金沢城河北門復元 二の門石垣はもうじき完成

百万石行列の行われた7日土曜日、行列が入城する石川門前はポールが整然と並べられていました。
金沢城河北門復元
当日は作業はしていませんでした。先日よりさらに作業が進んでいました。
金沢城河北門復元
二の門南側石垣はあと一週間で中の鉄骨が見えなくなりそうです。二段ほど積んで完成でしょうか?
金沢城河北門復元
北側の石垣は先日よりあまり作業が進んでいないようです。先日までは南側と北側の石垣は同じようなスピードで積まれていましたが、現在は南側の石垣が一段高く積まれた状態になりました。
金沢城河北門復元
今月中にはほぼ二の門石垣は完成しそうです。またレポートします。お楽しみに。

信長居館発掘調査ブログ

今日はひとつブログを紹介しましょう。
その名も「一般公開 信長居館発掘調査」ブログです。
現在、岐阜城の麓では織田信長の居館跡の発掘調査が進められています。その調査日誌は写真付きで毎日更新されています。調査日誌は発掘調査報告書に掲載されることがありますが、刻々と状況が変化する様子をインターネットで紹介する試みは初めてと言ってもよいのではないでしょうか?

金沢城 河北門復元整備のいま

昨日の天候とは打って変わって、今日は晴天に恵まれた。本日は知人のS氏とまた市内巡りを愉しみました。
途中立ち寄った金沢城では河北門の復元が急ピッチで進んでいました。先日の訪問から二週間、さらに一段高く、二の門の石垣は積まれていました。もう二段ほど積むと、強度のため入れられた鉄骨も完全に隠れてしまいそうです。
金沢城 河北門
一の門も石垣上部が外されて、積み直し作業をしながら復元調査が始まっていました。
金沢城 河北門
金沢城では小さな高麗門が「一の門」、枡形に入り、大きな櫓門が「二の門」と呼ばれます。先日検定を受けた名古屋城では逆で、高麗門が「二の門」で、櫓門が「一の門」です。

金沢城河北門 寄進手続き来たる

寄進申込書
「県民参加による城づくり」 ~壁板・平瓦の寄進~
主題が付いた申込書が本日届きました。これによると、今回は申込書を送るのみ。記名会の2か月前に納入通知書と記名会の詳細が届き、記名会当日に記名と「寄進の証」を受け取るようです。
さて、実際の記名会は
1回目 平成20年12月頃(壁板・平瓦両方、平瓦のみ)
2回目 平成21年5月頃(壁板・平瓦両方、平瓦のみ)
3日目 平成21年秋(壁板のみ)
となっています。今年12月と来年5月は主に平瓦の記名が中心のようです。両方申込みした者は同時に壁板の記名もできます。午前と午後の希望はありますが、平日か土日かの情報もないので実際はわかりませんが、当然報道陣が来ると予想される1回目午前中に申込みします。
まだまだ先は長いですが、楽しみですね。当日何を書くかはまだ決めていません。

金沢城河北門復元現場 通路が・・・

金沢城河北門復元現場
昨日は非常に良い天候でした。近くまで行く用事があったので金沢城の河北門復元現場を見学してきました。10分ほど写真を撮っていたので、周囲の人には変な人に見えたかもしれませんね。
行ってみると、一の門から二の門を横目に見ながら通ることができた従来の道が通行止めになって、迂回路ができていました。一の門前の見学台だと思っていた足場は迂回路の一部でした。
金沢城河北門復元現場
おかげで今まで見ることができなかった二の門北側からの様子を間近に見学することができるようになりました。偶然、二の門石垣用の石を吊り上げる作業に出くわし、吊り上げて慎重に設置する様子を見ることができて非常にラッキーでした。
金沢城河北門復元現場
金沢城河北門復元現場
金沢城河北門復元現場
金沢城河北門復元現場
金沢城河北門復元現場
金沢城河北門復元現場
以前からの南側見学台から、上記写真を撮影していた一の門前の足場が見えます。この通路は通ることができなくなってしまったので、今まで撮影した写真は貴重な角度からの写真となったわけですね。随分高く積まれてきましたが、強度補強用の鉄筋がまだまだ見えますから作業はまだまだ続きます。
金沢城河北門復元現場

金沢城・兼六園研究会 総会&5月例会

今週末は良い天候に恵まれそうです。本日は金沢城・兼六園研究会の総会日でした。
旧石川県庁 発掘調査現場
会場は石川県立生涯学習センターでした。前の旧石川県庁では先日の新聞報道にもあったとおり、発掘調査が始まっていました。堂形にあった倉庫跡など出てきたらまた見に行きます。
金沢城・兼六園研究会は本日第18期の13人を迎え160名となりました。私は第17期ですが、昨年より人数が減っているのが気になります。特に、昨年入った我が第17期が継続者が少なかったのは残念です。金沢城大学出身者のため、兼六園が活動に相当入っていることがイメージと違ったのでしょうか。
それにしても、金沢城跡が国史跡に答申され、後に野田山墓地や戸室山石垣丁場跡など同等の史跡が多数控える中で、ガイドの素地となる本会会員層が薄くなるのは残念なことです。
金沢城の建物の魅力
総会の後、5月例会として、金沢城調査研究所の正見氏による「金沢城の建物の魅力」というテーマの講演がありました。正見氏は地元金沢の出身で研究所では建物の担当です。
何度か正見氏の講演や解説を聞いたことはありますが、今日はいつもとは切り口の違う講演でいろいろと発見がありました。
突然ですが、皆さんは「城郭建築物」って何を指すか分かりますか?
  天守は?門は?櫓は?塀は??御殿は???倉庫は???
城郭建築物の定義は江戸時代の武家諸法度らしいです。社会の授業で習いましたね。その中では「城郭建築物とは戦闘に関係する建築物」ということらしく、天守、門、櫓、塀などが該当します。生活に供する御殿は該当せず、倉庫は・・・?よく分かりません。
城内にあったその他建築物といえば、神社や東照宮です。金沢城の東照宮と言えば、尾崎神社ですが、今日帰りにたまたま寄ってみると、なんと本殿瓦の修復に合わせて、拝殿の雪囲いが外されていました。最近は鮮やかな彩色を保護するために年中囲いがされていましたが、今日は思わず「アッ!」って叫んでしまいました。おそらく期間限定ですので、昔ながらの囲いの無い写真を撮るのは今ですよ!
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今年1月の拝殿
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今日の拝殿
話を戻しまして、明治以降城外に移築された建築物には以下のようなものがあります。
・金沢東照宮社殿
  ・・・尾崎神社本殿・拝弊殿
  ・・・長田菅原神社拝殿(旧本地堂もしくは護摩堂)
・二ノ丸唐門
  ・・・尾山神社東神門
・二ノ丸能舞台
  ・・・中村神社拝殿
・玉泉院丸二重塀
  ・・・旧江戸村(現在の所在は不明)
長田菅原神社と中村神社については後日行く予定です。

金沢城跡国史跡に

本日は金沢城関連で2件。
文化審議会は16日、金沢城跡を国史跡に指定するよう、渡海文部科学省に答申した。答申通り近く指定、登録される。指定範囲は金沢城公園内の国・県・市有地を合わせた約27.5ヘクタールで、ビルが建つ西側の私有地、北陸電力の変電施設がある北側の敷地は含まれない。(北國新聞2008年5月17日付記事)
財団法人北國総合研究所の「金沢城辰巳櫓復元調査検討委員会」は16日、金沢市の北國新聞会館で会合を開き、今年度から製作に乗り出す辰巳櫓の立体模型について、1759(宝暦9)年の大火で焼失する前のタイプで取り組みことを決めた。製作期間は2年間で、辰巳櫓の復元に向けて気運を盛り上げていく。今年度は50分の1の縮尺で模型を試作し、来年度に20分の1の大きさで立体模型を製作する。(北國新聞2008年5月17日付記事)

名古屋城本丸御殿復元

10日に行われた名古屋城検定は、名古屋城本丸御殿の復元の啓蒙活動と一部募金を含んでいます。いよいよ今年度から復元工事に着手するということですが、現在はまだ現場は何も始まっていませんでした。
名古屋城本丸御殿復元
名古屋城天守閣の展示室には、名古屋城全体の復元模型と本丸御殿の大型復元模型が展示されています。その本丸御殿を見ながら、上の写真の場所に本丸御殿が復元される日を想像してみました。
名古屋城本丸御殿復元
名古屋城本丸御殿復元
検定の行われた5月10日は御殿(ごてん)の日ということだったのですが、それに合わせて城内の売店では本丸御殿復元記念の商品が数点販売されていました。この商品も一部は募金だそうですが、私は記念にキャラメルを買ってきました。
名古屋城本丸御殿復元

名古屋城 その1

土曜日の日記の続きです・・・
名古屋城に着く頃にはだいぶ雨も強くなっていました。せっかく来たので来年の名古屋城検定に向けて実地学習です。
三の丸の名城公園では加藤清正公がお出迎えです。雨で写真が暗くなったのが残念です。
名古屋城
正門入口には片隅にひっそりと離宮時代の碑が立っていました。ほとんどの人は素通りです。
名古屋城
天守閣をめぐる内堀の中では雨にもかかわらず鹿が夢中になってお食事していました。城に鹿、珍しい光景です。
名古屋城
名古屋城
二の丸庭園の入口には「那古屋城跡」の碑が立っていました。「那」の文字以外はすでに見えにくい状態になっていましたが、ここが織田信長が家督を継いで出発した地だと思うと感じるものがあります。が、今は徳川御三家の名古屋城となり、往時の面影はありません。
名古屋城
二の丸では石曳きを先導する加藤清正公に出会えます。
名古屋城
有料ゾーンを出たから城の堀のまわりを巡っているときに、堀の一角で葦を集めてうずくまる白鳥を見つけました。そこから動こうとしないので、きっと卵を抱いているのでしょう。無事に子供を連れて堀を泳ぐ姿を見せてほしいものです。
名古屋城
名古屋城

金沢城辰巳櫓 家老、財政困窮で再建断念で殿を説得する

1759年(宝暦9年)の大火で焼失した金沢城本丸の辰巳櫓の「天保の再建」工事が突然中止されたのは、加賀八家の一人、奥村栄実(おくむらてるざね)の進言が影響した可能性の高いことが、石川県金沢城調査研究所の調査で分かった。栄実は加賀藩の再建を担った十三代藩主前田斉泰のブレーン。栄実の日記などから財政難を理由に「殿の悲願」を断念させたと推察され、藩内で繰り広げられたドラマが見えてきた。(北國新聞2008年5月5日付記事)