全国的な秋晴れのなか、朝早く出発して長浜城歴史博物館で開催中の特別展「歴史のなかの鉄砲伝来」を見てきました。近江は戦国時代からの火縄銃の一大生産地であった国友のあった地です。今回の展示会では、鍛治道具や千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館からたくさんの鉄砲コレクションが展示されることから注目していました。
展示室にずらっと並べられた鉄砲や大砲のコレクションは圧倒されるものがあります。鉄砲の作り方の展示を含めてすばらしい展示の数々でした。
カテゴリー: 城郭さんぽ日記
二曲城跡発掘調査現地説明会
本日二曲城(ふとげじょう)跡で今年度の発掘調査現地説明会が午前と午後の2回開催されました。私は午後の部に参加してきました。告知が急だったのと、あまり多くに告知されなかったので、参加者は少なかったですが、その分ゆっくりと見学し説明が聞けました。
二曲城跡は平成16年度から5ヵ年計画で発掘調査が進められています。最初の2年は一の郭、続く2年は二の郭を中心の調査です。本年度は4年目となります。
出土物は少なく、石臼や青磁・白磁などの陶磁器のかけらが出ていますが、鳥越城跡に比べても圧倒的に数が少ないということで、一時的な詰の城の役割しかなかったと推測されます。また、今回も戦闘の形跡は出てきませんでした。
今年度の最大の目玉は一の郭の南側下の郭の石垣の発見です。大きさもマチマチな石積みは中世の山城という感じ一杯ですが、単なる土塁の土留めの役割でしょうか。破却の痕が認められるため2段程度しか出ていませんが、石垣の下にはさらに1メートル以上の空堀跡も発見され、堀最下部からは相当の高さとなり、詰の城の形態を見せてくれます。
昨年に続く二の郭では昨年度半分見つかっていた掘立柱建物跡の残り部分が確認され、4×2間の規模です。
他には、二の郭から一の郭への道を探すためのトレンチもしましたが、今回も道の発見には至りませんでした。現在一応の登山道はありますが、復元に向けては本来の道の発見があるのが望ましく、仮に獣道のような登山道では、破却された二曲城では発見が難しいかもしれません。
秋季特別展 「一向一揆と織田軍団」
白山市の鳥越一向一揆館の秋季特別展「一向一揆と織田軍団」を見てきました。展示物は、朝倉家古文書、浅井三代記、姉川合戦記、姉川軍記、信長記、絵本石山軍記、絵本拾遺信長記などです。
中でも天正12.13年頃に前田利家が佐々成政と退陣したときの加賀・越中境の諸城までの距離を、津幡の小城山(津幡城?)を基点としてかかれた史料「加賀越中境諸城里程図」は面白いものでした。確かに、越中境の松根城には「成政方」の文字が、対する朝日山城には守備についた「村井」の文字が見えます。末森までは二里とありますが、一里で何キロですか?(一里約3.9kmらしいです)
絵本がたくさん並べてありましたが、私も一冊ぐらいほしいです。でも高いのですよ、武将や合戦ものは・・・
金沢城大学 歴史・文化コース 第3回
本日、金沢城大学の第3回目です。前回は公開講座だったので、実質2回目になります。1回目に引続き、テキスト「よみがえる金沢城1」を使った解説講座です。本日の講師は、金沢城調査研究所の正見泰氏です。本研究所で唯一の建築担当だそうです。
大坂の陣後の一国一城令により、加賀藩も金沢城を残して一旦廃城となったようだが、小松城は三代利常の隠居城として修復され、富山城は利常隠居後の富山藩分藩の際に修復された。同時期に大聖寺藩も分藩されているが、古来の大聖寺城は修復されず、城下に陣屋を構えている。大聖寺藩は城の修復が認められなかったようだが、理由はよくわからない。
ちなみに、小松城には二層三階の天守風建造物があったようだが、会津若松城の庭にあった三階数奇屋風建物に類似していたものかどうかという話があった。
テキストとして使用している「よみがえる金沢城1」(北國新聞社)の67ページに1箇所訂正があります。
「花熨斗型釘隠金具」 → 「花熨斗形釘隠金具」
加賀藩 土清水塩硝蔵発掘現場
先週の新聞記事で発掘現場説明会が開かれたことを読んでから気になっている場所があった。加賀藩が火薬の原料となる塩硝(えんしょう)を保管した倉庫があったとされる場所である。もともとは、金沢城内にあった塩硝蔵であるが、相次ぐ火災に懲りたのか、江戸後期には辰巳用水沿いの現在地に移されたという。
新聞報道でも金沢市涌波1丁目とあるだけで詳細な場所は良く分からなかったが、地図を調べていると、「塩硝蔵跡堤公園」の文字が・・・
早速入ってみた。
その場所はすでに整備されたきれいな公園であった。地図ではここが「土清水塩硝蔵跡」とするものがあるが、公園に建つ石碑によると、この一帯は灌漑用に辰巳用水の水を貯めた堤があった場所で、この公園の南側一帯が火薬製造所、西側一帯が焔硝庫(石碑のまま)となっている。
確か、この公園でも1箇所調査したはずだったと思い、探していたらトイレの裏あたりに1箇所、一度掘られて埋め戻されたような場所を発見した。が、すでに埋められていて何か出てきたかまでは分からなかった。
公園北の階段を上ると、辰巳用水沿いに遊歩道があった。きちんと整備されていて、こんな場所があることに驚いた。
東へ少し進むと、土清水から涌波へ降りてくる階段があった。「塩硝坂」の案内板によると、五箇山で製造された塩硝をここにあった塩硝蔵に運ぶ経路の一部らしい。
塩硝坂から南側には果樹園と畑が広がっていたが、そこで新聞記事にあった発掘現場を見つけた。
幸いにもビニールカバーもなく、そのままの状態だったので、ゆっくりと見学した。断層には瓦の破片が残り、破片が出ている地層の下は黒く焼けたような色の土が堆積していた。石が並んだ側溝のような遺構も見られたが、やはり説明を聞かないと見ただけで調査の成果を類推するには知識が不足していた。とはいえ、現場を自分の目で確認できたのはひとつの成果である。
元は金沢城内の十三重塔? 兼六園の六重塔+能美の七重塔
兼六園の瓢池(ひさごいけ)の六重の石塔「海石塔」と、能美市寺井町の奥野八幡神社にある「七重塔」が元は金沢城にあった十三重塔で、加賀藩三代藩主前田利常が小松城に隠居する際に分離された可能性が大きいことが、石塔研究家の石井嘉之助さんの調査で裏付けられた。二つの塔はいずれも加賀地方産出の同じ石材でできており、上下に重ね合わせた笠の比率が数学的にも合致するためである。
二つに分かれた「十三重塔」の上部にあったとみられるのは、兼六園の海石塔。高さ約四メートルで、笠石は六重となっている。一方、「十三重塔」の下部とみられる奥野八幡神社の七重塔は高さ約5メートルで、利常が小松城に移る際に持参したと伝わる。廃藩置県後、旧寺井村有志に払い下げられ、同神社に奉納された。現在は見掛け上は六重となっており、二重目は小松城跡地に埋もれているという説がある。
二基は笠の四隅が上がる意匠が一致。笠に小松の滝ヶ原石、笠と笠をつなぐ軸部に金沢の青戸室石を使う点や、明かりを入れる「火袋」に坪野石を使用した点も同じだった。県内に同様な石を組み合わせた塔はないという。(北國新聞2007年10月12日付記事)
加賀藩の火薬製造・貯蔵施設 土清水塩硝蔵を確認
金沢市文化財保護課と市埋蔵文化財センターは8日までに、同市涌波町などで加賀藩による黒色火薬の製造、貯蔵施設であった「土清水塩硝蔵」を発掘調査し、塩硝を保存していたとみられる土蔵の礎石と、梅鉢紋入りも含む多数の屋根瓦を確認した。史料の乏しい軍事施設の実態に迫る成果で、市は引き続き調査を進め、敷地面積約8万平方メートルとされる塩硝蔵の範囲特定と全容解明を目指す。
塩硝蔵の存在は、幕末から明治初期にかけての建物の配置を記した「土清水製薬所絵図」などの史料で知られていたが、遺構として確認されたのは初めて。発掘は、国史跡指定を目指す辰巳用水の詳細調査の一環として、9月10日から涌波堤公園周辺の2カ所で行われ、うち涌波町の1カ所から土蔵の存在を示す20個の礎石と、土蔵が本瓦葺きであったことを示す大量の赤瓦が見つかった。瓦には加賀藩主前田家の家紋である梅鉢紋が入った軒平瓦も含まれていた。
加賀藩の塩硝は江戸時代、国産最良の品質で生産量も最大とされ、幕末には五箇山から年間5トン余りを買い付けていた。塩硝蔵はもともと金沢城内に設けられていたが、火事が相次いだため、1658年に土清水に移転し、1870年以降に廃止されたらしい。
塩硝を硫黄、木炭とともに粉末化した辰巳用水沿いの工場「三品搗蔵(みしなつきくら)」は今回の調査では確認できなかった。(北國新聞2007年10月9日付記事)
金沢城大学公開講座 シンポジウム「金沢城と伝統技術」
本日、金沢城研究調査室が金沢城調査研究所に格上げになった記念として、また金沢城大学の公開講座としてシンポジウム「金沢城と伝統技術」が県文教会館で行われました。前日の新聞報道によりかなりの人が来ています・・・と思っていたら案外少なかったです。建造物や石垣がテーマのときはもっと多かったのですが、連休だったためか、土曜日開催だったためか、テーマの問題か、よく分かりません。
講演は京都造形芸術大学教授の中村利則氏による「建築史からみた金沢の伝統技術」。前日の新聞記事はネタばらしかと思っていましたが、最後に少し触れただけでした。
金沢や江戸前田藩邸には室町幕府に仕えた名工達が大勢召抱えられ、徳川江戸幕府以上に室町時代からの伝統技術の本流にあった、という話は地元民として誇らしいとともに、外様として芸術重視政策で幕府の目を逃れた面もあるのかと想像してしまいました。
講演のあとは、パネルディスカッションとして、金沢城調査研究所副所長の木越氏をコーディネーターとして、中村氏、金沢城調査研究所所長の北垣氏、県立美術館館長の嶋崎氏、金沢美術工芸大学教授の太田氏、長岡造形大学教授の飛田氏の5氏をパネラーに迎えて、江戸時代の伝統技術の継承に関して意見交換が行われました。
江戸時代の伝統技術は寛永期がひとつの興隆期であり、華やかな意匠や異なる形状の共存といった部分においては加賀前田藩は他の追従を許さないようである。華やかな意匠のシンボル的存在の二の丸御殿と異なる形状の共存のシンボル的存在である辰巳櫓、生きているうちに復元された姿を拝みたいものである。
新聞で講演会のネタばらし? 金沢城辰巳櫓と西本願寺飛雲閣は共通デザイン
宝暦の大火(1759年)で焼失した金沢城・辰巳櫓が、西本願寺の飛雲閣と共通の建築デザインだったことが、京都造形芸術大学の中村利則教授の調べで分かった。
中村教授が着目したのは二層構造だった辰巳櫓の宮守堀側の一層目。石垣を登ってくる敵兵を攻撃するため、二カ所の「出し」と呼ばれる防御拠点が設けられていたことが平面図、古文書などから分かっている。二つの屋根には直線的な合掌型ラインを持つ「千鳥破風」と、曲線的な「唐破風」の二種類がそれぞれ採用されていた。中村教授は「同じ層の同じ面に異なるデザインの破風が並ぶのは例がない」と指摘。現存する建物の中では、飛雲閣しかないという。
中村教授はいずれも寛永年間の流行を反映したものだとし、「こうしたデザインは、建物をより大きく見せる役割を果たす。辰巳櫓が『守る』機能よりも『見せる』ことを重視して築かれた可能性がある」と述べた。中村教授は6日1時半から、金沢市の県文教会館で開かれるシンポジウム「金沢城と伝統技術」に参加し、「建築史からみた金沢の伝統技術」と題して講演する。(北國新聞2007年10月5日付記事)
明日、金沢城大学の公開講座で中村教授が講演することになっているのですが、前日のこの記事は明日の教授の主張を一つ先取りしてバラしているのではないか?と思うのですが、宣伝効果も抜群でしょうね。興味本位な人たちが多くなると、折角の公演中におしゃべりする人がいて非常に迷惑なのだが・・・
金沢城 河北門復元の現在(いま)
近くまで行ったついでに金沢城の河北門復元現場を見て来ました。本日雨の予報による影響もあるのでしょうか。防水シートをかけたまま作業は行われていました。
作業場の隅には掘り出された鉄管が積まれていました。たくさんの鉄管が埋められているものです。掘り出してしまっているということは今は使われていないのでしょうか。もともとは第九師団駐屯時代か金沢大学キャンパス時代か、後者のためでしょうか?
今年度中には石垣が積まれ始める予定ですが、こんなペースで本当に始まるのかなと思います。