近世富山城築城当時の1605(慶長10)年ごろに製作されたと見られる、前田家の家紋「梅鉢紋」が入った瓦が、石垣上の土中から6日までに見つかった。
加賀藩から富山藩が分かれる前の慶長年間に作られた梅鉢紋瓦は、これまで金沢城でも出土していない。富山城では現在、伝統的工法による石垣の改修工事が行われており、梅鉢紋瓦は城の東側の石垣上を覆う土の中から計8個が出土。いずれも直径約14センチ、厚さ約4センチの軒丸瓦で、1639(寛永16)年に富山藩が分かれる以前に用いられた形状の紋が入っている。表面が平たくなっていることから、金箔を施していたとも考えられる。(北国新聞 2006.7.7付け記事より)
カテゴリー: 城郭さんぽ日記
利長墓所の外堀遺構か?休耕田に江戸期の溝
高岡市教育委員会が金沢市の前田家墓所との一体的な国史跡指定に向け調査を進めている前田利長墓所付近の休耕田で、江戸時代に築造されたとみられる溝の一部が見つかった。市教育委員会は、利長墓所の周囲にあった外堀の一部である可能性が高いとしている。
外堀関連の遺構が見つかったのは初めて。国宝瑞龍寺に使用されたものと同じ江戸期の燻瓦(いぶしがわら)のほか、陶磁器、漆器などの遺物も多数確認された。
確認された溝は利長墓所の外堀の一部分とみられる。市教育委員会によると、明治後期の墓所の周辺地図「利長廟域図」に記載されている外堀の位置とほぼ一致するという。(北國新聞2006.6.20付記事)
金沢城と金沢城下町
このほど地元の北國新聞社から出版された「北國文華 2006夏」号に久しぶりに金沢城に関する記事が掲載されていたので、仕事の合間に読んでみた。地元に居ると近すぎて見えないことはたくさんあると気づかされる。
本誌のなかで、静岡大学教授の小和田哲男氏の寄稿文「金沢城の見どころ、考えどころ」という記事がある。小和田氏は中世史の第一人者であり、現在放映中のNHK大河「功名が辻」の時代考証を担当していることでも知られる。
小和田氏が学生の頃からの金沢のファンであったことは地元人としてうれしい。数年前までは城内に金沢城があった。私が大学へ進学するときはちょうど現在の角間キャンパスに移動した頃だった。
氏が金沢の見どころとして、
「全国には、城だけ残っているところはたくさんあり、城下町だけ残っているところも何ヵ所かある。しかし、金沢のように城と城下町の両方が一体化して絶妙な具合で残っているところはそうはない。これあけの県庁所在地でありながら、昔の名残があるのは素晴らしい。」
と記している。
現在進んでいる金沢城の復元事業がさらにこの魅力を増してくれることを願っている。
一向一揆歴史館が道の駅として整備されました
春季企画展「白山麓を走った鉄道展」を見に、白山市(旧鳥越村)の一向一揆歴史館へいってきました。今までは一向一揆に関係する企画展を春・秋に開催してきましたが、合併記念というべきか、今回は鶴来博物館との共同開催です。昭和62年まで鳥越には鉄道が走っていたのですね。
一向一揆歴史館のある場所は、道の駅として整備され、食彩館せせらぎが建っていました。手打ちそば処と地域特産品直売所が併設されていました。手打ちそば処で「冷しなめこそば」を食べました。旬のなめこ入りそばはおいしかったです。帰りに直売所でお買い得な「なめこ」を買いました。
鳥越城にも久しぶりに登ってきました。本丸に至る道路はきれいに整備されていました。今年の雪は深かったためか、板葺きの復元建物は板の傷みが目立ちました。
包装用台紙が完成!!
包装用の台紙が仕上がってきました。当初、表が白色、裏が灰色のボール紙を想定していたのですが、トムソン(金属の歯型により切断していく機械)で本番何枚か成型した結果、キーホルダーを抑える部分が割れてくることが発覚しました。
折り部分が細いことが原因でしたが、テストのときは分からなかったです。簡単にいうと、テストのときはカッターで切るように点で成型したのに比べ、本番は歯形を上から一気に押し付けて成型するので切断の切り口に力が入りやすくなるということです。包装用とはいえ商品につけるものがこれでは見栄えも悪いので、両面白色の合紙(ボール紙のような張り合わせ)ではないタイプの紙に急遽変更して作成しました。おかげでとてもよい台紙になりました。
あとは解説紙を作成して販売するだけなのですが・・・サイト作りに没頭するほど時間がありません。
七尾城跡に金の付着した「るつぼ」出土
戦国城下町で全国初出土
石川県埋蔵文化財センターは30日、戦国期の七尾城跡から出土したるつぼに、金に銀や銅を混ぜた合金が付着していたと発表した。るつぼは金属を溶かすために使用された土製の容器で、金の溶解に使用されたるつぼの発表は全国で六例目。戦国期の城下町からの出土品では初めてとなる。
同センターでは、七尾城を居城としていた戦国期の大名、能登畠山氏が城下町に職人を集め、金の精製から加工を行っていた可能性を示す貴重な資料としている。
るつぼは出土した場所は、竪穴状の遺構や鉄を加工した際の破片が見つかっていることなどから、七尾城下の鍛冶工房群だったと見られる。今回の発掘では、るつぼとともに、金箔や金箔を張った板、刀装具や具足の一部が見つかっており、同センターではこれらの出土品に合金を使用した可能性があるとしている。
(北國新聞2006年5月31日付記事より)
金沢城 河北門09年度復元に向けて来年度に着工
金沢城の実質的な表門だった河北門が2009年度末に復元される。石川県は今年度中に実施設計と埋蔵文化財調査を終え、来年度に工事に着工する。水堀化される宮守(いもり)堀に突き出す鯉侯櫓台石垣の復元に向けた調査も始まる。
石川県は今年度中に県民参加型PR事業実施計画も策定する。復元作業のボランティア参加や、埋蔵文化財調査と工事の現場見学、公開講座、ガイドツアーなどを通じ、河北門を皮切りとする「平成の築城」第二幕への県民の意識高揚を図る狙いである。海鼠塀の瓦を県民の寄付とするなど、募金方式による財源調達の在り方も検討する。金沢城復元整備計画を紹介するリーフレットも作成する。
(北國新聞2006年5月31日付記事より)
富山城の石垣調査
富山市文化財センターは18日までに、富山城の石垣の調査に着手した。初めて石垣を掘り返し、内部構造などを調べる。調査は、富山城の東と南側の石垣が対象で、補修工事に合わせて実施する。石垣の一部を一度取り外し、内部を調べるなどした上で、積み直す。調査、工事期間は9月末までの予定である。(北國新聞 2006年5月19日付記事より)
前田家墓所に金沢城と同じ最新石垣技術
江戸中期、金沢市野田山の前田家墓所に造られた加賀藩十代藩主の墓に、金沢城の石垣築造に用いられた当時の最新技術が導入されていることが、15日までの金沢市埋蔵文化財センターの調べで分かった。
石材と石材をつなぎ合わせるための金具で、同センターは、ほとんど研究が進んでいない前田家墓所と金沢城の関連を考える上で貴重な発見としている。
金沢城と同じ技術が用いられているのは、1786年(天明6年)に亡くなった十代藩主前田重教を埋葬した石室。石室はブロック室の石材を組み合わせて造られており、石材と石材を強固につなぎ合わせる「ちぎり」という鉛製金具が使われていることが、文献調査から明らかになった。
この「ちぎり」は金沢城の石垣では、1759年(宝暦9年)の「宝暦の大火」で焼けた河北門などの修築で初めて使われたとされ、金沢城で導入されたばかりの最新技術が、藩で最も重要な場所の一つである藩主の墓所に応用されたとみられる。(北國新聞 平成18年5月16日付記事より)
今回の発表を見て、初めて石垣をとめる金具を使った工法があったことを知りました。びっくりです!!
加賀・越前に生まれた者は、一生に一度は白山に登山すべし
石川県立図書館史料編さん室では、戦国時代の白山信仰がうかがえる史料を収録した「加能史料 戦国Ⅴ」を発刊した。
収録されたのは「白山禅頂私記」。1508年、加賀国井家荘領家方福久村(現在の金沢市福久町付近)にあった千寿院の僧侶、勝慶が書写したもので、白山の霊験、神徳、説話が記されている。
加賀馬場側からの信仰として特徴的なのは、
・白山禅頂に参詣する者は、舟岡の流れ(現在の安久つの淵)で身を清め、白山本宮に詣でた後に登ること
・加賀・越前に生まれた者は一生に一度は白山に登るべきこと
・この書を人に見せる場合、白山登頂を約束させた後に見せること
など信仰と布教の様子が詳細に書かれている。
北國新聞2006年5月5日付記事より