昨日は朝から高岡市へ出かけました。目的は高岡城址内にある高岡市立博物館の常設展リニューアル講演会に参加するためですが、先日同日に伏木で現地説明会があることを知り、ついでに参加してきました。
高岡市伏木は富山湾へと注ぐ小矢部川の河口左岸の伏木台地に立地する越中国の国府のあった場所ですが、後に、中世城郭の古国府城へと変遷し、勝興寺が建てられた土地です。
現地説明会には朝から大勢の人が集まっていました。前日までの大雨で地面はぬかるみができ、水溜りもできていた影響で、説明は5人程度の単位で随時開催されました。個人住宅建設に伴う調査で、一部は建設によって破壊されてしまう可能性があるということで残念ですが、すでに周りは住宅や農地で利用され、土塁の一部もすでにない状態でした。それでも残っている一部からその大規模な中世城郭の存在を想像することはできました。
また、今回の調査で、本郭と土塁、堀からとなる単郭の遺構と考えられていた今回の遺構跡が、実は腰曲輪を持つ複郭遺構であったことが確認されました。
説明会を終え、先日講演会を聞いた前田利長墓地へ行きましたが、すでに発掘調査の後はありませんでした。
高岡市立博物館は高岡市と福岡町の合併により、常設展を今年7月にリニューアルしました。旧高岡市中心だった展示は木舟城などを含めて中世を中心に展示替えされていました。入場料は無料なので、高岡城址へ行かれたときはぜひ寄ってください。
さて、リニューアルを記念して3回の講演会が予定されていましたが、今回は最終3回目で、氷見市史など郷土史編纂に尽力されてきた久保尚文氏によって「高岡市域の中世史 -荘園と武士を中心に-」というテーマで講演がなされました。
ひとつ分かったことは、富山県には中世の歴史がほとんどないのは、今まで生活の跡がないからだと思っていましたが、実は古文書がないからだということです。県内に残る一番古い古文書は1350年頃、次は1400年代終わりということで、すっぽりと前田家が入ってくるまでの歴史が検証できない状態だそうです。
原因のひとつは足利尊氏と対立した部将桃井直常の本拠が越中であったため、敗軍のさだめとして関連文書はことごとく廃棄されたためだとか。
興味ある話としては、1585年11月29日に白川地方を震源とするマグニチュード8.1クラスの地震があったことに関連して、越中の歴史がいろいろと結びつくという事実。木舟が陥没して木舟城が廃城となった年が1985年。神通川は当時東西2本の支流があって、このときに西側がひあがったのではないか。秀吉が佐々成政の遠征を始めたのが1985年、成政の降伏が1586年だったことに影響したのではないか。ただし、どれも定説にはなっていませんが。ひとつの地震が歴史的出来事に深くかかわっている可能性を示唆する例でしょう。
古文書がないだけに正確な歴史が構成できないという事実とは裏腹に、古文書がないのでさまざまな想像ができるという事実。歴史の面白いところではないでしょうか。
カテゴリー: 城郭さんぽ日記
石川 松波城跡庭園跡を調査
能登町教育委員会は6日、同町松波の県指定史跡松波城跡庭園跡の礎石建物跡の発掘調査で、礎石や柱穴、枯山水の造成用に集められたが使われなかったとみられる扁平な石が残る土坑、土師皿などを確認したと発表した。
新たに見つかった柱穴や礎石から、建物がこれまで考えられていた規模よりも大きいことが分かった。土師皿から推定して、建物が16世紀後半のものである可能性が高いとしている。土坑については、礎石を配置するために掘った穴と同じ面に掘られていることなどから、枯山水と建物がほぼ同時期に造られはじめたのではないかと推測している。
松波城は畠山氏の居城とされ、庭園跡は1962年に見つかり、1980年に発掘調査が行われた。今回は保全活用を目的に礎石建物跡など約70平方メートルを調査した。(北國新聞2007年9月7日付記事)
京都宇治川で「太閤堤」跡見つかる
京都府宇治市の宇治川右岸で、豊臣秀吉が16世紀末、伏見城築城に伴い前田利家らに造らせた「太閤堤」の一部とみられる大規模な護岸跡が見つかり、宇治市歴史資料館が5日発表した。マンション建設に伴い、6月から宇治川の右岸約千三百平方メートルを調査していた。
護岸は江戸時代後期に度重なる洪水で埋没したらしく、これまで存在が分らなかった。護岸の石やくいも約四百年前の姿のままで発見された。表面には宇治川上流の岩が積み上げられ、斜面の下には護岸の崩落を防ぐため直径約20センチの松くい約三百本が打ち込まれていた。斜面や上部の平たんな面には割石が張られていた。(北國新聞2007年9月6日付記事)
平成19年度県民考古学講座 第4回 近世大名墓の考古学 -前田利長墓所とその周辺-
富山県埋蔵文化財センターで行なわれた県民考古学講座に参加してきました。今回もカメラ忘れたため写真はありません。
発表は同センター主任の岡本氏でした。前田利長墓所は金沢市と一体となった世界遺産登録に向け、平成18年度から高岡市教育委員会が主体になって調査が進められています。岡本氏は調査協力として参加していることから現在の調査経過をふまえて発表がありました。
前田利長墓所は内堀と外堀を備えた大規模な墓所であり、その墓所域が東照宮の徳川家康や萩の毛利輝元などと比べても桁違いに大きいようである。外堀は現在完全に埋められているが、発掘調査によっておおよその位置が分かったようだ。
墓石の前には現在鳥居が立っている。これは明治の廃仏毀釈で仏教を無理矢理神道へ変更した名残りなのだそうだが、その前は入口には立派な門があったであろうということで、なんとも惜しいことである。
高岡市の紹介ホームページ
一向一揆 佐羅城の場所特定
金沢市の日本城郭史学会会員、高井勝巳さんは、加賀一向一揆と織田信長の軍勢による鳥越城での合戦と同時期に攻防が繰り広げられたとされる佐羅城の場所が、白山市佐良の佐羅早松神社周辺であることを突き止めた。
城は古文書に存在が記されているだけで、その場所は特定されていなかった。佐良の住民への聞き取り調査などでもほとんど手掛かりを得られなかったが、これまでの研究と経験から所在を推定し、現地を歩き回って土塁の跡などを見つけた。
城跡は佐羅早松神社から約700メートル離れた丘陵で確認した。東側には曲輪が二個所あり、堅固な防御機能を果たしていたことをうかがわせるとし、籠城を想定して築いたと推測している。(北國新聞2007年8月30日付記事)
金沢城太鼓塀 保存修理現地説明会
8月25日土曜日に現在修理中の金沢城太鼓塀の保存修理現地説明会が開催されました。
太鼓塀は金沢城の象徴である石川門の南北に残っています。北陸新幹線開通までに痛みのひどい漆喰を修復するとともに、控柱を本来の形式に復元するのが目的です。現在の控柱は陸軍が駐屯しているときにコンクリート製の味気ないものになりましたが、今回の解体で塀の貫穴と地中の柱穴が確認できたので、今回の一般向け現地説明会となりました。
当日は謙信公祭のため上越市に行っていたため、家族に資料をもらいに参加してもらいました。大勢の市民が参加していたようです。
辰巳用水と並行の謎の水路
金沢市埋蔵文化財センターは24日までに、金沢市上辰巳町で、辰巳用水の隧道(トンネル)と並行して走る水路の一部を発見した。これまで絵図や文献では存在が分からなかった「謎の水路」で、専門家からは、辰巳用水の隧道が崩れた際に緊急的に水を通した「バイパス」の可能性があるとの見方も出ているが、現時点でははっきりしない。辰巳用水の知られざる歴史を示す発見の可能性もあり、市埋蔵文化財センターは全容解明を急ぐ。
辰巳用水は犀川上流で取水し、小立野台地を通過して分水しながら兼六園など城下町を潤す全長10キロの用水。寛永大火をきっかけに三代藩主前田利家が、小松の町人板屋兵四郎に命じて築城したとされる。(北國新聞2007年8月25日付記事)
ガクト見参! 上越謙信公祭
今年はNHK大河の影響もありますが、春に甲府市で信玄公祭を見て、本日は上越市で謙信公祭を見に行きました。甲府市は朝出発して、というわけにはいきませんでしたが、上越市は朝5時に出発しました。高速の途中で雲の合間から朝日が迎えてくれました。
上越インターから降りてリージョンセンター駐車場に停めました。ここからどうしようかと思いましたが、バスもないようなので、結局歩くことにしました。春日山駅を通り、ガクトの行列が通る山ろく線を横切ると、まだ朝の8時前だというのに、すでに待っている人が・・・・ご苦労なことです。
朝のイベントが行なわれる春日山神社へは8時過ぎに着きましたが、通る道をミスして、最初のイベントのみこし巡行には会えませんでした。それでも、9時に行なわれる本丸の狼煙上げの火を、春日山神社でもらうところを間近で見ることができました。
火をもらう瞬間を見ていたのは関係者(謙信流陣太鼓の方々)と私だけという寂しい状況でしたが、ここから本丸まで火をもって走っていきました。一緒に走ってもいいですよ、と関係者に勧められましたが、このあとのこともあり、ちょっと早起きで気分が悪かったこともあり、ついていくのはやめました。
しばらくすると、本丸から狼煙が上がりました。天候も良く見やすいかと思っていたのですが、風がほとんどなかったこともあり、煙が大きくならなくて肉眼では上がっていることは分かりましたが、写真では煙なのか雲なのかよくわかりません。
10時になると春日山神社の境内で謙信流陣太鼓が4曲披露されました。朝から居た私は特等席で見ることができ、迫力ある演奏を堪能しました。狼煙上げで走った女性3名もいましたが、このあと、14時半の林泉寺の出陣報告、18時に春日山城史跡広場での演技と暑い中ご苦労様でした。
11時からは同じ境内で地元一義会による武禘式が行なわれました。武禘式とは、川中島に出陣する際に上杉謙信軍が行なった出陣儀式です。
昼に昼食を食べようと思いましたが、お食事処は一杯であきらめました。コンビニでおにぎり買っておけば良かった・・・。そこで上越埋蔵物文化センターで開催中のイベントを見て、林泉寺に向かいました。ここでは14時半から行列に先駆けて出陣報告の儀式が行なわれます。
山門入口で待っていると自衛隊のトラックが・・・何かと思っていたら行列の参加者が乗っていました。
謙信流陣太鼓に迎えられて、行列は山門より住職を先頭に本堂へ向かいます。
出陣報告をそこそこにまた春日山神社に戻り、米沢藩稲富流砲術隊の砲術演舞と戦勝祈願の「謙信公」の塩献上の儀式を見ました。儀式の途中でさすがに空腹で気分が悪くなったので遅い昼食を食べました。
昼食後、出陣行列の出発を待っていると、先程林泉寺で出陣報告をしていた武者が下から登ってきました。最後の坂は送ってもらえなかったようですが、暑い中甲冑のまま歩いてきて、ご苦労様です。
16時ちょうどに警備に先導され、出陣行列が始まりました。上杉軍、武田軍の順で進み、最後に先程砲術演舞をした米沢藩稲富流砲術隊がテンポのよい太鼓を鳴らしながら行進します。中には、休憩でお世話になったお食事処のおばさんに手を振りながら進む隊もいます。
行列がすべて通り過ぎたら、今度は後ろから順に抜いてガクトが行進する山ろく線まで急ぎました。山ろく線に着くと沿道はガクトを待つ人で埋め尽くされています。地元の人は「こんな人だかり見たことない」とあっけにとられていました。
時間になってもなかなか始まらなかったのでやはりガクト待ちが発生したようですが、ガクトが登場すると沿道の声援も最高潮に達しました。ガクトは途中で演技などを交えながら、自らの新曲をバックミュージックに行進しました。さすがにカッコよかったですが、時代行列にポップミュージックが流れるというアンマッチは賛否両論を呼びそうです。
上杉軍、武田軍の順だったので、上杉軍の最後に位置したガクトが過ぎるとともに沿道の人も半数は移動を開始、武田軍が通るころにはいつもの?様子でした。武田軍や砲術隊には沿道から温かい拍手が送られました。
行列が終わると人だかりは春日山城史跡広場で移動を始めます。最後にここで第4回川中島合戦の様子が再現されます。
しかしながら、ここでもガクト待ちがありました。砲術演舞の後、何が始まるでもない時間が過ぎましたが、ガクトの曲が流れ、白馬に乗ってガクトが登場すると客席は最高潮に、何度も前を馬で疾走し、最後はセリフをカッコよくきめて走り去りました。
ガクトの退場とともに、ガクト目当ての女性たちは退場。会場を埋め尽くした客の半分はここで帰りました。ガクト恐るべし!!来年の観客は約半分ということか?ガクト待ちで遅れた中、川中島決戦の再現が行なわれました。遅くなったので、通常の観客のなかにも帰る人がちらほらと・・・
春に山梨県の笛吹市で行なわれた川中島合戦絵巻を見ましたが、昼に行なわれたそちらと比べると、夜に行なわれるこちらは雰囲気も違います。武田軍と上杉軍から見た視点の違いもありますが、演技のシナリオは笛吹市のほうが史実に近いようです。上越市のものは、女武者や忍者のチャンバラシーンがあり見ていて楽しい部分や、夜を活かして武田別働隊の登場は火による演出を伴うなどチャンバラ劇としては愉快な演出が目白押しです。謙信と信玄の一騎打ちシーンなどは互いに馬に乗って謙信が追っかけていました。川中島合戦だと思ってみていると不思議な感じです。
合戦再現は2時間近くありましたので、終わったのは9時過ぎでした。帰りはリージョンプラザまでバスで帰り、近くで夜食をとって帰途に着きました。総延長で10キロ以上歩いたので疲れましたが、それより川中島合戦再現のときに座っていた椅子が小さかったのでおしりが痛いです。
北陸の一向一揆城郭 -絵図を中心として-
石川県白山市の鳥越一向一揆歴史館の夏季企画展「北陸の一向一揆城郭 -絵図を中心として-」を見てきました。今回は城郭絵図を中心に展示していたので長く見入ってしまいました。
穴水城、末森城、津幡鳥越城、松根城、朝日山城、富樫館、松任城、安吉城、鷹巣城、鞍ヶ岳城、今江城、大聖寺城、剱城と多くの城絵図が展示されていましたが、多くは石川県立歴史博物館森田文庫、金沢市玉川図書館加越能文庫からの出典でした。能登国・加賀国絵図もあり、現在の地名と照らし合わせながら見ていました。
金沢城 いもり堀解明へ 南側で発掘調査
金沢城公園の宮守(いもり)堀の水堀化に向け、石川県は27日から、金沢市中央消防署広坂出張所跡地で埋蔵文化財調査に着手する。出張所跡地は堀の南側にあたる。南側は昨年度の調査で部分的に位置を確認した程度で、石川県は今回の調査で堀の全体像解明を目指す。
宮守堀はこれまでの調査で北側の位置や形状、規模などが判明しているが、南側は不明な点が多い。
昨年度の調査では、市道広坂長町線の県庁跡地側の歩道周辺を2カ所掘削し、堀の幅が約40メートルだったことを確認している。今回の調査は、7月に広坂出張所が移転したことを受け、出張所跡地を幅約4メートル、延長約12メートルの範囲で約3メートル掘り下げ、遺構の有無を見極める。
宮守堀は今年度から実施設計に取り掛かる。埋蔵文化財調査は1ヶ月程度を予定しており、県は堀の遺構を確認した上で、11月に開く予定の河北門等復元整備専門委員会で水堀化に向けた工法や整備範囲の検討に入る。(北國新聞2007年8月17日付記事)