兼六園や岡山の後楽園など全国5ヵ所の大名庭園で、学習会やボランティアガイドに取り組む民間団体が、「大名庭園民間交流協議会」を結成することで合意し、26日に金沢で設立総会を開くことになった。当初は兼六園の一般向け講座などに取り組む金沢城・兼六園研究会が事務所を務める。協議会では毎年まちづくりに関するテーマを決めて活動や情報交換を行い、加盟団体が相互交流するなどして観光面でも協力していく。
加盟団体は以下のとおり。
兼六園(金沢市) 金沢城・兼六園研究会
偕楽園公園(水戸市) 偕楽園公園を愛する市民の会
小石川後楽園(東京文京区) 小石川後楽園庭園保存会
岡山後楽園(岡山市) 岡山藩郡代・津田永忠顕彰会
栗林公園(高松市) 栗林公園ボランティアガイドグラブ
(北國新聞 2006年10月24日付記事)
カテゴリー: 城郭さんぽ日記
河北門復元 来月に専門委員会初会合
石川県は、金沢城の河北門の復元整備に向け、11月下旬に学識経験者6人で構成する専門委員会の初会合を開く。専門委員会では、同門の整備だけでなく、宮守堀の水堀化も取り上げる予定。県は設計段階に加え、工事着手から完成までの作業の節目ごとに、専門委員会を開いて助言を受けたいとしている。
県では、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓を復元する際にも、各分野の学識経験者を集めた「金沢城址の石垣、櫓に関する修築・復元専門委員会」を設置している。今回の委員は次の各氏。
北浦勝(金沢大学自然科学研究科教授)
北垣總一郎(元東大阪短大教授)
北野博司(東北芸術工科大助教授)
中村利則(京都造形芸術大教授)
新谷洋二(東大名誉教授)
平井聖(昭和女子大学長)
(北國新聞 2006年10月24日付記事)
金沢城跡玉泉院丸南西石垣現地説明会
玉泉院丸南西石垣の解体修築に伴う現地説明会に行ってきました。当日は晴天にもめぐまれ、多くの見学者が集まったため、2班に分かれての説明となりました。工事を担当する方から石垣の積み直しをどのように行なっているのかなどの説明を聞きました。40年前まではここにも石川門の周りにあるような土塀があったという話もありました。今回の工事部分の裏側から絵図にない石積みも発見され、特徴から初期のものだそうです。
後半は、玉泉院丸を外側から説明を受け、鼠多門のあった部分の石垣の説明を受けました。この石垣はいままで草に覆われていて様相がはっきりと判別できない状況にありましたが、今回すっきりと石垣が見えるようになり、橋のかかる部分の石垣が力に耐えるように加工されている様子などを確認できるようになりました。
金沢城 藩政期の石積み技法 明治期にも
金沢城公園の玉泉院丸南西石垣が明治期に補修された際、藩政期の石積み技法が用いられていたことが20日までの石川県の調査で確認された。県関係者は明治時代の石工が藩政期の石積み技術を継承していたことを示す貴重な史料になるとしている。県は修復のために7月から解体工事を進めており、今回は石垣内部から出土した石の加工跡などから、石垣が江戸後期から明治期にかけて4回、部分修理されていることが分かった。
石垣の背後から江戸前期の盛り土で埋め立てられ、絵図に描かれていなかった金沢城初期の石垣も見つかった。(北國新聞 2006年10月21日付記事)
金沢城河北門工事現場
09年度完成に向けて発掘調査の進む金沢城河北門の現場に行ってきました。本日は先週に続く金沢城大学の帰りです。河北門周辺は発掘調査とともに配管工事がされていました。すでに埋設させている配管が縦横に走り、位置をずらさなければ土台の整備をできないほどでした。このペースで行くと、石垣の修築は来年度後半でしょうか?
河北門復元後の河北門越しの菱櫓と五十間長屋の景観はよいことでしょう。
日本100名城選定記念 七尾城フォーラム
七尾城サンライフプラザで日本100名城選定を記念して「七尾城フォーラム」が開催されました。表に案内がなかったため受付で場所を確認しましたが、会場は50名ほどが参加していました。ほとんどが関係者ではなかったでしょうか?私は新聞で見てチェックしていたのですが、出たのが少し前だったこともあり、人集めが難しかったのでしょう。
まずは、「七尾城の歴史的価値について」と題して、金沢学院大学の東四柳教授の講演でした。先に刊行された七尾城に関する書籍(本人の名誉のため具体名は避けます)の内容について、学者は事実に基づいた説を唱えるべきという主論でした。
後半は、「七尾城をシンボルとするには」という題でパネラーが議論を交わしましたが、七尾城を中心として能登の歴史を発信するための企画や博物館を勧めるべきだという論調で話が進みました。東四柳教授は穴水の出身ということで、石川県の施策が金沢周辺に集中する姿勢にひとつ注文をつけたというところでしょうか?七尾城は整備が進めば、お隣の朝倉氏遺跡にも匹敵するようほどの中世遺跡になる可能性を秘めており、そこは石川県と七尾市、中能登町、氷見市とも連携をとりながら七尾城址群の全容解明に努めてほしいと思います。
金沢城大学 歴史・文化コース
いしかわ県民大学校の教養講座となっている『平成18年度 城と庭の探究講座「金沢城大学」』の歴史・文化コースが始まりました。9月初めに募集があり、当選はがきが届きました。2月まで10回の内容ですが、平日昼の開催とあって年配の方が大半でした。今回4年目の開催とあって、顔見知りの方も多いようです。今年は金沢城の歴史を5回から3回に減らしたようですが、どんな話が聞けるのか楽しみです。
歴史・文化コース
1.初期の金沢城と草創期の藩政
2.江戸中期の藩政と金沢城
3.宝暦・文化の大火と城の再建
4.兼六園史の新しい見方
5.二ノ丸御殿の魅力
6.辰巳櫓と三階櫓
7.戸室石切丁場と石引道
8.石垣整備調査研究会(公開講座)
9.加賀藩の時刻制度と時鐘
10.金沢城発掘最前線
p.s.後日談ですが、当初申し込みは143名あり、うち70名が当選したようです。抽選方法はわかりませんが、2分の1の確率に当たったわけですね。
珠洲市 黒峰城址の山道整備
珠洲市の観光ボランティアガイド「きらり珠洲」のメンバーは9日、同市の宝立山にある黒峰城跡に至る山道の整備に汗を流した。同城跡は、外浦の町野側から内浦の宝立、上戸に至る交通の要衝にあったが、倒木や笹の繁茂で、古道が埋もれた格好になっていた。黒峰城跡は、宝立三山のうち黒峰山頂にあり、阿部判官義宗が城主だったとされる。中世の山城の特徴を残し、これまでの調査で、主郭はじめ土塁、堀などを備えていたことが分かっている。(北國新聞 2006年10月11日付記事)
白山鳥越 二曲城の出丸跡出土
白山麓の一向一揆の最後の砦として鳥越城跡とともに国史跡に指定されている白山市上出合の山城・二曲城跡から6日までに、山頂の本丸と戦略的に連携する出丸の遺構が出土した。二曲城については絵図や古絵図など確たる史料がないだけに、一向一揆の解明に光明をともす貴重な史料として注目される。県埋蔵文化財センターと白山市教育委員会によると、標高260メートルの山頂から約30メートル下った中腹の平坦地に約180平方メートルの出丸跡が出土した。約20-30センチの掘立柱跡の穴25個が見つかり、柱穴の位置から、縦6.6メートル、横9.9メートルの館が3棟建っていたことが分かった。(北國新聞 2006年10月7日付記事)
金沢城 宮守堀の護岸
金沢城公園の宮守堀段階復元を視野に、石川県が先月中旬から始めた広坂緑地横の市道発掘調査で、4日までに、堀の一部が見つかった。護岸は堀の傾斜が始まる辺りの上部で、江戸後期の絵図通りの位置から見つかった。県は復元する際の設計で、確認された護岸の傾斜などを参考にしていく方針だ。
宮守堀の護岸は、北側のいもり堀園地では、鯉喉櫓(りこうやぐら)台の発掘で深さ10メートル弱の底部まで確認されているが、南側の県庁跡地付近で、実際に確認されたのは初めてとなる。今回の護岸の位置から推測した堀の幅は約40メートルで、絵図に記されている23間2尺とほぼ一致した。(北國新聞 2006年10月5日付記事)