今年は私にとって景気の良い年ではありませんでした。ここ数年の疲れや蓄積がどっと出たような一年でしたが、唯一の安らぎはいつも元気な「うさ」でした。
ということで、今年最後の投稿は走り疲れて休んでいるかわいいうさで締めます。皆様よいお年を!!
月: 2007年12月
金沢市が歴史都市へ横断組織
金沢市は来年度、歴史都市・金沢の実現に向けて庁内横断組織を設置する。国土交通省が新設する 歴史的環境形成総合支援事業の第一号認定をにらみ、歴史資産そのものの保全、整備に加え、周辺の道路整備、景観向上といった多面的な施策を打ち出す。11月には歴史探訪の日(仮称)を荒田に設定し、市民がふるさとの豊かな歴史、文化に触れる機会も提供するなど、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産登録に向けた環境整備を強力に推し進める。
横断組織は「歴史都市推進チーム」で、都市政策、産業、市民、都市整備の四局十六課で構成される。歴史都市の実現に向けた戦略を推進する実働組織と位置付け、課長補佐級の職員をメンバーとする方向で調整する。市は世界遺産登録に向け、構成資産周辺の環境も重要な要素になるとみており、歴史都市実現の取り組みを通じて、「城下町金沢」の世界遺産登録に向けた弾みをつけたい考えである。
一方、歴史探訪の日は11月1日からの国の文化財保護強調週間に合わせて設定する。10-11月を「かなざわ歴史探訪月間」とし、普段は内部を見ることができない文化財の一般公開や歴史的用水、塩硝蔵、三寺院群をめぐる探訪ツアー、歴史文化講座、惣構学習塾といったイベントを集中的に展開する。事業開催では「石川県に世界遺産を」推進会議など関係団体に協力を求める。ふるさとの歴史遺産に対する市民の意識を高め、世界遺産登録に向けた機運を盛り上げる。(北國新聞2007年12月30日付記事より)
音楽CD誕生から25年 岐路に立つ
1982年の発売からあっという間にアナログレコードに変わった音楽CDが岐路に立たされているという。バブル崩壊以降音楽業界全体の売上の低迷という要因はあるものの、新鋭のネット音楽配信に押されているという一面が透けて見える。
ネット音楽配信はネット経由で自分の好きな曲だけを1曲数百円で買うことができる。アルバムとシングルを合わせたCDの生産額は、1998年の5878億円をピークに2006年まで8年連続で減少。2006年にはついに、ネット音楽配信の市場規模は534億円と、CDシングル生産額を超えたようだ。
音楽CDの最大の購買層である若者の動向もこの傾向を左右している。iPodや高機能化した携帯電話のおかげで、若者ほどネット音楽配信の購入額が大きい。携帯電話費に小遣いがとられているという指摘も数年前から叫ばれている。
ジャケットを含めたパッケージが欲しいという欲望は30代以上にやはり多いのか、CD売上ランキングとネットダウンロードランキングは年々乖離が進む。レコード大賞の意味が薄れるのは時間の問題かもしれない。
という私は購入額は随分と減ったが、まだまだCD信奉者である。
第4回金沢検定は11月9日
来年の金沢検定は11月9日に決定した。申込みは6月2日から。今年より一週間早くなるが、今年合格発表が年末ギリギリになってしまったことから早めたのだろう。
金沢 正月の準備、そして金沢城玉泉院丸石垣修復現場
昨日まで3日間は冬とは思えない晴天でした。本当は昨日の午後来るはずが、急に車のバッテリーが切れてしまい、うんともすんとも言わないので止む無く修理を呼ぶ羽目に。それにしても巡りあわせとはいえ今年はいろいろなものが故障しました。
余談はここまでして、本日小雨が降る中、金沢に出かけました。目的は金沢城の発掘と修復の現場見学です。
行く途中、所々正月の準備ができていました。長町の前田土佐守家資料館は土塀にこも掛けがされ、門には締め飾りが。
尾山神社も、神門の前には門松と門に締め飾りが。
昨年発掘調査現場説明会の開催された金沢城の玉泉院丸石垣修復現場です。すでに半分くらいが積み戻されていました。来年3月までにすべて修復されるそうで、外すときは非常に時間がかかりましたが、積むときは早いですね。
前のフェンスには工事の予定やこれまでの経緯の社員や発掘成果などが掲示されていました。
本当は城内にも入りたかったのですが、時間がなかったのと、雨でビニールシートを被っているということがわかったので帰途に着きました。
帰り際に、尾山神社の庭園の裏(南側)に辰巳用水の石管の説明板があることを発見。今まで何度も通っていたのに気づきませんでした。
ふと隣の奥まった空き地を見ると「尾山神社氷室跡地」の石碑と、後に立派な石垣があるではありませんか。尾山神社の地は元金沢城の金谷御殿のあった場所です。金谷御殿は前田家の跡継ぎなどが生活した屋敷のあった場所で、当然石垣で周りを囲まれていたものと思われます。現在尾山神社を取り巻く石垣のほとんどは近代になって構築されたと見えるものばかりですが、この部分は積み方からして江戸期のものが残っているような感じです。金沢城の石垣というと金沢城公園をめぐる道路の中のみを紹介しているので、もと城内であっても尾山神社については範疇外になっているのかもしれません。もしこの石垣が当時のものであるなら勿体無い話です。
首里城 無料ペーパークラフト
先日、キャノンのホームページの熊本城のペーパークラフトが出たことをお知らせしたところですが、なんと今日首里城を追加したという知らせが!?
今年の冬は幸せです。熊本城と首里城が作れますよ!!
合わせて、前回の姫路城と大阪城と4つも作れます。しかもタダで。紙と印刷代はかかりますが・・・
キャノン ペーパークラフト
七尾城の現状
年末最後の天気の良い数日になりそうですが、昼から先日、発掘現場説明会に参加した七尾城へ再度やってきました。
現場では今年最後の天候の良い日を活かそうと多くの作業員の方が作業しておりました。先日説明を受けた大手道はさらに調査が進み、脇の場所も調査されて、建物の柱跡とみられる穴が多く出ていました。
惣構堀の位置と推定される場所は頑丈な鉄骨のフレームの中で作業が行われていました。この辺りは田んぼが多く、少し下がると水が沸いてくるようで、見ていても大変な作業です。
その後七尾城本丸へ登りましたが、先日報道があったとおり、3月の能登半島地震で崩れた石垣に加え、豪雨で郭や土塁が崩れていました。
来年4月下旬から石垣については修復が始まるようです。野面積みという自然石を積む方式の石垣は一度下まですべて外してから積み直す他ないようで、時間がかかりそうです。石垣の積み直しは決定しているものの、貴重な郭や土塁の崩れも修復を願いたいものです。
金沢城復元 お墨付き
金沢城公園復元整備など国土交通省の補助対象に「城跡」が加わる。従来は公園施設整備として進められた金沢城の復元工事が、今後は城郭施設として国の「お墨付き」を得る格好となり、城下町金沢の風格に一層厚みを増すことにつながる。
現行の都市公園整備事業補助制度は対象がベンチなどの休憩施設や運動施設、教養活動施設に限られ、現在進行中の河北門整備は「教養施設」として、国の補助を受けている。対象への「城跡」の追加で櫓など歴史的施設の復元も補助の対象となり、河北門を皮切りにスタートした金沢城の第二期復元整備事業で、今後予定される橋爪門や宮守堀は「城郭施設」として国の支援を受けることになるとみられる。
国土交通省が創設する歴史的まちづくりの総合支援制度の一環で、城跡のほか、古墳の復元整備も補助対象となる。(北國新聞2007年12月23日付記事)
金沢検定 来年は中級だ!
2日間出張している間に、金沢検定の合格証書が来ていました。今回の得点は「92点」。予想していたよりも少し高い点数だったので、確信持てなかった問題も正解したものがあったようです。
しかし、今年の初級は初の満点も1名出て、すごい人だと感心します。今年は合格発表の翌日に、上級・中級合格者と初級の10代合格者のインタビューありましたが、先の満点合格者は主催者団体に加盟する企業の記者ということでインタビューはないのでしょうか。初の満点合格者のインタビューがないのは初もの好きな新聞社にしては控えめです。来年は中級受験者も増えて、また盛り上がることでしょう。
さて、今年からできた合格バッチは実物のデザインも非常にいい。が、表面にコーティングがしてあるですが、付いた指紋を指でこすると薄っすらと傷が残るようで、着色部分以外は鏡仕様になっているだけに目立ちます。これは保存用に「各級を2回ずつ合格しなさい」と言わんばかりですが、神経質なことを考えるのはやめましょう。
初級は合格証書、合格カード、合格バッチとすべて前田家の家紋である「剣梅鉢紋」がデザインされておりお気に入りです。来年は中級に挑戦です。
長野紀行 坂城・千曲市
今日は講演会の日でした。朝からどんよりとした雲が垂れ込める天候ではありましたが、1日降らずに持ちこたえてくれたので、行動しやすい日でした。
朝、当初昨日の予定に組み込んで行けなかった坂城へ行きました。到着するとまだ施設の開館時間には間があったので、春にも訪れた場所へ行きました。村上義清公墓所と村上氏居館跡ですが、坂城には村上氏の面影が色濃く残っています。
前回は時間の都合で訪れなかった「坂城宿ふるさと歴史館」に行きました。3階建の立派な和建築ですが、地元の方のふるさと歴史学習の場として活用されています。今年はNHK大河の影響で観光客が非常に多かったとか。まあ私も大河終わったので、企画展示終らないうちに見に来た口ですが・・・
展示物は村上氏の歴史に関連して、出自や武田氏との攻防、上杉氏家臣時代など、いい意味で裏切られるほど充実していました。1階が村上氏関連、2階が坂城宿関連でした。大河にあわせた企画のように見えましたが、実は常設展らしいです。坂城を訪れる方はこの場所は訪れたほうがいいですよ。
講演会の会場である長野県立歴史館へ向かう途中で、村上氏が武田氏に敗れて逃走した「笄の渡し」碑を見てきました。
(※現在の笄橋の近くで国道18号線沿いにあります。坂城から長野方面へ向かう車線から駐車場に入れます。)
県立歴史館は山頂に森将軍塚古墳のある山の麓にあります。現在は企画展「武田・上杉・信濃武士」が開催中で、信濃の土着武士たちの武田氏、上杉氏との関係をテーマに展示されています。
講演会の先に企画展と常設展を見てまわり、講演会「築城と破却 川中島をめぐる城の争奪」を聞きました。会場は多くの地元の方でほぼ満席状態でした。武田氏と上杉氏の攻防の中で信濃の城が破却されている状況を考古学の発掘調査結果を踏まえて、非常に内容の濃い講演でした。
講演会が終わり、帰路に着いたのですが、折角なので道程のスポットを訪れながら長野インターへ向いました。
川中島の戦いは全5回を数えますが、中でも第4回が最も有名です。武田軍は千曲川沿いに海津城(現在の松代城)に布陣、上杉軍は妻女山に布陣、謙信は霧にまぎれて妻女山を降りて千曲川を渡ります。謙信が渡った場所が「雨宮の渡し」ですが、現在その場所から千曲川は結構離れてしまっています。
上杉方が陣取った妻女山は車でも登れるようですが、麓の清野小学校付近から徒歩でも登ることができます。入口には鳥居がありますが、これは近代になって頂上に招魂社が建てられたための参道入口となったからだと思われます。頂上までは約7分。意外にも高くない山です。
頂上の展望台付近はどこまで当時のものかわかりませんが、平坦地や土塁跡も見ることができます。
展望台に登り、松代城(もと海津城)を探します。誰もが思うことでしょうが、武田軍・上杉軍両軍は相手方をどれだけ監視できたのか、という疑問です。
曇った天候のもとでは肉眼ではまったく位置を確認できませんでした。先日新調した望遠デジタルカメラを最大望遠にして松代城を捜すこと10分、ようやく見つけました。
上の写真の中央を拡大すると下の写真となります。手前の住宅で見えにくいですが、天守台と北不明門を横のアングルでみることができます。確かに、田畑の広がる当時の景色の中にあっては、お互いに相手の動向が見えたことでしょう。