長野紀行 飯綱町・松代

明日の長野県立博物館で開催される講演会に参加するために、1日早く長野にやってきました。やはり山国、途中雪が降っていました。寒いです。
いいつな歴史ふれあい館
最初に飯綱町の「いいつな歴史ふれない館」に行きました。冬の平日、地元の方以外お客さんはいませんでしたが、その分ゆっくりと展示を見ることができました。飯綱はかつての北国街道牟礼宿のあった場所です。その関係の展示だけではなく、古墳や城跡に関しても展示されていました。この夏NHK大河にあわせて開催されていた企画展図録を入手しました。
川中島八幡原古戦場
次の目的地は松代でしたが、途中、川中島八幡原古戦場を通ったので寄りました。寒い冬は観光客が少なく、ベストなアングルの写真をたくさん撮ることができました。今年はNHK大河で注目された年、何万人がこの像の前に立ったことでしょう。
松代城
松代城には雪がところどころ残っていました。聞けば積もったのは今日が初めてだとか。やはり管渠右脚の少ない城内でベストなアングルの写真をたくさん撮りました。ちなみに奥に見える一番手前の小高い山が川中島の攻防で有名な尼巌城(あまかざりじょう)です。
戸倉上山田温泉ライトアップ
本日の泊まりは千曲市の戸倉上山田温泉です。その場所を示すように、すぐ横の山上にある荒砥城の櫓がライトアップされていました。戸倉上山田の文字は七色に変色します。新調したデジカメで良い写真が撮れました。
荒砥城ライトアップ

平成19年度金沢城大学 豊臣秀吉の大坂城と城下町

平成19年度金沢城大学 豊臣秀吉の大坂城と城下町
今日は、大阪城天守閣館長の松尾伸裕氏による講義でした。
大阪の街は、大きく難波宮、大坂本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城と変遷するのですが、土層の判別は1583年の大坂本願寺炎上時と1615年大坂夏の陣で豊臣大坂城炎上時の2度の焼土層のおかげでわかりやすいそうです。そうした特長のなか織豊期における陶磁器の流通状況が鮮明にわかり、他の知識の時代特定にも役に立つそうです。
現在、大阪城公園は国史跡のため、水道管埋設工事でもないかぎりは埋蔵物発掘調査は行えず、豊臣大坂城をすっぽり覆って徳川大坂城が作られた現状においては、豊臣時代の遺物の発見もままならないようです。それでも過去9mもの石垣が地下に眠っているのを発見したこともあるそうですが、いまだに大坂本願寺の遺構がまったく見つかっていないのが残念です。現在の本丸を10m以上掘れば出てくるのではないかと言われていました。
そういう状況もあってか、大阪人の秀吉びいきや家康嫌いはいまだに根強く、真田幸村も人気あるそうです(これは展示会の客入りに断然差がつくのだそうです)。

富山博物館めぐり

今日は薄曇りの天候のなか、隣県富山に博物館めぐりに来ました。
まず、砺波市のチューリップ公園の一角にある砺波市郷土資料館です。
砺波市郷土資料館
ここには旧砺波市の歴史を中心に展示がありました。もと銀行本店の建物は立派でした。目的は増山城に関係する資料があれば購入したかったのですが、残念ながらありませんでした。昨年まで発掘調査は第7次まで行なわれ、今年度末に合本の報告書が作成されるそうです。
そこから移動して富山市の富山城址公園に行きました。昨年模擬天守の郷土博物館は改修工事が終わり今でも外壁はきれいです。
富山市郷土博物館
現在、特別展「再現 千歳御殿」を開催中です。千歳御殿とは殿様の隠居所なのですが、現在そこの門が移築されていて、記念特別展ということです。常設展も最近の発掘調査を踏まれてリニューアルされていました。
富山市郷土博物館
富山市郷土博物館
肝心の千歳御門ですが、本来の場所はすでに繁華街として開発されてしまっているので、城址公園の入口に移築されます。今年度末の完成で、春からはお目見えしそうです。かなり大きな薬師門で富山城唯一の建物遺構として今後愛されることになるでしょう。
春にはちょうど次の企画展「物語の中の佐々成政」が開催されているのでまた訪れることにしましょう。

西山古墳群 信長軍の山城跡か

石川県能美市高座町の西山古墳群でこれまで、古墳と推定されていた南尾根の四、五号墳が戦国時代末期(十六世紀後半)とみられる山城の土塁の一部だったことが15日までの能美市教育委員会の詳細分布調査で分かった。
市教育委員会によると、山城は織田信長軍が1577(天正五)年に手取川で上杉謙信と対峙した際か、1575(天正三)年以降に和田山城の一向一揆を攻めるために築いた陣城跡の可能性もあるという。
西山古墳群は標高約36メートルの丘陵上に、15基以上の古墳が分布すると推定される。1964年から1967年にかけて行われた緊急調査で、弥生墳丘墓など計7基で構成される能美古墳群の一部として確認されたが、その後は本格的に調査されていなかった。そのため市教育委員会は、今年度から三年計画で西山古墳群の詳細分布調査に乗り出し、初年度は古墳が良好に残っていると推定された南屋根を調査した。
この結果、南屋根から古墳は見つからず、戦国時代の曲輪や土塁、切岸の防御機能を備えた山城跡とみられる遺構が見つかった。市教育委員会によると、全長約20メートル、高さ約1.5メートルの土塁の盛土がこれまで古墳のように見えていたらしい。(北國新聞2007年12月16日付記事)

第五回 全国城跡等石垣シンポジウム

今年金沢市で開催された「第四回 全国城跡等石垣シンポジウム」ですが、文化財関係者だけではなく、一般市民も参加できました。
来年1月の17日と18日に開催される「第五回 全国城跡等石垣シンポジウム」は熊本市で行なわれ、熊本城築城400年祭にあわせて一般市民も参加可能ということで、内容を時々チェックしていたのですが、今日見てみたら、ガーーーーン!!!
なんと参加自由ではなく、抽選で100名のみということではないですか。それも今月13日までに往復はがき必着とは・・・ 全く遠方の一般市民を受け入れる気がないですね。一体いつから募集していたのでしょうか?
折角真冬の九州遠征を考えていたのですが、辞めました。春になったらいくことにしましょう。今は天守の鯱も工事中で見られないということなので。なんで400年祭の真っ只中に修理するのかな?

金沢城鶴丸倉庫 武具保管が用途

金沢城公園内に現存する土蔵「鶴丸倉庫」が現在の規模となったのは江戸後期の1848(嘉永元)年で、倉庫の主な用途は武具保管だったことが、石川県金沢城調査研究所の調査で分かった。改築工事が完成した嘉永元年はペリー来航の五年前で、長い海岸線を持つ加賀藩でも異国船への警戒を強めた時期とみられ、研究所は「対外的緊張が倉庫改築と関連する可能性が大きい」とみている。鶴丸倉庫での新たな所見は、県が目指す国重要文化財指定に弾みとなりそうだ。
鶴丸倉庫は金沢城の絵図から、江戸後期の1845(弘化二)年から50(嘉永三)年の間に現行の大きさに改築されたことが判明していたが、今年度の研究所の調査で、金沢市玉川図書館近世史料館所蔵の加越能文庫から、工期や大工、用途を特定できる文献が確認できた。文献は、藩に召し抱えられていた大工の山本勝左衛門が1870(明治三)年に同家の由来などを記した「先祖由緒並一類附帳」。鶴丸倉庫の改築を担当したことや、弘化四年二月に着工、翌年の嘉永元年正月(一月)に落成したことが記録されている。(北國新聞2007年12月15日付記事)

年末年始にゆっくりと城郭ペーパークラフトはいかが?

熊本城
Canonのフリーで公開されているペーパークラフトに「熊本城」が追加されました。なかなかに立派な造形です。PDFをダウンロードして厚めの紙に印刷すれば、市販品にも劣らない作品ができそうです。
城郭としては、先の「姫路城」「大阪城」に続き、3城目となりますが、次回はぜひ安土城を!!と願うのは私だけではないでしょう。
姫路城 大阪城
年末のこの時期に公開されたのは、Canonの年末年始の家族団欒の話のネタに、という配慮でしょう。印刷すれば何個でも作れますから、ゆっくりと挑戦してみてはいかが?
Canon ペーパークラフト 建物編

金沢城大学 よみがえる金沢城5

金沢城大学
本日、金沢城大学のテキスト「よみがえる金沢城」を使用した最終講義でした。講師は金沢城調査研究所の加藤克郎氏です。加藤氏は発掘調査担当です。
幕末の加賀藩の状況を、当時の事件と絡めながら説明を受け、異国船への備えという目的において、先日金沢市指定文化財となった鶴丸倉庫などの武器庫が建築されたのであろうということでした。名の由来となっている「鶴の丸」は、現在鶴丸倉庫が建つ本丸付段の1段下であり、なぜ鶴丸と名付けられたのか不明ということですが、土蔵は他に、大阪城、二条城、高知城、宇和島城など全国的にも数が少なく貴重であるということです。
現在の金沢城に関係する発掘調査の成果から、玉泉院丸の修理中の石垣は記録がないが、根石まで近代に積み直されていることが判明したり、土清水塩硝蔵跡では土蔵の基礎や土蔵を囲む堀の跡が見つかったと聞きました。

信長の茶室跡を発見か

岐阜市教育委員会は10日、岐阜城のある金華山のふもとの岐阜公園で進めている織田信長の居館発掘調査で、信長が使った茶室か土蔵の可能性がある遺構を発見したと発表した。
遺構は、居館本体があったとみられる場所の裏側の平坦地で発掘。火災で焼けて炭化したとみられる土が約60センチ堆積し、その中から多量の壁土が見つかった。礎石もあったことから、建物の存在が裏付けられ、茶室か土蔵の跡とみられる。岐阜市教育委員会は、1600年の関ヶ原の合戦の前哨戦で岐阜城が落城した際、焼けた可能性があるとみている。(北國新聞2007年12月11日付記事)

津幡町 倶利伽羅城探索

曇りに時々陽の差すような天候の中、近くの倶利伽羅城へ行ってきました。先日購入した「図説・石川県の城Ⅵ」を持って縄張りを確認しながら歩きました。
倶利伽羅には古来から不動尊があり、源平合戦の「火牛の計」で有名ですが、倶利伽羅山は加賀と越中の境であるため、戦国時代、加賀前田氏と越中佐々氏の戦いが繰りひろげられた地でもあります。
倶利伽羅公園を中心に前田氏が「倶利伽羅堡」を築き、源氏ヶ峯を中心に佐々氏が「源氏ヶ峯城」を築きました。倶利伽羅城というと源氏ヶ峯城を指していることが多く、倶利伽羅公園が城跡であるということを知る人は地元でも少ないです。
本を片手に郭や竪堀、土塁を確認しました。土塁跡は予想以上に状態良く残っており、また高井氏の縄張り図はすべて網羅しているとは言えないため、再調査する必要がありそうです。後日地形図を入手してから訪問することにしましょう。
倶利伽羅堡
倶利伽羅公園の西側に残る竪堀(土橋から下方向を撮影)
倶利伽羅堡
林道脇に残る土塁