本日、さわやかな晴天の中きくざくら学習会が開催されました。今回は、植物の会と合同です。
兼六園と金沢城の紅葉をガイドブック「金沢城・兼六園 花めぐりマップ ~秋・冬コース~」を参照しながら巡りました。ガイドブックは金沢城二の丸休憩所で入手できますが、記載は一部間違いもあるようです。
自分では趣味はかなり窓口が広いという自負があるのですが、今回も関心が広がるかどうかと思って参加したのですが、自分には合いません。人工物には興味あっても自然は人工物の背景なんですよね、気持ち的には。紅葉も建物に秋のよそおいを添える景色です。何もない山城跡にはいくら急峻でも登っていくことは厭いませんが、どれだけ緩い山でも登山には積極的に参加できない性分です。会の皆さんには申し訳ないです。
月: 2007年11月
安土城紀行
文化晴れの1日となった本日、安土町で1日過ごしました。まず朝一で安土町立城郭資料館に向かいました。何度も安土城へ来ていますがここへ来たことはありませんでした。電車で来れば寄っていたのでしょうが、いつも車なので・・・
JR安土駅に隣接して南側に資料館はあります。喫茶店が併設されて、資料館の受付と両方担当するようです。
入るとショーケースに日本100名城に認定された賞状が飾られていました。安土城だけではなく、観音寺城のものも一緒に並べてありました。
見所はなんといっても20分の1の安土城天主の模型ですが、迫力満点です。中央から少しずれたところで割れて中を再現しています。望楼の高欄からは信長も城下を眺めていました。
他にも、信長がセミナリヨに寄贈し、後にローマ教皇に献上された安土南蛮図屏風も再現されています。安土城の描写をじっくりと楽しめました。今まで来ていなかったことを少し後悔しました。
見学が終わると、安土駅前北側の信長像を写真にとって、安土城発掘調査現場説明会に向かいました。予想はしていましたが大勢の人です。安土城城郭研究所の方々もここまで多いとは予想していなかったらしく、約250名の見学者を5班に分けて説明することになりました。
今回は春に整備された大手入口の石塁の解説と、南山麓の帯曲輪で見つかった未知の虎口と階段の案内です。平成元年度に始まった「特別史跡安土城跡調査整備事業」は20年計画で現在最終段階に入りましたが、まだまだ謎の全解明には息の長い調査が必要なようです。今回の発掘調査でも従来の安土城の姿がまた書き換えられました。
コスモスが咲き乱れる安土城考古博物館前ですが、午後は開館15周年記念講演会として開催される「織田信長の時代」に参加しました。場所は博物館ではなく、隣の文芸セミナリヨです。
残念ながら録音と録画が禁止ということで、写真は始まる前に撮ったこの1枚だけです。講演前には中央のパイプオルガンのミニ演奏会もありました。オルガンは信長がセミナリヨに置いたのが日本最初と言われることから、安土町にパイプオルガンを、ということになったようですが、音色は地元金沢の金沢音楽堂のほうが最新設備で良いように感じました。
講師は大阪大学名誉教授の脇田修氏です。信長の時代的評価に関して一般論を誤解している部分がありましたが、「家臣の統率方針」「経済政策」の面で織田信長と豊臣秀吉との間には明らかな違いがあるという論調は新鮮でした。武士の出身地を本領地として与える習慣をなくしたのは秀吉であり、また一家を城下に集住させるようにしたのも秀吉。信長の時代は地侍の習慣をまだひきずっていたようです。破壊のイメージの強い信長の政策である「関所撤廃」や「楽市楽座」も、尾張・美濃時代が中心であり、京では旧勢力に配慮してか関所も座(旧流通組織)も残しているようです。むしろ秀吉が農民出身という身分の違いから容易に破壊的な政策を実行できたようです。
時代の変わり目はまさにここにあり、信長は戦国、秀吉は近世と分けるのが適切なようです。
秋季特別展 三好長慶の時代
大津に車をおいてJR新快速で高槻市にやってました。学生のとき京都から新快速に乗って大阪によく行きましたが、途中で特急の雷鳥を抜いてゆくのでどういうことかと思っていたことを思い出しました。北陸出身の私は雷鳥に乗っているときに、逆に新快速に抜かれてゆくのです。
余談はここまでにして、目的は高槻市立しろあと歴史館で開催中の特別展「三好長慶の時代」です。時代劇チャンネルで再放送中の「信長 KING OF JIPANGU」は先日ちょうど信長が上洛して三好一族を追い払うという場面を放送しましたが、今回の展示は私にとってジャストでした。
三好長慶と松永久秀は後世において悪役として扱われることが多く、元来人気がないキャラと思っていましたが、三好長慶は高槻占有時に善政を敷いていたようで、現在でも水の神として祀る地域があるようです。
今回、芥川城跡の展示がいくつかありました。芥川城は畿内最大級の山城で、近世の高槻城の北方向にあります。織田信長が三好一族を追い払って入京する思案をした拠点も、ここだそうです。地理的には京を随分通り過ぎているように思いますが、昔の占領の考え方はあくまで点(拠点となる城や村)なのでしょうね。今回は随分と三好一族を見直すきっかけになった展示でした。
特別展のあと、無料の平常展を見ましたが、高槻城の石垣の積み方に関する大きな模型(発掘の成果を復元)がありました。高槻城の地盤は柔らかかったため、そのまま石垣を積むと沈んで傾くため、底に木材で土台を敷き、その上に石垣を積んでいたようです。初めて見る技法でしたが、納得の技法ではないでしょうか。石垣の発掘調査では、基部と言われる最下部の石垣まで掘り起こし、その下は掘っていないことが多いのですが、もしかすると、地盤が柔らかい場所では同様の技法が使用されているところがあるかもしれません。
高槻市立しろあと歴史館
歴史館で「高槻の史跡」というガイドブックを購入し、それを片手に市内の史跡めぐりをしてきました。
高山右近高槻天主教会堂跡
※高槻城主高山右近がキリスト教布教の拠点とした城内の教会堂
城跡公園の入口付近にある高槻城跡石碑
城跡公園の中にある高山右近像
城跡公園内の池
高槻城の大手跡(正門出入口)
本行寺
※日蓮宗寺院だが、表門が高槻城高麗門と言われている。
企画展 戦国の大津
大津市歴史博物館に企画展「戦国の大津」を見にやってきました。今回の企画展は大津市にある「大津城跡」「膳所城跡」「坂本城跡」の遺物を展示するものです。今回の展示であらためて膳所城の遺構が多く残っていることを再認識しました。いつかゆっくりとすべてを巡ってみたいです。
今回、特別に今年8月京都本能寺跡(第4次、本能寺の変のあった場所)から発掘された瓦や、聚楽第と伏見城の遺物も展示されていました。つい最近の遺物も本家本元の現在の本能寺宝物殿ではなくて、ここに展示されているとは!!意外です。でも遠くの発掘現地調査会には簡単には参加できないので実際に見ることができてうれしいです。写真撮れないのが残念ですが・・・。企画展図録にも収録されていないので来た方だけの特典というところでしょうか。
初めて行ったので平常展も見てきましたが、広かったのでゆっくり見ている時間がありませんでした。到着時間が予定より遅れたことも原因ですが、ここまで広いとも思っていなかったので、これは次回出直しです。
今回は早く到着すれば坂本も見学する予定でしたが、これは3日ぐらい大津だけで見学に来ないとすべて見て回れないかもしれませんね。
大津市歴史博物館
金沢城大学 よみがえる金沢城3
本日、11月に入るなり肌寒い1日でしたが、金沢城大学第四回が行われました。
今回は金沢城調査研究所の石野友康氏による「よみがえる金沢城」の3回目です。対象は本書の第4
章・第5章で、五代綱紀と宝暦の大火が対象です。石野氏は研究所のなかで絵図・文献担当だそうです。
五代綱紀は御三家に次ぐ家格を非常に意識していた藩主であり、金沢城をそれにふさわしくなるよう多くの改築を行っています。時は元禄の将軍綱吉の時代です。綱紀が蒐集した古文書や美術品は蔵4棟一杯になったともいわれ、現在の尊経閣文庫の名の由来となっています。
金沢城の二度の大火、宝暦の大火と文化の大火。宝暦の大火のあとは財政難だったため、二の丸御殿は大広間や表能舞台は再見されず、寛政の大地震、文化の大火を経てようやく再建されたようです。
寛政の大地震は1799年となるが、金沢を襲った直下型地震であり、城内や城下にも大きな被害が出たということであったが、あまり解明が進んでいないのか、金沢城略年表には省略されることが多く、金沢市史通史編にもその記述はないようである。それほど大きな地震が200年前にあったということでその詳細を知りたくなった。
前回に続き、「よみがえる金沢城」の訂正点を2点。
・77ページの「一万四〇〇〇貫目」という記述が正しくは、「一五〇〇貫目」。
・77ページの奥村支流の「温良」に金沢城代の色がついているが、正しくは無色(城代にはなっていない)。