高岡城 石の切り出し跡調査

高岡市教育委員会は8日までに、雨晴海岸の景勝地として知られる義経岩で、高岡城の築城に使われたとみられる石の切り出し跡の調査に乗り出した。同市は新年度以降、高岡城跡の本格調査を実施する方針で、富山考古学会と二上山総合調査研究会と協力し、義経岩の歴史遺産としての価値に光を当てる考えだ。
義経岩は、海側の岩盤と背後の石積みで囲んだ土盛りからなるが、崩落の危険性が指摘されていた。県は今年度から2ヵ年間で修復工事を実施する予定だが、市教育委員会の調査を受けて切り出し跡を保全する形での工事を検討している。義経岩の石切り跡については、富山考古学会などが存在を確認していたが、本格的な調査は初めてとなる。これまでに、石を切り出した「矢穴」を新たに2ヵ所確認したほか、周辺にある石切り跡の実測図の作成も進めている。(北國新聞2008年1月9日付記事)

奥医王に山城遺構

石川考古学研究会幹事の宮元哲郎さんは3日までに、医王山主峰である奥医王の山頂付近で、山城跡とみられる防御施設の遺構を確認した。金沢市埋蔵文化財センターによると、医王山一帯では15世紀、当時加賀守護だった冨樫政親との戦いに敗れて井波に逃れた一向宗と、政親から一向宗討伐の要請を受けた天台宗惣海寺勢との戦いがあったとされ、山城跡は当時の戦いで使われた可能性があるという。
遺構は石川、富山両県にまたがるように位置する。同センターによると、奥医王の石川県側で山城跡とみられる遺構が確認されたのは初めてで、医王山を舞台に繰り広げられた戦闘の様相を知る貴重な手がかりになるとしている。
宮本さんが確認したのは、敵の侵入を防ぐ「堀切」と呼ばれる溝で、奥医王山頂の北東側に計四カ所あることが分かった。このうち一カ所は1990年からの旧福光町による調査で確認されていた。宮本さんが荒田に三カ所を確認したことで、四つの堀切が山頂近くの平坦面を囲むように存在し、山城を構成していた可能性があることが分かった。(北國新聞2008年1月4日付記事)

正月 金沢城で藩政期のしめ飾り

年末年始は大雪の予報で久しぶりに雪の正月を迎えると思っていましたが、平野部は積雪がありません。3日まで待って金沢中心部に出かけました。というのは、今日までが兼六園の無料開放で、雪の兼六園を見たかったのですが、少々当てが外れました。
昨日も午前中は比較的良い天候でしたが、今日も午前中は良い天候でした。コースは金沢神社から兼六園に入り、石浦神社、金沢城公園、尾崎神社、尾山神社です。
下の写真が橋爪門一の門に飾られた藩政期のしめ飾りです。「数の子飾り」と呼ばれるもので、わら造りで長さ5.4メートルあります。
金沢城橋爪門のしめ飾り
兼六園は地面と建物の屋根に少し雪が残る程度でした。放射線状に張られて非常にきれいな雪吊りも出番がありません。
兼六園
兼六園
3日ということで神社は人もまばらでしたが、さすがに尾山神社だけは結構な人出でした。といっても元旦ほどではないでしょうが。私も数年ぶりにおみくじを引きました。今年の運勢は「吉」です。

金沢市が歴史都市へ横断組織

金沢市は来年度、歴史都市・金沢の実現に向けて庁内横断組織を設置する。国土交通省が新設する 歴史的環境形成総合支援事業の第一号認定をにらみ、歴史資産そのものの保全、整備に加え、周辺の道路整備、景観向上といった多面的な施策を打ち出す。11月には歴史探訪の日(仮称)を荒田に設定し、市民がふるさとの豊かな歴史、文化に触れる機会も提供するなど、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産登録に向けた環境整備を強力に推し進める。
横断組織は「歴史都市推進チーム」で、都市政策、産業、市民、都市整備の四局十六課で構成される。歴史都市の実現に向けた戦略を推進する実働組織と位置付け、課長補佐級の職員をメンバーとする方向で調整する。市は世界遺産登録に向け、構成資産周辺の環境も重要な要素になるとみており、歴史都市実現の取り組みを通じて、「城下町金沢」の世界遺産登録に向けた弾みをつけたい考えである。
一方、歴史探訪の日は11月1日からの国の文化財保護強調週間に合わせて設定する。10-11月を「かなざわ歴史探訪月間」とし、普段は内部を見ることができない文化財の一般公開や歴史的用水、塩硝蔵、三寺院群をめぐる探訪ツアー、歴史文化講座、惣構学習塾といったイベントを集中的に展開する。事業開催では「石川県に世界遺産を」推進会議など関係団体に協力を求める。ふるさとの歴史遺産に対する市民の意識を高め、世界遺産登録に向けた機運を盛り上げる。(北國新聞2007年12月30日付記事より)

金沢 正月の準備、そして金沢城玉泉院丸石垣修復現場

昨日まで3日間は冬とは思えない晴天でした。本当は昨日の午後来るはずが、急に車のバッテリーが切れてしまい、うんともすんとも言わないので止む無く修理を呼ぶ羽目に。それにしても巡りあわせとはいえ今年はいろいろなものが故障しました。
余談はここまでして、本日小雨が降る中、金沢に出かけました。目的は金沢城の発掘と修復の現場見学です。
行く途中、所々正月の準備ができていました。長町の前田土佐守家資料館は土塀にこも掛けがされ、門には締め飾りが。
前田土佐守家資料館
尾山神社も、神門の前には門松と門に締め飾りが。
尾山神社
尾山神社
昨年発掘調査現場説明会の開催された金沢城の玉泉院丸石垣修復現場です。すでに半分くらいが積み戻されていました。来年3月までにすべて修復されるそうで、外すときは非常に時間がかかりましたが、積むときは早いですね。
金沢城玉泉院丸石垣修復現場
前のフェンスには工事の予定やこれまでの経緯の社員や発掘成果などが掲示されていました。
金沢城玉泉院丸石垣修復現場
金沢城玉泉院丸石垣修復現場
金沢城玉泉院丸石垣修復現場
本当は城内にも入りたかったのですが、時間がなかったのと、雨でビニールシートを被っているということがわかったので帰途に着きました。
帰り際に、尾山神社の庭園の裏(南側)に辰巳用水の石管の説明板があることを発見。今まで何度も通っていたのに気づきませんでした。
辰巳用水石管
ふと隣の奥まった空き地を見ると「尾山神社氷室跡地」の石碑と、後に立派な石垣があるではありませんか。尾山神社の地は元金沢城の金谷御殿のあった場所です。金谷御殿は前田家の跡継ぎなどが生活した屋敷のあった場所で、当然石垣で周りを囲まれていたものと思われます。現在尾山神社を取り巻く石垣のほとんどは近代になって構築されたと見えるものばかりですが、この部分は積み方からして江戸期のものが残っているような感じです。金沢城の石垣というと金沢城公園をめぐる道路の中のみを紹介しているので、もと城内であっても尾山神社については範疇外になっているのかもしれません。もしこの石垣が当時のものであるなら勿体無い話です。
尾山神社氷室跡地

首里城 無料ペーパークラフト

首里城 無料ペーパークラフト
先日、キャノンのホームページの熊本城のペーパークラフトが出たことをお知らせしたところですが、なんと今日首里城を追加したという知らせが!?
今年の冬は幸せです。熊本城と首里城が作れますよ!!
合わせて、前回の姫路城と大阪城と4つも作れます。しかもタダで。紙と印刷代はかかりますが・・・
キャノン ペーパークラフト

七尾城の現状

年末最後の天気の良い数日になりそうですが、昼から先日、発掘現場説明会に参加した七尾城へ再度やってきました。
現場では今年最後の天候の良い日を活かそうと多くの作業員の方が作業しておりました。先日説明を受けた大手道はさらに調査が進み、脇の場所も調査されて、建物の柱跡とみられる穴が多く出ていました。
七尾城発掘現場
七尾城発掘現場
惣構堀の位置と推定される場所は頑丈な鉄骨のフレームの中で作業が行われていました。この辺りは田んぼが多く、少し下がると水が沸いてくるようで、見ていても大変な作業です。
七尾城発掘現場
その後七尾城本丸へ登りましたが、先日報道があったとおり、3月の能登半島地震で崩れた石垣に加え、豪雨で郭や土塁が崩れていました。
七尾城
七尾城
七尾城
七尾城
来年4月下旬から石垣については修復が始まるようです。野面積みという自然石を積む方式の石垣は一度下まですべて外してから積み直す他ないようで、時間がかかりそうです。石垣の積み直しは決定しているものの、貴重な郭や土塁の崩れも修復を願いたいものです。

金沢城復元 お墨付き

金沢城公園復元整備など国土交通省の補助対象に「城跡」が加わる。従来は公園施設整備として進められた金沢城の復元工事が、今後は城郭施設として国の「お墨付き」を得る格好となり、城下町金沢の風格に一層厚みを増すことにつながる。
現行の都市公園整備事業補助制度は対象がベンチなどの休憩施設や運動施設、教養活動施設に限られ、現在進行中の河北門整備は「教養施設」として、国の補助を受けている。対象への「城跡」の追加で櫓など歴史的施設の復元も補助の対象となり、河北門を皮切りにスタートした金沢城の第二期復元整備事業で、今後予定される橋爪門や宮守堀は「城郭施設」として国の支援を受けることになるとみられる。
国土交通省が創設する歴史的まちづくりの総合支援制度の一環で、城跡のほか、古墳の復元整備も補助対象となる。(北國新聞2007年12月23日付記事)

長野紀行 坂城・千曲市

今日は講演会の日でした。朝からどんよりとした雲が垂れ込める天候ではありましたが、1日降らずに持ちこたえてくれたので、行動しやすい日でした。
朝、当初昨日の予定に組み込んで行けなかった坂城へ行きました。到着するとまだ施設の開館時間には間があったので、春にも訪れた場所へ行きました。村上義清公墓所と村上氏居館跡ですが、坂城には村上氏の面影が色濃く残っています。
村上義清公墓所
村上氏居館跡
前回は時間の都合で訪れなかった「坂城宿ふるさと歴史館」に行きました。3階建の立派な和建築ですが、地元の方のふるさと歴史学習の場として活用されています。今年はNHK大河の影響で観光客が非常に多かったとか。まあ私も大河終わったので、企画展示終らないうちに見に来た口ですが・・・
坂城宿ふるさと歴史館
坂城宿ふるさと歴史館
展示物は村上氏の歴史に関連して、出自や武田氏との攻防、上杉氏家臣時代など、いい意味で裏切られるほど充実していました。1階が村上氏関連、2階が坂城宿関連でした。大河にあわせた企画のように見えましたが、実は常設展らしいです。坂城を訪れる方はこの場所は訪れたほうがいいですよ。
坂城宿ふるさと歴史館
講演会の会場である長野県立歴史館へ向かう途中で、村上氏が武田氏に敗れて逃走した「笄の渡し」碑を見てきました。
(※現在の笄橋の近くで国道18号線沿いにあります。坂城から長野方面へ向かう車線から駐車場に入れます。)
笄の渡し
県立歴史館は山頂に森将軍塚古墳のある山の麓にあります。現在は企画展「武田・上杉・信濃武士」が開催中で、信濃の土着武士たちの武田氏、上杉氏との関係をテーマに展示されています。
長野県立博物館
長野県立博物館
講演会の先に企画展と常設展を見てまわり、講演会「築城と破却 川中島をめぐる城の争奪」を聞きました。会場は多くの地元の方でほぼ満席状態でした。武田氏と上杉氏の攻防の中で信濃の城が破却されている状況を考古学の発掘調査結果を踏まえて、非常に内容の濃い講演でした。
講演会「築城と破却」
講演会が終わり、帰路に着いたのですが、折角なので道程のスポットを訪れながら長野インターへ向いました。
雨宮の渡し
川中島の戦いは全5回を数えますが、中でも第4回が最も有名です。武田軍は千曲川沿いに海津城(現在の松代城)に布陣、上杉軍は妻女山に布陣、謙信は霧にまぎれて妻女山を降りて千曲川を渡ります。謙信が渡った場所が「雨宮の渡し」ですが、現在その場所から千曲川は結構離れてしまっています。
上杉方が陣取った妻女山は車でも登れるようですが、麓の清野小学校付近から徒歩でも登ることができます。入口には鳥居がありますが、これは近代になって頂上に招魂社が建てられたための参道入口となったからだと思われます。頂上までは約7分。意外にも高くない山です。
妻女山登城口
妻女山展望台
頂上の展望台付近はどこまで当時のものかわかりませんが、平坦地や土塁跡も見ることができます。
妻女山から海津城方向
展望台に登り、松代城(もと海津城)を探します。誰もが思うことでしょうが、武田軍・上杉軍両軍は相手方をどれだけ監視できたのか、という疑問です。
曇った天候のもとでは肉眼ではまったく位置を確認できませんでした。先日新調した望遠デジタルカメラを最大望遠にして松代城を捜すこと10分、ようやく見つけました。
上の写真の中央を拡大すると下の写真となります。手前の住宅で見えにくいですが、天守台と北不明門を横のアングルでみることができます。確かに、田畑の広がる当時の景色の中にあっては、お互いに相手の動向が見えたことでしょう。
海津城(松代城)

日本100名城スタンプラリー 松代城

少し間が空きましたが、ようやく11個目です。松代城のスタンプの場所は少々分かりにくかったのですが、城内のトイレの横の管理棟前です。
日本100名城スタンプラリー 松代城
すでに多くの方が押したのか、残念ながらスタンプは所々かすれ図柄がよくわかりません。スタンプ本体を写真に撮ってきました。
図柄は、手前に天守台石垣、奥に復元された本丸太鼓門口です。
日本100名城スタンプラリー 松代城