに合間に小話の掛け合いなどもあり、こんなに面白いものであれば来年も見に行こうと思いました。
今日は3箇所の初詣に行きました。
尾山神社は大勢の参拝客であふれていました。
近くの尾崎神社は人もまばらでした。
学問の神を祀る金沢神社は列が長かったので諦めました。
今日は尾山神社でおみくじを1つ買いました。