金沢城大学 歴史文化コースも今日で終わりです。今回は金沢城調査研究所の冨田氏による「石切丁場と石垣普請」という講演でした。冨田氏には城内石垣ツアーやキゴ山ツアーなどで何度か石垣に関する解説を聞かせてもらいましたが、こういう学習タイプの講演は初めてでした。
金沢城の石材研究も、すでに他地域の石材利用との比較というステージにあるようですが、石垣といえば今でも「刻印」が気になる人が多いようです。
以前は家臣の家紋と言われていましたが、天下普請の城でない金沢城では最近はその説は違うと言われています。現在は石切集団単位の縄張りを示す印と言われていたり、そもそも家臣の家紋と最初に言われた根拠となった絵図上の記号も、1,2,3,・・・、イロハニ・・・のような序列を表すものに過ぎないのではと言われていたりするそうです。この謎はタイムマシーンに乗って、当時に人に聞きに行かないと本当のところは分からないのかもしれません。
講義終了後、閉所式が行われ修了証書をいただきました。2年間受講しましたが、興味の尽きない、貴重な話題を提供してもらいました。来年度も続くそうですが、私は就業形態が変わるので来年度は受けることはできないでしょう。もしこの先何十年も続くようであれば、また受けたいと思います。
そういえば、「よみがえる金沢城」(北國新聞社刊)ですが、来春には第二巻がでるようです。楽しみですね。
カテゴリー: 平成19年度金沢城大学
平成19年度金沢城大学 城と庭の探究講座2
本日は、「大名庭園と兼六園と武家の庭園都市金沢」というテーマで、有限会社龍居庭園研究所所長の龍居竹之介氏の講演でした。
氏によると兼六園の面白さは、「藩の基礎を築いた初代から三代までが庭園に全く関与していない」「本格的な造営が12代・13代と遅かったにもかかわらず幕府が許している」という点だそうです。また、兼六園を含む金沢の魅力としては、城を中心に、大名家の庭(兼六園、成巽閣)、重臣家の庭(松風閣)、家臣家の庭(脇田氏の玉泉園)が一画に密集していることで、さらにそれらが同じ辰巳用水でつながっていることだそうです。この点は世界遺産に向けてアピールできますね。
また、最後に面白い話を聞きました。東京は雪が積もらないのに雪吊りするのはなぜか、ということですが、あれは「化粧の雪吊り」と呼ばれるもので、料亭などが殺風景な玄関に雪の風情を演出するための飾りで、実際に雪が積もれば役に立たないそうです。
平成19年度金沢城大学 「安土城と城下町」
本日は雪の中、遠路わざわざ安土から近藤滋氏がいらっしゃいました。近藤氏は平成17年度から安土城郭調査研究所の所長をやっています。テーマは昨年度安土城発掘調査に一区切りをつけ、来年度整備計画報告をまとめるにあたり、19年の調査成果からみる「安土城と城下町」です。
安土城に関しては、調査が公的な安土城郭調査研究所が行っているものの、土地は信長の創建した摠見寺の私有地であるため、いろいろと悩みもあるようです。その最たるものが郭の名称。大手道の両脇に羽柴秀吉邸、前田利家邸などの家臣邸が現在は立て看板にも説明されています。
信長逝去百年を祝って江戸時代に作られた「安土古城図」には、羽柴秀吉邸と大手道を挟んで書かれているのが徳川家康邸、家臣でもない同盟国の国主の居館が安土にあるのはいかにもおかしく、その後、羽柴秀吉邸の前は仲の良い前田利家邸だろうということになったそうですが、前田利家邸が書かれた文書・古図は実はないそうです。また大手入口の江藤邸跡、江藤という姓の部将はいまだに信長の家臣に発見されていないそうで、一体誰なんでしょうか。
まだいろいろな話がありましたが、そのあたりはどこまで整備報告書に盛られるのか楽しみですね。安土城の姿はここ10年で大幅に変わりました。それでも以前の発掘調査説明会では安土山の一割も調査が終了したわけではなく、生きている間には全容解明されなさそうです。
最近の講演会の中では、織豊期は中世か近世か、ということがよく話題になります。何をもって中世とするか、近世とするかというのは難しいですが、混在した過度期であったことは確かなようです。
平成19年度金沢城大学 鳥取城からみた金沢城
年明け初めての講義です。早いもので10回講義も残り3回となりました。
講義の初めに予告どおり「第1回 金沢城検定」が行われました。予習忘れていました。全30問でしたが、なかなかに手応えのある難問も多数ありました。結果は24点、なかなかの出来です。この結果が来年度の金沢城大学の講義内容に活かされることでしょう。
さて、今日は今年度から金沢城調査研究所に参加されたという細田隆博氏による「鳥取城からみた金沢城」でした。
なぜ、「金沢城」との比較が「鳥取城」なのか?その謎はすぐに解けました、細田氏は鳥取県の出身だからだそうです。しかし、ただそれだけというわけでは当然なく、鳥取県は「鳥取池田藩」(多くの場合「岡山池田藩」との差別化としてそう称するようです)32万石の大藩であり、江戸幕府における家格も第一級でした。
そうしたことから前田家とのつながりもあり、3代池田吉泰の正室は、5代綱吉の娘「敬姫」、13代池田慶栄は13代前田斉成泰の息子であるが、池田家に養氏として入っている。東京には大藩ならではの残りものがあり、前田家は加賀藩上屋敷の御守殿門、東大の赤門として知られる。池田家は江戸屋敷の表門、上野の黒門と呼ばれ、私は始めて知ったが立派な門が残っている。
鳥取市は県庁所在地でありながら、金沢市同様、空襲による被害がなかったので、城下町の町割りが非常によく残っているそうだ。以前一度鳥取城に訪れたことがあるが、こじんまりした風情ある町でした。時間をあまり取っていなかったため、城へは登ったが城下町はほとんど見れず、また、鳥取城攻めのとき豊臣秀吉が陣取った「太閤ヶ平」(鳥取城と一体で国指定史跡)は当時知る由もありませんでした。
鳥取城でも現在整備計画が進行中であり、平成30年頃までには大手登城路が幕末の姿に復元されるようだ。楽しみである。
平成19年度金沢城大学 豊臣秀吉の大坂城と城下町
今日は、大阪城天守閣館長の松尾伸裕氏による講義でした。
大阪の街は、大きく難波宮、大坂本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城と変遷するのですが、土層の判別は1583年の大坂本願寺炎上時と1615年大坂夏の陣で豊臣大坂城炎上時の2度の焼土層のおかげでわかりやすいそうです。そうした特長のなか織豊期における陶磁器の流通状況が鮮明にわかり、他の知識の時代特定にも役に立つそうです。
現在、大阪城公園は国史跡のため、水道管埋設工事でもないかぎりは埋蔵物発掘調査は行えず、豊臣大坂城をすっぽり覆って徳川大坂城が作られた現状においては、豊臣時代の遺物の発見もままならないようです。それでも過去9mもの石垣が地下に眠っているのを発見したこともあるそうですが、いまだに大坂本願寺の遺構がまったく見つかっていないのが残念です。現在の本丸を10m以上掘れば出てくるのではないかと言われていました。
そういう状況もあってか、大阪人の秀吉びいきや家康嫌いはいまだに根強く、真田幸村も人気あるそうです(これは展示会の客入りに断然差がつくのだそうです)。
金沢城大学 よみがえる金沢城5
本日、金沢城大学のテキスト「よみがえる金沢城」を使用した最終講義でした。講師は金沢城調査研究所の加藤克郎氏です。加藤氏は発掘調査担当です。
幕末の加賀藩の状況を、当時の事件と絡めながら説明を受け、異国船への備えという目的において、先日金沢市指定文化財となった鶴丸倉庫などの武器庫が建築されたのであろうということでした。名の由来となっている「鶴の丸」は、現在鶴丸倉庫が建つ本丸付段の1段下であり、なぜ鶴丸と名付けられたのか不明ということですが、土蔵は他に、大阪城、二条城、高知城、宇和島城など全国的にも数が少なく貴重であるということです。
現在の金沢城に関係する発掘調査の成果から、玉泉院丸の修理中の石垣は記録がないが、根石まで近代に積み直されていることが判明したり、土清水塩硝蔵跡では土蔵の基礎や土蔵を囲む堀の跡が見つかったと聞きました。
金沢城大学 よみがえる金沢城4
今年は秋が短かったような気がしますが、紅葉と雪のコントラストも良いですね。
本日はテキスト「よみがえる金沢城」を使用した講義の4回目。講師は石川県立歴史博物館の濱岡伸也氏です。濱岡氏の軽快なトークで、文化の大火後の二の丸御殿の再建前後の話を聞きました。
江戸後期になると幕府や藩など士階級はどこも財政難だったわけですが、商人はいろいろな投資ビジネスを行なって大変裕福であり、農民にしてもある程度の余裕はあったようです。文化の大火が1808年、1780年に東本願寺焼失、この30年ほど前の出来事が古文献に残っており、北陸からは村や寺単位で寄付を京へ持参しているそうです。中には修理が終わるまで10年間帰らずに労役を提供した者までいるということで、この話、前にどこかで聞きましたが、農民にもある程度の余裕が生まれていたことの証明です。
金沢城大学 よみがえる金沢城3
本日、11月に入るなり肌寒い1日でしたが、金沢城大学第四回が行われました。
今回は金沢城調査研究所の石野友康氏による「よみがえる金沢城」の3回目です。対象は本書の第4
章・第5章で、五代綱紀と宝暦の大火が対象です。石野氏は研究所のなかで絵図・文献担当だそうです。
五代綱紀は御三家に次ぐ家格を非常に意識していた藩主であり、金沢城をそれにふさわしくなるよう多くの改築を行っています。時は元禄の将軍綱吉の時代です。綱紀が蒐集した古文書や美術品は蔵4棟一杯になったともいわれ、現在の尊経閣文庫の名の由来となっています。
金沢城の二度の大火、宝暦の大火と文化の大火。宝暦の大火のあとは財政難だったため、二の丸御殿は大広間や表能舞台は再見されず、寛政の大地震、文化の大火を経てようやく再建されたようです。
寛政の大地震は1799年となるが、金沢を襲った直下型地震であり、城内や城下にも大きな被害が出たということであったが、あまり解明が進んでいないのか、金沢城略年表には省略されることが多く、金沢市史通史編にもその記述はないようである。それほど大きな地震が200年前にあったということでその詳細を知りたくなった。
前回に続き、「よみがえる金沢城」の訂正点を2点。
・77ページの「一万四〇〇〇貫目」という記述が正しくは、「一五〇〇貫目」。
・77ページの奥村支流の「温良」に金沢城代の色がついているが、正しくは無色(城代にはなっていない)。
金沢城大学 歴史・文化コース 第3回
本日、金沢城大学の第3回目です。前回は公開講座だったので、実質2回目になります。1回目に引続き、テキスト「よみがえる金沢城1」を使った解説講座です。本日の講師は、金沢城調査研究所の正見泰氏です。本研究所で唯一の建築担当だそうです。
大坂の陣後の一国一城令により、加賀藩も金沢城を残して一旦廃城となったようだが、小松城は三代利常の隠居城として修復され、富山城は利常隠居後の富山藩分藩の際に修復された。同時期に大聖寺藩も分藩されているが、古来の大聖寺城は修復されず、城下に陣屋を構えている。大聖寺藩は城の修復が認められなかったようだが、理由はよくわからない。
ちなみに、小松城には二層三階の天守風建造物があったようだが、会津若松城の庭にあった三階数奇屋風建物に類似していたものかどうかという話があった。
テキストとして使用している「よみがえる金沢城1」(北國新聞社)の67ページに1箇所訂正があります。
「花熨斗型釘隠金具」 → 「花熨斗形釘隠金具」
金沢城大学公開講座 シンポジウム「金沢城と伝統技術」
本日、金沢城研究調査室が金沢城調査研究所に格上げになった記念として、また金沢城大学の公開講座としてシンポジウム「金沢城と伝統技術」が県文教会館で行われました。前日の新聞報道によりかなりの人が来ています・・・と思っていたら案外少なかったです。建造物や石垣がテーマのときはもっと多かったのですが、連休だったためか、土曜日開催だったためか、テーマの問題か、よく分かりません。
講演は京都造形芸術大学教授の中村利則氏による「建築史からみた金沢の伝統技術」。前日の新聞記事はネタばらしかと思っていましたが、最後に少し触れただけでした。
金沢や江戸前田藩邸には室町幕府に仕えた名工達が大勢召抱えられ、徳川江戸幕府以上に室町時代からの伝統技術の本流にあった、という話は地元民として誇らしいとともに、外様として芸術重視政策で幕府の目を逃れた面もあるのかと想像してしまいました。
講演のあとは、パネルディスカッションとして、金沢城調査研究所副所長の木越氏をコーディネーターとして、中村氏、金沢城調査研究所所長の北垣氏、県立美術館館長の嶋崎氏、金沢美術工芸大学教授の太田氏、長岡造形大学教授の飛田氏の5氏をパネラーに迎えて、江戸時代の伝統技術の継承に関して意見交換が行われました。
江戸時代の伝統技術は寛永期がひとつの興隆期であり、華やかな意匠や異なる形状の共存といった部分においては加賀前田藩は他の追従を許さないようである。華やかな意匠のシンボル的存在の二の丸御殿と異なる形状の共存のシンボル的存在である辰巳櫓、生きているうちに復元された姿を拝みたいものである。